2018年9月17日月曜日

20.3種類の学習:(1)試みと誤りによる学習、推測と反駁による学習、(2)模倣による学習、伝統の吸収、(3)習慣形成による学習、反復そのものによる学習。(カール・ポパー(1902-1994))

3種類の学習

【3種類の学習:(1)試みと誤りによる学習、推測と反駁による学習、(2)模倣による学習、伝統の吸収、(3)習慣形成による学習、反復そのものによる学習。(カール・ポパー(1902-1994))】

3種類の学習
(1)試みと誤りによる学習、推測と反駁による学習
 (a)新しい情報の獲得、すなわち新しい事実や新しい問題の発見、問題に対する新しい解決の発見をもたらす学習である。
 (b)解こうとしている問題、テストしようとしている推測に基づく、体系的観察による学習と、偶然的な観察からの学習を含む。
 (c)理論的なものだけでなく、新しい技能とか、物事を行なう新しいやり方など、実践的なものも含む。
(2)模倣による学習、伝統の吸収
 (a)原始的で重要な学習のひとつの形態で、高度に複雑な本能に基礎をおいている。
 (b)示唆や感情が学習で演じている役割は、他の仕方での学習よりもはるかにはっきりしている。
 (c)模倣による学習は、いつでも典型的な試みと誤りの過程でもある。
(3)習慣形成による学習、反復そのものによる学習
 (1)と(2)によって学ばれた解決に、慣れ親しむことによる学習である。

 「学習と反復についていえば、混乱の重大な源は、ことごとく「学習」と呼ばれている三つのまったく異なった活動を区別しそこなっているところにある。

(三つ以上の区別をつけても、なんら益がないと言いたいわけではない。)

わたくしはそれら三つを、つぎのように呼んでいる。(1)試みと誤り(あるいは推測と反駁)による学習。(2)習慣形成による学習(あるいは反復そのものによる学習)。そして(3)模倣(あるいは伝統の吸収)による学習。

これら三つの種類すべては、動物のみならず人間においても見出すことができ、技能や、何らかの新しい事実の学習といった理論的知識の獲得において、それら固有のさまざまな特徴的役割を演じている。

 (1)これら三つの学習様式のうち、最初のもの、《試みと誤り》、あるいは推論と反駁による学習が、知識の成長にとって重要である。これだけが、《新しい》情報の獲得という意味において学習である。

つまり、実践的であれ理論的であれ、《新しい》事実や《新しい》問題の発見、また古いのであれ新しいのであれ、われわれの問題に対する《新しい》解決の発見という意味において、「学習」なのである。この種の学習には、新しい技能とか、ものごとをおこなう新しいやり方の発見が含まれている。」(中略)

 「試みと誤りによる学習は、さまざまな仕方ではあるが、体系的観察からの学習ならびに偶然の観察からの学習を包括している。《体系的観察》は、いつでも、解こうとしている問題から、あるいはテストしようとしている推測からスタートする。このことが観察を体系的なものとする。」(中略)

 (2)第二の種類の学習――《反復そのもの》(あるいは「機械的」反復)《による習慣形成》――は、第一の種類の学習から明確に区別されるべきである。

この場合には、問題についてなんら新しい解決は探し求められてはいないのであり、試みと誤りによって発見された(あるいは模倣によって学ばれた、下記の(3)を見よ)以前の解決になれ親しむことが試みられている。」(中略)


 (3)ここで、手みじかにでも、第三の種類の学習――模倣による学習――に言及しておいてもよいだろう。それは、より原始的で重要な学習のひとつの形態である。

ここでは、学習が高度に複雑な本能に基礎をおいていること、および、示唆や感情が学習で演じている役割は、ほかの仕方での学習よりもはるかにはっきりしている(もっとも、それらは、言うまでもなく、ほかの仕方においてもいつでも見られるが)。

われわれの議論にとって重要なのは、個々の学習者の観点からすると、模倣による学習はいつでも典型的な試みと誤りの過程だということである。」(後略)

(カール・ポパー(1902-1994),『実在論と科学の目的』,第1部 批判的アプローチ,第1章 帰納,3 いわゆる帰納の手続きについて,V,(上),pp.55-61,岩波書店(2002),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:試みと誤りによる学習,推測と反駁による学習,模倣による学習,伝統の吸収,習慣形成による学習,反復による学習)

実在論と科学の目的 上


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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5.人間は、《汝》として向かいあう芸術作品と出会い、関係の真理の中に入り込んでゆくことで、芸術家が作品のうちに呪縛した向かいあう存在の形姿を解き放つ。学問的、審美的な理解は、関係の全体性の中に包含される。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

