2019年4月30日火曜日

最高裁判所は、何が法であるかの最終決定権を持っているとはいえ、その決定が在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化からの逸脱と思われる場合がある。決定の最終性は、無謬性とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

司法的決定の最終性と無謬性

【最高裁判所は、何が法であるかの最終決定権を持っているとはいえ、その決定が在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化からの逸脱と思われる場合がある。決定の最終性は、無謬性とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.2)追記。

(3)半影的問題の決定も、在る法の自然な精密化、明確化であると思える場合がある。
 ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。
  難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))
(出典:alchetron
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)
検索(ロン・フラー)

 (3.1)難解な事案における裁判官の決定が、新たな法を創造していると見なすことが、妥当とは思えない場合がある。
  (a)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
  (b)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」と見なすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
 (3.2)最高裁判所は、何が法であるかを言明する最終決定権を持っているとはいえ、その決定が在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化から逸脱していると思われる場合がある。すなわち、決定の最終性は無謬性とは異なる。
 (3.3)日常言語においても、次のような事実がある。
  (a)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
  (b)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
  (c)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

 「最高裁判所は、何が法であるかを言明する最終決定権をもっており、それが言明されたときは、裁判所が「間違っている」と言ったところで、その体系のなかではいかなる効果ももたない。つまりそれにより誰の権利も義務も変更されることはないのである。その判決はもちろん立法により法的効果を奪われることがあるが、この方法をとらなければならないというその事実からして、法に関するかぎり、裁判所の判決が間違っていると言っても空しいものであることが明らかになる。これらの事実を考えると、最高裁判所の判決については、その最終性と無謬性とを区別することはいかにもペダンティックであるように思われる。このことは、裁判所が判決するさいには常にルールにより拘束されていないということを別の形で主張することになる。すなわち、「法(または憲法)とは、裁判所がそれだと言うものである」。
 この形の理論のもっとも興味深く、そして教訓的な特徴は、「法(または憲法)とは、裁判所がそれだと言うものである」という陳述のような曖昧さを利用していることと、法に関して公機関以外の陳述と、裁判所が行なう陳述との関係について、この理論が首尾一貫するためにはしなければならない説明の仕方とである。この曖昧さを理解するために、ゲームの場合との類似性に目を向けてみよう。多くの競技は、公式のスコアラーなしに行なわれている。競技者の関心が互いに競い合っているにもかかわらず、彼らはかなりうまく個々のケースに得点のルールを適用している。彼らの判断は普通一致するのであって、解決されないような対立はほとんどない。公式スコアラーの制度ができる以前は、競技者による得点の陳述は、彼が正直であれば、そのゲームで容認されている個々の得点のルールを参照することによりゲームの進行を評価しようとする努力をあらわしている。このような特定の陳述は、得点のルールを適用する内的陳述であって、これは一般に競技者がルールを守るだろうこと、もし違反すれば異議を唱えるだろうことを前提としているけれども、これらの諸事実に関する陳述ないし予測ではない。
 慣習の体制から成熟した法の体系への変化と同様に、最終的な裁判権をもつスコアラーの制度を定める第2次的ルールをそのゲームに付加することは、その体系に新しい種類の内的陳述をもちこむのである。というのは、得点に関する競技者の陳述とは異なって、スコアラーの決定は、これを争うことができないような地位を第2次的ルールによって与えられるからである。《この》意味でたしかにゲームの目的にとって、「得点とはスコアラーがそれだと言うものである。」しかしここで注意しなければならないことは、得点の《ルール》が以前のままであることであって、これを自己の最善をつくして適用することがスコアラーの義務なのである。「得点とはスコアラーがそれだと言うものである」ということが、スコアラーが自己の裁量で適用しようとするもの以外には、得点に関するルールは何もないということを意味するなら、それは誤りであろう。このようなルールをもったゲームが実際にあるかもしれないし、もしスコアラーの裁量がいくらかの規則性をもって行使されるなら、そのゲームをしてもある程度は楽しいかもしれない。だが、それは別のゲームになってしまう。われわれは、このようなゲームを「スコアラーの裁量」のゲームと呼ぶことができるだろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第7章 形式主義とルール懐疑主義,第3節 司法的決定の最終性と無謬性,pp.154-155,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),戸塚登(訳))
(索引:司法的決定の最終性と無謬性,最高裁判所)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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15.私たちは、行為が及ぼす影響範囲を評価し、明らかに他者の権利を侵害したり、仮に皆が行えば社会に害が発生するような行為の場合には、道徳基準に従うことによって、あとは動機に任せて行為し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

行為の動機と道徳基準

【私たちは、行為が及ぼす影響範囲を評価し、明らかに他者の権利を侵害したり、仮に皆が行えば社会に害が発生するような行為の場合には、道徳基準に従うことによって、あとは動機に任せて行為し得る。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)追加。

(2)道徳基準:人間の行為の規則や準則
 (2.1)究極的目的が、最大限可能な限り、人類全てにもたらされること。
 (2.2)人類だけでなく、事物の本性が許す限り、感覚を持った生物全てが考慮されること。
 (2.3)自分自身の善と、他の人の善は区別されないこと。
   人間にとって望ましい目的が、全ての人に実現されるためには、(a)個人の利害と全体の利害が一致するような法や社会制度、(b)個人と社会の真の関係を理解をさせ得る教育と世論の力が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (a)基本的な考え方。
   (i)あたかも、自分自身が利害関係にない善意ある観察者のように判断すること。
   (ii)人にしてもらいたいと思うことを人にしなさい。
   (iii)自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。
  (b)次のような法や社会制度を設計すること。
   (i)あらゆる個人の幸福や利害と、全体の幸福や利害が最大限一致している。
  (c)人間の性格に対して大きな力を持っている教育や世論の力を、次のような目的に用いる。
   (i)自らの幸福と全体の幸福の間には、密接な結びつきがあることを、正しく理解すること。
   (ii)従って、全体の幸福のための行為を消極的にでも積極的にでも実行することが、自らの幸福のために必要であることを、正しく理解すること。
   (iii)全体の幸福に反するような行為は、自らの幸福のためも好ましくないことを、正しく理解すること。
 (2.4)苦痛と快楽の質を判断する基準や、質と量を比較するための規則を含むこと。

