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2018年7月10日火曜日

存在者相互の関係には、(1)時空内での表出(2)現前(3)交渉(4)動かしあいがあるが、もっと完全性の高い関係であり、新たな実体を生起させる「実体的紐帯」がある。これが真理の実在性の根拠である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

実体的紐帯

【存在者相互の関係には、(1)時空内での表出(2)現前(3)交渉(4)動かしあいがあるが、もっと完全性の高い関係であり、新たな実体を生起させる「実体的紐帯」がある。これが真理の実在性の根拠である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(再掲)
宇宙論
(1) 真の完全なモナド(一般的な至高の原因)は、無数の存在者の集まりである。
(2) 各存在者(モナド)は、一つの全たき世界、神をうつす鏡、全宇宙をうつす鏡であり、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出している。
(3) 表出は、以下の二つのものからなる。
 (3.1) その各々の存在者を真の「一」にさせる能動的原理、非物質的なもの、魂。
 (3.2) 受動的で有機的身体、物質的なもの。
(4) それら個々の魂が表出するものはすべて、ただ自己の本性から引き出されるものであり、他の個々の存在者から直接には影響されない。
(5) 個々の存在者が独立しているにもかかわらず、自然のうちに認められる秩序、調和、美がもたらされるのは、各々の魂が、その本性を、一般的な至高の原因から受け取り、それに依存しているからに他ならない。これが、予定調和である。
(6) 個々の存在者の表出が、その存在者の物質的な身体と自発的に一致する理由も、この予定調和による。

各存在者(モナド)相互の関係
(4) それら個々の魂が表出するものはすべて、ただ自己の本性から引き出されるものであり、他の個々の存在者から直接には影響されない。すなわち、「諸モナドは相互に観念的な依存関係を有している」。
 (4.0.1) 他の存在者は、時間と空間の秩序のなかで表出される。
 (4.0.2) 他の存在者は、直接的な現前として表出される。
 (4.0.3) 他の存在者は、交渉として表出される。
 (4.0.4) 「モナドが相互に動かしあうときには結び付きがある」。
(4.1) 以上の相互関係の他に、「もっと完全性の高い関係が考えられる。それは、複数の実体から新たな一つの実体を生起させるものである」。すなわち「実体的紐帯」である。
 (4.1.1) 実体的紐帯は、(4.0.1)~(4.0.4)に関係だけから成り立つものではない。
 (4.1.2) 実体的紐帯は、各存在者の他に「一種の新たな実体性を付け加える」。
 (4.1.3) 新たな実体性は、各存在者に付け加えられるようなものではない。
 (4.1.4) 新たな実体も一つのモナドであり、これが「真理の実在性」の根拠である。この実体が魂として、結合される各存在者が身体として措定される。身体である諸存在者は、一つの魂である紐帯的実体の支配の下にあり、「それによって一なる有機的身体すなわち一つの自然の機械が作られる」。「それは神の知性の結果であるだけではなく、神の意志の結果でもある」。

 「さらに、神は、一つ一つのモナドとそのモナドの様態とを考察するだけではなく、モナド相互の関係をも考察する。ここに関係の実在性と真理の実在性とが存する。こうした中でも基本的なものとして、持続すなわち継起するものの秩序、位置すなわち共存することの秩序、交渉すなわち相互作用などがある。この場合に諸モナドは相互に観念的な依存関係を有していると考えられる。だが、直接的な位置は現前である。現前と交渉とは別に、モナドが相互に動かしあうときには結び付きがある。これら[の関係]によってわれわれは、事物が一をなしていると考えるのであり、実際、全体に関する真理は、神にとっても妥当するものとして示され得る。しかしこれらの実在的な関係の他に、もっと完全性の高い関係が考えられる。それは、複数の実体から新たな一つの実体を生起させるものである。これは単なる結果的なものではなく、真実で実在的な関係だけから成り立つものでもなく、それらの他に一種の新たな実体性を付け加えるもの、すなわち実体的紐帯であり、それは神の知性の結果であるだけではなく、神の意志の結果でもある。しかしこれは諸モナドに対して付け加えられるのでは決してない。さもなければ、離ればなれになっているモナドが結合して一つの新たな実体を作ってしまうだろうし、[反対に]隣接した物体から生起すべく決定していることも生起しなくなってしまう。したがって諸モナドを結合しさえすればよいのである。諸モナドは一つのモナドの支配の下にあり、それによって一なる有機的身体すなわち一つの自然の機械が作られるのである。そしてここに、魂と身体との形而上学的紐帯が存し、魂と身体とで措定的一(unum suppositum)が構成される。これはキリストにおける諸本性の結合と類比的である。こうして、それ自身による一すなわち措定的一ができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『デ・ボス宛書簡』一七一二年二月五日、ライプニッツ著作集9、pp.162-163、[佐々木能章・1989])
(索引:実体的紐帯,真理の実在性)

