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2020年4月27日月曜日

他者への依存の事実の誠実な承認を前提とする受け取ることに関する諸徳は、互いに敬意をもって認め合う共同体の基礎でもある。自足の幻想を抱き、受けることを恥じ、施すことを誇る精神は、この正反対である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

受け取ることに関する諸徳

【他者への依存の事実の誠実な承認を前提とする受け取ることに関する諸徳は、互いに敬意をもって認め合う共同体の基礎でもある。自足の幻想を抱き、受けることを恥じ、施すことを誇る精神は、この正反対である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(2.2)(2.3)追加

(2)徳とは何か
 徳とは、私たちが自立した実践的推論者になることを可能にしてくれるものである。
 (2.1)自立の諸徳――与えることに関する諸徳
  (a)気前のよさと正義という二つの側面を同時に備えている。
  (b)「気前のよさ」ではない。人は正しくなくても、気前が良い場合がある。
  (c)「正義」だけではない。人は気前が良くなくとも、正しかったりすることがある。
 (2.2)依存の諸徳――受け取ることに関する諸徳
  (a)依存の誠実な承認
   自分が他者たちに依存しているという事実を、誠実に受けとめる。
  (b)依存が、重荷であるとは思わせないように感謝をあらわす。
  (c)仮に不作法な与え手に対しても、礼節を保つ。
  (d)仮に至らない与え手に対しても、忍耐をもって対する。
  (e)他者からの敬意を受け取ること
   苦境や窮乏に陥ったとき、すぐに必要なものは食物、衣服、住居である。しかし次に必要なのは、自らを力づけてくれる他者からの敬意と自尊心の双方をもたらしてくれるコミュニティ内の諸関係のネットワークの中に、ある公認の地位を与えられることである。ところが、受け取ることに関する諸徳を持たない者は、これを受け取ることができない。
 (2.3)依存の諸徳とは正反対のメガロプシュコス
  (a)自足の幻想
   自分は他者に依存することなしにやっていける、という誤った思い込みを持つ。特に富裕で権勢を誇る者たちによって抱かれてきた幻想である。
  (b)恩恵を受けることに対する考え
   他者から恩恵を受けることは、劣っていると考え、恥に思う。その結果、他者への依存を忘れてしまう。他者が自分に与えてくれた恩恵を思い出すことを嫌がる。
  (c)恩恵を施すことに対する考え
   恩恵を施すのは、優れていることだと考え、他者に与えたものについてはよく覚えている。

 「これら〈与えること〉の諸徳に加えて、〈受けとること〉の諸徳もなければならないことに注意しよう。たとえば、それが重荷であるとは思わせないように感謝をあらわす術や、不作法な与え手に対して礼節を保つ術や、いたらない与え手に対して忍耐をもって対する術を知るという徳である。これらの諸徳を発揮する場合、そこにはつねに、依存の誠実な承認〔自分が他者たちに依存しているという事実を誠実に受けとめること〕が含まれている。そうである以上、これらの徳は、次のような人々には欠如しているにちがいない徳である。すなわち、他者が自分に与えてくれた恩恵を思い出すことを嫌がるその態度が、他者への依存を忘れがちな人間であることを示している人々には、欠如しているにちがいない徳である。この種の好ましくない性格を備え、しかも、それが好ましからぬ性格であることを認識しそこなっているタイプの人間の顕著な一例、そして、おそらく《典型的に》顕著な例が、アリストテレスのいうメガロプシュコス megalopsychos〔魂の大いなる人、矜持ある人〕である。アリストテレスはこの種の人間について、肯定的に、彼は「他者から恩恵を受けることを恥じる。なぜなら、恩恵を施すことはすぐれた人間のしるしであり、それを受けとることは劣った人間のしるしであるからだ」と述べている。それゆえ、このメガロプシュコスは、彼が他者から受けとったものについては忘れがちである一方、彼が他者に与えたものについてはよく覚えており、前者を想起させられることは喜ばず、後者の思い出話には喜んで耳を傾けるのである。私たちはここに自足 self-sufficiencyの幻想〔自分は他者に依存することなしにやっていける、という誤った思い込み〕を見出す。それは明らかにアリストテレスも共有していた幻想であり、多くの時代に多くの場所で、特に富裕で権勢を誇る者たちによって抱かれてきた幻想であり、彼らをコミュニティ内のあるタイプの関係から排除する役割を果たしてきた幻想である。というのも、私たちがそれへの参加を通じてまず〈受けとること〉の諸徳を発揮することを学ばなければならない、そうしたコミュニティ内の関係を維持するためには、〈与えること〉の諸徳と同様、〈受けとること〉の諸徳も必要とされるからだ。だとすれば、そのような関係を重視する観点から眺める場合、切迫した苦境や窮乏というものがある特殊な光の下で理解されなければならなくなることは、おそらく驚くべきことではない。ひどい苦境に陥っている人がいまここですぐに必要としそうなものは、食べ物や飲み物や衣服や住居である。しかし、そうした最優先のニーズが満たされた後に、彼ら苦境にある人々がもっとも必要とするのは、次のような地位が与えられること、ないしは、ふたたび与えられることである。すなわち、そこにおいて彼らがコミュニティ内の熟議に参加するメンバーとして承認されるような、そうしたコミュニティ内の諸関係のネットワークの中に、ある公認の地位を与えられること――彼らを力づける他者からの敬意と自己への敬意〔自尊心〕の双方を彼らにもたらすそのような地位を与えられること――、ないしは、ふたたび与えられることである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第10章 承認された依存の諸徳,pp.182-183,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:受け取ることに関する諸徳,他者への依存,自足の幻想)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

