tag:blogger.com,1999:blog-56759545764542400112024-03-28T19:26:37.534+09:00未来のための哲学講座 命題集 Propositions of great philosophers活用するための哲学サイト。著作名から調べる。人名から調べる。順次、充実させていきます。(大幅に遅延中)未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comBlogger1381125tag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-11246864546522726582024-03-26T18:33:00.012+09:002024-03-26T18:38:09.414+09:0013. 冷却材喪失事故(高木仁三郎(1938-2000)
冷却材喪失事故(高木仁三郎(1938-2000)「原子炉の事故でこれまで、いちばん怖れられてきたのは、スリーマイル島・タイプの冷却材喪失事故といえます。空炊き事故といい直せば、わかりやすいでしょうか。
原子炉の運転中でも、運転を止めた場合も、炉心は非常な高温になっています。これを毎秒一〇トン以上もの水を原子炉の中に循環させて、冷やしている。逆にいえば、その水がそれによって加熱されて蒸気になって発電をしているのです。この水が何らかの形で失われると、冷却材喪失事故になる。
事故に至る形はいろいろですが、いちばん典型的に考えられているのは、原子炉に水を入れているいちばん主な冷却水の配管が何らかの原因で大破断(ギロチン破断)した場合です。こういう大口径破断以外に、もっと小さなところで水漏れが起こっても、その水漏れが止まらなければ事故につながります。
現実にはまだ起こっていませんが、未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-32358459371376775862024-03-25T10:36:00.000+09:002024-03-25T10:36:01.445+09:0015. 経済の基本原則では、いいものよりも悪いものに税金を課すほうがよいとされる。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)経済の基本原則では、いいものよりも悪いものに税金を課すほうがよいとされる。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-) 「経済の基本原則では、いいものよりも悪いものに税金を課すほうがよいとされる。仕事(生産的なもの)に税金を課すことに比べたら、汚染(石油会社が石油を流出させて海を汚す場合であろうと、化学会社が有毒な老廃物を生じさせる場合であろうと、金融会社が有害なアセットを作り出す場合であろうと、いずれも悪いものだ)に税金を課すほうがよい。汚染する者は社会のほかの人々に押しつけるコストを負担しない。 水質汚染や大気汚染(温室効果ガスの排出をふくむ)を生み出す人々が自分たちの行動がもたらす社会的コストを支払わないという事実は、経済をゆがませる大きな原因のひとつだ。税金を課すことは、このゆがみを正して、負の外部性を生み出す活動を思いとどまらせ、社会的貢献度の高い分野に財源を移転させるのに未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-23092334880601778472024-03-24T14:56:00.003+09:002024-03-24T14:57:03.769+09:0015.理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならない(マルティン・ブーバー(1878-1965)
理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならない(マルティン・ブーバー(1878-1965)「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-23957770313376567802024-03-24T10:15:00.003+09:002024-03-24T10:16:01.558+09:0020.ストレンジ・シチュエーション法(メアリー・エインズワース(Mary Ainsworth,1989)(ウォルター・ミシェル(1930-2018) ストレンジ・シチュエーション法(メアリー・エインズワース(Mary Ainsworth,1989)(ウォルター・ミシェル(1930-2018)「メアリー・エインズワース(Mary Ainsworth,1989)は、小さな子どもの幼児・親の愛着パターンを検討するために「ストレンジ・シチュエーション法」という研究方法を開発した(例:Ainsworth et al.,1978; Stayton & Ainsworth,1973)。ストレンジ・シチュエーション法は、小さな子どもと主要な養育者との関係における個人差を測定する。 この状況において、子ども(約18カ月)は、主要な養育者であることが想定される母親と、知らない他人とともに、初めてのプレイルームへ連れていかれる。そして、子どもは、母親がいて子どもとかかわっている状態から、母親がいて夢中になっている状態や、母親がいなくなる未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-88718015240743985082024-03-23T15:50:00.002+09:002024-03-23T15:50:58.516+09:0020. 多くの状況で人びとは、感情イデオロギー、感情規則や感情開示規則に同調する自己呈示を維持するために、ホックシールド(1979,1983)が感情労働、つまり感情管理と呼んでいる実務に従事することになる。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)多くの状況で人びとは、感情イデオロギー、感情規則や感情開示規則に同調する自己呈示を維持するために、ホックシールド(1979,1983)が感情労働、つまり感情管理と呼んでいる実務に従事することになる。