ライプニッツ著作集 (9)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年7月9日月曜日

意志の本質は、判断をした後に続く行為への努力に存する。この努力が頂点に達するまでの間に、新たな表象や傾向性が介入し、当初の判断を変質させ、理性的精神と心情、意志とが乖離する。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

自由意志と行為への努力

【意志の本質は、判断をした後に続く行為への努力に存する。この努力が頂点に達するまでの間に、新たな表象や傾向性が介入し、当初の判断を変質させ、理性的精神と心情、意志とが乖離する。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(1)真なるものに対する知性の関係
 (1.1)ある真理についての明晰判明な表象。
 (1.2)表象には、真理の肯定が現実に含まれている。
 (1.3)知性は、真理を肯定すべく強いられている。
(2)善なるものに対する意志の関係
 (2.1)判断する前の表象。
 (2.2)判断。
 (2.3)判断をした後に続く行為への努力:これは、表象とは区別されており、意志の本質をなす。
(3)(1)と(2)は並行して存在する。
 (3.1)(2.3)の努力が頂点に達するまでには時間を要する。
 (3.2)新たな表象や傾向性が間に入ってきて精神の向きを逸らし、時には反対の判断までさせることになる。その結果、努力は保留状態に置かれたり、変質してしまったりする。
 (3.3)このようにして、(1)で認識している真理に抵抗する状況に陥り、理性的精神と心情とが乖離する。
 (3.4)「とりわけ知性の働きの大部分が、心に訴えかけない模糊たる思惟のみによってなされているときにはそうである。」

 「三一一―――真なるものに対する知性の関係と善なるものに対する意志の関係との並行性については、ある真理についての明晰判明な表象にはその真理の肯定が現実に含まれていて、そのため知性はそれを肯定すべく強いられているということを知らねばならない。しかし善については、人がどのような表象を有していようとも、判断をした後に続く行為への努力―――私の考えではこの努力が意志の本質をなす―――はその表象から区別されている。したがって、この努力が頂点に達するまでには時間を要するので、新たな表象や傾向性が間に入ってきて精神の向きを逸らし、時には反対の判断までさせることになると、この努力は保留状態に置かれたり、変質してしまったりすることがある。このため、われわれの魂は自分が認識している真理に抵抗する多くの方策を有することになるし、理性的精神から心情までには相当の道のりがあることにもなる。とりわけ知性の働きの大部分が、心に訴えかけない模糊たる思惟のみによってなされているときにはそうである。このことは他でも説明した通りである。こうして、判断と意志の結び付きは、考えられているほど必然的ではないということになる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『弁神論』本論[第三部]三一一、ライプニッツ著作集7、p.70、[佐々木能章・1991])
(索引:自由意志,行為への努力)

ライプニッツ著作集 (6) 宗教哲学『弁神論』 上


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年7月7日土曜日

全宇宙とその可能的世界を表出し現実存在へ向おうとする無数の存在者を含む全宇宙の、無数の可能的系列から一意の現実的宇宙が決まってくるような、この宇宙を支配する法則が存在する。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

無数の可能的世界から現実的事象へ

【全宇宙とその可能的世界を表出し現実存在へ向おうとする無数の存在者を含む全宇宙の、無数の可能的系列から一意の現実的宇宙が決まってくるような、この宇宙を支配する法則が存在する。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 この宇宙を支配している法則に基づく無数の可能的世界から、いかにして現実的事象が決まってくるかということが、問題である。

(a)全宇宙とその可能的世界を自らの本質によりそれぞれ表出している無数の存在者を、「精査し、比較し、相互に考量して、完全性もしくは不完全性の程度、強弱、善悪を見積もる」。
(b)(a)からは現実的事象は、決まらない。さらに、(a)のように無数の存在者を含む宇宙の可能的系列を無数に作り、それぞれを比較する。
(c)このようにして、(a)においては「個々別々に検討していた可能的なものを、無限の宇宙体系の内に分配し、それぞれを比較する」ことができる。「これらをすべて比較し反省したところからの結果が、すべての可能な体系の中で最善なるものの選択」となり、現実的事象となる。
(d)それでも、これら全ては「可能なものを超えることがない」。すなわち、この宇宙を支配している法則に基づいている。また、「相互の秩序と本性上の先行性とがあるが、それらは常に一緒に生じているのであり、時間的な先行性はそこにはない」。

