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2018年7月20日金曜日

概念記法の目的と手法:隙間のない推論連鎖を、簡潔に見通しよく形式的に確保できるように、「計算のように少数の固定した形式のうちを動く」ような記法を考案すること。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

概念記法

【概念記法の目的と手法:隙間のない推論連鎖を、簡潔に見通しよく形式的に確保できるように、「計算のように少数の固定した形式のうちを動く」ような記法を考案すること。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(c)すべての数学的証明を、(b)のみから隙間のない推論連鎖により導くこと。
概念記法の目的と手法。
 (1)設定された規則に合致しない推論の移行が混入しないように、一歩ずつ前進してゆくのは非常に手間がかかり、しかも推論式が、途方もない長さになりかねない。この困難を軽減するのが目的である。
 (2)複雑で長い推論の表現を簡潔にして、見通しやすくなるようにする。
 (3)「計算のように少数の固定した形式のうちを動くことによって」、隙間のない推論連鎖をたどることが、自動的に確保されるようにする。

(再掲)
概念記法の必要性。
(a)数学における推論に混乱が見られる。
 (1)推論様式が、極めて多様に見える。
 (2)非常に複雑な推論様式が、複数の単純な推論と等価なことがある。
 (3)推論が「正しいと納得」できれば、それでよしとする。
 (4)その結果、論理的なものと直感的なものが混在する。
 (5)その結果、推論されたものを、総合的な真理であると勘違いする。
 (6)不明確なまま、直感から何かが流入することがある。
 (7)ときには、推論に飛躍がある。
(b)(a)から、次のものを抽出すること。
 (1)純粋に論理的と承認された、少数の推論様式
 (2)直感に基づく総合的な公理
(c)すべての数学的証明を、(b)のみから隙間のない推論連鎖により導くこと。

 「したがって、推論における一切の飛躍を避けよ、という要求は拒否しえない。この要求をかくも満たし難いのは、一歩ずつ前進することに手間がかかるためである。どの証明も多少複雑になっただけで、途方もない長さになりかねない。それに加えてさらに、日常言語で形作られる論理形式があまりにも多様なため、すべての場合に十分で、また容易に見渡せる推論様式の範囲が画定し難いのである。
 これらの障害を軽減するために、私は概念記法を考案した。私の概念記法というのは、表現をずっと簡潔にして、見通しやすくすることを目指すものであり、そして、計算のように少数の固定した形式のうちを動くことによって、確たる仕方で設定された規則に合致しない移行は許さないようにするものである。そのときには、証明根拠が知らぬ間に忍び込むということはありえない。私はこうしたやり方で、一瞥した際には総合的と思えるような命題を、直感から公理を借用せずに証明した。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『算術の基礎』第九一節、フレーゲ著作集2、pp.154-155、三平正明・土屋俊・野本和幸)
(索引:概念記法)

フレーゲ著作集〈2〉算術の基礎


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年7月19日木曜日

概念記法の必要性について。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

概念記法の必要性

【概念記法の必要性について。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
概念記法の必要性。
(a)数学における推論に混乱が見られる。
 (1)推論様式が、極めて多様に見える。
 (2)非常に複雑な推論様式が、複数の単純な推論と等価なことがある。
 (3)推論が「正しいと納得」できれば、それでよしとする。
 (4)その結果、論理的なものと直感的なものが混在する。
 (5)その結果、推論されたものを、総合的な真理であると勘違いする。
 (6)不明確なまま、直感から何かが流入することがある。
 (7)ときには、推論に飛躍がある。
(b)(a)から、次のものを抽出すること。
 (1)純粋に論理的と承認された、少数の推論様式
 (2)直感に基づく総合的な公理
(c)すべての数学的証明を、(b)のみから隙間のない推論連鎖により導くこと。

