2018年11月22日木曜日

集中的な注意,延長意識,中核意識,情動,低いレベルの注意,覚醒,精神分析的無意識,意識化されないイメージ,イメージ化以前のニューラル・パターン,ニューラル・パターン以前の獲得された傾性とその改編,生得的傾性。(アントニオ・ダマシオ(1944-))

集中的な注意から無意識への系列

【集中的な注意,延長意識,中核意識,情動,低いレベルの注意,覚醒,精神分析的無意識,意識化されないイメージ,イメージ化以前のニューラル・パターン,ニューラル・パターン以前の獲得された傾性とその改編,生得的傾性。(アントニオ・ダマシオ(1944-))】

(7)、(8)追加記載。

(1)集中的な注意
 ・集中的な注意は、意識が生まれてから生じる。
(2)延長意識:「わたし」という自己感を授け、過去と未来を自覚させる。
 ・言語、記憶、理性は、延長意識の上に成立する。
(3)中核意識:「いま」と「ここ」についての自己感を授けている。
 ・中核意識は、言語、記憶、理性、注意、ワーキング・メモリがなくても成立する。
 ・統合的、統一的な心的風景を生み出すことそのものが、意識ではない。統合的、統一的なのは、有機体の単一性の結果である。
 ・意識のプロセスのいくつかの側面を、脳の特定の部位やシステムの作用と関係づけることができる。
(4)情動
 ・意識と情動は、分離できない。
 ・意識に障害が起こると、情動にも障害が起こる。
(5)低いレベルの注意
 ・生得的な低いレベルの注意は、意識に先行して存在する。
 ・注意は、意識にとって必要なものだが、十分なものではない。注意と意識とは異なる。
(6)覚醒
 ・正常な意識がなくても、人は覚醒と注意を維持できる。
(参照: 意識に関する諸事実:(a)特定脳部位との関係付け。(b)意識、低いレベルの注意、覚醒。(c)意識と情動の非分離性。(d)中核意識、延長意識の区別。(e)中核意識の成立条件。(f)統合的な心的風景について。(アントニオ・ダマシオ(1944-))

(7)精神分析的無意識
 自伝的記憶を支えている神経システムにそのルーツがある。
(8)中核意識においても延長意識においても認識されず、非意識的なままとどまっている大量のプロセスとコンテンツ。
 (8.1)意識化されないイメージ
  われわれが注意を向けていない、完全に形成されたすべてのイメージ。
 (8.2)イメージ以前のニューラル・パターン
  決してイメージにはならない全てのニューラル・パターン。
 (8.3)ニューラル・パターン以前の獲得された傾性
  経験をとおして獲得されるが、休眠したままで、恐らく明示的ニューラル・パターンにはならない全ての傾性。
 (8.4)獲得された傾性の改編
  そのような傾性の静かなる改編の全てと、それら全ての静かなる再ネットワーク化。
 (8.5)生得的傾性
  自然が生得的、ホメオスタシス的傾性の中に具現化した、すべての隠れたる知恵とノウハウ。

「精神分析的無意識の世界は自伝的記憶を支えている神経システムにそのルーツがあり、ふつう精神分析は、自伝的記憶の中の複雑に絡み合った心理学的結びつきを調べる手段とみなされている。しかし、必然的にその世界は、私がいま概略を述べた他の種類の結びつきとも関係している。
 われわれの文化の中で言われてきた狭い意味での「無意識」は、中核意識においても延長意識においても認識されず、非意識的なままとどまっている大量のプロセスとコンテンツのうちの、ほんの一部でしかない。実際、「認識されていない」もののリストは仰天するほどである。どんなものがそれに含まれるかを考えると、
(1) われわれが注意を向けていない完全に形成されたすべてのイメージ。
(2) けっしてイメージにはならないすべてのニューラル・パターン。
(3) 経験をとおして獲得されるが、休眠したままで、おそらく明示的ニューラル・パターンにはならないすべての傾性。
(4) そのような傾性の静かなる改編のすべてと、それらすべての静かなる再ネットワーク化――たぶん明示的に認識されない。
(5) 自然が生得的、ホメオスタシス的傾性の中に具現化した、すべての隠れたる知恵とノウハウ。 われわれがいかにわずかしか認識していないかに驚かされる。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『起こっていることの感覚』(日本語名『無意識の脳 自己意識の脳』)第3部 意識の神経学、第7章 延長意識とアイデンティティ、pp.280-281、講談社(2003)、田中三彦(訳))
(索引:精神分析的無意識,意識化されないイメージ,イメージ化以前のニューラル・パターン,ニューラル・パターン以前の獲得された傾性とその改編,生得的傾性。)

