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2018年11月10日土曜日

18.半影的問題における決定の本質の理解には次の点が重要である。(a)法の不完全性、(b)法の中核の存在、(c)不確実性と認識の不完全性、(d)選択肢の非一意性、(e)決定は強制されず、一つの選択である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

半影的問題における決定の本質

【半影的問題における決定の本質の理解には次の点が重要である。(a)法の不完全性、(b)法の中核の存在、(c)不確実性と認識の不完全性、(d)選択肢の非一意性、(e)決定は強制されず、一つの選択である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1.2)追記、(4)追記。

 (1.2)この批判の基準は、道徳的なものとは限らない。
  (1.2.1)このケースでの「べき」は、道徳とはまったく関係のないものである。
  (1.2.2)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。

(4)問題解決のために、重要だと思われること。
 (1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以下の諸事実を考慮することが重要である。
 (4.1)法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
 (4.2)法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。
 (4.3)私たちは、不確実性の中に生きており、不完全な法の下での決定の際、在る法の自然で合理的な精密化の結果として、唯一の正しい決定の認識へと導かれ得るのだろうか。それは、むしろ例外的であり、多くの選択肢が同じ魅力を持って競い合っているのではないだろうか。
 (4.4)すなわち、存在している法は、私たちの選択に制限を加えるだけで、選択それ自体を強制するものではないのではないか。
 (4.5)従って、私たちは、不確実な可能性の中から選択しなければならないのではないか。

半影的問題における合理的決定の解明には、(a)何らかの「べき」観点の必要性、(b)にもかかわらず、在る法と在るべき法の区別、(c)法の不完全性と中核部分の正しい理解、が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(1)何らかの「べき」観点の必要性
 半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、何らかの観点による「在るべきもの」が、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。この基準は、何だろうか。
 (1.2)この批判の基準は、道徳的なものとは限らない。
 (1.3)目標、社会的な政策や目的が含まれるかもしれない。
 (1.4)しかし、在るものと、さまざまな観点からの在るべきものとの間に、区別がなければならない。
(2)在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
 参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))
 参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

(3)半影的問題の決定も、在る法の自然な精密化、明確化であると思える場合がある。
 ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。
  難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))

 (3.1)難解な事案、すなわち半影的問題において、次のような事実がある。
  (3.1.1)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
  (3.1.2)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」とみなすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
 (3.2)日常言語においても、次のような事実がある。
  (3.2.1)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
  (3.2.2)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
  (3.2.3)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

(4)問題解決のために、重要だと思われること。
 (1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以下の2つのことが重要だと思われる。
 (4.1)法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
 (4.2)法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。

 「そのルールは新しいケースを包含すべきだと私たちは考え、熟考した後、たしかに包含していると理解するに至る。

しかし、存在と当為の融合の例として思いあたるふしのある経験をこのように提示することが認められるとしても、次の二つのことに注意が向けられなければならない。

第一に、このケースでの「べき」は、Ⅲですでに説明した理由からして、道徳とはまったく関係のないものだということである。

新しいケースがルールの目的を補完して明瞭化するというのとまったく同じ意味が、ゲームのルールを解釈する際にも、また、非常に不道徳的な抑圧の法律であり、その不道徳性はそれを解釈することを求められている人も正しく理解しているような法律を解釈する際にもみられるであろう。

ゲームをしている人もまた、自分たちのしているゲームの「精神」が予想されていなかったケースにおいて何を要求するのかを考えることができる。

さらに重要なのは、このような議論を正当化すると思われる現象が法の領域においてどれほど稀な現象であるかということ、すなわち、あるルールの自然で合理的な精密化の結果、唯一の判決の仕方が私たちに強制されているという感覚がどれほど例外的なものであるかということを、検討の総括として心に銘記しておく必要がある。

解釈がなされるほとんどのケースにおいて、選択肢の中での選択、「司法立法」、さらには「命令」(恣意的な命令ではないけれども)といった表現の方が、現実の状況をうまく伝えるのは紛れもない事実である。

 私たちが意識的な選択をしていることを自覚せず、認識されるのを待っているものを認識するという意識でいるならば、比較的確定した法の枠組の中でも、あまりに多くの選択肢があまりに同じく平等の魅力を持って競い合っているので、裁判官や法律家は、不確実なままに、自分自身の、また他人の行為の原則や意図や望みを解釈しようとする際に体験する経験に適切な表現を与える道を探らなければならない。