 「可能なるものが有する無限性は、それがどれほど大きなものであっても、神の知恵の無限性には及ばない。神は可能なものをすべて知っているからである。神の知性の対象は可能なものを超えることがない―――としか考えられない―――のだから神の知恵が可能なものを外延的に凌駕することはないとしても、神の知恵は無限に無限な結び付きをもたらし、それについて同じだけ反省を加えているのだから、内包的には可能なものを凌駕すると言える。神の知恵は、すべての可能的なものを包含しそれを精査し、比較し、相互に考量して、完全性もしくは不完全性の程度、強弱、善悪を見積もるが、それだけでは満足しない。それは有限なる結び付きを上回り、無限の結び付きを無限に作る。つまり、各々が無数の被造物を含むような宇宙の可能的系列を無限に作るのである。こうすることによって神の知恵は、それまで個々別々に検討していた可能的なものを、無限の宇宙体系の内に分配し、それぞれを比較する。これらをすべて比較し反省したところからの結果が、すべての可能な体系の中で最善なるものの選択となり、こうして神の知恵は自らの善意を余すところなく満足させる。以上がまさしく、現実的宇宙を作る計画なのである。彼の知恵のこうした働きのすべては、そこに働き相互の秩序と本性上の先行性とがあるが、それらは常に一緒に生じているのであり、時間的な先行性はそこにはない。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『弁神論』本論[第二部]二二五、ライプニッツ著作集6、pp.329-330、[佐々木能章・1990])
(索引:無数の可能的世界)

ライプニッツ著作集 (6) 宗教哲学『弁神論』 上


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年6月29日金曜日

無数の可能的世界から、いかにして現実的事象が決まってくるか。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

無数の可能的世界

【無数の可能的世界から、いかにして現実的事象が決まってくるか。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
(再掲)無数の可能的世界と現実的事象
(a) この宇宙を支配している法則に則り、可能的なものとして存在している事象。神の「単純叡智の知」、人間はその一端を理性によりうかがい知る。
(a')可能的なものとして存在している事象は、条件的なものも含めて、無数のすべての可能的な世界が含まれている。
(b) 可能的なもののうち、宇宙の展開において現実に生じる現実的事象。神の「直視の知」、人間も現実的事象として知る。

 この宇宙を支配している法則に基づく無数の可能的世界から、いかにして現実的事象が決まってくるかということが、問題である。

(再掲)全宇宙の構造
(1) 真の完全なモナド(一般的な至高の原因)は、無数の存在者の集まりである。
(2) 各存在者は、一つの全たき世界、神をうつす鏡、全宇宙をうつす鏡であり、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出している。
(3) 表出は、以下の二つのものからなる。
 (3.1) その各々の存在者を真の「一」にさせる能動的原理、非物質的なもの、魂。
 (3.2) 受動的で有機的身体、物質的なもの。
(4) それら個々の魂が表出するものはすべて、ただ自己の本性から引き出されるものであり、他の個々の存在者から直接には影響されない。
(5) 個々の存在者が独立しているにもかかわらず、自然のうちに認められる秩序、調和、美がもたらされるのは、各々の魂が、その本性を、一般的な至高の原因から受け取り、それに依存しているからに他ならない。これが、予定調和である。
(6) 個々の存在者の表出が、その存在者の物質的な身体と自発的に一致する理由も、この予定調和による。

 無ではなく、むしろ何かあるものが現実存在している。
(i)各存在者は、全宇宙を表出しているが、無数の可能的世界も表出している。
(ii)各存在者の表出は、ただその本性、本質から引き出されており、「本質がそれ自身で現実存在へ向か」おうとする要求、あるいは主張をもっている。
(iii)各存在者は、「同等の権利をもって、本質ないし実在性の量に応じて、あるいはそれらが含んでいる完全性の度に応じて、現実存在へ向かう」。なぜなら、「完全性とは本質の量に他ならないからである」。