無意識の脳 自己意識の脳


(出典:wikipedia
アントニオ・ダマシオ(1944-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織といった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたかのいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもてない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しかし、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学などからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新しい種類の研究だ。」
(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感情の脳科学 よみがえるスピノザ』)第4章 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社(2005)、田中三彦(訳))

アントニオ・ダマシオ(1944-)
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意識を伴わない感覚信号の検出、精神機能、ニューロン活動が存在し、活動の持続時間が500ms以上になると意識的な機能となる。持続時間の延長には、「注意」による選択が関与しているらしい(仮説)。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))

タイム-オン(持続時間)理論

【意識を伴わない感覚信号の検出、精神機能、ニューロン活動が存在し、活動の持続時間が500ms以上になると意識的な機能となる。持続時間の延長には、「注意」による選択が関与しているらしい(仮説)。(ベンジャミン・リベット(1916-2007))】

持続時間理論(仮説)
(1)意識を伴う感覚経験を生み出すには、その感覚事象が閾値に近い場合、適切な脳活動が最低でも500ms持続していなければならない。
(2)この同じ脳活動の持続時間が、アウェアネスに必要な持続時間よりも短い場合でも、この脳活動にはアウェアネスのない無意識の精神活動を生み出す働きがある。
 (2.1)無意識の機能が現れるには、より少ない時間(100ms前後)でよい。
 (2.2)この場合、意識的な神経反応に似た、記録可能なニューロンの反応が見られる。
(3)したがって、無意識機能の適切な脳活動の持続時間を単に長くしさえすれば、意識機能に変わる。

意識的な感覚経験
 ↑
 │
事象関連電位(ERP)
 ↑500ms以上の持続時間
 │
初期誘発電位
 ↑14~50ms後。
 │
閾値に近い刺激

(4)タイム-オン(持続時間)はおそらく、無意識と意識との移行の唯一の要因というわけではなく、むしろ一つの制御因子としてみなすことができる。以下は、仮説である。
 (4.1)感覚信号が、無意識に検出される。
 (4.2)他の信号ではなく、ある信号に「注意」を集中する。
 (4.3)注意が、大脳皮質のある特定の領域を「点火」または活性化し、この興奮性のレベルの増加が、神経細胞反応の持続時間の延長を促し、アウェアネスに必要な活性化時間を継続させる。

《仮説》「注意」が選択するという仮説

意識的な感覚経験
 ↑
 │
事象関連電位(ERP)
 ↑↑500ms以上の持続時間
 │└────────────┐
初期誘発電位        「注意」
 ↑14~50ms後。       ↑
 │             │
閾値に近い刺激      能動的な自己?