(3)行為の動機と道徳基準
 (3.1)行為の動機
  (a)私たちは、ほとんどの場合、道徳基準に従って意識的に行為しているわけではない。
  (b)動機は、行為の道徳性とは無関係である。例えば、溺れている同胞を助ける人は、その動機が義務からであろうと、苦労に対する報酬への期待であろうと、状況に応ずる衝動からであろうと、道徳的には正しいことをしているのである。
  (c)私たちは、行為者の動機によって、行為者を賞賛したり侮蔑したりする。
   参照:行為は、3つの側面から評価される。予見可能な帰結の望ましさに関する理性による判断である道徳的側面、想像される動機や性格の望ましさによる審美的側面、動機や性格が引き起こす共感による共感的側面である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.2)道徳基準の実践的な適用方法
  道徳基準は、一貫性のある論理体系として追究される人間行為の規則であり、行為の動機など人間の現実的な心理過程は、また別事象である。道徳基準の実践的な適用方法は、以下の通りである。
  (a)行為が及ぼす影響範囲を考えよ。
   (a.1)普通は、関係する特定の人々の利害を考えればよい。
   (a.2)しかし、ある行為が社会一般に影響するような能力を持っているような人は、より広い範囲の人々の幸せを考慮する必要がある。
  (b)明らかに有害であることは自制すること。
   (b.1)関係者以外の人々の合法的で正当な期待を侵害することにならないかを、確認すること。
   (b.2)帰結が有益と思われても、もしその行為が一般に行われれば、広く害を及ぼすような種類のものであるとき、その行為は差し控えること。

 「反功利主義者はいつも誹謗するような仕方で功利主義を描き出していることで非難されるわけではない。

それどころか、功利主義が公平性をもっているという正しい考えを受け入れている人のなかには、功利主義の基準は人類にとって高すぎるとして批判する人もいる。

彼らは、つねに社会全体の利益を促進することを動機として行動するように人々に求めることは厳しすぎると述べている。

しかし、これは道徳の基準の正しい意味を誤解し、行為の規則と行為の動機を混同しているのである。

倫理学の役割は私たちの義務は何であるかやどのような試金石によってそれらを知ることができるかを示すことであるが、あらゆる行為の唯一の動機は義務の感情でなければならないとするような倫理学の体系はない。

それどころか、私たちの百のうち九十九の行為が他の動機からなされており、義務の規則がそれをとがめないならば、それは正しくなされていることになる。

功利主義道徳論者は、動機は行為者の価値には大いに関係するけれども行為の道徳性には無関係であるということを他のほとんどすべての道徳論者よりも強く主張していたのだから、このような誤解が反功利主義の根拠になっているというのは功利主義にとっていっそう不当なことである。

溺れている同胞を助ける人は、その動機が義務であろうと苦労に対する報酬への期待であろうと、道徳的には正しいことをしているのである。信頼してくれている友人を裏切る人は、その目的がより大きい恩義を受けている他の人のためであったとしても、罪を犯しているのである。

 しかし、義務という動機からなされた行為にかぎって、そして原理に直接的に従っているかぎりで言うならば、世界や社会全体にわたるくらいに広範囲に気をかけることを人々に求めていると考えるのは功利主義的思考法に対する誤解である。

善い行為の大部分は世界の利益になることを意図したものではなく、世界の善を構成している個々人の利益になることを意図されたものである。

このような場合には、大部分の有徳な人は、関係者の利益を図るときに他の誰かの権利――つまり、合法的で正当な期待――を自らが侵害していないことを確かめる必要があるときを例外とすれば、関係する特定の人々以外のことを考える必要はない。

功利主義的倫理にしたがえば、幸福を増大させることが徳の目的である。しかし、(千人のうち一人くらいを別にすれば)誰かが広範にわたって幸福を増大させる能力をもっている、言い換えれば、公共の役に立つ人であるという場合は滅多にない。

このような場合にだけ公共の功利を考慮することが求められ、他のあらゆる場合には個人の功利、つまりごく少数の人の利益や幸福だけに関心を向けていればよい。

自らの行為が社会一般に影響するような人だけがこういう広い対象に習慣的に関心を向ける必要がある。

ある特定の場合には帰結が有益かもしれなくても道徳的配慮から人々が差し控えるようなことを実際に自制するという事例について言えば、その行為が一般に行われれば広く害を及ぼすような種類のものであるということや、このことがこの行為を控える義務の根拠となっているということを意識的に考えることがないというのでは、知性ある人に値しないだろう。

ここで公共の利益に対する配慮の程度はあらゆる道徳体系が求めているものと変わらない。

というのは、それらはいずれも社会にとって明らかに有害なものは何であっても控えるように求めているからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.280-282,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:動機,道徳基準,行為の道徳性,行為が及ぼす影響範囲)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
ジョン・スチュアート・ミルの関連書籍(amazon)
検索(ジョン・スチュアート・ミル)
近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

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