2019年8月10日土曜日

できる限りの注意と自己コントロールによって、正しい行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

道徳的犯罪の自発的な性格

【できる限りの注意と自己コントロールによって、正しい行動が可能であったことは、道徳的犯罪が成立するための必要条件である。法的責任とは異なり、道徳的には「せざるを得なかった」は一つの弁解として成立する。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(c)詳細化。

一般の行動規則、道徳的な原則、正義の原則の違い。
(1)一般の行動規則:個人の行動に関する一定のルールや原則
(2)道徳的な原則:個人の行為を義務づける道徳に関する一定のルールや原則
 (2.1)在る法に対する批判のすべてが、正義の名においてなされるわけではない。道徳的な原則も、在る法を批判する根拠の一つである。
 (2.2)道徳的な原則は、次の4つの特徴を持つ。
  参照:一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。(a)重要性、(b)意図的な変更を受けないこと、(c)道徳的犯罪の自発的な性格、(d)道徳的圧力の形態。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)重要性
   一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。まず(a)重要性。(a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度、(a.2)社会的圧力の大きさの程度、(a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (a.1)要求される個人的利益の犠牲の程度
    大きい:強力な感情の発現を禁じるために、かなりの個人的利益の犠牲が要求される。
    小さい:あまり大きな犠牲が要求されない。
   (a.2)社会的圧力の大きさの程度
    大きい:個々の場合に基準を遵守させるためだけでなく、社会の全ての者に教育し教え込むための社会的圧力の色々な形態が用いられる。
    小さい:大きな圧力は加えられない。
   (a.3)基準が遵守されない場合の影響力の程度
    大きい:個人の生活に、広範で不愉快な変化が生じるであろうと認識されている。
    小さい:社会生活の他の分野には何ら大きな変化が生じない。

  (b)意図的な変更を受けないこと
   一般の行動規則から道徳的な原則を区別する4つの特徴がある。二つめ(b)道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (b.1)道徳的な原則は、意図的に導入、変更、廃止することができない。
    (b.1.1)道徳をつくり変更する権限をもった道徳定立機関があるというような考えは、道徳の観念そのものと矛盾するものである。このことは、社会によってまたは時代によって異なるという性質のものではない。
   (b.2)しかし、ある事態では現実に、導入、変更、廃止が起こりうる。ルールはそれが生成し、実行されることによってその地位を獲得し、用いられなくなり、衰退することによってそれを失う。
    道徳的な原則は、あらゆる社会的伝統と同様に、意図的な変更を受けない。しかし、法の規定が、現行の道徳を変更したり高めたり、伝統的な慣行を消滅させたり、ある階層の伝統を形成したりすることもある。(ハーバート・ハート(1907-1992))
    (b.2.1)たいていは、定立された法よりも、深く根をおろしている道徳の方が強く、相容れない法と道徳が併存する場合もある。
    (b.2.2)法の規定が、誠実さや人道性の基準を立てる場合があり、現行の道徳を変更したり、高めたりすることもある。
    (b.2.3)法によって禁じられたり罰せられることによって、伝統的な慣行が絶え、消滅することもある。
    (b.2.4)ある法が、ある階層の人々に兵役を課すことによって、その階層に一つの伝統を生み出し、伝統が法よりも長く存続することになるかもしれない。
   (b.3)意図的な変更を受けないという特徴は、どのような社会的伝統に関しても、同様である。
   (b.4)これに対して、法体系は意図的な立法行為により、導入、変更、廃止される。
  (c)道徳的犯罪の自発的な性格
   道徳的および法的犯罪が成立する諸条件。
   (c.1)道徳的な原則、法的ルールに従うことが可能な肉体的、精神的能力を持っている。
    基礎的な能力を欠く人は、道徳的にも法的にも免責される。
   (c.2)何が正しい行動なのかを知っている。
    (c.2.1)道徳:仮に、何が正しいかを知らなったとき、道徳的責務はあるのか、ないのか?
    (c.2.2)法:個人が現に持っている心理的状態を客観的に究明することには困難があり、法的責任においては、自制の能力、注意能力を持つ人は、正しいことを判断できるとみなす。
   (c.3)できる限りの注意をすれば、自己をコントロールして、正しい行動を取ることができる。
    (c.3.1)道徳:道徳的責任が生じるための一つの必要条件である。できる限りの注意をしても、その行動が避けられないときには、免責される。すなわち、道徳的な原則においては、「せざるを得なかった」は一つの弁解になる。
    (c.3.2)法:法的責任は「せざるを得なかった」場合でも、除かれるとは限らない。すなわち、故意でなく、注意も怠らなったとしても、「厳格な責任」を負う場合もある。ただし、身体的に正しい行動を取り得ないという最低要件は別である。
   (c.4)能力を持っており、何が正しいかも判断でき、正しい行動を取ることも可能であるにもかかわらず、故意に、あるいは不注意から、誤った行動をする。
    道徳的にも法的にも責任は逃れられない。
   (c.5)考察するための事例。
    (c.5.1)正当防衛上必要な措置としてなされた殺人
    (c.5.2)正当防衛以外の理由で、正しいと誤認された殺人
    (c.5.3)あらゆる注意を払ったにもかかわらず、誤ってなされた殺人
    (c.5.4)不注意や過失による殺人
    (c.5.5)故意の殺人
  (d)道徳的圧力の形態
(3)正義の原則:個人の行動にではなく、さまざまな部類の人々の取り扱い方に主としてかかわる道徳の一部である。法や、他の公的ないしは社会的制度を批判する根拠である。
(4)法:実際に在る法