 「タイム-オン(持続時間)理論
 ――脳はどのように意識と無意識の精神機能を区別しているのか?――
 意識および無意識の精神機能の最も重要な違いというのは、前者にはアウェアネスがあり、後者にはそれがないというところにあります。感覚信号のアウェアネスを「生み出す」には脳にはある程度の時間(約0.5秒間)が必要である一方、無意識の機能が現れるにはより少ない時間(100ミリ秒前後)でよいことを、私たちはこれまでに発見しています。それでは、脳の活性化の継続時間がアウェアネスを生み出すには十分でない場合、その短い時間の間に、脳は何をしていたのでしょう? 脳は沈黙しているどころか、アウェアネスを生じるのに適するほどまで継続した場合の神経反応に似た、記録可能なニューロンの反応を示しました。こうした短い時間だけ継続する連発神経細胞反応は、アウェアネスを生み出すことができません。しかし、これらの反応は感覚信号を無意識に検出するメカニズムとしての働きがあるのか、という疑問が生じます。この疑問から、無意識の精神機能が生じるのに必要な脳の活動から、意識的な精神機能が生み出されるために必要な脳の活動への移行を説明する、タイム-オン(持続時間)理論が導き出されました。
 タイム-オン理論は二つのシンプルな主張から成り立っています。
 (1) 意識を伴う感覚経験(つまり、アウェアネスを伴う意識的な感覚経験)を生み出すには、(その感覚事象が閾値に近い場合)適切な脳活動が最低でも500ミリ秒間持続していなければなりません。すなわち、そのタイム-オンまたは活動持続時間は約0.5秒間ということになります。私たちはこの特性をすでに実験的に実証しました。
 (2) したがって、この同じ脳活動の持続時間がアウェアネスに必要な持続時間よりも短い場合でも、この脳活動にはアウェアネスのない無意識の精神活動を生み出す働きがある、ということを私たちは提案しました。すると、無意識機能の適切な脳活動の持続時間(タイム-オン)を単に長くさえすれば、意識機能に変わるということになります。
 タイム-オン(持続時間)はおそらく、無意識と意識との移行の唯一の要因というわけではなく、むしろ一つの制御因子としてみなすことができるかもしれないことに私たちは気づきました。
 そうなると、アウェアネスが生じるのに十分な長さのタイム-オン(持続時間)と、十分の長さがないその他のものの違いはどこで生じるのか、という疑問を持つことでしょう。私たちはその疑問には、完全には答えられません。しかし、与えられた感覚信号へ注意を集中することが、感覚反応が意識的なものになる規定因かもしれないと考えられる十分な理由があります。脳機能がどのように、ほかの信号ではなくある信号に集中することを「決める」のかは、まだわかっていません。しかし、注意のメカニズムが大脳皮質のある領域を「点火」または活性化することができるという証拠はあります。こうした領域においての興奮性のレベルの増加が、アウェアネスに必要なタイム-オン(持続時間)を始動させる、神経細胞反応の持続時間の延長を促すのかもしれません。
 意識または無意識のどちらの精神事象にとっても「適切」な神経活動とはどのようなものであるかを、私たちは正確には知りません。しかし、適切な神経細胞活動がどのようなものであっても、こうした活動の持続時間というものが、二種類の精神事象を識別するために重要な要素であろう、というのが私の主張です。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第3章 無意識的/意識的な精神機能,岩波書店(2005),pp.117-119,下條信輔(訳))
(索引:タイム-オン(持続時間)理論)

マインド・タイム 脳と意識の時間


(出典:wikipedia
ベンジャミン・リベット(1916-2007)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「こうした結果によって、行為へと至る自発的プロセスにおける、意識を伴った意志と自由意志の役割について、従来とは異なった考え方が導き出されます。私たちが得た結果を他の自発的な行為に適用してよいなら、意識を伴った自由意志は、私たちの自由で自発的な行為を起動してはいないということになります。その代わり、意識を伴う自由意志は行為の成果や行為の実際のパフォーマンスを制御することができます。この意志によって行為を進行させたり、行為が起こらないように拒否することもできます。意志プロセスから実際に運動行為が生じるように発展させることもまた、意識を伴った意志の活発な働きである可能性があります。意識を伴った意志は、自発的なプロセスの進行を活性化し、行為を促します。このような場合においては、意識を伴った意志は受動的な観察者にはとどまらないのです。
 私たちは自発的な行為を、無意識の活動が脳によって「かきたてられて」始まるものであるとみなすことができます。すると意識を伴った意志は、これらの先行活動されたもののうち、どれが行為へとつながるものなのか、または、どれが拒否や中止をして運動行動が現れなくするべきものなのかを選びます。」
(ベンジャミン・リベット(1916-2007),『マインド・タイム』,第4章 行為を促す意図,岩波書店(2005),pp.162-163,下條信輔(訳))
(索引:)