法の解釈を記述するのに、在る法と在るべき法との融合、分離不可能性という上述の表現を使用することは(裁判官は法を発見するのであって、決して法をつくるのではないという前の時代の物語のように)、私たちが不確実性の中に生きており、私たちは不確実な可能性の中から選択しなければならないという事実、また、存在している法は私たちの選択に制限を加えるだけで選択それ自体を強制するものではないという事実を覆い隠してしまうことにしかならない。」

(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・
哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.95-96,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:半影的問題)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年11月9日金曜日

17.難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))

難解な事案と在る法、在るべき法

【難解な事案における裁判官の決定を、在る法を超えた法創造、司法立法とみなすことは、「在るべき法」についての誤解を招く。この決定は、在る法自体が持つ持続的同一的な目的の自然な精密化、明確化ともみなせる。(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))】

(1)難解な事案、すなわち半影的問題において、次のような事実がある。
 (1.1)ルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある意味ではルール自体に帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。それは、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化するようなものである。
 (1.2)このような場合について、在るルールと在るべきルールを区別し、裁判官の決定を、在るルールを超えた意識的な選択や「命令」「法創造」「司法立法」とみなすことは、少なくとも「べき」の持つある意味においては、誤解を招くであろう。
(2)日常言語においても、次のような事実がある。
 (2.1)私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、人間に共通の目的を仮定的に考慮して、解釈している。
 (2.2)例としてしばしば、聞き手の解釈を聞いて、話し手が「そうだ、それが私の言いたかったことだ。」というようなケースがある。
 (2.3)議論や相談によって、より明確に認識された内容も、そこで勝手に決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのか、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。

(出典:alchetron
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978)
検索(ロン・フラー)

 「もし倫理学における「非認知主義的」理論やその他類似の理論を反証することが、在る法と在るべき法との区別に関係するもので、この区別をある点で破棄したり、何か弱めたりすると主張するためには、一層突っ込んだそして厳密な議論をしなければならない。

ハーバード・ロー・スクールのフラー教授(ロン・ロヴィウス・フラー(1902-1978))がそのさまざまな著作の中で展開している以上に、この方向での議論をはっきりと展開している人物はいない。そこで、その主要な論点だと思われるところを批判することで、この論文を終えたい。

その論点は、意味が明確で議論を呼ぶことのない法的ルールないし法的ルールの意味の明確な部分ではなく、当初から問題があることが感じられており、具体的ケースにおいてルールの意味について議論がなされる場面でのルールの解釈を考察するときに再び私たちの前に現われてくるものである。

どのような法体系においても、法的ルールの適用される範囲が、立法者が現実に考えたこと、あるいは、考えたと思われる具体的な事例の範囲に限られることはない。

これが実際のところ、法的ルールと命令との重要な違いの一つである。

ところが、立法者が考えた事例、もしくは、考えたであろう事例を超える事例にルールを適用していると考えられる場合に、このような新しいケースへのルールの拡張は、しばしば、ルールを解釈する者の意識的な選択や命令のようには見えない。

それは、そのルールに新しい、拡張的な意味を与える決定とも見えないし、また、立法者が、たとえば18世紀に死んだのだがもし20世紀まで生きていたならば、言うであろうことの推測とも見えない。

そうではなく、そのルールの下に新しいケースを包摂する行為は、そのルールの自然な精密化として、すなわち、ある特定の現存、物故の人物にというよりもルール自体に(ある意味で)帰するのが自然であるような「目的」を満たすものである。

功利主義者は、このような古いルールの新しいケースへの解釈的な拡張を、司法立法と記述するのだが、これはこの現象を正しく扱っていない。

これでは、新しいケースを過去のケースと同様に扱うという意識的な承認や決定と、ルールの下に新しいケースを包摂することが、それまではっきりとは感知されていなかった持続的同一的な目的を補完し明確化することになるという認識(この認識には意識的なところはほとんどないし、また、任意的なところすらほとんどない)との違いについての手掛かりが与えられない。


 おそらく、多くの法律家や裁判官は、補完し明確化するという言いまわしの中に、彼らの経験にぴったり合致するものを感じるであろう。

そうでない者は、これは、功利主義者の表現では司法「立法」、現代のアメリカの用語で言えば「創造的選択」という言葉でうまく語られている事実を、ロマンティックに解釈したものだと考えるかもしれない。