(ジョナサン・H・ターナー(1942-) 「ホックシールドの分析の要点は、文化の台本がとくに否定的感情を喚起するような行動を人びとに強いると、個人が文化的規則とイデオロギーをどのように処理するかに強い関心を寄せている。たとえば航空会社の旅客機乗務員が、乗客の不作法な行動に遭遇している際に、感情規則と感情開示規則によって指示される望ましい態度をどのように保持するのだろうか。多くの状況で人びとは、感情イデオロギー、感情規則や感情開示規則に同調する自己呈示を維持するために、ホックシールド(1979,1983)が感情労働、つまり感情管理と呼んでいる実務に従事することになる。適切な態度を感じ、またそれを未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-25678403906565154832024-03-18T20:42:00.007+09:002024-03-18T20:52:27.574+09:0014. 世論に影響力を行使する最も効果的な方法のひとつは、政治家をつかまえることだ。なにしろ、政治家は思想を売り込む商人だと言っていい(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)世論に影響力を行使する最も効果的な方法のひとつは、政治家をつかまえることだ。なにしろ、政治家は思想を売り込む商人だと言っていい(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-) 「世論に影響力を行使する最も効果的な方法のひとつは、政治家をつかまえることだ。なにしろ、政治家は思想を売り込む商人だと言っていい(政治家を説得して、自分のものの見かたや認識を取り入れてもらうことには、ふたつの利点がある。政治家はその思想を大衆に売りさばいてくれるだけでなく、法律や規則に変換してくれるのだ)。たいていの場合、政治家が思想を考え出すわけではない。むしろ、学界や一般の知識人、政府内部や非政府組織(NGO)から生まれつつある思想を取り込む。これらの思想のうち、自分たちの世界観に合うものを寄せ集めたり、自分たちの支持者が好むと思われる組み合わせにしたりする。アメリカの金持ちの政治においては、すべての有権者が平等な未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-42234049094640920742024-03-17T10:29:00.002+09:002024-03-17T10:29:50.015+09:0014. 真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立する(マルティン・ブーバー(1878-1965)
真の共同体とは次の二つのこと、すなわち、すべてのひとびとがひとつの生ける中心にたいして生ける相互関係のなかに立つということと、そして彼らどうしがたがいに生ける相互関係のなかに立つということによって成立する(マルティン・ブーバー(1878-1965)
「組織が公的生活を生み出すものでないことは、ますます多くのひとびとが、しかもますます募る苦悩をもって感じ取っている。これが、何とかして活路を見いだそうとする切実な時代的要求の出発点である。感情が個人生活を生み出すものではないということはしかし、ごく少数のひとびとしか、まだ理解していない。むしろ、ここにこそもっとも個人的なものがやどっているようにみえるわけである。そして、近代人はおおむねそうなのだが、やたらに自分自身の感情と関わりあうようになって、そのあげく、感情の非現実性に絶望しても、ひとびとはその絶望によってすら容易には蒙をひらかれる未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-56428702527814663802024-03-14T19:10:00.011+09:002024-03-14T19:25:30.497+09:0019. 感情文化(スティーブン・ゴードン) 感情文化(スティーブン・ゴードン) 「ゴードン(1990)は感情を、(1)身体感覚、(2)表出ジェスチャー、(3)社会状況もしくは社会関係、(4)社会の感情文化によって構成されると見なしている。ゴードンの見解によれば、第一の要素、すなわち身体感覚は文化の台本が誘導する行動に表現される場合にのみ重要である。だから感情を表わす顔面表情、言語表現や身体ジェスチャーは先天的な生物的衝動の結果であるよりも、むしろ他者や状況にどのように反応するかを制約する文化力の産物である。文化力は感情を指示する語彙、人びとが感情について抱いている信念、および人びとが感情をどのように感じるべきかについてと、また感情がいつ、またどのように表現されるべきかの規則においてとくに明白であるとゴードンは論じる。社会メンバーは、すべての感情語彙(感情を表わす単語)、感情信念(たとえば幸せは自由に表現されるべきだが、未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-68288627042945212542024-02-03T13:46:00.003+09:002024-02-03T13:46:55.436+09:0013.組織は、いかに近代的なものであっても、硬化した過去、完了したものを知っているにすぎず、感情は、いかに長続きするものであっても、かすめ過ぎる瞬間を、《まだ存在していないもの》を、くり返し知るにすぎない。どちらも真の生へといたる通路をもっていない。(マルティン・ブーバー(1878-1965)組織は、いかに近代的なものであっても、硬化した過去、完了したものを知っているにすぎず、感情は、いかに長続きするものであっても、かすめ過ぎる瞬間を、《まだ存在していないもの》を、くり返し知るにすぎない。どちらも真の生へといたる通路をもっていない。(マルティン・ブーバー(1878-1965)「経験と利用の機能の向上は、たいていの場合、人間の関係能力の低下と引きかえに起こる。 精神を自分のための享受手段に仕立てあげてしまった人間……このような人間は、自分のまわりに生きている存在といったいどのように関わりあうのであろうか?