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24.世界3とは何か?(カール・ポパー(1902-1994))

世界3とは何か

【世界3とは何か?(カール・ポパー(1902-1994))】

3 追加記載。

世界3とは何か

人間の心の所産である対象も、物理的な世界1には属するが、それが人間と相互作用するとき、個々の主観的経験の世界2を超えた、世界3を生み出す。世界3は、世界2を経由して世界1に作用し、新たな世界3を作る。(カール・ポパー(1902-1994))

1【世界3は、世界1の対象でもある。】
 世界3とは、物語、説明的神話、道具、真であろうとなかろうと科学理論、科学上の問題、社会制度、芸術作品(彫刻、絵画など)のような人間の心の所産の世界である。対象の多くは物体の形で存在し、世界1に属している。例として、書物そのものは、世界1に属している。

2【世界3は、単に世界1の特定の対象または個々の世界2の集まりとはみなせない、別の世界である。】
 2.1 しかし、人間の心の所産である対象が、人間とともに存在しているとき、そこに世界1、世界2とは異なる世界が生まれる。例えば書物には「内容」が存在する。この内容は世界1ではないし、読者の個人的な世界2でもない。これは、世界3に属している。そして内容は、本ごとや版ごとで変わりはしない。
 2.2 また、世界3の諸対象は、我々自身の手になるものであるが、それらは必ずしも常に個々人によって計画的に生産された結果ではない。

3【世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、世界3である。】
 世界1に具現化されている世界3は、本のように符号化されたものもあれば、芸術作品のように世界1の対象の役割がより大きいものもあるが、世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、物質化された世界3の対象というよりも、むしろ、物質化とは無関係な世界3の側面である。
 3.1 私たちが本を読んで「意味」を理解する方法も、ページの上に符号化、具現化されたものを飛び越して、世界3の属する意味を直接把握しているように思われる。
 3.2 特別な本ではない場合は、世界1の対象は単に付随的な符号と思われるかも知れないが、例えば、ダンテの稀覯本を扱う際の鑑識家の楽しみは、特定の対象としての世界1に依存している。しかし、その楽しみは歴史などの知識に基づく世界3に属している。
 3.3 例として、ミケランジェロの彫刻はどうだろう。この場合は、さらに世界1の対象の役割が大きくなる。しかし、世界2が真に接触し、鑑賞し、賞賛し、理解するのは、物質化された世界3の対象というよりも、むしろ、物質化とは無関係な世界3の側面である。

4【世界3は、世界2としては全く具現化されていなくても、存在する。】
 4.1 世界3は、物理的対象としての世界1としては常に存在するにしても、いずれかの世界2が存在するときだけ存在すると言えるのか。それとも、世界2の記憶、意図の対象としていっさい存在しないときにも、存在すると言えるのか。
 4.2 世界2として全く具現化されていない世界3の対象も、世界3として存在する。
 4.3 したがって、一度も演奏されなかったとしても、楽譜やレコードのように、記号化した形でのみ存在している対象もまた、世界3として存在する。
 参照: 世界2として全く具現化されていない世界3の対象も、世界3として存在する。また、世界3の実在性を理解することは、世界3での新発見や創造と、未解決の問題を解決する探究の、前提条件である。(カール・ポパー(1902-1994))

5【世界3は、世界1や世界2と同じ意味で、実在的な存在である。】
  人間の科学と技術の営みを考えると、次の命題が正しいことを確信させる:世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。(カール・ポパー(1902-1994))
 科学理論の構築は、科学者による既存の理論の理解、新しい問題の発見、解決法の提案、批判的な議論など長い知的な仕事によるものだが、ここには個々の科学者の世界2の寄せ集めを超える世界が存在する。これが、世界3である。そして、これら科学理論の応用である人工物が、世界1に実現されて、地球表面を覆っていることを考えてみよ。これらが世界1の中だけで実現されていると考えられ得るか。世界2の寄せ集めだけで実現されていると考えられ得るか。このように考えると、世界3の実在性は確かなものに思える。

