2019年4月9日火曜日

ルールは、裁判所、公機関、私人の、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。ただし、ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

承認のルールの存在

【ルールは、裁判所、公機関、私人の、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。ただし、ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.3.1)追記。

 (3.3)法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。
 「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
 承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方で用いることが適当であるとして単に容認されている。

 (i)究極の承認のルールの適用……事実
 (ii)裁判所を含む一般的な諸活動での容認・使用……事実として確証可能
   ↓
 特定の法体系の妥当性

  (3.3.1)究極の承認のルールとして、実際に用いられているかどうかが、まず問題である。
   (a)承認のルールは、裁判所、公機関、私人が一定の基準を参照して法を確認する際、複雑ではあるが、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。
   (b)ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。
  (3.3.2)次の諸問題は、また別の問題である。
   (a)承認のルールが、法体系に対して有する意義は何か。
   (b)あるルールが、ある「目的」に対してどのような利益や害悪をもたらすか。
   (c)あるルールを支持する「十分な理由」があるか。
   (d)あるルールが、「道徳的責務」とどのような関連があるか。

 「一層重要な異議は、究極の承認のルールが妥当するという「想定」について語ることは妥当性に関する法律家の陳述の背後にある第二の前提のもつ基本的に事実的な性質を隠すことになる、というものである。承認のルールが実際に存在しているのは、裁判官、公機関、その他の人々の実際の活動においてではあるが、その活動は明らかに複雑な事柄である。のちに見るように、この種のルールの正確な内容と範囲について、またその存在についてさえ生じてくる疑問には明確なあるいは確定的な答ができないような状況がたしかにある。それにもかかわらず、「妥当性を想定すること」をそのようなルールの「存在を前提すること」から区別することは重要であって、そのような区別をしないとそういったルールが《存在する》という主張の意味が曖昧になるという理由からだけでも重要なのである。
 前章で素描した責務の第1次的ルールの単純な体系においては、あるルールが存在するという主張はそのルールを容認していない観察者が行なうような事実に関する外的陳述でありうるだけであって、この場合その検証は観察者が事実の問題として、ある行動様式が一般に基準として容認されているかどうか、またその様式が単なる一定方向に向かう単なる習慣から社会的ルールを区別する上述の特徴を伴っているかどうかを確認することでなされる。イギリスでは教会に入るときには帽子を取らなければならないという、法的なものではないが、あるルールが存在するという主張を解釈し検証する場合もこの方法によるべきなのである。もしこのようなルールが社会集団の実際の活動のなかに存在していることがわかれば、それらのルールの価値や望ましさはもちろん問題になるけれども、それらの妥当性について別個に議論すべき問題はないのである。一度それらのルールの存在が事実として確証されてしまうと、それらが妥当していることを肯定したり否定したりするならば、あるいはそれらの妥当性を「想定する」が示すことはできないと言ったりするならば、われわれは事態を混乱させるだけであろう。他方、成熟した法体系におけるように承認のルールを含むルールの体系が存在し、したがってルールがその体系の一部であるということが、今や承認のルールの与える一定の基準を満足させているかどうかにかかっているところにおいては、「存在する」という言葉は新しい用い方をされるのである。ルールが存在するという陳述は、それが慣習的ルールの単純な場合におけるように、一定の行動様式が実際の活動のなかで基準として一般的に容認されているという《事実》に関する外的陳述ではもはやないのである。それは、現在容認されてはいるがのべられていない承認のルールを適用し、また(おおざっぱに言えば)「体系に妥当性の基準があるところでは妥当する」ことを単に意味する内的陳述なのである。しかし、他の点と同様にこの点においても承認のルールは体系のその他のルールと異なっている。それが存在するという主張は、事実に関する外的陳述でありうるのみである。というのは体系の下位のルールはたとえ一般的に無視されているとしても妥当するだろうし、その意味で「存在する」だろうが、それに対して、承認のルールは裁判所、公機関、私人が一定の基準を参照して法を確認するさいの、複雑ではあるが、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在するからである。その存在は事実の問題なのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第1節 承認のルールと法の妥当性,pp.119-120,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))
(索引:法的妥当性,承認のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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