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2020年5月22日金曜日

他人に直接的損害を与えない自由な行為でも,間接的な影響はあり,別評価が必要だ. たとえそれが"よい行為"とされても,間接的な損害の危険が明確なときは,特段の事情がない限り,他人への配慮が道徳や法の対象となり得る.(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

他人へ間接的に及ぼす影響

【他人に直接的損害を与えない自由な行為でも,間接的な影響はあり,別評価が必要だ. たとえそれが"よい行為"とされても,間接的な損害の危険が明確なときは,特段の事情がない限り,他人への配慮が道徳や法の対象となり得る.(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
(2.3.4)追記。

  (2.3.3)本人を通じて間接的に受ける影響について
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、一般的に、本人に影響があることは、間接的には本人を通じて他人に影響を与え得る。
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、家族への被害は? 頼っている人への被害は? また、社会全体としてみると害悪があるのでは? 他の人が真似をしてしまうような悪影響は?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (a)家族への被害は?
    誰でも、自分に深刻な害か、取り返しのつかない害のあることをすれば、少なくとも家族には被害が及ぶだろう。
   (b)頼っている人への被害は?
    自分の財産を減らせば、その財産に直接にか間接にか頼って生活している人が打撃を受けるだろう。
    (b.1)自分の財産の浪費自体は、非難や処罰の対象ではない。
    (b.2)その結果、人に打撃を与えたこと自体は、非難や処罰の対象になり得る。これは、浪費が悪い目的のためか、良い目的のためかには拠らない。
   (c)社会全体にとっての害悪は?
    自分の身体か頭の能力が低下すれば、幸せのある部分でその人に頼っている人たちに被害を与えるうえ、社会全体の役に立つ仕事をすべきなのにそれができなくなり、おそらくは逆に社会の愛情と慈悲に頼るようにすらなるだろう。
   (d)他の人が真似をしてしまうような悪影響は?
    悪徳や愚行によって他人に直接に被害を与えないとしても、悪い実例を示して社会に害悪を流すことになるので、その人の行動を見聞きした人が堕落か誤解をしないように、自制を強制されるのが当然である。
   (e)本人を社会が保護すべきではないのか?
    直接影響を与えるのが本人のみであっても、社会が保護すべきという考えは間違っているのか? また、明らかに社会にとって不都合と思われることは、可能な範囲で最小限、禁止してもよいのではないか?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
    子供や成年に達していない若者は明らかに、本人の意思を無視しても社会が保護すべきだというのであれば、大人になって自分を律することができない人も、社会が保護すべきではないのだろうか。
   (f)明らかに社会にとって不都合と思われること
    賭博や飲み過ぎ、淫乱、怠惰、不潔が、法律で禁止されている行為の多くと変わらないほど不幸をもたらし、進歩を妨げるのであれば、実行が可能な範囲で、そして社会にとって不都合にならない範囲で、法律でこれらを抑制してはならないという理由があるのだろうか。
  (2.3.4)周囲の人たちのために自分自身に配慮すべきなのに、そうしなかったことで周囲の人たちへの義務を果たせなかったときには、道徳の問題になり非難の対象となる。
   (a)本人の行為と、その結果を分けて考えること
    直接には他の人々に影響がない行為は、本人の自由の領域である。しかし、間接的に他の人々に損害を与えるなら、その結果に対しては道徳や法の問題となる。これは、原則的には分けて考える必要がある。特に、他人に直接影響がないとされる行為が、良い行為だと見なされている場合も、結果の責任については、分けて考える必要がある。
   (b)間接的な影響とはいえ、損害を及ぼす明らかな危険がある場合
    他人や社会へ損害を与える危険が明らかにあった場合には、それを配慮しないことは、自由の領域での問題ではなくなり、道徳か法の領域の問題になる。
   (c)自己の緊急の義務あるいは自由が許容される特別な事情
    他人の利益と感情に対して通常払うべき配慮を怠った人は、もっと緊急の義務を果たすためか、許容される範囲で自分の好みを優先したという事情がない限り、配慮を怠ったという点で道徳という観点からの非難の対象になる。

 「以上のような主張に対して、わたしはこう答える。ある人の行動によって本人が深刻な打撃を受けたとき、同情心と利害とによって周囲の人たちも深刻な影響を受ける場合があるし、社会全体もある程度の影響を受ける場合があることは十分に認める。この種の行動の結果、その人が他人に対する明確で具体的な義務を怠った場合、その事例は個人のみに関係する問題ではなくなり、言葉の本来の意味での道徳の問題、つまり社会道徳の問題になり、道徳に基づく非難の対象になる。たとえば、酒におぼれるか浪費にふけったために借金を返せなくなるか、家族に対する責任があるのに、家族を養い教育することができなくなれば、その人は非難を受けて当然であり、さらに、処罰を受けて当然だという場合もあるだろう。だが、非難や処罰は家族や貸し手に対する義務を怠ったことに対するものであって、浪費に対するものではない。家族や貸し手への義務を果たすために使うべきだった資金を、とりわけ賢明な投資に流用したとしても、道徳に反する行動であることには変わりはない。ジョージ・リローの戯曲『ロンドンの商人』で、主人公のジョージ・バーンウェルは愛人のための金が欲しくて叔父を殺したが、事業をはじめる資金が欲しかったのだとしても、やはり絞首刑になったはずだ。悪習に夢中になって家族が苦しむというのはよくあることだが、この場合にも非難されるべきは家族を大切にせず、親の恩を忘れている点である。そして、夢中になっているのがとくに悪い習慣ではなくても、そのために生活している家族や、個人的につながりがあってその人に頼って生活している人が苦しむのであれば、やはり非難されるべきである。他人の利益と感情に対して通常払うべき配慮を怠った人は、もっと緊急の義務を果たすためか、許容される範囲で自分の好みを優先したという事情がないかぎり、配慮を怠ったという点で道徳という観点からの非難の対象になる。だが、配慮を怠る原因となった点や、本人のみに関係する誤りで、配慮を怠る遠因になった可能性があるにすぎない点は、非難の対象にはならない。同様に、純粋に個人のみに関係する行動のために、社会に対して負っている具体的な義務を果たせなくなった場合、その人物は社会に対して罪をおかしたことになる。酔っぱらったというだけの理由では、誰も処罰されるべきではない。だが、兵士か警官が勤務中に酔っぱらったのであれば、処罰されるべきである。要するに、他人か社会に明らかな損害を与えたか、損害を与える危険が明らかにあった場合には、自由の領域での問題ではなくなり、道徳か法の領域の問題になるのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第4章 個人に対する社会の権威の限界,pp.178-180,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:他人へ間接的に及ぼす影響)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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