 この問題点を明確にするために、フラー教授は、法とは無関係な例を哲学者のウィトゲンシュタインから借りてきているが、啓発的な例であると思われる。
 『ある人が私に向かって「その子供たちにゲームを教えてやりなさい」と言う。そこで私はダイスを使うゲームを教える。すると、相手は「私はその種のゲームを考えていなかった」と言う。彼が私に命令した時に、ダイスを使うゲームを排除することが彼の念頭になければならないのだろうか。』

 この例はたいへん重要なことに触れているように私には思われる。おそらく次のような(区別可能な)論点がある。

第一に、私たちは普通、人びとが何をしようとしているかばかりではなく、人びとが何を言うのかということについても、仮定的な人間に共通の目的を考慮して解釈しているので、反対のことが明示的に指示されるまでは、幼い子供にゲームを教えろという指図を、他の文脈では「ゲーム」という言葉が自然にギャンブルの意味に解釈されることもあろうが、ギャンブルを教えてやれという命令とは解釈しない。

第二に、たいへんしばしばあることだが、話し手がその言葉のそのような解釈を聞いて、「そうだ、それが私の言いたかったことだ。〔ないし「それが私がずっと考えていたことだ。」〕あなたがこの具体的なケースを私に示してくれるまでは思い至っていなかったがね」ということがある。

第三に、前もってはっきりと心に描かれていなかった個別具体的なケースが曖昧に表現された指図の範囲の中に入ると、たいてい他人と議論したり相談したりした後でのことだが、認識したとしよう。この認識のあり方を記述するのに勝手にそのケースをそのように扱うように決めたのだと表現するならば、この体験を歪めることになろう。

これを誠実に記述しようとするならば、何を「本当に」望んでいるのかを、ないし、「真の目的」を理解し、明瞭化するに至ったと記述するべきであろう。――これらの言い回しはフラー教授が同じ論文の後の部分で使用している。

 フラー教授が例に挙げた種類のケースに注意を向けることで、道徳的議論の性格についての哲学的議論は、多くの実りを得るものと私は信じている。

このようなケースに注目することは、「目的」と「手段」との間は鋭く分離しており、「目的」について議論するときには互いに非合理的に働きかけることができるだけで、合理的議論は「手段」についての議論のためのものであるという見解を矯正するものを提供する助けになろう。

しかし、この論点が、在る法と在るべき法との区別の主張が正しいものかどうかとか賢明なものかどうかという問題にどれほど関係しているかといえば、私は実際にはほとんど関係していないと考える。

よく考えてみると、法的ルールを解釈する際に、ある解釈がルールのたいへん自然な精密化や明瞭化なので、それを「立法」だとか「法創造」だとか「命令」だとか考えたり呼んだりすることがうまくそぐわないもののように思える場合があるというのがこの議論の趣旨である。

そして、そのような場合について、在るルールと在るべきルールを区別することは――少なくとも「べき」の持つある意味においては――誤解を招くであろう、という議論である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.92-94,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:難解な事案,在る法,在るべき法,半影的問題)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年11月4日日曜日

16.仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また逆に、在るべき法が客観的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、また区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

在るべき法

【仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また逆に、在るべき法が客観的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、また区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.3)、(4)追記。

(3)規範的な言語で表現される価値言明は、ある集団において特定の社会的ルールが存在するか否かという事実問題である。この事実の存在は、人々の外的視点、内的視点の両面から判断される。
 (3.1)注意すべきは、感情や態度などの主観的選好そのものが価値を基礎付けるわけではなく、事実としての社会的ルールの存在が、そのような感情や態度をしばしば生じさせるということである。
 (3.2)また、社会的ルールの存在という事実にとって、ルールの常習的違反者が少数存在することは何ら矛盾したことではない。
 参照: 特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 参照: 「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化しても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (3.3)存在と当為、事実と価値、手段と目的、認知的と非認知的の区別が、議論と検討と反省が無駄だという根拠として使われるとき、この区別は有害なものとなる。個別具体的なものについての争いに関し、当事者が議論し詳細に検討し反省してみることによって、当初は曖昧なまま感知されていた諸原則が、当事者双方が合理的に受け容れられるような明確なものとして、理解できるようになる。
(4)しかし、それでもなお、在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、区別すべきである。
 (4.1)ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、その法が法でないことを示したことにはならない。法は様々な程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、なお法であり続ける。
 (4.2)逆に、法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。

