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2018年9月23日日曜日

2種類の《我》:(1)相手と自己を《それ》と捉える個我は、自己幻像を拠り所とし、真の存在から遠ざかる。(2)相手に《汝》として出会う人格は、自己がいかなる存在であるかを直視し、共存する存在の真実を知る。(マルティン・ブーバー(1878-1965))

2種類の《我》:個我と人格

【2種類の《我》:(1)相手と自己を《それ》と捉える個我は、自己幻像を拠り所とし、真の存在から遠ざかる。(2)相手に《汝》として出会う人格は、自己がいかなる存在であるかを直視し、共存する存在の真実を知る。(マルティン・ブーバー(1878-1965))】

2種類の《我》
(1)個我
 (1.1)相手を《それ》として捉える《我》は、自分自身も《それ》として捉え、相手と自己とを経験し、利用する対象として意識する。
 (1.2)その結果、「私とは、このような人である」と、個我は言う。個我は、その我が物を拠り所とする。我が流儀、我が民族、我が創造、我が天分など。
 (1.3)《汝自身を知れ》は、個我にとっては《汝の存在様態を知れ》ということを意味する。自己認識とは、自分のために自ら仕立てあげた虚構、自己幻像であり、個我は、それを眺め、称揚しては、自分がそのような存在であるという疑似認識を獲得し、自己の特殊性を享受する。
 (1.4)その結果、個我は、自己と他のさまざまな個我との差異をきわだたせることによって、存在から遠ざかってしまう。
(2)人格
 (2.1)相手に《汝》として出会う《我》は、自分自身を、《汝》との関係における全体的な主体として意識する。
 (2.2)その結果、「私は、存在する」と、人格は言う。人格は、自己がいかなる存在であるかを直視する。
 (2.3)《汝自身を知れ》は、人格にとっては《汝を存在として知れ》ということを意味する。人格は、自己の存在の特殊性、別異性を放棄してしまうわけではない。それは必要で重要である。しかし、個我とは異なり、この特殊性を拠り所として人格が存在しているのではない。
 (2.4)その結果、人格は自己を、存在に関与しているものとして、ひとつの《共に存在しているもの》として意識し、そして、共に存在しているからこそ存在していることを知る。

 「根元語・《我-それ》における《我》は個我(Eigenwesen)として発現し、自己を(経験と利用との)主体として意識する。
 根元語・《我-汝》における《我》は人格(Person)として発現し、自己を(隷属的な属格を持たぬ)主体性として意識する。」(中略)
 「人格は自己を、存在に関与しているものとして、ひとつの《共に存在しているもの》として、そして、だからこそ存在しているものとして意識する。個我は自己を、《かく在り-それ以外の仕方では存在していないもの》(ein so-und-nicht-anders-seiendes)として意識する。人格は言う、《我は在る》と。しかし個我は言う、《我はかく在る》と。《汝自身を知れ》は人格にとっては、《汝を存在として知れ》ということを意味し、個我にとっては《汝の存在様態を知れ》ということを意味する。個我は自己と他のさまざまな個我との差異をきわだたせることによって、存在から遠ざかってしまうのである。
 といっても、人格は自己の存在の特殊性を、別異性を《放棄》してしまうのだなどというわけではない。人格にとっては、この特殊性はただ、人格がそれを拠り所とする視点ではないだけである、……それはただそこにあるもの、ただ存在を縁取っている必要にして重要な枠にほかならない。個我はそれに反して、自己の特殊性を享受する。いやむしろ個我は多くの場合、自己が特殊であるという、自分のためにみずから仕立てあげた虚構を享受するのである。なぜなら、自己認識とは個我にとって実はたいていの場合、ひとつのもっともらしい、そして自分自身をもますます徹底して欺くに足るほどの自己幻像を作り出すことを意味し、それを眺め、称揚しては、自分がそのような存在であるという疑似認識を獲得することを意味しているからである。が、自己がいかなる存在であるかを真に認識するなら、個我は自己破壊か――さもなくば再生へとみちびかれることになるであろう。
 人格は自己の本体を直視する。個我はその《わが物》(Mein)とかかりあう、――わが流儀、わが民族、わが創造、わが天分などと。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.84-87、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:個我,人格)

我と汝/対話



(出典:wikipedia
マルティン・ブーバー(1878-1965)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「国家が経済を規制しているのか、それとも経済が国家に権限をさずけているのかということは、この両者の実体が変えられぬかぎりは、重要な問題ではない。国家の各種の組織がより自由に、そして経済のそれらがより公正になるかどうかということが重要なのだ。しかしこのことも、ここで問われている真実なる生命という問題にとっては重要ではない。諸組織は、それら自体からしては自由にも公正にもなり得ないのである。決定的なことは、精神が、《汝》を言う精神、応答する精神が生きつづけ現実として存在しつづけるかどうかということ、人間の社会生活のなかに撒入されている精神的要素が、これからもずっと国家や経済に隷属させられたままであるか、それとも独立的に作用するようになるかどうかということであり、人間の個人生活のうちになおも持ちこたえられている精神的要素が、ふたたび社会生活に血肉的に融合するかどうかということなのである。社会生活がたがいに無縁な諸領域に分割され、《精神生活》もまたその領域のうちのひとつになってしまうならば、社会への精神の関与はむろんおこなわれないであろう。これはすなわち、《それ》の世界のなかに落ちこんでしまった諸領域が、《それ》の専制に決定的にゆだねられ、精神からすっかり現実性が排除されるということしか意味しないであろう。なぜなら、精神が独立的に生のなかへとはたらきかけるのは決して精神それ自体としてではなく、世界との関わりにおいて、つまり、《それ》の世界のなかへ浸透していって《それ》の世界を変化させる力によってだからである。精神は自己のまえに開かれている世界にむかって歩みより、世界に自己をささげ、世界を、また世界との関わりにおいて自己を救うことができるときにこそ、真に《自己のもとに》あるのだ。その救済は、こんにち精神に取りかわっている散漫な、脆弱な、変質し、矛盾をはらんだ理知によっていったいはたされ得ようか。いや、そのためにはこのような理知は先ず、精神の本質を、《汝を言う能力》を、ふたたび取り戻さねばならないであろう。」
(マルティン・ブーバー(1878-1965)『我と汝』第2部(集録本『我と汝・対話』)pp.67-68、みすず書房(1978)、田口義弘(訳))
(索引:汝を言う能力)

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