2019年8月25日日曜日

単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

伝統的な意見と、それに対立する意見

【単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)伝統的な意見
 (1.1)現在は、単に信じられているだけかもしれないが、最初の創始者たちにとっては、人間が持つある自然な要求や必要に由来する、現実的な何かしらの真理を表現したもののはずである。
 (1.2)信念は、人間の知性と感情との錯綜物であり、ある信念が長く存続したという事実は、少なくともその信念が、人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた証拠である。
(2)伝統的な意見と対立する意見
 (2.1)伝統的な意見は、単なる伝統に従って信じられてきただけであり、真理であるとは限らない。
 (2.2)伝統的な意見は、社会の支配的な階級に属する人たちの、利己的な利害に由来する。
(3)真理は、伝統的な意見とそれに対立する意見の双方にある
 (3.1)それぞれの観点にあまりにも厳格に固執するならば、相手方の真理に目をふさぐことになる。

 「コウルリッジの場合には、いかなる教説にせよ、それが思慮ある人びとによって信じられてきて、あらゆる国民またはいく世代もの人類によって受け入れられてきたという事実そのものが、解決されるべき問題の一部であり、また説明を要する現象の一つなのであった。そして、万事を貴族、聖職者、法律家、その他何らかの詐欺師たちの利己的な利害のせいにする、ベンサムの短絡的で安易な方法は、人間の知性と感情との錯綜物をはるかに深く見抜いていたひとりの人物を満足されることはできなかったので――彼コウルリッジは、いかなる意見にせよ、それが長くまたは広く流布されていたという事実をもって、それがまんざら謬見とは限らないという推定の一つの根拠とみなしたのである。また、のちに至って単なる伝統に従ってその教説を受け入れている人びとの多数にとってはおそらくそうではないにしても、少なくとも最初の創始者たちにとっては、その教説は、彼らにとってある現実性の感じられるものを、言葉に表現しようとする努力の結果である、と彼は考えたのである。また彼は、こう考えた。すなわち、一つの信念が長く存続したということは、少なくともその信念が人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた根拠である、と。また、かりに、その信念の根元まで掘りさげていった際に、たいていの場合そうであるように、ある真理を見出しえないとしても、なおもわれわれは、当の教説がそれを満足させるに適した人間性の、ある自然な要求または必要を発見しうるのである、と。そしてまた、これらの要求の中には利己と軽信との本能が一つの場所を占めてはいるが、決してそれ以外のものを締め出しているわけではない、と彼は考えたのである。二人の哲学者の観点にはこのような相違があったことから、そしておのおのがあまりにも厳格に自らの観点を固執したことから、ベンサムは伝統的な意見のうちに存する真理を絶えず見落とすであろうし、コウルリッジは伝統的な意見の外にあってこれら伝統的意見と対立している真理を絶えず見落とすであろうということは、当然予期しえた事柄である。しかしまた、おのおのは、相手の見落とした真理の多くを見出すか、またはそれらを見出すための途を示すだろうことも、大いにありうることであった。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『コウルリッジ』(集録本『ベンサムとコウルリッジ』),pp.132-133,みすず書房(1990),松本啓(訳))
(索引:伝統的な意見,信念,真理,伝統的な意見に対立する意見)

OD>ベンサムとコウルリッジ


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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