 「すなわち、純粋に論理的と承認された、少数の推論様式の一つに従わない歩みは決してなされない、というほどに隙間のない推論連鎖である。今に至るまで、このように証明が行なわれたことはほとんどなかった。なぜなら、数学者は、新たな判断への移行がどれも正しいと納得すればそれで満足し、論理的であれ直感的であれ、こうした納得の本性を問わないからである。一つのこのような前進が[実は]しばしば非常に複雑であり、複数の単純な推論と等価である。さらには、そうした推論に加えて、直感から何かが流入することもありうる。前進は飛躍のような仕方でなされており、そしてこのことから、数学において推論様式が極めて多様に見えるという事態が生じている。なぜなら、飛躍が大きくなればなるほど、それによって代行される、単純な推論と直感の公理との組合わせがますます多様になりうるからである。それにもかかわらず、このような移行はしばしば我々にとって直接に納得が行き、その中間段階は我々の意識に上らない。そして、その移行が承認済みの論理的推論様式の一つとして明らかにならないのだから、我々はすぐにこうした納得を直感的、そして推論された真理を総合的と見なす気になる。しかも、その妥当領域が直感可能なものを明らかに超える場合でさえ、そうなのである。
 こうしたやり方では、直感に基づく総合的なものを、分析的なものから明確に区別するのは不可能である。また、それによっては、直感の公理を確実に余す所なく集成して、すべての数学的証明をこれらの公理のみから推論法則に従って実行可能にするということにも、成功しないのである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『算術の基礎』第九〇節、フレーゲ著作集2、pp.153-154、三平正明・土屋俊・野本和幸)
(索引:概念記法の必要性)

フレーゲ著作集〈2〉算術の基礎


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年7月18日水曜日

命題の意味が真理値であることの理由。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

命題の意味が真理値であることの理由

【命題の意味が真理値であることの理由。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
(a) 命題の意味とは、同じ意味を持つ語の置き換えでも変化しないようなものである。
(b) 命題を構成する語の一部を、意味を持たない固有名で置き換えると、命題から失われるものがある。真理値(真偽)である。
(c) 命題の意味を、真理値(真偽)と考えれば、(a)が成立し、また(b)は次のようになる。
(b')命題を構成する語の一部を、意味を持たない固有名で置き換えると、命題の意味が失われる。
また、
(d) 命題が意味を持つためには、命題を構成する全ての固有名が意味を持つ必要がある。

(再掲)
命題  → 命題の意義  → 命題の意味
      (思想)     (真理値)
固有名 → 固有名の意義 → 固有名の意味
                (対象)
概念語 → 概念語の意義 → 概念語の意味
                (概念)
                 ↓
               当の概念に包摂
               される対象

 記号 → 一つの意義 → 一つの意味              =一つの対象

 記号 → 一つの意義 →(意味がない場合)


