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2018年12月7日金曜日

「無限」という概念は、「可能」という概念についてのより詳細な規定である。可能性は、論理的可能性、即ち記述の可能性であり、事実的経験に関わる必要がない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

無限

【「無限」という概念は、「可能」という概念についてのより詳細な規定である。可能性は、論理的可能性、即ち記述の可能性であり、事実的経験に関わる必要がない。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
 「かくして「無限」という概念は、「可能」という概念についてのより詳細な規定なのである。無限な可能性は、それ自身、《言語の無限な可能性》として現われるのである。それは、無限についての言明は意味を持っている、といった事の中に現われるのではない。何故なら、そのような言明は存在しないのであるから。無限な可能性は無限なるものの可能性を意味してはいない。「無限」という語は、可能性を特徴づけるのであり、現実性を特徴づけるのではないのである。
 線分の無限分割可能性は、或る純粋に論理的なるものである。《この》可能性が経験から発生し得ないことは、全く明らかではないか。
 空間と時間の無限分割可能性、連続性―――これら全ては仮説ではない。それらは、記述の可能な形式についての洞察なのである。
 我々は経験から、空間と時間は或る不連続な構造を持っている、と教えられることはあり得ないのか。もし我々が棒を次々と分割して行き、物理的な理由で限界にぶつかるとすれば、このことは、ある命題によって記述せられる経験的事実である。しかしこの場合、その命題の否定命題もまた意味を持たねばならない。そしてこの事は、更に進んだ分割についての可能的経験もまた我々は記述できねばならないのだ、という事を意味している。事実、分子の仮説は、もしそれが意味を有するならば、この更に進んだ分割の可能性を前提しているのである。ここにおいて人は、空間の無限分割可能性は事実に関わることではないのだ、という事を知るのである。我々がここで必要とする可能性は、《論理的》可能性、即ち記述の可能性なのであり、そしてそれは事実的経験に関わる必要がないのである。
 明らかに我々はここにおいては、仮説を問題にしているのではなく、仮説の設定を可能にするところのものを問題にしているのである。
 もちろん我々は、分割可能性に論理的限界を引くことは出来る。しかしそれは、我々は我々の表現の構文法を変えるのだ、という事を意味するのである。もちろんこの事は、我々は、或る経験を前もって排除するという事ではなく、その経験をその記号法によって表現することを断念するという事なのである。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』付録A 無限について、全集5、pp.331-332、黒崎宏)
(索引:無限)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)
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2018年12月2日日曜日

例えば、部屋の表面を方程式によって解析的に記述し、そしてその面に色の配分を指示するというように記述したならば、フレーゲの記号、意義、意味(対象)の理論は、どのように答えるだろうか。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

ある一つの「部屋」の記述

【例えば、部屋の表面を方程式によって解析的に記述し、そしてその面に色の配分を指示するというように記述したならば、フレーゲの記号、意義、意味(対象)の理論は、どのように答えるだろうか。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
 「フレーゲとラッセルが対象について語ったとき、彼らは名詞によって言語的に表わされるものを、常に念頭においていた。それゆえ我々は対象について語るとき、それを椅子や机のように語るのである。対象についての完全な把握は、それゆえ、命題の主語-述語形式と密接に関係しているのである。主語-述語形式の存在しない所では、人はこの意味では対象について語ることは出来ない、ということは明らかである。さて、私は部屋を全く別様にも記述することが出来る。それは例えば、部屋の表面を方程式によって解析的に記述し、そしてその面に色の配分を指示する、という様にである。この記述様式においては、もはや個々の「対象」については、即ち椅子、本、机、そしてそれらの空間的配置については、何も語られてはいないのである。それゆえここにおいては、関係は存在しない。そのようなものは一切存在しないのである。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』一九二九年十二月二二日 日曜日(シュリック宅にて)、全集5、p.56、黒崎宏)
(索引:部屋の記述)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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