 「しかし、どのようにして永遠的即ち本質的あるいは形而上学的真理から時間的、偶然的即ち自然学的真理が出てくるかをもう少しはっきりと説明するには、無ではなくてむしろ何か或るものが現実存在しているという正にそのことから、まず次のことを承認しなければならない。即ち、可能的事物の内に、ないし可能性あるいは本質そのものの内に、何か或る現実存在の要求(exigentia existentiae)、あるいは(言うなら)現実存在することへの主張(praetensio ad existendum)があること、そして一言で言えば本質がそれ自身で現実存在へ向かうということ、を承認しなければならない。そこからさらに次のことが帰結する。即ち、すべての可能なもの、ないし本質あるいは可能的実在性を表出しているものは、同等の権利をもって、本質ないし実在性の量に応じて、あるいはそれらが含んでいる完全性の度に応じて、現実存在へ向かうことがである。というのも、完全性とは本質の量に他ならないからである。
 しかしここから明白に知解されるのは、可能的なものの無限に多くの可能な集成(combinationes)と系列の内、それによって最も多くの本質即ち可能性が現実存在することへ導かれるもの、が現実存在するということである。言うなら、事物の内には常に、最大あるいは最小によって要求されるべき決定の原理がある。つまり、言わば最小の費用で最大の効果があげられるのである。だからここで時間、場所、一言で言えば世界の受容能力あるいは容量を費用即ちその内に最も快適に建物が作られるべき土地と見做して良いならば、それに対して形相の多様性は建物の快適性とか部屋の数と優美さに対応している。そして或る種の遊びにおいて、盤上のすべての場所を一定の規則に従って埋めなければならないといった場合もそれである。そこでは何らかの技巧を用いなければ、最後には、[その規則に]合わない空間[を埋める訳にはいかないので、そこ]から排除されてしまって、できると思っていたり、あるいはそうしてみたかったよりも多くの空所を残さざるを得なくなる。しかし最も多くの充填が最も容易に手に入れられるような確実なやり方(ratio)はある。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『事物の根本的起源について』ライプニッツ著作集8、pp.94-95、[米山優・1990])
(索引:無数の可能的世界)

前期哲学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年6月25日月曜日

人間の自由意志は、人間がなす驚異の原因であり、また同時に、誤りと無秩序の原因でもある。しかしこの無秩序も、この全宇宙の原理とその秩序に従っている。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

自由意志とミクロコスモス

【人間の自由意志は、人間がなす驚異の原因であり、また同時に、誤りと無秩序の原因でもある。しかしこの無秩序も、この全宇宙の原理とその秩序に従っている。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】

(再掲)
(1) 真の完全なモナド(一般的な至高の原因)は、無数の存在者の集まりである。
(2) 各存在者は、一つの全たき世界、神をうつす鏡、全宇宙をうつす鏡であり、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出している。
(3) 表出は、以下の二つのものからなる。
 (3.1) その各々の存在者を真の「一」にさせる能動的原理、非物質的なもの、魂。
 (3.2) 受動的で有機的身体、物質的なもの。
(4) それら個々の魂が表出するものはすべて、ただ自己の本性から引き出されるものであり、他の個々の存在者から直接には影響されない。
(5) 個々の存在者が独立しているにもかかわらず、自然のうちに認められる秩序、調和、美がもたらされるのは、各々の魂が、その本性を、一般的な至高の原因から受け取り、それに依存しているからに他ならない。これが、予定調和である。
(6) 個々の存在者の表出が、その存在者の物質的な身体と自発的に一致する理由も、この予定調和による。

上記(2)~(5)の追加説明。
 人間はそれ自身の固有の世界における小さき神のごときものであり、それぞれが自分なりの仕方で支配しているミクロコスモスである。
(a) 人間は、「存在と力と生命と理性」を与えられている。
(b) 人間は、その小さな管轄内でなすがままにさせておかれる。
(c)「人間に関わるものにおいて見られる無秩序」の理由は、(b)である。
 例えば、ときどき驚異をなし、その技巧はしばしば自然を模倣し、また大きな誤りも犯す。「神はこの小さな神々と(いわば)戯れ、これらを産み出して良かったと思っている。これはちょうど、子供と遊びながら内心でこうさせたいとかこうさせたくないと思っている通りに子供が夢中に取り組んでくれているというようなものである。」
(d) 小さき世界の悪、欠陥、一見歪んでいるものは、より大きな世界から見ると、「大なる世界の美の中に再統合され、無限に完全な宇宙の原理の統一性に何ら背馳することはない。むしろ反対に、悪をより大なる善に役立たせる神の知恵に対して一層大きな賛嘆をもたらすことになる。」