芸術における関係の役割

【人間は、《汝》として向かいあう芸術作品と出会い、関係の真理の中に入り込んでゆくことで、芸術家が作品のうちに呪縛した向かいあう存在の形姿を解き放つ。学問的、審美的な理解は、関係の全体性の中に包含される。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

芸術における関係の役割
(1)芸術家は、《汝》として向かいあう存在を真に観ることで、そこで明かされた存在の形姿を、作品へと呪縛する。
(2)人間は、《汝》として向かいあう芸術作品と出会い、関係の真理の中に入り込んでゆくことで、作品のうちに呪縛されている形姿を解き放つ。
(3)作品は、人間を不可欠の相手としている。
(4)芸術作品の学問的、審美的な理解も不要というわけではないが、理解し得る事柄は、理解を超える関係の全体性の中に包含される。

(再掲)
一本の樹
(a)対象物としての樹、《それ》としての樹
 (a1)形象、色彩、運動
 (a2)分類学上のある種属、構造や生存様式
 (a3)化学的組成、物質の化合と分離とを支配する法則の表現
 (a4)純粋な数式
(b)生身の存在として私と向き合い私と関係する、一つの全体としての樹、《汝》としての樹
 (b1)(a)で知られる全てのことは、その樹のなかに存在し、ひとつの全体性のうちに包まれている。
 (b2)その樹と私の間に、相互的で直接的な関係が成立しているような瞬間が存在し得る。
 (b3)関係が成立しているとき、私の全てがその樹に捉えられているような状態にあり、その樹も何らかの仕方で私と関わりを持っている。
 (b4)もちろん、その樹に意識のようなものがあるわけではない。
 (b5)その樹が私に及ぼす印象は、この関係性とは別のものである。
 (b6)その樹についての私の想像力が、この関係性を作り上げているわけではない。
 (b7)その樹が私に引き起こした情緒が、この関係性そのものというわけではない。


 「芸術についてもこれは同様だ。向かいあう存在を真に観るとき、芸術家にはその存在の形姿が明かされる。彼はその形姿を作品へと呪縛する。

こうして制作された作品は、神々の世界というようなところではなくて、人間たちのこの大世界のなかに立つのである。

作品は、たとえ人間の眼がそれに触れていないときでも、たしかに《そこに》存在している。だが、それは眠っているのだ。

中国の詩人が語っている、――自分が玉笛で歌をかなでだとき、ひとびとはその歌を聞こうとしなかった。そこで神々にむかってその歌をかなでると、神々は耳をかたむけた。それ以来、ひとびともその歌に聴きいるようになった、と。すなわちこの詩人はやはり神々のところを去って人間たちのところへ帰っていったのである。

なぜなら、作品は人間を不可欠の相手としているからだ。芸術作品というものは夢のなかでのように人間との出会いを待ちこがれ、作品のうちに呪縛されている形姿を人間がその呪縛から解き放って、永遠の一瞬間だきしめてくれるのを待望しているのである。

ところが、そこへ人間が歩みよってきて、経験し得ることを経験するのだ、――この作品はこのように作られているのだとか、このことがそこに表現されているのだとか、その特質はこのようなものだとか、さらにまたその作品の等級がどの程度であるかなどを。

 芸術作品の学問的、審美的な理解力が不要だなどというわけではない。だが、そのような理解力は誠実に果たされねばならず、そして、理解し得る事柄を内に包容しつつ理解を超えている「関係の真理」のなかにはいりこんでゆくためにこそ必要なのである。」

(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.55-56、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:芸術における関係の役割)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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8.原因と徴候の取り違いによせて。快と不快とはすべての価値判断の最古の徴候である、だが価値判断の原因ではない。それゆえ、快と不快とは、道徳的および美的な判断が帰属しているのと、同一の範疇に帰属している。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

快と不快

【原因と徴候の取り違いによせて。快と不快とはすべての価値判断の最古の徴候である、だが価値判断の原因ではない。それゆえ、快と不快とは、道徳的および美的な判断が帰属しているのと、同一の範疇に帰属している。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

 「原因と徴候の取り違いによせて。―――快と不快とはすべての《価値判断》の最古の徴候である、だが価値判断の原因では《ない》!

 それゆえ、快と不快とは、道徳的および美的な判断が帰属しているのと、《同一の範疇》に帰属している。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 三〇八、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、p.175、[原佑・吉沢伝三郎・1994]) 

(索引:快と不快)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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