このような人間は、《我》と《それ》とを相いへだてる分離の根元語のもとに立って、《共に在る人間》(Mitmensch)との共同生活を判然と区画された二つの管区に、つまり組織と感情とに、《それ》の管区(Es-Revier)と《我》の管区(Ich-Revier)とに分割してしまう未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-11649155174553644942024-01-30T09:50:00.005+09:002024-01-30T09:54:52.083+09:0018. 対人関係の欲求はそれぞれの個人ごとに多様であるが、しかし個人があらゆる状況において適えようとする、より一般的な処理欲求がある。(1)関連する資源の報酬交換の欲求(2)自己確認の欲求(3)知覚を中心に展開する信頼(4)予測可能性(5)間主観性の欲求(6)集団への包摂の欲求がある。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)対人関係の欲求はそれぞれの個人ごとに多様であるが、しかし個人があらゆる状況において適えようとする、より一般的な処理欲求がある。(1)関連する資源の報酬交換の欲求(2)自己確認の欲求(3)知覚を中心に展開する信頼(4)予測可能性(5)間主観性の欲求(6)集団への包摂の欲求がある。(ジョナサン・H・ターナー(1942-) 「もちろん、対人関係の欲求はそれぞれの個人ごとに多様であるが、しかし個人があらゆる状況において適えようとする、より一般的な処理欲求がある(Turner 1987)。こうした処理欲求ははるかに包括的であり、そして特定の個人の具体的また特異な欲求を処理する前にまず実現されなければならない。こうした処理欲求はいくつかの次元に沿って働く。第一に、関連する資源の報酬交換の欲求があり、そしてこうした報酬は状況への費用と投資を超えていなければならない。第二に、個人である自己がその人の自己未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-17781056896658477872024-01-23T21:00:00.008+09:002024-01-23T21:01:57.777+09:0017. 社会構造とは、異なるタイプの位置間の関係と複数の位置にまたがる諸個人の配置であると定義できる。相互作用が順調にすすみ、また適切な感情が活性化するためには、出会いにおいて個人は社会構造のいくつかの特徴に注意を払わなければならない。ジョナサン・H・ターナー(1942-) 社会構造とは、異なるタイプの位置間の関係と複数の位置にまたがる諸個人の配置であると定義できる。相互作用が順調にすすみ、また適切な感情が活性化するためには、出会いにおいて個人は社会構造のいくつかの特徴に注意を払わなければならない。ジョナサン・H・ターナー(1942-)「社会構造とは、異なるタイプの位置間の関係と複数の位置にまたがる諸個人の配置であると定義できる。相互作用が順調にすすみ、また適切な感情が活性化するためには、出会いにおいて個人は社会構造のいくつかの特徴に注意を払わなければならない。第一に、出会いの人口統計学に関しては、(1)現前する人びとの数量、(2)人びとの社会的カテゴリー(たとえば、年齢、ジェンダー、民族)、(3)カテゴリーを異にする人びとの、時間の経過にともなう出会いへの流入と出会いからの流出、そして、(4)空間上における異なるカテゴリーの人びとの分布である。第二に、未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-12845134879620835922024-01-18T11:19:00.012+09:002024-01-18T11:20:57.234+09:0016.文化とは、人間が知識の貯蔵庫に運び入れ、そして人間が出会いにおいて反応を秩序づけるために使用する象徴体系と定義できる。ジョナサン・H・ターナー(1942-)文化とは、人間が知識の貯蔵庫に運び入れ、そして人間が出会いにおいて反応を秩序づけるために使用する象徴体系と定義できる。ジョナサン・H・ターナー(1942-)「文化とは、人間が知識の貯蔵庫に運び入れ、そして人間が出会いにおいて反応を秩序づけるために使用する象徴体系と定義できる。こうした文化的知識の貯蔵庫はいくつかの基本的次元に沿って配列されている。第一に、高度に抽象的で一般的な善悪の基準が自己および他者を評価するために用いられる価値の次元がある。第二に、一般的価値を特定する評価的な指令(自己および他者が特定の状況においていかに行動すべきか、またしなければならないかということに関する指令)に変換する信念とイデオロギーの次元がある。第三に、いくつかの領域に沿う規範の次元がある。(1)一定タイプ(たとえば、職業、遊戯、社交、家族など)の活動のために適当な行動の輪郭を指示する制度規範、(2)特定の未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-2042062135298197762024-01-14T09:41:00.003+09:002024-01-14T09:42:14.698+09:0015. 