 「(3)道徳的犯罪の自発的な性格 法は「外面的」行動にのみ関与するのに対して、道徳はもっぱら「内面的」なものに関与するという古くからある考えは、すでに検討した二つの特徴を部分的に誤って言いあらわしたものである。しかし、この考えは道徳的責任と道徳的非難のある顕著な特徴を示すものとして極めてしばしば取り扱われている。もしある人の行動が《外部から》判断して道徳的ルールまたは原則を犯しているにもかかわらず、その者が自己の行為は故意によるものではなく、自己のできるかぎりの注意にもかかわらず生じたものであることを立証するのに成功したという場合、その者は道徳的責任を免れるし、このような事情の下で彼を非難することはかえって道徳的に問題があることになるであろう。ここにおいて、彼はできるだけのことをしたのであるから、道徳的非難を免れるのである。発達したいずれの法体系においても、ある点まで同じことが言えるのである。というのは、《故意》という一般的要件は刑事責任における一要素であって、それは、不注意によらず、無意識に、あるいは法に従う肉体的または精神的能力を欠く状態において罪を犯す者が免責されることを確保するために予定されたものだからである。もしもこういうことになっていなければ、法体系は、少なくも厳しい刑罰を伴う重罪の場合に、大きな道徳的非難にさらされることになるであろう。
 それにもかかわらず、すべての法体系にこのような免責をもち込むことはさまざまな方法によって制限されている。心理的事実の証明は本当に困難であり、あるいは困難であるといわれているので、法体系は特定の個人が現にもっている心理的状態ないしは能力の究明を拒み、その代わり「客観的テスト」を用いることになる。このテストによって、罪を問われている個人は、通常人とか「道理をわきまえた」人間のように自制の能力をもち、あるいは注意能力をもつものとみなされるのである。法体系のなかには「意思」能力の欠如と「認識」能力の欠如とを区別しないものがある。このような場合に、これらの法体系は罪の免責の範囲を意思の欠如または知識の欠陥に限ることになる。また法体系はある犯罪類型については、おそらく被告人が正常に身体をコントロールすることができなければならないという最低の要件は別にして、「厳格な責任」を課すことによって責任を《故意》とはまったく切り離しているのである。
 したがって、被告人が自分の違反した法について、それを順守しようとしてもできなかったであろうということを示すことによって、法的責任は必ずしも除かれるとはかぎらないということを明らかである。これとは対照的に、道徳上の行為においては「せざるをえなかった」ということは常に一つの弁解となるものであり、また道徳的責務は道徳上「べきである」ということがこの意味において「できる」ということを意味しない場合には、現にあるものとはまったく異なるものになろう。しかし、「せざるをえなかった」が(十分な弁解であるとしても)一つの弁解にすぎないということを理解し、弁解を正当化と区別することは重要なことである。というのは、すでにのべたように、道徳は外面的行動を要求するのではないという主張はこれら二つの観念の混同に起因するものだからである。もし善意というものが道徳的ルールの禁じる行為を正当化するものであれば、あらゆる注意を払ったにもかかわらず、誤って他人を殺した者の行為について嘆き悲しむことは何ひとつないであろう。このような行為は、正当防衛上必要な措置としてなされる他人の殺害と同じようにみられるべきである。後者が《正当なものとされる》のは、そのような状況における殺人が、たとえ殺人の一般的禁止の例外であることはいうまでもないとしても、法体系が防止しようとするものではなくむしろ奨励しさえするような性質の行為だからである。罪を犯した者が、故意によるのではないという理由で《弁解がいれられる》という場合、その根底にある道徳的観念は、この行為が法の政策上許容され、あるいは歓迎さえされるといった性質をもつものだからというところにあるのではない。むしろそれは、この場合犯罪人の精神状態を調べてみると、その者は法の要請に従う正常な能力を欠いていたとみられる、というところにある。このようにみてくると、この道徳の「内面性」という側面は、道徳が外面的行動に対するコントロールの形態ではないということを意味するのではなく、個人は自己の行動についてある種のコントロールをしなくてはならないというのが道徳的責任の一つの必要条件であるということである。道徳においてさえも、「彼は誤ったことをしなかった」ということと「彼はそれをせざるをえなかった」ということの間にはある相異が存在する。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第8章 正義と道徳,第2節 道徳的および法的責務,pp.194-195,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),川島慶雄(訳))
(索引:道徳的犯罪,法的責任,道徳的責任,せざるを得なかった)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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妥当な報酬額を決めるために、(a)社会に対する貢献度、(b)偶然的な出来事の影響、(c)人の有能さの由来、(d)社会の果たすべき役割の諸原理があるが、さらに(e)全ての人の幸福を目的とした正義の原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