 「このような見解(もちろん、このような大雑把な検討で伝えられるよりもはるかに精密な議論である)に反対して、これらすべての存在と当為、事実と価値、手段と目的、認知的と非認知的の厳密な区別は間違いであると主張する者もいる。

究極的な目的ないし道徳的価値を認めるときに、私たちは、何が起こっているのかということについての事実判断の真理性と同様、選択や態度や感覚や感情の問題ではなく、しかも、私たちが生きている世界の性格によって受け入れざるを得ないものを認識している。

典型的に道徳的な議論というのは、議論している当事者が互いに、感覚や感情を表現したり抑制したり、勧告や命令を発する議論ではなく、議論することで当事者が、詳細に検討し反省してみると最初に争っていたケースが曖昧なまま感知していた原則(それ自体、他のどのような分類の原則に比べても、少しも「主観的」でも「意志の命令」でもない原則)の範囲に入ると認め、そして、それが個別具体的なものについて最初に争われた他のどのような分類よりも「認知的」「合理的」と呼ばれるに値すると認めるに至る議論であるとされる。

 以上のような道徳に関する「非認知的」理論への批判や、在るものと在るべきものについての言明の徹底的な区別の否定を認めて、道徳的な判断は他のタイプの判断と同じく合理的に擁護できるものであるとしよう。

そう考えたとして、在る法と在るべき法との連関の本質に関して何か導かれるものがあるだろうか。これだけからでは何も導かれはしないと断定できる。法は、いかに道徳的に邪悪であっても、なお(この点に関する限り)法である。道徳的判断の本質についてのこの見解を受け入れることで生じる唯一の違いは、そのような法の道徳的邪悪さが証明できるものとなるというだけのことであろう。

あるルールが道徳的に悪であり法たるべきでないということ、また逆に、道徳的に望ましく法たるべきであるということが、そのルールが要求していることについての言明だけからたしかに導き出されるだろう。 

しかし、これを証明したとしても、そのルールが法でない(または、法である)ことを示したことにはならない。

私たちが法を評価したり非難したりする際に用いる原則が合理的に発見可能なものであり、たんなる「意志の命令」ではないことが保障されても、法は、さまざまな程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、なお法であり続けることがあるという事実には変わりはない。また逆に、法であるべきすべての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。」


(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.91-92,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年11月3日土曜日

15.在るべき法の由来:(a)感情や態度などの主観的選好か、(b)命令として直感される諸原則か、(c)「普遍的な」意志の命令による目的か、(d)功利の原理か、(e)ある種の啓示によるか、(f)社会的ルールの存在。(ハーバート・ハート(1907-1992))

在るべき法

【在るべき法の由来:(a)感情や態度などの主観的選好か、(b)命令として直感される諸原則か、(c)「普遍的な」意志の命令による目的か、(d)功利の原理か、(e)ある種の啓示によるか、(f)社会的ルールの存在。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)在るべき法は、主観主義的、相対主義的、非認知的なものであるという考え。
 自然を支配している諸法則を考えると、そこには善いものと悪いものを基礎づける何らかの根拠があるようには思えない。このことから、どうあるべきかという言明(価値の言明)は、何が起こっているのかという言明(事実の言明)からは基礎づけられ得ないと考えられた。
 (1.1)ある哲学は、価値言明が感覚や感情や態度などの主観的選好の表現であると考えた。
 (1.2)ある哲学は、価値言明というものは、ある個別具体的なケースが、行為の一般的な原則や方針の下に包摂されることを示すものであると考えた。そして、この一般的な原則や方針は、人間に対して何かしら一種の普遍的な命令として直感されるようなものとして理解された。
 (1.3)ある哲学は、価値言明というものが、ある特定の目的を促進するものであると理解する。そして、私たちは、その目的のために何が適切な手段であるかを合理的に議論したり発見したりできる。しかし、目指される目的自体は、意志の命令あるいは感情や選好や態度の表現であるとされる。
(2)在るべき法には、何らかの普遍的な根拠があるという考え。
 しかし、人間の感覚や感情、態度の主観的選好は何に由来するのか。何かしら命令的なものとして与えられる一般的な原則や方針は、何に由来するのか。目指されるものとして感知される目的は、何に由来するのか。
 (2.1)道徳原則は、功利に関する実証可能な命題である。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
 (2.2)究極的な道徳原則は、啓示によって、またその指標としての功利を通して知ることができる。(ジョン・オースティン(1790-1859))
(3)規範的な言語で表現される価値言明は、ある集団において特定の社会的ルールが存在するか否かという事実問題である。この事実の存在は、人々の外的視点、内的視点の両面から判断される。
 (3.1)注意すべきは、感情や態度などの主観的選好そのものが価値を基礎付けるわけではなく、事実としての社会的ルールの存在が、そのような感情や態度をしばしば生じさせるということである。
 (3.2)また、社会的ルールの存在という事実にとって、ルールの常習的違反者が少数存在することは何ら矛盾したことではない。
 参照: 特定の行動からの逸脱への批判や、基準への一致の要求を、理由のある正当なものとして受け容れる人々の習慣が存在するとき、この行動の基準が社会的ルールである。それは、規範的な言語で表現される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 参照: 「外的視点」によって観察可能な行動の規則性、ルールからの逸脱に加えられる敵対的な反作用、非難、処罰が記録、理論化しても、「内的視点」を解明しない限り「法」の現象は真に理解できない。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(4)在るべき法は、(3)の意味で、ある社会における社会的ルールの存在の事実の有無として客観的に論証可能なものであり、その社会の内においては相対主義的なものではない。ただし、異なる社会は、異なるルールを持ち得る。この意味では、相対的なものである。しかし、人類全体において認められる社会的ルールは、事実上、普遍的なものとなる。それでもなお、これら普遍的な諸ルールが、自然を支配している諸法則に、いかに由来しているのかと問うことができる。(未来のための哲学講座)