人間はすべての出会いにおいて文化的制約、地位のネットワークとこれらの地位の占有者の性質、そしてすべての出会いにおける他者の処理欲求を理解できるよう偏向させられている。われわれの脳はこうした情報を探索している。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)人間はすべての出会いにおいて文化的制約、地位のネットワークとこれらの地位の占有者の性質、そしてすべての出会いにおける他者の処理欲求を理解できるよう偏向させられている。われわれの脳はこうした情報を探索している。(ジョナサン・H・ターナー(1942-) 「これらすべての諸力――文化的、構造的、および対人関係的――には、固く配線された基盤があるとわたしは確信している。どの出会いにおいても、人間は文化、構造、そして処理欲求(自らのそれであれ、他者のそれであれ)に注意を向けるよう偏向させられている。なぜなら、これらは対面的相互作用を継続させるからである。妥当な文化的象徴、社会構造的人口統計学についての理解、そして処理欲求を適えることに関して不一致があるならば、相互作用はほどなく不統合になり、そして怒り、恐れ、悲しみなどの離反的感情を喚起するかもしれない。こうした諸力に関する合意、あるいは少なくとも未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-27236155034301476492024-01-11T09:26:00.003+09:002024-01-11T09:28:44.835+09:0014. 自己制御のできる動物は絶えず監視また裁可される必要のない動物である。なぜなら、こうした動物は自己監視と自己裁可を行うことができるからである。こうした自己監視と自己裁可は自己に向う特定種類の感情を動員する能力を考えることによってはじめて可能である。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))自己制御のできる動物は絶えず監視また裁可される必要のない動物である。なぜなら、こうした動物は自己監視と自己裁可を行うことができるからである。こうした自己監視と自己裁可は自己に向う特定種類の感情を動員する能力を考えることによってはじめて可能である。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)) 「人間に特有な能力の一つは、自分をある状況において対象とみなすだけでなく、ある一定種類の存在としての持続的な概念化と自らのアイデンティティを自らの内面にもちつづけうる力である。自己言及活動(self-referential behavior)を行うことができるという人間の能力は、相互作用に新たな次元を付け加えるが、この能力は人間の感情装置を抜きにしては成り立たない。確かに、一定水準の新皮質の発達が自己の中程度の期間にわたる記憶保持にとっての基本であるが、しかし自己認知は古生的な皮質下辺縁系の過程に起因未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-47670414052963216312024-01-02T20:14:00.004+09:002024-01-03T09:48:08.315+09:0013.選択は、辺縁系の拡張と感情呈示の新皮質による調整を強化した。行動水準においては、その証拠は明白である。儀礼化された開始、修正、および出会いの終了、意味を伝達するための身体の位置取りと顔の表情、そして感情状態を伝えるための顔の表情と声の抑揚に大きく頼っていることなどである。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))選択は、辺縁系の拡張と感情呈示の新皮質による調整を強化した。行動水準においては、その証拠は明白である。儀礼化された開始、修正、および出会いの終了、意味を伝達するための身体の位置取りと顔の表情、そして感情状態を伝えるための顔の表情と声の抑揚に大きく頼っていることなどである。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)) 「選択が神経学的水準において、脳にどのように働いたかをある程度知ることができる。つまり、辺縁系の拡張と感情呈示の新皮質による調整の強化である。行動水準においては、その証拠や人間が相互作用するときはいつでも、またすべての相互作用においてそれは明白である。儀礼化された開始、修正、および出会いの終了、意味を伝達するための身体の位置取りと顔の表情、そして感情状態を伝えるための顔の表情と声の抑揚に大きく頼っていることなどである。これらの信号のいずれかが失われ、あるいは不適当なやり方で生産未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-68528951323728111182023-12-28T11:13:00.003+09:002023-12-28T11:13:53.022+09:0012.意識的情動の性質は皮質下と皮質の水準における視床経由による辺縁系への現在の刺激と、過去に指標を与えられ、表象された記憶を、適当な感覚皮質と身体系を活性化するコード化された指示の集合として海馬による再刺激と組み合わされた複雑な混合物である。