2018年9月4日火曜日

14.世界2は、世界3と直接的に相互作用する。例として、(a)新しい問題の発見と解決、(b)例として数学の問題と証明、(c)例として数学における無限の概念、(d)例として言語の「意味」の理解。(カール・ポパー(1902-1994))

世界2と世界3の相互作用

【世界2は、世界3と直接的に相互作用する。例として、(a)新しい問題の発見と解決、(b)例として数学の問題と証明、(c)例として数学における無限の概念、(d)例として言語の「意味」の理解。(カール・ポパー(1902-1994))】

(b2.4.4)追加記載

 (b2.4)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界1の対象、または世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界1と世界2へ具現化する。
 (b2.4.1)世界3の符号である世界1の対象は、いかに世界2により働きかけられるにしても、それ自体は世界1の対象であるから、世界1の諸法則に従って生成・変化する。また世界2は、いかにそれが自ら固有の法則に従って働きかけるかのように見えようが、世界1の諸法則に支えられている。世界2は、最初に直接的に、世界1の諸法則には服さない世界3との関係を持つことなしには、世界1の因果関係から逃れることはできない。

 (b2.4.2)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界1の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界1へ具現化する。

 時間1 世界1・P1           (世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │             │┌───┘
  ↓    ↓             ↓↓
 時間2 世界1・P2⊃世界1・S2⇔世界2・S2(世界3・C2⇒世界2・M2)
  │    │   │┌──────────────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間3 世界1・P3⊃世界1・S3⇔世界2・S3(世界3・C3⇒世界2・M3)

 (b2.4.3)世界2は、世界3と直接的に相互作用し、新たな世界3を生成し、世界2の対象へ働きかけることで、新たな世界3を世界2へ具現化する。

 時間1 世界1・P1     (世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │         │┌───┘
  ↓    ↓         ↓↓
 時間2 世界1・P2 世界2・S2(世界3・C2⇒世界2・M2)
  │    │   │┌─────────┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間3 世界1・P3 世界2・S3(世界3・C3⇒世界2・M3)

 (b2.4.4)(b2.4.2)が正しいことの理由。
 (b2.4.4.1)世界2が、未だ世界3のなかに表現されておらず、したがって当然、世界1には存在しない新しい問題を発見したり、問題への新しい解決を発見するときのような創造的行為を考えると、世界2が必ず世界1を経由するということは、誤りではないかと思われる。
 (b2.4.4.2)例として、数学の問題を発見し、証明する過程。
  (i)最初に問題を感じ、問題の存在に気づく。あるいは、証明の考案がなされる。
  (ii)次に、(i)が言語で表現される。
  (iii)明確化し、証明の妥当性を批判的に調べるため、世界1の表現に具現化される。
 (b2.4.4.3)例として、数学における無限の概念は、世界1、世界2に具現化されなくても、直接把握される。論証のための表現は世界1、世界2に具現化されるが、概念そのものは直接把握されるように思われる。
 (b2.4.4.4)例として、私たちが本を読んで「意味」を理解する方法も、ページの上に符号化、具現化されたものを飛び越して、世界3の属する意味を直接把握しているように思われる。

 「ここでの私の要点は、われわれは、問題となっている世界3の観念を把握するためには、世界3の観念を世界1で表現する(例えば、大脳の構成要素によるモデル)必要はない、ということです。

世界2による世界3の対象の直接把握の可能性についてのテーゼは(無限系列のような世界3の無限の対象のみではなく)一般に正しいと私はみなします。

でも、無限の対象の例は、私の考えでは、世界3の対象を世界1で表現する必要のないことを明白にしてくれます。

われわれは、もちろん永久に続く(任意の中間結果に1を加えるような)操作をプログラム化したコンピュータを作れるでしょう。でも、

(1)コンピュータは実際には永久に続くのではなく、有限時間内に尽きてしまいます(あるいは、すべての利用可能なエネルギーを消費してしまいます)。

(2)もしそのようにプログラムされていれば、途中結果の系列は伝えますが、最終結果は伝えないでしょう。(仮無限という世界3の観念の(有限の)物理モデルないし表現はありません。)

 世界3の対象を直接把握することの論証は、無限についての世界1の表現が存在しないことには依存しません。

決定的なことは私には次のように思えるのです。世界3の問題――例えば、数学の問題――を発見する過程で、われわれはそれが話し言葉、または書き言葉で表わされる前に、まず曖昧に問題を《感じ》ます。われわれはまずその存在に気づき、そして口頭の、または書かれた表示(いわば、随伴現象)を与えます。

そして、さらにそれを明確に、鋭くします。(この最後の段階でのみ、われわれは言語で問題を表現するのです。)これは作成し、照合し、また作成するという過程なのです。

 完成された世界3の証明はその妥当性について批判的に調べられねばならず、この目的のために、証明は世界1の表現――言語、望むべくは書き言葉――に移されなければなりません。

でも、証明の考案は世界2の世界3への直接操作――確かに、大脳の助けによるが、大脳に符号化された表現や世界3の対象の別の具体物からの問題または結果の読み取りを伴わない操作――でした。

 このことが示唆するのは、問題や新しい証明、またはその種のものいずれを問わず、新しい世界3の対象を作る世界2のすべてまたは大部分の創造的働きは、たとえ世界1の過程が伴うにしても、記憶や符号化された世界3の対象の読みとり以外のものでなければならない、ということです。

さて、これは非常に重要なことです。なぜなら、この種の直接接触はまた、世界2が符号化、具現化された世界3の対象を用いて、それらの符号化に対立したものとしての世界3の側面を直接みる仕方でもある、と考えられるからです。

これは、本を読む際、われわれがページの上の符号を飛び越して、直接意味を得る場合の方法なのです。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第3部、DXI章、(下)pp.781-782、思索社(1986)、西脇与作(訳))
(索引:世界2と世界3の相互作用)

自我と脳〈下〉


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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