6【世界3の自律性:世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。】
  世界3の自律性:世界3はいったん存在するようになると、意図しなかった結果を生むようになる。また、今は誰も知らない未発見の諸結果が、その中に客観的に存在しているかのようである。(カール・ポパー(1902-1994))
 6.1 世界3は、確かに最初は人間が作ったものであり、また人間の心の所産である。
 6.2 しかし、いったん存在するようになると、それは意図しなかった結果を生み出す。それは、ある程度の自律性を持っている。
 6.3 また、今は誰も知らない未知の諸結果が客観的に存在していて、発見されるのを待っているかのようである。
 6.4 未知の諸結果が発見されるのを待っており、また、未解決の問題については、その解決が客観的に存在すると理解することが、発見と解決のための探究の重要な前提条件である。

 「P――世界3の対象が符号化されている世界1の成分と、世界2、世界3との間の関係についてつけ加えておきましょう。

もしわれわれがミケランジェロの彫刻をみるなら、われわれがみるのは、一方では、それが大理石の一片である限りで、もちろん世界1の対象であると考えられます。

他方、大理石の硬さのような、この彫刻の物質的側面でさえ、世界2が世界1の土台に符号化されたこの世界3の対象を観賞するためには無関係ではないでしょう。なぜなら、観賞は芸術家の物質との闘い、物質のもつ諸困難の克服にあり、それが世界3の対象のもつ魅力や意味の一部だからです。

ですから私は、符号化された世界3の対象がもつ世界1の側面を随伴現象に格下げすることを好みません――でもしばしばそうですが。

もしわれわれが、比較的よく印刷されてはいるがたいへんよいというわけではない本――例えば、特製本でないもの――を手にするなら、この本の世界1の側面はまったく不適当で、ある意味では随伴現象以上のものではなく、この本の世界3の内容に対する一種の興味のない付録以上のものではありません。

でも、ミケランジェロの像や本のいずれの場合でも、われわれ――われわれの世界2、われわれの意識的な自我――が真に接触するのは世界3の対象なのです。彫刻像の場合には、世界1の側面は重要ですが、それは世界1の対象を変化させ、形作ることにある世界3の仕事のゆえにのみ重要なのです。

どの場合でも、われわれが現実に見て、賞讃し、理解するのは、物質化された世界3の対象というより、むしろ物質化と無関係の種々の世界3の側面なのです。

例えば、古い版の書物は賞讃を受けるが、それはその歴史的重要性――これもまた世界3の一側面――のゆえにです。物質化された世界3の対象に対する世界2の楽しみ――ダンテの稀覯本を扱う際の鑑識家の楽しみ――は、大部分それらに対する《理論的な知識》に基づいています。この理論的な知識はまた、世界3の側面が主要な役割をもつことを意味しているのです。」

(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第3部、DXI章、(下)pp.783-784、思索社(1986)、西脇与作(訳))
(索引:)

自我と脳〈下〉


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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裁判所は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。この特徴は、難解な事案においてすら、論証の特徴となっているし、また「そうあるべきことを主張したい」。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

原理の論証と政策の論証

【裁判所は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。この特徴は、難解な事案においてすら、論証の特徴となっているし、また「そうあるべきことを主張したい」。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(4)、(5)追加記載。