 「ここにまた、人間に関わるものにおいて見られる無秩序の特別の理由がある。つまり、神は、人間に叡智を与えることによって神の似姿を現前させたのである。神は人間を、その小さな管轄内で〈手中に収めたスパルタを飾り立てるために〉なすがままにさせておく。神は隠れた仕方でのみそこに入り込んでいく。なぜなら神は存在と力と生命と理性を与えながら自らを見せることはないからである。ここにおいてこそ、自由意志(franc arbitre)が働くのである。神はこの小さな神々と(いわば)戯れ、これらを産み出して良かったと思っている。これはちょうど、子供と遊びながら内心でこうさせたいとかこうさせたくないと思っている通りに子供が夢中に取り組んでくれているというようなものである。それゆえ人間はそれ自身の固有の世界における小さき神のごときものであり、それぞれが自分なりの仕方で支配しているミクロコスモスである。人間はときどき驚異をなす。その技巧はしばしば自然を模倣する。」(中略)「しかし人間は大きな誤りも犯している。なぜなら、人間は感情の赴くままになっているし、神も人間を感覚の虜にさせてしまっているからである。神はそのことで人間を罰しもする。それは、子供を鍛え懲らしめる父親や教師のようなときもあれば、自分を忌避する者に罰を加える正当な裁判官のようなときもある。悪が最も数多く生ずるのは、こうした叡智的な者やその小さき世界が互いに衝突するときである。人間は、間違いをするに応じて自らが悪なる者だと感ずる。しかし神はこれらの小さき世界の欠陥のすべてを驚くべき仕方で神の大世界の最大の装飾に転じてしまう。これはいわば歪画法の発明である。歪画法においては、いくら美しい構図でも、それが正しい視点に関連づけられ、一定のガラス板や鏡によって見るのでないならば、混乱でしかない。それが部屋の飾りになるのは、然るべきところに置かれ然るべく取り扱われたときだけである。こうして、われわれの小さき世界においては一見歪んでいるものも、それは、大なる世界の美の中に再統合され、無限に完全な宇宙の原理の統一性に何ら背馳することはない。むしろ反対に、悪をより大なる善に役立たせる神の知恵に対して一層大きな賛嘆をもたらすことになる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『弁神論』本論[第二部]一四七、ライプニッツ著作集6、pp.252-254、[佐々木能章・1990])
(索引:自由意志、ミクロコスモス)

ライプニッツ著作集 (6) 宗教哲学『弁神論』 上


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年6月23日土曜日

無数の可能的世界とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

無数の可能的世界

【無数の可能的世界とは?(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 モリナ主義は、以下の(a)(b)(c)を主張する。その困難と考えられるのは、(d)(e)である。私は、(a')と考える。このことによって、(d)(e)の困難は、(d')(e')のように解消される。しかしなお(e'')かも知れない。
(a) この宇宙を支配している法則に則り、可能的なものとして存在している事象。神の「単純叡智の知」、人間はその一端を理性によりうかがい知る。
(a')可能的なものとして存在している事象は、条件的なものも含めて、無数のすべての可能的な世界が含まれている。
(b) 可能的なもののうち、宇宙の展開において現実に生じる現実的事象。神の「直視の知」、人間も現実的事象として知る。
(c) モリナ主義の「中知」
 この宇宙において、ある一定の条件が現実化すればそこから生起する条件的事象。神にとっては、直視の知と叡智の知との間の「中知」、人間は自由意志の行使により、これを知る。すなわち、ある一定の条件が現実化すると、人間はその状況では「自由」に為し、しかもその自由意志には「誤用」もあり得る。

(d) 人間の自由意志がそこで発現するという、ある一定の条件が現実化するにしても、この条件の成就自体がやはり、この宇宙の法則によって支配されているだけでなく、この条件において人間の自由意志がいかにして発現するかについても、法則に支配されているはずであり、「行為を条件から切り離そうとしても、それはできないことであろう。」
(d')ある一定の条件が現実化して自由意志が発現するとき、その意志の決定に影響を与える一連の諸原因は、意志をある選択肢に一層強く傾けるが、意志は「決して強いられてその選択肢をとるのではない」。
(e) モリナ主義者は、条件から切り離された純粋な自由意志、すなわち「人間の良き資質」そのものが、この宇宙の原理・法則でもあり得ると考えたが、これは全宇宙を支配する統一的な法則という点から、満足できるものではない。
(e')ある一定の条件が現実化して自由意志が発現し、意志がある選択肢を現実化するとき、これら全ては、全宇宙を支配する原理・法則に従っており、無数の可能的な世界のうちの一つが現実化しているのである。すなわち、「神は、その偶然的未来に存在を与えようと決する前に、それを可能的なものの領域において然るべく見ている」。
(e'')無数の可能的世界そのものは、人間の意志による決定によって変わるか変わらないには、一切関わらない。しかし、人間の意志による決定は、宇宙の展開における現実に生じる現実的事象を変えているので、もし、現実化する可能的世界が一意に決まるような場合には、意志による決定にもかかわらず、すべては決まっていたと言える。
(f) ある人は、中知は単純叡智の知に包含されるべきだと考えた。