 「以上の考察においては、意義と意味を、我々が固有名と名づけたさまざまな表現、さまざまな語、さまざまな記号について考察してきた。さて次に我々は、主張文(Behauptungssatz)全体の意義と意味について問題にしたい。そのような文には、一つの思想(Gedanke)が含まれている。では、この思想というものは文の意義と見なされるべきであろうか、それとも文の意味と見なされるべきであろうか。さしあたって、文が意味をもつことを仮定しよう。さて、その文の中の一つの語を、それと同じ意味をもちながら意義は異なる別の語によって置き換えよう。この場合、このような操作は文の意味に対しては何の影響も与ええない。ところが、そのような場合、思想は変化するということを我々は知っている。なぜならば、例えば、「明けの明星は、太陽によって照らされる天体である」という文の思想は、「宵の明星は、太陽によって照らされる天体である」という文の思想と異なるからである。宵の明星が明けの明星であることを知らない人は、一方の思想を真として、他方の思想を偽とすることがありうる。したがって、思想は文の意味ではない。我々としては、むしろ、それを意義と見なすべきであろう。しかし、文の意味はいかなるものであろうか。そもそも、そのようなことを問題にする必要があるだろうか。ことによると、一つの文は全体として意義はもつが、意味はもたないということではないだろうか。少なくとも我々は、意義はもつが意味はもたない文成分(Satzteil)があるのと同様に、文全体についてもそのようなことが生ずるということを当然と考えることが可能である。そして、意味をもたない固有名をふくむ文はその種の文となるであろう。例えば、「オデュッセウスは深くねむったまま、イタカの砂浜におろし置かれた」は明らかに意義をもっているが、そこに現われる「オデュッセウス」という名が意味をもつかどうかは疑わしいので、この文が意味をもつかどうかということも同時に疑わしい。しかしながら、本気でその文を真であるとか、あるいは偽であると見なす人が「オデュッセウス」という名前に対して意義のみならず意味さえも認めているということを疑うことはできない。この名前の意味には、述語の成立の是非がかかっているからである。一つの意味を認めないひとは、それについて述語が成立するか否かということに関して語ることはできない。いずれにせよ、ここで名前の意味にまで拘泥することは余計なことであるかもしれない。なぜならば、思想の段階にとどまりたいかぎり、意義のみで十分であるからである。すなわち、文の意義、つまり思想だけが問題になっているのであれば、文成分の意味まで考慮する必要はないであろう。なぜならば、文の意義を考えるときには、文成分の意味ではなく、その意義のみが考察の対象となりうるからである。実際、「オデュッセウス」という名前が意味を持つか否かにかかわらず、その文の思想は同一のままである。いずれにせよ文成分の意味を求めて努力するということは、文そのものに対してもまた一般的に意味を認め、それを求めていることの証である。思想というものは、その思想の諸部分の一つが意味を欠いていると我々が知るときただちにその価値を失う。したがって、我々が文の意義に満足することなく、文の意味が何であるかを問題にするということは正当なことであろう。しかし、そもそも我々が固有名の一つ一つに意義のみならず意味もあるということをなぜ期待するのであろうか。なぜ思想だけでは満足しないのであろうか。それは、我々にとって思想の真理値が問題になるからであり、また、その限りにおいてである。しかし、真理値を常に問題にしているのではない。例えば、叙事詩に耳を傾けるとき、我々を動かすものは、言語の心持よい響きを別にすれば、文の意義とそれによって惹き起される表象と感情だけである。それに対して、真理を問題にするならば、芸術の楽しみを去って学問的考察へと向かうのである。これゆえに、例のホメロスの韻文を芸術作品として理解している限りは、例えば「オデュッセウス」という名が意味をもつか否かということはどうでもよいことですらある。したがって、真理の追求は常に我々が意義から意味へ進むことを促すものなのである。
 以上で見たように、構成部分の意味が問題になるときは、常に、文に対して意味が求められる。そして、このことは真理値を求めるときは常に、そしてそのときに限ってのことである。このように考えるならば、我々としては、文の真理値をその文の意味として認めざるをえなくなるであろう。文の真理値とは、その文が真であったり、偽であったりするという事情(Umstand)である。それ以外の真理値はない。簡単にするために私は、一方を真(das Wahre)、他方を偽(das Falsche)と名づける。したがって、語の意味が問題となるすべての主張文は、固有名として理解すべきである。つまり、その意味は、それがあるとすれば真か偽かのいずれかであるということになる。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』32-34、フレーゲ著作集4、pp.78-80、土屋俊)
(索引:文の意義,思想,文の意味)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年7月16日月曜日

語、表現、文全体を相互に区別する三つの段階:(1)たかだか表象に関わる区分、(2)意義に関わる区分、(3)意味に関わる区分。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

表象、意義、意味の区分

【語、表現、文全体を相互に区別する三つの段階:(1)たかだか表象に関わる区分、(2)意義に関わる区分、(3)意味に関わる区分。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
さまざまな語、表現、文全体を相互に区別する三つの段階がある。
(1)意味と意義は同じで、たかだか表象に関わる区分
 ・翻訳を原文と区別するものは、本来、この第一の段階を超えるものではありえない。
 ・また、作詩法や雄弁術が意義に対して付加する色合いと陰影は、この段階のものである。
(2)意味は同じだが、意義に関わる区分
(3)意味が異なり、意味に関わる区分