 「「法実証主義」に対して強く抵抗している人びとに最も反感を持たせていると思われるものを、結論を述べるにあたって考察しないならば、片手落ちであろう。

在る法と在るべき法との区別の強調は、道徳的判断、道徳的区別、また、「価値」のまさに本質に関しての「主観主義的」「相対主義的」ないし「非認知的」な理論と呼ばれるものに基礎を置き、それを必要としている、と受け取られるかもしれない。

もちろん、功利主義者たち自身は、彼らの道徳哲学が私たちからみていかに不十分なものであるにせよ、(ケルゼンのような後の実証主義者とは異なり)そのような理論を支持していない。

オースティンは究極的な道徳原則は、啓示によってそして功利という「インデックス」を通して知ることのできる神の命令であると考えていたし、ベンサムは道徳原則を功利に関する実証可能な命題であると考えていた。

しかるに、私の考えるところでは(証明はできないのだが)、在る法と在るべき法との区別の主張は、「実証主義」という一般的題目の下で、ある道徳理論、すなわち、何が起こっているのかという言明(「事実の言明」)はどうあるべきかという言明(「価値言明」)とは根本的に異なるカテゴリーないしタイプに属するという道徳理論と混同された。

したがって、この混同の源を取り除いておく方がよいと思う。

 このタイプの道徳理論は、現在さまざまなものが存在している。

ある理論によれば、在るべきこと、なされるべきことについての判断は、「感覚」や「感情」や「態度」の、また、「主観的選好」の表現であるか、または、それらを本質的要素として含んでいる。

別の理論によれば、そのような判断は、感覚や感情や態度の表現であるとともに他人にそれらを共有するように命令するものである。

また別の理論によれば、そのような判断は、行為の一般的な原則や方針の下に、ある個別具体的なケースが包摂されることを示すものである。

この原則や方針というのは、判断者が自ら「選択」し、「遵守すると決心」し、そして、それ自体何が起こっているかという認識ではなく、判断者自身も含めたすべての人へ向けられた一般的「定言命令」ないし命令とでもいうべきものである。

これら各説が共通して主張しているのは、なされるべきことについての判断は、「非認知的」要素を含んでいるので、事実の言明のように合理的な方法で議論、論証することはできず、また、事実の言明から導かれることを示すこともできず、なすべきことについての判断を事実の言明と結合したところから導かれるにすぎない、ということである。

このような理論に依拠するならば、たとえば、ある行為は悪いということを証明しようとすると、その行為は行為者が自己満足のためだけに故意に苦痛を加えるものであることを示すだけでは足らない。

そういう実証可能な「認知的」な事実の言明に、そのような状況の下での苦痛を加える行為は悪い、なすべきではないという原則、それ自体は実証可能でも「認知的」でもない一般的な原則を付け加えてはじめて、その行為が悪いということを示すことができる。