 「四二―――この問題での両陣営の議論の応酬に入り込むのは手間もかかるしうんざりしてくる。むしろ、私が両陣営の主張の中に真実があることをどのようにして把握したかを説明しさえすれば十分であろう。これをうまく果たすため私は、永遠真理の領域つまり神の叡智の対象において表わされた無数の可能的世界についての私の原理に依拠する。この領域には未来の条件的なものがすべて含まれているはずである。なぜなら、ケイラの攻囲戦の事態も一つの可能的世界の部分となっているからである。この可能的世界がわれわれの世界と異なるのはひとえにこの[可能的世界についての]仮説との関連においてのみである。この可能的世界の観念はかかる事態において生起するはずのことを表現する。それゆえわれわれは、現実に起きることであれ一定の事態において起きるべきことであれ、未来の偶然事についての確実な知の原理を有していることになる。というのも、可能的なものの領域においては偶然事は然るべきものとして、つまり自由なる偶然事として表現されているからである。したがって、われわれを困惑させ自由を損ないもし得るのは、偶然的未来の予知なのでもなければ、この予知の確実性の基礎なのでもない。また、たとえ理性的被造物の自由な行為の内に存する偶然的未来が神の決意からも外的原因からもまったく独立しているということは真実であり可能であるとしても、[神が]その未来を予見する方法はあるといえる。というのも、神は、その偶然的未来に存在を与えようと決する前に、それを可能的なものの領域において然るべく見ているからである。
四三―――しかし、神の予見がわれわれの自由な行為に依存しているか独立しているかに一切関わらないとしても、神の事前の命令や決意や、意志の決定に常に与ると思われる一連の原因などについてもそうだというわけではない。私は第一の点においてはモリナ主義者の立場に立つが、第二の点においては先定説論者の立場に立つ。ただし先定がいつも必要だとは考えない。一言で言うなら、私の考えは、意志は自ら選びとった選択肢に一層強く傾くが決して強いられてその選択肢をとるのではない、というものである。これは、〈星々は傾かせるが強いない〉という有名な諺をもじったものである。もっともここでは事情はまったく似ても似つかぬものではあるが。というのも、(通俗的な言い方をしてあたかも占星術に何らかの基礎があるかのように言うなら)星の動きがもたらす出来事は必ず起きるとは限らないが、一方意志は最も強く傾いた選択肢をとらざるを得ないからである。さらにまた、星はその出来事を起こすために協働するさまざまな傾向性の内の一つとなっているにすぎないが、人が意志にとって最も大きな傾向性について語るときには、すべての傾向性からの結果について語っているのである。これは、本書で前に神の帰結的意志について述べたことと幾分似ている。この意志はすべての先行的意志からの結果だからである。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『弁神論』本論[第一部]四二・四三、ライプニッツ著作集6、pp.153-154、[佐々木能章・1990])
(索引:自由意志、無数の可能的世界)

ライプニッツ著作集 (6) 宗教哲学『弁神論』 上


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年6月22日金曜日

モリナ主義への反論。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

モリナ主義への反論

【モリナ主義への反論。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
モリナ主義の「中知」  (再掲)
(c) この宇宙において、ある一定の条件が現実化すればそこから生起する条件的事象。神にとっては、直視の知と叡智の知との間の「中知」、人間は自由意志の行使により、これを知る。すなわち、ある一定の条件が現実化すると、人間はその状況では「自由」に為し、しかもその自由意志には「誤用」もあり得る。

(d) 人間の自由意志がそこで発現するという、ある一定の条件が現実化するにしても、この条件の成就自体がやはり、この宇宙の法則によって支配されているだけでなく、この条件において人間の自由意志がいかにして発現するかについても、法則に支配されているはずであり、「行為を条件から切り離そうとしても、それはできないことであろう。」
(e) モリナ主義者は、条件から切り離された純粋な自由意志、すなわち「人間の良き資質」そのものが、この宇宙の原理・法則でもあり得ると考えたが、これは全宇宙を支配する統一的な法則という点から、満足できるものではない。
(f) ある人は、中知は単純叡智の知に包含されるべきだと考えた。

中知は単純叡智  (再掲)
(a) この宇宙を支配している法則に則り、可能的なものとして存在している事象。神の「単純叡智の知」、人間はその一端を理性によりうかがい知る。