(再掲)
(a)記号の意義、意味と、記号に結合する表象
 記号─→一つの意義─→一つの意味
 │         (一つの対象)
 └記号に結合する表象
  ├記号の意味が感覚的に知覚可能な対象のときは
  │ 私が持っていたその対象の感覚的印象
  └対象に関連して私が遂行した内的、外的な行為
    から生成する内的な像
(b)記号に結合する表象の特徴
 ・像には、しばしば感情が浸透している。
 ・明瞭さは千差万別であり、移ろいやすい。
 ・同一の人物においてすら、同一の表象が同一の意義に結び付いているとは限らない。
 ・一人の人物が持つ表象は、他の人物の表象ではない。

 「かくして、我々は、さまざまな語、表現、文全体を相互に区別する三つの段階を認めることができる。その区分は、たかだか表象に関わる区分であるか、意義には関わるが意味には関わらない区分であるか、あるいは、結局意味にも関わる区分であるかのいずれかである。第一の段階に関しては、表象が語に結合する様態が不確定的であるゆえに、他人には知られることのない差違が一人の人にとって存在しうるという点を指摘することができる。翻訳を原文と区別するものは、本来、この第一の段階を超えるものではありえない。また、この段階で可能なさらに別の区分としては、色合い(Färbung)と陰影(Beleuchtung)という区分もある。これらは、作詩法や雄弁術が意義に対して付加するものである。この色合いと陰影とは客観的なものではなく、したがって、聞き手と読者が詩人または弁士の与える手がかりに従いつつ自ら作り出して、付加するものである。もちろん人間の表象作用が親和的でないかぎり、芸術は不可能であろうが、しかし、詩人の意図にいかなる程度まで合致しているかということを正確に指摘することはほとんど不可能である。
 以下において表象と直感に関して論ずることはしない。以上でこの問題に関してあえて論じたのは、一つの語が聞き手において惹き起す表象が、その語の意義やその語の意味と混同されることを防ぐという目的のためである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』30-31、フレーゲ著作集4、p.77、土屋俊)
(索引:作詩法,雄弁術)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年7月15日日曜日

思考を構成する言語と文法は、論理的なものと、表象や感情など心理的なものとの混合体である。これは、複数の異なる言語の比較から明確になる。また、純粋に論理的な形式言語や概念記法の有益性も教える。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

論理的なものと心理的なものの混合体

【思考を構成する言語と文法は、論理的なものと、表象や感情など心理的なものとの混合体である。これは、複数の異なる言語の比較から明確になる。また、純粋に論理的な形式言語や概念記法の有益性も教える。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1) 我々は、ある特定の言語で考えている。
 (1.1) 思考には、表象及び感情と混ざり合っている。
 (1.2) 我々には、表象なしで思考するということは、明らかに不可能である。
(2) 文法とは、何か。
 (2.1) 文法は、論理が判断に対するのと類比的な重要性を、言語に対して持っている。
 (2.2) 文法は、論理的なものと心理学的なものとの混合体である。
(3) 論理学は、文法から論理的なものを純粋に取り出すことを課題とする。
 (3.1) 我々は、同じ思想を様々な言語で表現することができるが、異なる言語には、異なる心理学的な装飾が、しばしば纏わりついている。
 (3.2) 外国語を習うことは、言語の違いによる心理学的な装飾を理解させるとともに、純粋に論理的なものの把握にも役に立つ。
 (3.3) 私が提案した数学における形式言語や、概念記法のような根本的に違った方法で、純粋に論理的な方法で思想を表現することができるなら、有益であろう。

(再掲)
(a)記号の意義、意味と、記号に結合する表象
 記号─→一つの意義─→一つの意味
 │         (一つの対象)
 └記号に結合する表象
  ├記号の意味が感覚的に知覚可能な対象のときは
  │ 私が持っていたその対象の感覚的印象
  └対象に関連して私が遂行した内的、外的な行為
    から生成する内的な像
(b)記号に結合する表象の特徴
 ・像には、しばしば感情が浸透している。
 ・明瞭さは千差万別であり、移ろいやすい。
 ・同一の人物においてすら、同一の表象が同一の意義に結び付いているとは限らない。
 ・一人の人物が持つ表象は、他の人物の表象ではない。

