2019年9月3日火曜日

人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいという事実が存在する。生存するという目的のためには、殺人や暴力の行使を制限するルールが要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))

人間の傷つきやすさ

【人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいという事実が存在する。生存するという目的のためには、殺人や暴力の行使を制限するルールが要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3)追記。

(1)目的と手段による説明
  人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。これは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (a)生存する目的を前提として仮定する。
 (b)自然的事実:人間に関する、ある単純で自明な諸事実が幾つか存在する。
 (c)法と道徳は、自然的事実に対応する、ある特定の内容を含まなければならない。
  その特定の内容を含まなければ、生存という目的を達成することができないため、そのルールに自発的に服従する人々が存在することになり、彼らは、自発的に服従しようとしない他の人にも、強制して服従させようとする。
(2)原因と結果による説明
 (a)心理学や社会学における説明のように、人間の成長過程において、身体的、心理的、経済的な条件のもとにおいて、どのようなルール体系が獲得されていくかを、原因と結果の関係として解明する。
 (b)因果的な説明は、人々がなぜ、そのような諸目的やルール体系を持つのかも、解明しようとする。
 (c)他の科学と同様、観察や実験と、一般化と理論という方式を用いて確立するものである。
(3)人間に関する自然的事実
 (3.1)人間の傷つきやすさ
  (a)人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいという事実が存在する。
  (b)法と道徳は、殺人とか身体的危害をもたらす暴力の行使を制限するルールを含まなければならない。
 「(i)人間の傷つきやすさ 法と道徳はともに、たいていは積極的な行為をするように要求するのではなく、行為を差し控えるように求めるのであって、それは普通禁止という消極的な形態であらわされる。これらのなかで社会生活にとってもっとも重要なものは、殺人とか身体的危害をもたらす暴力の行使を制限するものである。そのようなルールの基本的な特徴は、一つの質問ではっきり示すことができよう。もしこれらのルールがなかったら、いかなる他の種類のルールをもったからといって、われわれのような存在にどんな利点がありうるのだろうか。このレトリカルな質問の説得力は、人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通傷つきやすいという事実にもとづいている。しかしこれは自明の真理ではあるが、必然的な真理ではない。というのは、事態は過去において違っていたかもしれないし、将来変わるかもしれないからである。ある種の動物は、その物理的な構造(殻や甲羅を含めて)のためその種に属する他のものによる攻撃から実質上免れているし、また攻撃を可能にする器官をもたない動物もある。もし人々が互いにその傷つきやすさを失ったならば、《汝殺すなかれ》という法と道徳のもっとも特徴的な規定に対する一つの明白な理由がなくなることになろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第2節 自然法の最小限の内容,pp.212-213,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:人間の傷つきやすさ,殺人や暴力の制限)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、国民によって維持、発展させられ、国民を育成し、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化する。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

良い統治とは何か

【統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、国民によって維持、発展させられ、国民を育成し、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化する。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

良い統治とは何か
(1)統治とは、人間の行う行為に他ならない。
 (a)統治担当者
 (b)統治担当者を選ぶ人々
 (c)統治担当者が責任を負っている人々
 (d)以上の人々すべてに、意見によって影響を与え牽制を加える人々
(2)統治体制が、国民自身の徳と知性を育成し、促進する特性を持っていること。
 (a)統治体制を維持できる基礎的な資質が、国民にあるという前提ではある。
 (b)この特性が満たされている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。
 (c)この特定は、統治体制とそれを支える国民の徳と知性との間に、良い循環を生み出す。
(3)社会を構成する人々に、徳と知性があること。
 (3.1)道徳的資質
  自分勝手な自己利益だけを各人が重要視して、社会全般の利益でもあるような自分の利益には注目したり関心を持ったりしないならば、よい統治は望みえない。
 (3.2)知的資質
  人々が、無知蒙昧や有害な偏見の寄せ集めに過ぎないならば、よい統治は望みえない。
 (3.3)活動的資質
  被治者の高い資質は、統治機構を動かす駆動力を与えるからである。
(4)統治機構それ自体が高い質を持っていること。
 統治機構が、一定時点に現存する諸々の優れた資質を活用し、それらの資質を正しい目的のための手段としている。

 「自分勝手な自己利益だけを各人が重要視して、社会全般の利益でもあるような自分の利益には注目したり関心を持ったりしない、というのが国民全般の気風である場合には、そのような状態でのよい統治はつねに不可能である。よい統治のあらゆる要素を阻害する点で知性上の欠陥が及ぼす影響については、例示の必要もない。統治とは人間の行う行為に他ならないのであり、統治を担当する行為者、その行為者を選ぶ人々、その行為者が責任を負っている人々、あるいは、以上の人々すべてに意見によって影響を与え牽制を加える人々が、無知蒙昧や有害な偏見の寄せ集めにすぎないならば、統治のあらゆる働きがうまくいかない。他方、これらの人々がこの水準を上回るのに比例して、統治体制の質は向上する。自分自身もすぐれた徳と知性をそなえている統治担当者が、有徳で開明された世論という雰囲気に包まれている場所でしか達成できない、卓越した水準にまで到達することになる。
 したがって、よい統治の第一の要素は、社会を構成する人々の徳と知性であるから、統治形態が持ちうる長所の中で最も重要なのは、国民自身の徳と知性を促進するという点である。政治制度に関する第一の問題は、さまざまな望ましい知的道徳的な資質を社会成員の中でどこまで育成することに役立つかである。いやむしろ(ベンサムのもっと完成度の高い分類に従えば)、道徳的資質、知的資質、活動的資質の育成に役立つかである。この点で最善の貢献をしている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。なぜなら、あくまでもこれらの資質が国民の中にあるという前提での話だが、統治体制が実際に良好に機能する可能性全体を左右するのは、これらの資質に他ならないからである。
 そこで、集団的にも個人的にも被治者のすぐれた資質の総量を増大させるのに役立っている度合いを、統治体制のよさを判断する基準の一つと考えてよいだろう。なぜなら、被治者の幸福は統治の唯一の目的であるけれども、さらに言えば、被治者の高い資質は統治機構を動かす駆動力を与えるからである。
 統治体制の長所のもう一つの構成要素としては、機構それ自体の質が残されている。つまり、機構が、一定時点に現存する諸々のすぐれた資質を活用し、それらの資質を正しい目的のための手段としている度合いである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第2章 よい統治形態の基準,pp.28-29,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:良い統治,国民の徳と知性,統治,統治体制)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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