在るものと在るべきものとのこの一般的な区別に加えて、手段についての言明と道徳的目的についての言明との間でもそれに平行する厳格な区別がなされる。

私たちは、何かが与えられた目的にとって適切な手段であるかを、合理的に発見したり議論したりできるが、しかし、目的というものは、合理的に発見したり議論したりできるものではない。

それは、「意志の命令」であり、「感情」や「選好」や「態度」の表現であるとされる。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.90-91,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年10月30日火曜日

13.困難な、道徳の二律背反的な状況を、あるがままに認識し対処すること。明快に語る手段がたくさんあるとき、「道徳的批判」で表現しないこと。それは、分析を混濁させ議論を混乱させてしまう。(ハーバート・ハート(1907-1992))

道徳的二律背反

【困難な、道徳の二律背反的な状況を、あるがままに認識し対処すること。明快に語る手段がたくさんあるとき、「道徳的批判」で表現しないこと。それは、分析を混濁させ議論を混乱させてしまう。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)道徳の歴史から学ぶものがあるとすれば、それは、道徳的二律背反を処理するにはそれを隠さない、ということである。困難と戦うときと同様に、二つの悪のうちましな方を選ばざるを得ない状況に至った際には、状況をあるがままに自覚して対処しなければならない。
 (1.1)困難な状況、道徳的二律背反的な状況を、議論の余地のある「道徳的批判」で表現してはならない。それは、膨大な哲学的問題を呼び起こしてしまう。明快に語る手段がたくさんあるときには、明快に語ること。
 (1.2)「すべての不調和は、知られざる調和なり」「すべての部分悪は、普遍的善なり」は、誤りであろう。私たちが賞賛する諸価値が、互いに衝突し合ったり、犠牲にされたりせず統合され得るというのは、ロマンティックな楽観であろう。
(2)例として、言語道断なほど不道徳的な行為をした人がいたとする。しかし、当時それは適法とされた行為に基づいていたとしよう。
 (2.1)当時その行為を適法とした制定法が、醜悪な法であり「法たり得ない」ゆえに、その人の不道徳的な行為の故に、その人を罰する。
 (2.2)いかに言語道断だとは言え、当時違法ではなかったので、その人を罰しない。
 (2.3)罰しないことは、悪だと思われる。一方、罰することは、事後的な法を導入して罰することになり、別の非常に重要な道徳原則を犠牲にすることになる。それでも、その人を罰するとしたら、どのような理由によって、正当化できるのか。当時の制定法が、醜悪な法であり「法たり得ない」としてしまうことは、問題の本質を覆い隠してしまう。

 「多くの人はこの目的――言語道断なほど不道徳的な行為をしたという理由でこの婦人を罰すること――を賞賛するかもしれない。

しかし、この目的を達するには、1934年以降施行された制定法が法としての効力を持たないことを宣告しなければならない。

いうまでもないが、それ以外に二つの選択肢があった。

一つはその婦人を罰しないままにしておくというものである。罰するのは良くないことかもしれないという意見に共感してそれを支持することも考えられる。

もう一つは、もしその婦人が罰せられるならば、それははっきりと事後的な法を導入することによるものでなければならず、そういう形で彼女の処罰を確定することで何が犠牲にされるのかが十分に意識されていなければならないという事実を直視するものである。

事後的に刑事立法を行なって処罰することは醜悪なことであろうが、それを公然と求めてみることは、少なくともこのケースにおいては、公明正大であるというメリットを持ったであろう。

この婦人を罰するかどうかというのは二つの悪のうち一つを選ぶことであるというのがはっきり見えたであろう。

彼女の罰しないままにするという悪と、ほとんどの法体系が認めている非常に大事な道徳原則を犠牲にするという悪と。

道徳の歴史から学ぶものがあるとすれば、それは、道徳的二律背反を処理するにはそれを隠さない、ということである。困難と戦うときと同様に、二つの悪のうちましな方を選ばざるを得ない状況に至った際には、状況をあるがままに自覚して対処しなければならない。

ある限界地点において、ひどく不道徳的なものは法たり得ない、合法たり得ない、という原則を右の事件で用いたように使うことの欠点は、私たちが直面している問題の本質を覆い隠してしまうことにあり、また、私たちが賞賛する諸価値はすべて最終的に一個のシステムへとまとめられ、その価値のどの一つも他の価値のために犠牲にされたり折衷されたりするべきではないというロマンティックな楽観を助長してしまうことにある。

