2018年12月5日水曜日

数学における「存在」証明は、何をもって存在すると定義するかという、私たちの「存在」の概念に依存している。存在証明とは独立した、別の明晰な存在概念があると思うのは、錯覚である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

存在証明

【数学における「存在」証明は、何をもって存在すると定義するかという、私たちの「存在」の概念に依存している。存在証明とは独立した、別の明晰な存在概念があると思うのは、錯覚である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
 「「いかなる存在証明も、存在を証明しようとするものの構成を含まなければならない。」実は、「私は、かかる構成を含んでいない証明を、存在証明とは呼びたくない」と言えるだけなのに。この誤りは、ひとが存在という明晰な《概念》をもつかのように詐称することから生じる。
 ひとはあるもの―――存在―――を証明することができると信じる。その結果彼は、《証明とは独立に》、その存在を確信してしまう。(たがいに独立した―――したがって定理からさえも独立した―――証明という観念!)実際に存在とは、われわれが「存在証明」と呼ぶもので証明したそのものにほかならない。直感主義者をはじめとする人びとがそれについて語るとき、彼らは「この事態―――存在―――をわれわれはただこの仕方でのみ証明することができる、しかしその仕方ではできない」と言っているのだ。そして彼らは、《自分たちが》存在と呼ぶものをそのさい定義したにすぎない、ということに気がつかない。「一人の男が部屋の中にいる、ということは、もっぱら部屋の中を覗きこむことによって証明される。しかしドアのところで聞き耳を立ててもそれは証明されない」という言い方をひとはする。しかしいま論じている事柄は、まさにそういうものではないのだ。
 われわれは、存在証明にかんする自分たちの概念と切り離して、存在の概念をもつことはない。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『哲学的文法2』五 数学の証明 二四、全集4、pp.196-197、坂井秀寿)
(索引:存在証明)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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公理系に矛盾がないことだけから、その公理系が適用可能な「対象」が「存在」するということが、納得できない。喩えではあるが、3つの未知数を持つ3つの連立方程式が、ただ一つの解をつねに持つわけではない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

構成的定義が必要と思われる理由

【公理系に矛盾がないことだけから、その公理系が適用可能な「対象」が「存在」するということが、納得できない。喩えではあるが、3つの未知数を持つ3つの連立方程式が、ただ一つの解をつねに持つわけではない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

 「これとは別種の許容できない定義は、代数の例えによって特徴づけることができる。三つの未知数x、y、zが三つの方程式に現われているとしよう。そのとき、それらの未知数はこれらの方程式によって確定されうる。しかし厳密に言えば、ただ一つの解が可能であるときしか確定されない。同様にして、「点」、「直線」、「平面」というような語もいろいろな文に現われうる。これらの語が未だいかなる意義も有していない、と仮定せよ。これらの語が現われている文が真なる思想を表現するように、これらの語の各々に一つの意義が見出されることが要求されている、とせよ。しかし、これによって一義的にこれらの語の意義が確定するだろうか? ともかく、一般的には確定しない。たいていの場合、どれだけの解が可能であるかは、決定されないままであるに違いない。しかし、ただ一つの解が可能であることが証明されうる場合は、構成的定義により、説明されるべき語の各々に一つの意義を割り当てることによって、意義が定まる。しかしながら、いくつかの説明さるべき表現を含むような一連の文は、定義とは認められ得ない。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『数学における論理[一九一四春]』229、フレーゲ著作集5、p.233、田畑博敏)
(索引:構成的定義,公理系)

フレーゲ著作集〈5〉数学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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