2019年4月26日金曜日

12.人間の行為の究極的目的である幸福とは何か。その諸要因:(a)苦痛と快楽の量と質,(b)受動的な快楽、能動的な快楽,(c)平穏と興奮,(d)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情,(e)精神的涵養(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

幸福とは何か

【人間の行為の究極的目的である幸福とは何か。その諸要因:(a)苦痛と快楽の量と質,(b)受動的な快楽、能動的な快楽,(c)平穏と興奮,(d)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情,(e)精神的涵養(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)人間の行為の究極的目的
 (1.1)できる限り苦痛を免れ、できる限り快楽を豊かに享受する。
 (1.2)苦痛と快楽は、量と質の両方が考慮される。
 (1.3)幸福とは何か。それは、到達できない目的なのではないか。
  (a)幸福が強い快楽による興奮状態の継続であるとすれば、それは達成不可能である。
  (b)仮にそうだとしても、不幸を避けたり軽減したりすることができる。
 (1.4)幸福とは、苦痛があっても一時的なものであり、快楽が多く様々にあり、受動的な快楽よりも能動的な快楽のほうが圧倒的に多く、現に生きられている人生以上のものを、もはや期待しないような状態である。
 (1.5)平穏と興奮は、より控えめな幸福の要素の一つである。
  (a)平穏に恵まれていれば、大半の人はごくわずかの快楽で満足できる。
  (b)多くの興奮があれば、大半の人はかなりの量の苦痛を耐えることができる。
  (c)そして、一方が長く続けば、他方への準備が整い、他方への願望が刺激される。
  (d)怠惰が高じて悪習となっている人、また逆に、病的に興奮を求めるようになってしまっている人も、存在はするだろう。
 (1.6)自分の死後も存続する対象、とりわけ人類全体への愛情は、幸福の重要な要因である。
  (a)愛情を欠いており、自分のことしか気にしない人たちは、それなりに幸運な境遇に恵まれていても、十分な快楽を見出さない。なぜなら、死が彼のすべてを失わせるからである。
  (b)一方で、個人的愛情を注ぐ対象となるものを死後に残すような人、とりわけ人類全体に対する関心を持ちながら、人類全体の幸福を喜び不幸を悲しむことができる人は、死の間際でも、人生に対して生き生きとした関心を抱き続ける。
 (1.7)精神的涵養は、幸福の重要な要因である。
  自然の事物、芸術作品、詩的創作、歴史上の事件、人類の過去から現在に至るまでの足跡や、未来の展望など、周囲のあらゆるものに尽きることのない興味の源泉を見出すことだろう。
(2)道徳の基準:人間の行為の規則や準則
 (2.1)究極的目的が、最大限可能な限り、人類全てにもたらされること。
 (2.2)人類だけでなく、事物の本性が許す限り、感覚を持った生物全てが考慮されること。
 (2.3)自分自身の善と、他の人の善は区別されないこと。
 (2.4)苦痛と快楽の質を判断する基準や、質と量を比較するための規則を含むこと。

 「最大幸福原理にしたがえば、上述のように、究極的目的は、(考慮しているのが自分自身の善であろうと他の人の善であろうと)その他のあらゆる望ましいものに準拠したりそれらを目的としたりしながら、量と質の両方に関してできるかぎり苦痛を免れできるかぎり快楽を豊かに享受するというあり方である。

もし自分を意識したり自分を振り返ったりする習慣があり、両方を経験する機会をもっていた人々によって選ばれているとしたら、質を判断する基準や質と量を比較するための規則は彼らが比較検討する方法にもっともよく示されていることになる。

功利主義的な見解にしたがえば、これが人間の行為の目的であるならば、必然的に道徳の基準でもあるということになる。

それゆえ、道徳の基準は、遵守することによって、最大限可能なかぎり人類すべてに、さらに人類だけでなく事物の本性が許すかぎり感覚をもった生物すべてに、これまで述べてきたようなあり方を保証することができるようになるような、人間の行為の規則や準則と定義することができるだろう。

 しかし、このような理論に対しては別の種類の反対論者がおり、彼らが言うには、幸福はそもそも達成不可能なのだから、どのような形であっても人間の生や行為の合理的な目的となることはできない。

そして、彼らはさげすむような仕方で「そなたに幸福になる権利があるのか」と問いかける。

カーライル氏は、「ほんの少し前まで、そなたは今こうしている権利さえもっていたのか」と付け加えることによってこの問いかけに輪をかける。

さらに、反対論者は、人間は幸福がなくてもやっていけるし、高貴な人間はこのように感じており、[ドイツ語の]エントザーゲン(Entsagen)つまり自制という教訓を学んだからこそ高貴になれたのであると述べる。