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)) 意識的情動の性質は皮質下と皮質の水準における視床経由による辺縁系への現在の刺激と、過去に指標を与えられ、表象された記憶を、適当な感覚皮質と身体系を活性化するコード化された指示の集合として海馬による再刺激と組み合わされた複雑な混合物である。(ジョナサン・H・ターナー(1942-)) 「記憶は、海馬を介して記号化された指令を遷移性皮質と前頭葉から引きだすことに関係し、そして次に、それを適当な感覚皮質に放出する。したがって、記憶の想起は、新皮質に貯蔵されすでにできあがった、また完全に発達した画像もしくはイメージを引きだすことに関係しているのではなく、むしろ、これは新皮質に、あるいはより中間的に遷移性皮質に貯蔵されている、急場しのぎの伝達法、記号化された指令の活性化をともなっている。遷移性皮質は、記憶に記号化された経験を大ざっぱな形で再生産するために、感覚皮質と適切な身体系を再活性化未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-59419016581919772252023-12-23T10:57:00.006+09:002023-12-28T13:42:07.410+09:0011,意識はほとんどいつも辺縁系――辺縁系から直接に、あるいは辺縁系からの感情的入力をもって視床下部によって過去に付け加えられた中間的ならびに長期的記憶を介して間接に――からの入力情報と関係している。ジョナサン・H・ターナー(1942-) 意識はほとんどいつも辺縁系――辺縁系から直接に、あるいは辺縁系からの感情的入力をもって視床下部によって過去に付け加えられた中間的ならびに長期的記憶を介して間接に――からの入力情報と関係している。ジョナサン・H・ターナー(1942-) 「意識に関係する脳の重要な構造は前頭前皮質であり、これが事実上、脳のすべての部位――新皮質、辺縁系、および他の皮質下系――と連動している(MacLean 1990,Damasio 1994)。刺激の意識化は感覚の様相――視覚、聴覚、嗅覚、触覚――を通じて入力情報を受け取り、そして次に、視床の特化した感覚領野へとすすむ。そしてそこから、感覚入力は皮質下辺縁系および新皮質の適当な脳葉の両方――すなわち、視覚は後頭、聴覚は側頭、触覚は頭頂、臭いは嗅球――に移動する(後者は直接にさまざまな辺縁系、とくに扁頭体を収容している皮質下領野に伝えることに注意を払未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-59487612621008809672023-12-15T17:40:00.001+09:002023-12-20T19:28:58.585+09:0010.人間は精神分析理論が示唆しているほどに感情反応を抑制することに関わっていないということである。むしろ人間は皮質下に貯蔵されている感情記憶を意識していない。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))人間は精神分析理論が示唆しているほどに感情反応を抑制することに関わっていないということである。むしろ人間は皮質下に貯蔵されている感情記憶を意識していない。(ジョナサン・H・ターナー(1942-))「感情記憶システムの存在は、ある人によって表現され、他者によって読まれる感情信号が、その人の意識的思考から取り外されたままであることを確証している(Bowers and Mechenbaum 1984)。それは意識的情動(feeling)でなく、感情(emotion)であろう。ここでもまた、こうした無意識の感情記憶が多くの点で意識的な記憶よりも役割取得にとってはるかに基本的であることが想定されている。事実、もし他人から、今ある感情反応が起きていることがわかると言われたら、あるいはもし身体的なフィードバックが感情的実感として意識に浸透していくほどに強かったら、その人が一定の感情(emotion)を未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-87056727866700770192023-05-29T10:46:00.000+09:002023-05-29T10:46:11.955+09:00言語ゲームは、一つの活動ないし生活様式の一部であり、無数の異なった種類がある。新しいタイプの言語ゲームが発生し、他のものがすたれ、忘れられていく。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))言語ゲームは生活様式の一部言語ゲームは、一つの活動ないし生活様式の一部であり、無数の異なった種類がある。新しいタイプの言語ゲームが発生し、他のものがすたれ、忘れられていく。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))(a)記号、語句、文を使ったあらゆる活動を含む。(b)もちろん、数学のあらゆる分野も、言語ゲームの一種である。