 「四一―――私はこの論争の詳細には立ち入らない。一つの典型的な例を示すだけで十分である。聖アウグスティヌスや彼の初期の弟子たちはこのような考え方をよしとはしなかっただろうが、幾人かの古代の人たちはモリナの考えに極めて近かったと思われる。トマス主義者や聖アウグスティヌスの弟子と呼ばれた人々(しかし論敵はこの人たちをヤンセン主義者と呼んでいた)はこの教説を哲学的にも神学的にも論駁した。ある人は、中知は単純叡智の知に包含されるべきだと考えた。しかし主要な反論はこの知の基礎に向けられている。というのも、ケイラの人々がしようとしたことを知るために神はいかなる基礎を有しているのだろうか。一回の偶然かつ自由な行為は、それが神の決意やそれに依存した原因により先定されたものと考えられない限りは、それだけでは確実な原理を与え得るものを含みはしない。それゆえ、現実的に自由な行為の内に見出される困難は条件的に自由な行為の内にも見出せることであろう。つまり、神がこの条件的に自由な行為を認識するのは、その行為の原因を条件とするとき、また事物の第一原因たる神の決意を条件とするときに限られるであろう。そのため、ある偶然的事象を原因の認識から独立した仕方で認識しようとして行為を条件から切り離そうとしても、それはできないことであろう。したがって、すべては神の決意の先定へと還元すべきだということになろう。そしてそれゆえ、(言うところの)中知は無用の長物となり果てるであろう。聖アウグスティヌスに近いと自認している神学者たちは、モリナ主義者の考え方に基づくと人間の良き資質の内に神の恩寵の源泉を見出すことになるだろうとも考えたが、しかしそのような考え方は神の栄光に反するし聖パウロの教説にも反すると判断した。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『弁神論』本論[第一部]四一、ライプニッツ著作集6、p.152、[佐々木能章・1990])
(索引:自由意志、モリナ主義、モリナ主義への反論)

ライプニッツ著作集 (6) 宗教哲学『弁神論』 上


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年6月21日木曜日

モリナ主義とは? (ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

モリナ主義

【モリナ主義とは? (ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 この宇宙を支配している法則の諸秩序と、人間の自由意志がいかにして共存し得るのかが問題である。モリナ主義は、この宇宙に生起する事象には、次の3種類があると考える。
(a) この宇宙を支配している法則に則り、可能的なものとして存在している事象。神の「単純叡智の知」、人間はその一端を理性によりうかがい知る。
(b) 可能的なもののうち、宇宙の展開において現実に生じる現実的事象。神の「直視の知」、人間も現実的事象として知る。
(c) この宇宙において、ある一定の条件が現実化すればそこから生起する条件的事象。(神にとっては、直視の知と叡智の知との間の「中知」、人間は自由意志の行使により、これを知る。すなわち、ある一定の条件が現実化すると、人間はその状況では「自由」に為し、しかもその自由意志には「誤用」もあり得る。

 「三九―――このような困難性から、二つの陣営が生まれた。一つは先定説論者の陣営で、もう一つは中知(la science moyenne)の擁護者の陣営である。ドミニコ会とアウグスチノ会は先定説論者に与し、フランシスコ会と最近のイエズス会はむしろ中知の立場に立つ。この二つの陣営は一六世紀の中葉かその少し後に分裂した。モリナ(この人は多分、フォンセーカと共にこの問題で一つの説を最初に打ち建てた一人であり、この説を奉じる他の人々はモリナ主義者と呼ばれた)自身は、自由意志と恩寵の一致について著した一五七〇年頃の書物で、スペインの学者達(モリナは主にトマス主義者のことを考えている)が二〇年来あれこれ書きながら、いかにして神が偶然的未来について確実に知るかについて説明する方法を[先定説の]他に見出せず、自由な行為に必要だとして先定説を導入した、と述べている。
 四〇―――モリナはどうかというと、彼は別の仕方を見出したと思っていた。彼は神の知の対象に三種類あるとしていた。つまり、可能的なものと、現実的事象と、一定の条件が現実化すればそこから生起する条件的事象との三種類である。可能的なものについての知は単純叡智の知(la science de simple intelligence)と言われる。宇宙の展開において現実に生じる事象についての知は直視の知(la science de vision)と呼ばれる。以上の単純なる可能性と純粋かつ絶対的な事象との間にもう一種類、条件的事象があり、モリナによれば、直視の知と叡智の知との間に中知があると言えることになる。この中知の有名な例は、ダビデに見られる。ダビデは、かくまってもらおうと思っていたケイラの人々が、その町を包囲していたサウルに自分を引き渡すかどうかについて神に伺いをたてた。神は然りと答えた。そのためダビデは別の方途をとった。ところで、この中知の擁護者の考えによると、神は人間がしかじかの状況に置かれたら自由になすであろうことを予見し、しかも人間がその自由意志を誤用していることも知っているのだから、神は人間に恩寵や好ましい状況を与えないことにした。しかも神にはそれができて当然なのである。なぜなら、そのような状況も助力も彼ら人間にとっては何の役にも立たないからである。しかしモリナは、神の決意の理由は被造物がしかじかの状況において自由になすことに基づいているということを一般的に見出したことで満足している。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『弁神論』本論[第一部]三九・四〇、ライプニッツ著作集6、pp.150-152、[佐々木能章・1990])
(索引:自由意志、モリナ主義、直視の知、単純叡智の知、中知)