    すべての不調和は、知られざる調和なり
    すべての部分悪は、普遍的善なり

 この詩句は間違いなく誤りである。上記の問題を定式化するのに、ディレンマの処理がまるで日常的なケースにみられるものであるかのように表現することを許すように定式化するのは不誠実である。

 おそらく、この難しいケースを処理する方法について、どちらの方法をとっても、この婦人に関する限り、全く同じ結果になると思われるのに、一つの方法を他の方法と比較して強調するのは、形式に、さらにはおそらく言葉に、こだわりすぎているように思われるかもしれない。

なぜこれらの方法の違いを大袈裟に言わなければならないのであろうか。私たちは、この婦人を新しい事後法によって処罰し、公然と、それはわれわれの原則に反することではあるが、二つのうちではましな方だと宣言できるであろうし、そうではなく、そのような原則を一体どこで犠牲にしているかを指摘せずにその事件に決着をつけることもできよう。

しかし、公明正大さは、それが道徳において取るに足らない徳ではけっしてないのと同様に、法の運用における多くの些細な徳の中の一つにすぎないわけではない。

というのは、もし私たちがラートブルフの見解を受け入れ、彼やドイツの裁判所にならって、ある種のルールはその道徳的不公正さのゆえに法たり得ないという主張の形で悪法に対する抵抗をするならば、最も単純であるがゆえに最も力強い形態の道徳的批判の一つを混乱させてしまうからである。

もし功利主義者にならって単純明快に語るならば、法は法であろうが従うには邪悪過ぎると語ることになる。これは、誰にでも理解できる道徳的非難であり、道徳的考慮を求める直接的で明白は要求をなすものである。

他方、もしこの異議申し立てをこれらの邪悪なものは法ではないという主張として定式化するならば、それは多くの人が支持しない主張になってしまい、人びとがそれを考慮してみる気になったとしても、主張が認められる前に膨大な哲学的問題を呼び起こすことになろう。

したがって、功利主義的区別をこのような形で否定するとどうなるかを検討してそこから学ぶべき一つの最も重要な教訓があるとすれば、それは、功利主義者が人びとに理解させようとして最も心をくだいた次の教訓である。   

明快に語る手段がたくさんあるときには、議論の余地のある哲学に基づいた命題の形で制度の道徳的批判を表現するべきではない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.84-86,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:道徳的二律背反)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年10月29日月曜日

10.14.人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタフ・ラートブルフ(1878-1949))

人道主義的道徳と法

【人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタフ・ラートブルフ(1878-1949))】

(3.4.1)~(3.4.3)追記

 参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))
 参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
 (3.1)法の支配の下での生活の一般的な処方は、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であるが、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは、この処方を切り崩してしまう。
 (3.2)在る法と在るべき法の区別は、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するのに必要である。
  (3.2.1)各人が抱く在るべき法についての見解と、法とその権威とを同一視してしまう危険がある。すなわち、「これは法であるべきではない。従って法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストの考えに通ずる。
 (3.3)在る法と在るべき法の区別は、道徳的悪法の引き起こす問題の正確な分析に必要である。
  (3.3.1)存在する法が、行為の最終的なテストとして道徳にとって代わり、批判を受けつけなくなる危険がある。すなわち、「これは法である。従ってこれは在るべき法である」と言い、法に対する批判が提起される前にそれを潰してしまう反動家の考えに通ずる。
 (3.4)法の命令があまりに悪いために、(3.1)の処方を超えて、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかも知れない。このような問題を解明するためにも、(3.2)のように余りに単純化してしまうことは誤りである。
  (3.4.1)「無害な、ないし、はっきりと有益である行為が、主権者によって死刑でもって禁止されているとしよう。もし私がこの行為をすると、私は裁判にかけられ有罪とされるであろう。そして、もし私がこの有罪判決に対して神の意志に反すると抗議したとしても、正義の法廷は、私の挙げる理由が決定力を持たないことを、私が妥当でないと非難している法を執行して私を絞首することで実証してみせるだろう。」(ジョン・オースティン(1790-1859))
  (3.4.2)もし法が、一定の度合の不正状態に達するならば、法に抵抗し、法に服従することをやめる道徳的義務が生じる。(ジョン・オースティン(1790-1859)、ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
  (3.4.3)人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタフ・ラートブルフ(1878-1949))
(出典:wikipedia
グスタフ・ラートブルフ(1878-1949)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
グスタフ・ラートブルフ(1878-1949)
検索(ラートブルフ)