(c)命令、記述、構成、報告、推測、仮説、検証、表や図による表現、物語の創作、演劇、輪唱する、謎をとく、冗談、噂、算術、翻訳、乞う、感謝する、ののしる、挨拶する、祈る。「二三 しかし、文章にはどのくらい種類があるのか。陳述文、疑問文、それに命令文といった種類だろうか。―――そのような種類なら無数にある。すなわち、われわれが「記号」「語句」「文章」と呼んでいるものすべての使いかたには、無数の異なった種類がある。しかも、こうした多様さは、固定したものでも未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-36191215408572797842023-05-28T15:59:00.000+09:002023-05-28T15:59:19.173+09:00言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態の研究である。我々が真偽の問題、肯定、仮定、問の本性の問題などを研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))言語ゲーム( language game ) 言語ゲームの研究は、言語の原初的な形態の研究である。我々が真偽の問題、肯定、仮定、問の本性の問題などを研究しようとするなら、言語の原初的形態に目を向けるのが非常に有利である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))「思考とは本質的には記号を操作することだと言うとき、君の最初の質問は、「では記号とは何か」であるかもしれない。―――この質問に何らかの一般的な答をする代りに、「記号を操作する」と言いうる具体的ケースのあれこれを君に注意深く観察することを求めたい。言葉[という記号]を操作する簡単な一例をみてみよう。私が誰かに「八百屋からリンゴを六つ買ってきてくれ」と命じる。このような命令を[実地に]果たす仕方の一つを描写してみよう。「リンゴ六つ」という字句が紙切れに書かれていて、その紙が八百屋に手渡される、八百屋は「リンゴ」という未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-57637679062113194512023-05-28T13:15:00.011+09:002023-05-28T13:31:45.271+09:00考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在するわけではない。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))表現する過程 考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在するわけではない。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))「そこでの私の意図のすべては、考える、希望する、願う、信じる等々の心的過程と呼ばれるものが、思想、希望、願望等々を表現する過程とは独立に存在しなければ《ならぬ》と考える誘惑を取除くことであった。 諸君に要領を一つ教えたい。君が、思考、信念、知識等の本性に困惑している場合には、思想の代りに思想の表現を置き換えてみること。この置き換えで厄介なところ、同時にまたそれがこの置き換えの狙いでもあるが、それは信念や思想その他の表現は或る文(センテンス)に過ぎないということである。―――その文は或る言語体系に属するものとしてのみ、すなわち或る記号系の中の一つの表現としてのみ、意味を持ちうる未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-36830207147636941812023-05-28T09:34:00.093+09:002023-05-28T13:13:00.171+09:00思想を表現する行為とは別に、表現されるべき何らかの思想の実体があると考えるのは誤りである。表現する行為が思考経験そのものである場合もあれば、表現する行為にイメージや感情を伴う思考経験もあるだけである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))思考とは表現する行為そのもの 思想を表現する行為とは別に、表現されるべき何らかの思想の実体があると考えるのは誤りである。表現する行為が思考経験そのものである場合もあれば、表現する行為にイメージや感情を伴う思考経験もあるだけである。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))(a)「明日は多分雨だろう」と言い、またその通りを意味してみる。(b)声にも出さず、内語もしないで、「明日は多分雨だろう」と考えることができるか。(c)少なくとも、考えること抜きで話すことはできないだろうか。もちろんできる。(d)掛算 7 × 5 = 35 を言うと共に、それを考える。(e)今度は、考えることなしに言ってみる。「次の実験をしてみ給え。或る文、例えば、「明日は多分雨だろう」と言い、またその通りを意味してみる。