ライプニッツ著作集 (6) 宗教哲学『弁神論』 上


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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2018年6月20日水曜日

諸学問の配列:(1)総合的配列、(2)解析的配列、(3)名辞に従う目録の配列。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

諸学問の配列

【諸学問の配列:(1)総合的配列、(2)解析的配列、(3)名辞に従う目録の配列。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 あらゆる学問的真理は、次の三つの主要な方法で配列し、またお互いに結びつける必要がある。ただし、個別的な事実や歴史・言語のことは別にしておく。
(1) 各命題を、数学者が行うように、それが論理的に依存する命題の後に配列する。すなわち、証明の順に並べる。
(2) 各命題を、目的を実現するために役立つ手段を探しやすいように配列する。すなわち、人類の目標である善の獲得や、悪の回避のための手段を、解析して階層的に配列する。
(3) (1)と(2)の間の記述の重複を避けるために、共通的な名辞の配列を用意して、(1)と(2)を互いに参照させる方法がある。この名辞の配列から、探そうとしている目的の(1)と(2)の命題にたどりつくことができる。その際、共通的な名辞の配列には、以下の二つの方法がある。
 (3.1)人々が共有して使用できる、ある範疇に従って、共通的な名辞を配列する。
 (3.2)アルファベット順に、共通的な名辞を配列する。
 なお、これら三つの方法が、次の三つの学問に対応しているのは興味深い。
(1) 総合的配列、理論的なもの、自然学
(2) 解析的配列、実践的なもの、道徳学
(3) 名辞に従う目録の配列、論証的なもの、論理学

 「ここから、ひとつの同じ真理は、それがもちうる異なった諸関係に従って多くの場所をもちうることが分かります。それで、蔵書を整理する人たちが、ある書物をどこにおくべきか分からなくなることもとてもしばしば起こります。二つか三つのふさわしい場所のうちで決心がつかないからです。しかし、今は一般的な原理についてだけお話しし、個別的な事実や歴史・言語のことは別にしておきましょう。私は、あらゆる学問的真理の二つの主要な配列を認めています。各々にはその長所があり、両者は結び付ける価値があるでしょう。一方は総合的で理論的なものです。これは、数学者が行うように、真理を証明の順に並べるものです。したがって、各命題はそれが依存する命題の後に来ることになります。他方の配列は解析的で実践的なものです。これは、人類の目標すなわち善、そのきわみは至福である善から始まり、そうした善を獲得したり反対の悪を避けたりするのに役立つ手段を順を追って探すものです。そして、これら二つの方法は、一般的に百科全書のなかで用いられ、またある人たちはそれらを個別的な学問のなかで用いてきました。」(中略)「しかし、そうした二つの配列を同時に用いて百科全書を書く場合には、反復を避けるために参照という方策を用いることができるでしょう。これら二つの配列に、名辞による第三の配列を付け加えなければなりません。これは、実際には一種の目録にすぎず、すべての人々が共有するであろうある範疇に従って名辞を並べる体系的なものであるか、学者の間で受け入れられている言語に従うアルファベット順のものであるかです。ところで、名辞が十分に注目に値する仕方で入っているすべての命題を見つけて集めるためには、そうした目録が必要でしょう。」(中略)「ところで、私はこうした三つの配列を考察して、それらが、あなたが復活させた古代の区分に対応しているのは好奇心をそそることだと思います。その区分とは、学問ないし哲学を理論的なもの・実践的なもの・論証的なものに、あるいは、自然学・道徳学・論理学に分けるものです。というのも、総合的配列は理論的なものに対応し、解析的[分析的]配列は実践的なものに対応し、名辞に従う目録の配列は論理学に対応しているからです。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『人間知性新論』第四部・第二一章[三]、ライプニッツ著作集5、pp.354-356、[谷川多佳子・福島清紀・岡部英男・1995])
(索引:諸学問の配列、総合的配列、解析的配列、名辞に従う目録の配列)

認識論『人間知性新論』 下 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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