2019年4月3日水曜日

人は、多くの種類の苦しみに見舞われやすい傷つきやすい存在であり、他者たちの保護と支援に依存しているので、生き続けることができ開花し得る。この事実の理解は、真の道徳哲学の要件の一つである。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

人間の傷つきやすさと他者への依存性

【人は、多くの種類の苦しみに見舞われやすい傷つきやすい存在であり、他者たちの保護と支援に依存しているので、生き続けることができ開花し得る。この事実の理解は、真の道徳哲学の要件の一つである。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)人間に関する一つの重要な事実
 (a)傷つきやすさ
  人は、多くの種類の苦しみに見舞われやすい存在である。
  (a.1)幼年時代の初期
  (a.2)病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクト
  (a.3)一生の間、障碍を負い続ける場合
  (a.4)老年期
 (b)他者への依存性
  人は、他者に依存して生きる存在である。私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちの保護と支援を受けるからである。
(2)道徳哲学への影響
 (2.1)しばしば考えられてきた道徳哲学
  病気やけがを負った者、障碍者、幼児、老年者は、健康で理性的な道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。道徳の問題は、私たちと「彼ら」の問題である。
 (2.2)事実に基づく真の道徳哲学の要件
  病気やけがを負った者、障碍者、幼児、老年者は、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身であり、道徳の問題は私たち自身の問題である。

 「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ affliction[受苦]に見舞われやすい vulnerable[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花 flourishing しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。
 これら二つの関連する事実、すなわち、私たちの〈傷つきやすさ〉と受苦に関する事実と、私たちがいかに特定の他者たちに依存しているかに関する事実が特別な重要性を帯びていることはあまりに明白なので、人の〔生の〕条件に関するどんな説明も、その説明を与えようとする者が信用を得たいと望むかぎり、それらの事実に中心的な位置を与えることは避けられないように思われる。とはいえ、西洋の道徳哲学の歴史は、そうではないことを示唆している。プラトンからムーアにいたるまで、さらにはそれ以後も、いくつかのまれなケースを除いて、たいていの場合、ヒトの〈傷つきやすさ〉と受苦については、また、その両者のつながりと私たちの他者への依存については、ほんのついでにしか言及されていない。人の〔力の〕限界と、そこから帰結する他者との協力の必要性に関するいくつかの事実は、より一般的なしかたでは承認されている。しかし、たいていの場合、そいうした諸事実を承認するのは、たんにその後それらを脇に置くためにすぎない。そして、道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍 disability について考える場合、「障碍者 the disabled 〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:人間の傷つきやすさ,他者への依存性,道徳哲学)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

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