つぎに、同じことを考え、今意味したことをもう一度意味してみる、しかし今度は何も言わ未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-6876495896294226882023-05-27T16:26:00.012+09:002023-05-27T16:30:04.340+09:00思考は、本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))思考とは記号操作思考は、本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))「こうして、思考を「心の働き」として語るのは誤解を招きやすい。思考は本質的には記号を操作する働きだと言えよう。この働きは、書くことで考えている場合には、手によってなされる。話すことで考えている場合には、口と喉によってなされる。だが、記号や絵を想像することで考えている場合には、考えている主体を与えることができない。その場合には心が考えているのだ、と言われれば、私はただ、君は隠喩を使っている、[君の言い方で]心が主体であるのは、書く場合の主体は手だと言える場合とは違った意味である、ということに注意を向けてもらうだけだ。 更にもし、思考がおこな未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-43429619061040129702023-05-27T14:15:00.072+09:002023-05-27T15:04:37.213+09:00記号の意味が、記号に付随するイメージや模型に関係するにしても、それらの集合体自体は「生きておらず」依然として記号のままである。意味は、記号の使用であり、記号は、その意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。文を理解することは言語を理解することである。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))記号の意味とは何か 記号の意味が、記号に付随するイメージや模型に関係するにしても、それらの集合体自体は「生きておらず」依然として記号のままである。意味は、記号の使用であり、記号は、その意義を記号の体系、すなわちその記号の属する言語から得ている。文を理解することは言語を理解することである。 (ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))「しかし、記号の生命であるものを名指せと言われれば、それは記号の使用( use )であると言うべきであろう。 仮に記号の意味(簡単に言えば、記号で大切なもの)が、記号を見聞きするとき我々の心の中に作り上げられるイメージであるとしても、先に述べたやり方で、この心的イメージを我々の眼に見える外的事物、例えば描かれたイメージ[つまり画]や模造されたイメージ[つまり模型]で置き換えてみよう。すると、書かれている[無機的な]記号が未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.comtag:blogger.com,1999:blog-5675954576454240011.post-47154542802774776782023-05-27T11:06:00.037+09:002023-05-27T12:38:03.953+09:00思考過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみる。絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換える。また、内語は、声を出して喋ることや書くことで置き換える。すると、思考過程の神秘的な外見のの一部が明確になる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))思考過程を可視化する 思考過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみる。絵や図を描くこと、または模型を作ること、で置き換える。また、内語は、声を出して喋ることや書くことで置き換える。すると、思考過程の神秘的な外見のの一部が明確になる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))「思考過程のこの神秘的な外見の少なくとも一部を避ける方法がある。それは、これらの過程の中の想像の働きをすべて、現実のものを目で見る行為で置き換えてみるのである。例えば、「赤」という語を聞いて理解するときに、少なくともある種の場合には、心眼の前に赤いイメージがあることが不可欠のように思えよう。だが、赤の斑点を想像することを、赤い紙切れを見ることで置き換えてもいいではないか。[違いは]目で見る[赤紙の]像(イメージ)の方がずっと生き生きしていようだけのことである。色名が色斑と未来のための哲学講座 命題集http://www.blogger.com/profile/05032842311703437006noreply@blogger.com