 「元来人間にとって、思考は表象及び感情と混ざり合っている。論理学は、論理的なものを純粋に取り出すことを課題とするが、しかし、もちろんだからといって我々が表象なしで思考するということ―――これは明らかに不可能である―――にはならない。我々は意識的に論理的なものと、論理的なものに観念や感情というかたちでで結び付いているものとを区別しなければならないのである。ここには、我々がある言語で考えているという困難、ならびに、文法―――それは論理が判断に対するのと類比的な重要性を言語に対して持っている―――が論理的なものと心理学的なものとの混合体であるという困難が存在する。もし、そうでないとするならば、すべての言語は必然的に同じ文法を持つことになろう。確かに我々は同じ思想を様々な言語で表現することができるが、しかし、心理学的な装飾、思想の衣服は異なることがしばしばある。外国語を習うことが論理的な教育として役立つ理由はここにある。同じ思想を異なった言語で表わせることを知ることで、どのような言語においても外皮と有機的に結び付いている言語の芯と、その外皮とを区別することがよりよくできるようになるのである。このようにして言語の間の違いが、論理的なものの把握に役に立つ。だが、それでもなお、困難が完全に取り除かれるわけではないし、論理学の本は、厳密に言えば論理とは関係のない数多くの事柄―――例えば、主語ー述語―――を相も変わらず持ち出している。それゆえ、算術における形式言語や私の提案した概念記法のような、根本的に違った方法で思想を表現することに慣れることも有益なのである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学[二]』154、フレーゲ著作集4、p.139、関口浩喜・大辻正晴)
(索引:言語,文法,論理学,思考,表象,感情,概念記法,形式言語)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年7月13日金曜日

記号の意義、意味とは別に、記号に結合する表象がある。それは、対象の感覚的印象や、しばしば感情が浸透している内的、外的な行為の内的な像であり、個人ごとに異なり、移ろいやすい。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号に結合する表象

【記号の意義、意味とは別に、記号に結合する表象がある。それは、対象の感覚的印象や、しばしば感情が浸透している内的、外的な行為の内的な像であり、個人ごとに異なり、移ろいやすい。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
(1)記号の意義、意味と、記号に結合する表象
 記号─→一つの意義─→一つの意味
 │         (一つの対象)
 └記号に結合する表象
  ├記号の意味が感覚的に知覚可能な対象のときは
  │ 私が持っていたその対象の感覚的印象
  └対象に関連して私が遂行した内的、外的な行為
    から生成する内的な像
(2)記号に結合する表象の特徴
 ・像には、しばしば感情が浸透している。
 ・明瞭さは千差万別であり、移ろいやすい。
 ・同一の人物においてすら、同一の表象が同一の意義に結び付いているとは限らない。
 ・一人の人物が持つ表象は、他の人物の表象ではない。

(再掲)
記号、意義、意味の間の関係(1)

 記号 → 一つの意義 → 一つの意味              =一つの対象
 記号 → 一つの意義 →(意味がない場合)
 ※上記の関係が成立するには、文脈の指定が必要になることがある。

記号、意義、意味の間の関係(2)

 一つの対象─┬→意義a →表現a1、表現a2、表現a3、……
=一つの意味 ├→意義b →表現b1、表現b2、表現b3、……
       └→意義c →表現c1、表現c2、表現c3、……

 「一つの記号の意味とも区別されるべきであり、また、その記号の意義とも区別されるべきであるのは、その記号に結合する表象(Vorstellung)である。記号の意味が感覚的に知覚可能な対象であるならば、その対象について私が持つ表象は、私が持っていた感覚的印象を想起することと私が遂行した内的ないし外的な行為とから生成する内的な像(Bild)である。この像には、しばしば感情が浸透しており、個々の部分の明瞭さは千差万別であり、かつ、うつろいやすい。また、同一の人物においてすら、同一の表象が同一の意義に結び付いているとは限らない。表象は、主観的なものである。すなわち、一人の人物が持つ表象は、他の人物の表象ではない。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』29、フレーゲ著作集4、p.75、土屋俊)
(索引: 表象,記号,意義,意味)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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思想の世界は(1)感覚ではなく思考力により把握され、(2)表象とは異なり真理値を持ち、(3)外的世界と同じように我々と独立に存在する。それは、(4)無時間的に存在しており、(5)創造されるというより、むしろ発見される。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号の意義(思想)を把握すること