 法律家が法的権利義務につき推論や論証をする際に用いる規準
(1)法準則
(2)法準則とは異なった仕方で作用する諸規準(広義の「原理」)
 (2.1)原理
  正義や公正その他の道徳的要因が、これを要請するが故に遵守さるべき規準。
 (2.2)政策
  一定の到達目標の促進を提示する規準。
  (a)目標:好ましいものと考えられた一定の経済的、政治的、社会的状況。
  (b)消極的目標:現在存在するある特徴が、逆方向への変化から保護されるべきことを規定する目標。
 (2.3)その他のタイプの規準
(3)広義の「原理」、広義の「政策」により理論を構成することもできるが、原理と政策を狭義に限定して使用することが、ある特定の問題の解明にとって有益である。
 (3.1)諸原理が統一的に実現されている経済的、政治的、社会的状況を実現されるべき「目標」として理論を構成すれば、目標を提示しているという意味で広義の「政策」である。
 (3.2)特定の原理を、政策として記述することができる。例えば、本質的には正義の諸原理を、「最大多数の最大幸福を保障する」というような目標として記述することができる。
 (3.3)逆に、政策に含まれている目標も、それが実現されるべきものと考えられているという意味では「価値のあるもの」であり、経済的、政治的、社会的状況として記述されてはいるが、広義の「原理」である。
(4)立法府は、政策の論証を追求し、立法措置を採択する権限を有する。
(5)裁判所は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。この特徴は、難解な事案においてすら、論証の特徴となっているし、また「そうあるべきことを主張したい」。

 「政策の論証は、政治的決定を、これが社会全体のある種の集団的目標を促進し保護することを立証することにより、正当化する。飛行機製造会社への補助金助成措置が、補助金により国防が促進されることを理由に正当化される場合、これは、政策の論証である。これに対し原理の論証は、ある政治的決定が個人や集団の権利を尊重し保証することを示すことにより、当の決定を正当化しようとする。たとえば、人種差別禁止の法律を正当化するために、少数派にも平等の尊重及び配慮を受ける権利が存在すると主張することは、原理の論証である。政治的論証は、これら二種類の論証に尽きるわけではない。たとえば、盲人に所得税の特別控除を認める決定のごとく、政治的決定は政策や原理を根拠とするよりはむしろ公的な寛大さや徳の行為として擁護されることもある。しかし、原理と政策が政治的正当化の主要な根拠であることは確かである。
 複雑な立法措置は、これら二種類の論証による正当化を必要とするのが通例である。」(中略)
 「立法府が政策の論証を追求し、この種の論証から生まれた立法措置を採択する権限を有することは、明らかである。もし裁判所が代理立法府であれば、裁判所も同様の権限をもつと考えなければならない。これに対し、判決が法創造的な機能をもたず、明らかに有効な法令の明確な文言を単に適用するだけの場合は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。」(中略)
 「しかし、当該事例が難解な事案であり、既成の法準則からはいかなる判決を下すべきかが不明確な場合には、適切な判決は政策から生じることも、原理から生じることもありうるであろう。」(中略)
 「しかし、それにもかかわらず、私はスパータン・スティール事件のような難解な事案においてすら、民事事件の判決は政策ではなく原理によりなされることを特徴とし、また現にそうあるべきことを主張したい。」

(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,2 権利のテーゼ,A 原理と政策,木鐸社(2003),pp.99-100,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:原理の論証,政策の論証)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

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新しい第1次的ルールを導入、廃止、変更するルールを定める第2次的ルールが、変更のルールである。遺言、契約、財産権の移転など、個人による制限的立法権能も、この変更のルールに基づく。(ハーバート・ハート(1907-1992))

変更のルール

【新しい第1次的ルールを導入、廃止、変更するルールを定める第2次的ルールが、変更のルールである。遺言、契約、財産権の移転など、個人による制限的立法権能も、この変更のルールに基づく。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(2.2.5)追加記載。