 「この訴えは、ナチ体制の下で生き、その体制が邪悪な法体系を生みだしたことについて反省したドイツの思想家たちによる訴えである。

その中の一人、ラートブルフは、ナチの専制までは「実証主義的」原理を支持していたが、ナチの専制を経験して転向した人であるから、彼が法と道徳の分離という原理を捨てるように他の人に訴える様子には、自説を変更するという特殊な痛烈さがある。

この批判に関して重要であるのは、在る法と在るべき法との分離を力説するときにベンサムとオースティンが念頭においていた主張に、この批判が対決しているということである。

これらのドイツの思想家たちは、功利主義者が分離したものを、功利主義者の目にはこの分離が最も重要であるちょうどその場面で、結合させることが必要だという主張をした。

彼らは道徳的な悪法の存在という問題に関心をよせたのである。

 ラートブルフは、転向する以前には、法への抵抗は個人の良心の問題で、個人によって道徳的な問題として考えられるべきであるとし、法の要求するところが道徳的に悪であることを示したとしても、さらに、法への服従のもたらす結果が法への不服従のもたらす結果よりも悪いことを示したとしても、法の妥当性は否定されるものではないという意見を持っていた。

ここでオースティンを思い起こしてもらいたい。オースティンは、もし人の法が道徳の基本的な原則と衝突するならばそれは法ではないと言う者に対して、「全くナンセンスなこと」を語っていると強い非難をあびせている。

 『最も邪悪な法、したがって最も神の意志とは対立する法が、司法裁定機関によって、法として強行されてきたし、また強行され続けている。

無害な、ないし、はっきりと有益である行為が、主権者によって死刑でもって禁止されているとしよう。

もし私がこの行為をすると、私は裁判にかけられ有罪とされるであろう。

そして、もし私がこの有罪判決に対して神の意志に反すると抗議したとしても、正義の法廷は、私の挙げる理由が決定力を持たないことを、私が妥当でないと非難している法を執行して私を絞首することで実証してみせるだろう。

神の法に基づいた異議申し立てや妨訴抗弁や抗弁は、天地創造の時から現在に至るまで、正義の法廷で聞き入れられたことはない。』

 これはたいへん頑固な、暴力的なとさえ言える発言であるが、――オースティンの場合、そして、もちろん、ベンサムの場合も――もし法が一定の度合の不正状態に達するならば、法に抵抗し、法に服従することをやめる道徳的義務が生じるという確信とともにこれらの言葉を語っていることに注意しなくてはならない。

人間が陥るかもしれないディレンマをこのように率直に表現する以外に方策はないのかと思案してみてもらいたい。

この率直な表現がどれほど崩しにくいものであるかがわかるだろう。

 しかし、ラートブルフは、たんなる法規への隷従――彼によれば、「法は法だ」(Gesetz ist Gesetz)という「実証主義的」スローガンによって表現される――をナチの体制が容易に利用したということから、また、ドイツの法曹界が、法の名の下に行なうことを要求された極悪な行為に対して抵抗することができなかったということから、いとも簡単に「実証主義」(ここでは、在る法と在るべき法との分離の主張を意味している)はこの惨事の発生に積極的に加担したと結論している。

彼は熟慮反省して、人道主義的道徳は法 Recht とか合法性という概念自体の一部であり、どのような実定的立法も制定法も、いかに明確な表現を持っていても、また、いかに既存の法体系の持つ妥当性の形式的基準に合致していても、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば妥当性を持たないという原理に到達した。

この原理は、Recht というドイツ語の帯びているニュアンスが把握できなければ完全に理解することはできない。

しかし、この原理が、すべての法律家と裁判官は、基本的な原則の範囲から逸脱した制定法を、不道徳で間違ったものとしてだけでなく法的性格を持たないものとして糾弾すべきであり、また、基本的な原則の範囲から逸脱していることで法である性質を欠く立法は、個別具体的な状況下にあるどのような個人についてであれ、その法的立場を決定する際に考慮されるべきものではない、という意味であるのは明らかである。

ラートブルフが彼のそれまで支持していた原理を衝撃的に変更した様子は、残念なことに、彼の著作の翻訳では省かれているが、法と道徳の相互連関の問題を新しく考え直そうとする者すべての読むべきものである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.80-82,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:人道主義的道徳,法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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