【思想の世界は(1)感覚ではなく思考力により把握され、(2)表象とは異なり真理値を持ち、(3)外的世界と同じように我々と独立に存在する。それは、(4)無時間的に存在しており、(5)創造されるというより、むしろ発見される。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(再掲)
命題  → 命題の意義  → 命題の意味
      (思想)     (真理値)
固有名 → 固有名の意義 → 固有名の意味
                (対象)
概念語 → 概念語の意義 → 概念語の意味
                (概念)
                 ↓
               当の概念に包摂
               される対象


(1) 私の認識の対象でありうる必ずしもすべてが、表象であるのではない。
(2) 諸表象の担い手としての「私自身」も、それ自身が一つの表象ではない。
(3) 私以外の人間もまた、諸表象の担い手として存在する。もし、これが確実ではないとしたら、歴史学、義務論、法律、宗教、自然科学なども、存在しないことになろう。
(4) 記号の意義(思想)の世界は、私から独立のものとして存在する。
  (a) 外的世界
  (b) 表象の世界
  (c) 記号の意義(思想)の世界
 (4.1) 記号の意義は、外的世界のように感覚によって知覚されないという点では、表象と似ている。
 (4.2) 我々と記号の意義との関係は、我々と表象との関係とは異なる。すなわち、記号の意義は単なる表象とは異なっている。表象に真偽の区別はないが、記号の意義(思想)には真偽の区別がある。
 (4.3) 記号の意義は、外的世界が感覚の担い手である特定の人に依存しないという点では、外的世界と似ている。すなわち、我々は記号の意義を作り出すのではない。また、真偽も我々から独立している。「事実とは真なる思想である」。従ってまた、真なる思想は、創造されるのではなくして、発見されるものであり、その発見とともに初めて成立し得るというよりも、むしろ「無時間的」に存在していると言える。
 (4.4) 記号の意義が我々に知られるのは、我々が感覚印象を通じて外的世界を知るのとは、異なっている。そこで、記号の意義を「把握する」と、表現することにする。「思想の把握ということに対しては、ある特別な精神的能力、思考力が対応する」。

 「この最後の考察の成果として、私は次のことを確立する―――すなわち、私の認識の対象でありうる必ずしもすべてが表象であるのではない。諸表象の担い手としての私自身は、それ自身が一つの表象ではない。さて私自身と同様、他の人間もまた、諸表象の担い手として承認することに、何の障害もない。また一旦この可能性が与えられれば、その確からしさは非常に大きいので、私の見解にとっては、それは確実性ともはや区別されないのである。そうでなければ、歴史学は存在するであろうか。そうでないなら、どの義務論もどの法律も無効となるのではないか。宗教については何が残ることになるのだろうか。自然科学もまた、占星術や錬金術に似た虚構としてしか評価されえないことになろう。かくて、同じものを私と共にその観察、その思考の対象としうるような人間が、私以外に存在するということを前提として、私の行なった考察は、本質的な点でその力を弱められることなく維持されるのである。
 必ずしもすべてが表象なのではない。そうなら私はまた、私同様他の人間も把握しうる思想を、私から独立のものとして承認することができる。私は多数の者がその研究に従事する一つの科学を承認することができる。我々は、我々が我々の表象の担い手であるような仕方で、思想の担い手であるわけではない。我々は一定の思想をもつが、例えば我々が感覚印象をもつような仕方においてではない。我々はしかしまた、我々が例えば一つの星を見るように、一つの思想を見るのではない。それ故、ここで特別の表現を選ぶように勧められてしかるべきであり、そうした表現として「把握する(fassen)」という語が提示される。思想の把握ということに対しては、ある特別な精神的能力、思考力が対応する。思考に際し、我々は思想を造り出すのではなくて、我々はそれを把握するのである。というのは、私が思想と称したものは、真理と極めて密接な連関にあるからである。私が真と承認するもの、それについて私は、その真理性が私による承認とは全く独立に、また私がそれについて考えているかどうかということからもまた独立に真である、と判断するのである。思想が真であるためには、それが考えられるということは必要ではない。自然科学者は、彼が科学の確実な基礎づけの必要性を肝に銘じようとする場合に、「事実! 事実! 事実!」と叫ぶ。事実とは何か。事実とは真なる思想である。しかし科学の確実な基礎として、自然科学者は、人間の変転する意識状態に依存するようなものを、承認しないことは確かであろう。科学の仕事は、真なる思想の創造ではなくして、その発見に存する。天文学者は、はるかな過去の出来事の探究に際し、数学的真理を適用することが出来るが、その出来事は地球上で少なくともまだ誰も当の真理を認識していなかったときに成立していたのである。彼がこうしたことをなしうるのは、思想の真であることが、無時間的であるからである。かくて当の真理は、それの発見と共にはじめて成立しうるのではない。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『思想――論理探究[一]』73-74、フレーゲ著作集4、pp.226-227、野本和幸)
(索引: 記号の意義(思想)の世界,把握)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年7月12日木曜日