そして、この教訓を完全に学んで受け入れることがあらゆる徳の始まりであり必要条件であると断言する。

 反対論のうち第一のものは、十分な論拠があるものならば、問題の本質をついているだろう。というのは、もし人間が幸福というものをまったくもてないとするならば、それを達成することは道徳や何らかの合理的な行為の目的とはなりえないからである。

とはいえ、その場合でも功利主義理論を擁護する余地はまだある。なぜなら、功利性には幸福を追求することだけではなく、不幸を避けたり軽減したりすることも含まれているからである。

幸福を追求することが空想的なものだとしても、人類が生きる方がよいと考え、彼らがノヴァーリスが勧めたようなある特定の状況下でも一斉自殺行為に逃避したりしないかぎりは、不幸を避けたり軽減することがいっそう広い範囲で絶対的に必要になる。

しかし、人生が幸福であることは不可能であると強く主張されると、この主張は言いがかりとはいわないまでも、少なくとも言いすぎである。

幸福が強い快楽による興奮状態が継続していることを意味しているならば、幸福であることが不可能なのは明らかである。高揚した快い状態はほんのわずかしか続かないか、ある場合には断続的に数時間か数日続くだけであるし、この状態は時折現れるきらめく閃光のような快楽であって、永遠不変の炎ではない。

幸福が人生の目的であると教えていた哲学者たちは、彼らをあざ笑っていた人々と同じように、このことをよく承知していた。

彼らのいう幸福は歓喜に満ちた人生ではなかった。それは、苦痛がわずかで一時的なものであり、快楽が多くさまざまにあり、受動的な快楽よりも能動的な快楽のほうが圧倒的に多く、全体的な原則として人生がもたらしうる以上のものを期待しないようなあり方であった。

幸運にもそのような人生を手にすることのできた人にとって、それはいつでも幸福の名に値するものであったように思われる。

このようなあり方は今や数多く存在し、彼らの人生のうちのかなりの部分をしめている。ほとんどすべての人にとって、現在のひどい教育やひどい社会制度こそがこのようなあり方に到達するのを妨げている真の障害である。

 反対論者は、幸福を人生の目的と考えるように教えられたとしても、人間がそのような控えめな幸福を分ちあうことに満足するか疑問に思うかもしれない。

しかし、人類の大多数はより控えめなものに満足してきた。満ち足りた人生を構成するのは主に二つのことであり、いずれもそれだけで満ち足りた人生という目的にとっては十分である。

つまり、平穏と興奮である。平穏に恵まれていれば大半の人はごくわずかの快楽で満足できる。多くの興奮があれば、大半の人はかなりの量の苦痛を耐えることができる。

人類の大部分にとってこの二つを結びつけることは本質的に不可能であるということはありえない。というのは、この二つは両立しないどころか自然に結びついているものであり、一方が長く続けば、他方への準備が整い、他方への願望が刺激されるからである。

平穏が続いた後に興奮を望まないのは怠惰が高じて悪習となっている人だけであり、興奮の後にくる平穏をそれに先立った興奮に直接的に比例して得られていた快楽と違って退屈で味気のないもののように感じるのは、病的に興奮を求めるようになってしまっている人だけである。

それなりに幸運な境遇に恵まれている人が人生を価値あるものにするほど十分な快楽を見出していないとすれば、それは一般には彼らが自分のことしか気にしていないからである。

公私にわたって愛情を欠いている人にとって、人生の興奮はきわめて抑制され、どのような場合でも、死によってあらゆる利己的な関心が終止符を打たれることになる時が近づくにつれて興奮することの価値は減っていく。

一方で、死後に個人的愛情を注ぐ対象となるものを残すような人、とりわけ人類全体に対する関心をもちながら同胞の感情も陶冶してきた人は、死の間際でも、若さと健康にあふれて活力あったときと同じように、人生に対して生き生きとした関心を抱き続けている。

利己心に次いで、人生を満足のいかないものにする重要な要因は、精神的涵養が不足していることである。

涵養された精神は――私は哲学者の精神のことを言っているのではなく、知識の泉が開かれていて、ある程度まではその能力を行使することを学んでいるようなあらゆる精神について言っている――自然の事物、芸術作品、詩的創作、歴史上の事件、人類の過去から現在に至るまでの足跡や未来の展望など、周囲のあらゆるものに尽きることのない興味の源泉を見出す。

たしかに、これらのすべてに無関心になること、しかもそのうちの千分の一も知ることなく無関心になることもありうるだろう。しかし、そのようなことは、人が最初からこれらの事物に対してまったく道徳的あるいは人間的関心をもっておらず、好奇心を満たすためだけにしかそれらを求めていなかったときだけである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.272-275,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:幸福,苦痛と快楽,平穏と興奮,自分の死後も存続する対象への愛情,人類全体への愛情,精神的涵養)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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