 (2.2)ルールの静的な性質
  (2.2.1)ルールのゆるやかな成長の過程が存在する。
   (i)ある一連の行為が、最初は任意的と考えられている。
   (ii)その行為が、習慣的またはありふれたものとなる。
   (iii)その行為が、義務的なものとなる。
  (2.2.2)ルールの衰退の過程が存在する。
   (i)ある行為が、最初は厳しく処理されている。
   (ii)その行為への逸脱が、緩やかに扱われるようになる。
   (iii)その行為が、顧みられなくなる。
  (2.2.3)しかし、古いルールを排除したり新しいルールを導入したりすることによって、変化する状況に意識的にルールを適応させる手段が存在しない。
  (2.2.4)また個人は、責務や義務を負うだけで、この責務は、いかなる個人の意識的な選択によっても変えられないし、修正されえない。責務の免除や、権利の移転というような作用も、第1次的ルールの範囲には入っていない。
  (2.2.5)補われる第2次的ルール:変更のルール
   新しい第1次的ルールを導入したり、古いルールを排除する権能を、ある個人または団体に与えるというルールを、人々が受け入れている。このルールは、権能の範囲と手続を含む。
   (a)変更のルールが存在するときは、変更を成立させる諸条件と手続は、変更されたルールを確定させる条件になっているので、承認のルールにもなっている。
    (a.1)例えば、制定法のみがルールを制定・変更できるとするルール
    (a.2)例えば、統治する君主のみがルールを制定・変更できるとするルール
   (b)個人による制限的立法権能の行使も、変更のルールである。すなわち、第1次的ルールに基づいて持っていた最初の地位を、変更する権能を個人に与えるルールである。
    (b.1)「約束」という道徳的な制度の基礎となっているのが、この権能付与のルールである。
    (b.2)例として、遺言、契約、財産権の移転など。

 「第1次的ルールの体制に見られる《静的》な性質に対しては、われわれが「変更のルール」rules of change と呼ぶものを導入することで矯正が行なわれる。そのルールのもっとも単純な形態は、集団あるいはそのなかのある部類の人々の生活における行動を方向づけるために、新しい第1次的ルールを導入し、古いルールを排除する権能を個人または人々の団体に与えるルールである。すでに第4章で論じたように、法の制定、廃止という観念が理解されうるのは威嚇を背景とする一般的命令からではなく、このような変更のルールからである。そのような変更のルールはたいへん単純なものもあれば、たいへん複雑なものもあるだろう。付与される権能は無制限かもしれないし、さまざまま点で制限されているかもしれない。そして、ルールは誰が立法すべきかを明らかにする一方、多少厳密な用語で立法にあたってどういう手続に従うべきかを定めるだろう。明らかに変更のルールと承認のルールとの間には非常に密接な関係があるだろう。というのは、変更のルールが存在するところでは、承認のルールは立法に関係した手続の詳細のすべてにかかわるわけではないが、必然的に立法を、ルールを確認する特徴であると言い及んでいるからである。普通は公的な証明書または公的な謄本があれば、それは承認のルールの下では適正な制定がなされたという十分な証拠とみなされるだろう。もちろん、唯一の「法源」が立法であるような非常に単純な社会構造の下では、承認のルールは、法の制定がルールを確認する唯一のしるし、あるいはその妥当性の唯一の基準であると明記するだけであろう。これに該当するものとして、たとえば第4章で示した想定上のレックス1世の王国があげられるだろう。そこにおいては承認のルールは、およそレックス1世が制定したものは法であるということだけだろう。
 われわれは、個人が第1次的ルールの下でもっていた最初の地位を変更することができるような権能を個人に与えるルールについて、すでにいくらか詳細にのべてきた。私人に権能を付与するそのようなルールがなければ、社会は法によって与えられる主要な快適さをいくぶん欠くだろう。というのは、これらのルールがなしうる作用があってはじめて、法の下での生活を象徴する遺言、契約、財産権の移転をなすこと、そしてその他の多くの任意に設定される権利義務の構造をつくることが可能となるからである。もちろん、こうした権能付与のルールの原初的形態は、また約束という道徳的な制度の基礎ともなっているのであるけれども、これらのルールと立法の観念に含まれている変更のルールは明らかに類似しており、ケルゼンの理論のような最近の理論が示しているとおり、契約や財産権の制度に関してわれわれを悩ましている特徴の多くは、契約の締結、財産権の移転を個人による制限的立法権能の行使として考えれば明らかになるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第3節 法の諸要素,pp.105-106,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:変更のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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