記号の意義(思想)の世界は、外的世界、表象の世界とは異なる、第三の領域の世界である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号の意義(思想)の世界

【記号の意義(思想)の世界は、外的世界、表象の世界とは異なる、第三の領域の世界である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(a) 外的世界
(b) 表象の世界
(c) 記号の意義(思想)の世界
 外的世界のように感覚によって知覚されないという点では、表象の世界と似ている。
 表象の担い手である特定の人に依存しないという点では、外的世界と似ている。
 「例えば、我々がピタゴラスの定理で言表する思想は、無時間的に真であり、誰かがそれを真と見なすかどうかということとは独立に真なのである。思想はいかなる担い手も要しない。ちょうどある惑星がそれを誰かが見つける以前に既に他の惑星との相互関係にあるのと同様に、思想はそれが発見されてはじめて真となるのではない。」

(再掲)
命題  → 命題の意義  → 命題の意味
      (思想)     (真理値)
固有名 → 固有名の意義 → 固有名の意味
                (対象)
概念語 → 概念語の意義 → 概念語の意味
                (概念)
                 ↓
               当の概念に包摂
               される対象

 「思想は外的世界の諸物でもなければ、表象でもない。第三の領域が承認されねばならない。これに属するものは、それが感官をもってしては知覚されえないという点においては、表象と一致する。が、しかしそれは、それが属するその意識内容のいかなる担い手も必要としないという点においては[外的]諸物と一致する。かくて例えば、我々がピタゴラスの定理で言表する思想は、無時間的に真であり、誰かがそれを真と見なすかどうかということとは独立に真なのである。思想はいかなる担い手も要しない。ちょうどある惑星がそれを誰かが見つける以前に既に他の惑星との相互関係にあるのと同様に、思想はそれが発見されてはじめて真となるのではない。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『思想――論理探究[一]』69、フレーゲ著作集4、p.219、野本和幸)
(索引: 記号の意義(思想)の世界)

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(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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記号の「意義」は、世代から世代へと引き継いできた人類の共通の蓄積である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

記号の「意義」の実在性

【記号の「意義」は、世代から世代へと引き継いできた人類の共通の蓄積である。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
(再掲)
命題  → 命題の意義  → 命題の意味
      (思想)     (真理値)
固有名 → 固有名の意義 → 固有名の意味
                (対象)
概念語 → 概念語の意義 → 概念語の意味
                (概念)
                 ↓
               当の概念に包摂
               される対象

 「意義は多数の人の共有物でありうるゆえに、諸個人の魂の部分であったりその様態であったりすることができないのである。なぜならば、世代から世代へと承け継いできた思想の共通の蓄積を人類が持っているということをおよそ否定することはできないからである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』29、フレーゲ著作集4、p.75、土屋俊)
(索引:記号の「意義」の実在性)

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(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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