個人の才能や技能と、妥当な報酬

【妥当な報酬額を決めるために、(a)社会に対する貢献度、(b)偶然的な出来事の影響、(c)人の有能さの由来、(d)社会の果たすべき役割の諸原理があるが、さらに(e)全ての人の幸福を目的とした正義の原理が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 (3.5)個人の才能や技能と、妥当な報酬
  (a)社会に対する貢献度
   (a.1)社会は、より有能な労働者から多くを得ている。共同の成果のうち大きな割合は、実際には有能な人の労力によるものである。
   (a.2)しかし、共同の成果のうち、性質の異なる様々な労力の成果を、どのようにすれば正当に評価することができるだろうか。
  (b)偶然的な出来事の影響
   (b.1)偶然的な出来事や幸運から、ある人は大きな成果を上げ、他の人は、自らは何の過ちも犯していないのに、成果が上げられなかったとしたら、どうだろう。全力を尽くす人は、誰であっても同じ報酬を受けるに値するのではないだろうか。
   (b.2)生まれながらに、様々な資質を持った人びとがいる。ある人は、生まれ落ちた時代と社会において大きく評価される資質を持っており、他の人はそのようなものを持っていない。また、ある人は特定の能力を欠いて生まれてくる場合もある。
  (c)人の有能さの由来
   そもそも有能な人も、その有能さを社会から与えられたというのが事実である。生まれ落ちた家庭の環境、与えられた教育と社会的環境が、その人の有能さを育んだ。この意味で、個人の有能さは個人の努力の成果というだけではなく、同時に社会的環境の成果物でもある。
  (d)社会の果たすべき役割
   (d.1)有能な人の貢献が社会にとって有用だとしたら、社会はその人に対してより多くの報酬を与える義務を負っているのではないか。
   (d.2)優れた能力をもっている人は、賞賛されたり、個人的影響力を行使したり、それに伴う内的な満足感の源泉を持っていることによって、すでに十分すぎるほどに利益を得ている。社会がするべきなのは、このような不相応な不平等をより悪化させることではなく、才能に恵まれていない人に対してこの不平等について補償してあげることである。
  (e)個別原理を超える妥当性は、次の原理により解明されるだろう。
  参照: 「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「共同体的な産業アソシエーションにおいて、才能や技能をもつ人はより多くの報酬を得る権利があるというのは正義なのだろうか、そうでないのだろうか。この問題を否定的に考える側は、全力を尽くす人は誰であっても同じ報酬を受けるに値するし、自らは何の過ちを犯していないのに低い立場におかれることは正義ではないと論じている。そして、優れた能力をもっている人は、世俗的な財貨についてより多くの分け前を受け取ることはなくても、賞賛されたり、個人的影響力を行使したり、それに伴う内的な満足感の源泉をもっていることによってすでに十分すぎるほどに利益を得ているし、正義のために社会がするべきなのは、このような不相応な不平等をより悪化させることではなく、才能に恵まれていない人に対してこの不平等について補償してあげることであると論じている。これに反対する側は次のように強く主張している。社会はより有能な労働者から多くを得ている。そのような人の貢献が有用だとしたら社会はその人に対してより多くの報酬を与える義務を負っている。共同の成果のうち大きな割合は実際にはその人の労力によるものであって、それに対するその人の権利を認めないのは一種の略奪である。その人が他の人と同じ報酬を受け取れないとしたら、その人は他の人と同じくらいの生産を行うことしか求められず、その人の優れた能力に比べてみればわずかの時間と労力を割くことしか求められないことになる。誰がこれらの相反する正義の原理への訴えの間で評決を下せるだろうか。この事例では正義は二つの側面をもっていて、それは調和させることのできないものである。双方の論者はそれぞれ相対する側を選び取っており、一方は個人が何を受け取ることが正義なのかに関心を向け、他方は共同体が何を与えることが正義なのかに関心を向けている。いずれもそれぞれの視点からは反論の余地はない。正義を考慮しながらそれらのうちいずれかを選んだとしても、それはまったく恣意的なものにならざるをえない。社会的功利性だけが優劣を決めることができる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.335-336,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:妥当な報酬,個人の才能や技能,社会に対する貢献度,偶然的な出来事)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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