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2019年4月14日日曜日

7.民主主義的な制度は、次の二つの感情を維持し強化し得るものであること。(a)個人の人格に対する配慮、(b)教養ある知性に対する敬意。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

個人の人格に対する配慮と教養ある知性に対する敬意

【民主主義的な制度は、次の二つの感情を維持し強化し得るものであること。(a)個人の人格に対する配慮、(b)教養ある知性に対する敬意。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1.3)追記。
(2.1)追記。
(3.2)追記。

(1)多数派が、政治的権力の担い手であることは、概して正しい。
  多数派による政治的権力の行使は、概して正しい。ただし、様々な少数派の意見を反映し得る制度が必要だ。思想の自由、個性的な性格、たとえ多数派に嫌悪を抱かせる道徳的・社会的要素も、保護されるべきである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 (1.1)ただし、このこと自体が正しいわけではない。
 (1.2)少数派による支配や、他のどのような状態よりも、不正の程度が低い。
 (1.3)多数派は、次の二つの感情を持つ必要がある。
  (a)個人の人格に対する配慮
  (b)教養ある知性に対する敬意
(2)多数派に、絶対的権力を与えることの弊害
 (2.1)どのような社会においても数の上での多数派は同じような社会的境遇のもとにあり、同じような偏見や情念や先入見を持っているだろう。
  (a)利益に根ざした偏見
   (a.1)自らの私的利益を追求することは、人間の生来の傾向である。
   (a.2)利己的な性向に自分が屈している時に、「これは義務であり、徳である」と、そうしていないかのように自分を納得させる。
  (b)階級利益に基づく階級道徳(これは、ベンサムが解明した)
   (b.1)ともに交流し合い共通の利害を持っている人々の集団が、その共通の利益を基準に、自分たちの道徳を形成している。
   (b.2)歴史において、もっとも英雄的で公平無私な行為と思われたものが、このような階級道徳に導かれている。

 (2.2)仮に、多数派に絶対的権力を与えるならば、多数派の偏見、情念、先入見の欠点を是正することができなくなる。その結果、人間の知的・道徳的性質をさらに改善することができなくなり、社会は不可避的に停滞、衰退、あるいは崩壊していくだろう。
(3)社会の中に、様々な少数派の人びとが存在することの必要性
 (3.1)少数派の存在が、多数派の偏見、情念、先入見を是正する契機にし得るような制度が必要である。
 (3.2)それは、思想の自由と個性的な性格の避難場所になり得ること。
  民主主義的な制度は、次の二つの感情を維持し強化できるようなものでなければならない。
   (a)個人の人格に対する配慮
   (b)教養ある知性に対する敬意
 (3.3)仮に、支配的権力が嫌悪の目で見るような道徳的・社会的要素であったとしても、それが消滅させられないよう、守られる必要がある。
 (3.4)かつて存在していた偉大な人のほとんどすべては、このような少数派であった。

 「これらのことを考慮すると、国王や貴族院を排除し普通選挙によって多数派を主権者の座に就かせることだけで満足せず、すべての公吏の首の周りを世論の軛で縛り上げる方法を工夫したり、少数派や公吏自身の正義についての考えかたがわずかでも、あるいはほんの一時であっても影響を与えるあらゆる可能性を排除するための方法を工夫したりするために、彼のあらゆる創意が傾けられていたときに、私たちはベンサムが自らの卓越した能力を用いてもっとも有用な仕事を成し遂げたと考えることはできない。

たしかに、何らかの力を最強の力とした時点で、その力のために十分なことをしたのである。

それ以降は、最強の力が他のすべてを併呑してしまわないようにするための配慮がむしろ必要となる。

社会におけるあらゆる力が一つの方向のみに向かって働いているときにはいつでも、個々の人間の権利は深刻な危機にさらされている。

多数派の力は《攻撃的》にではなく《防御的》に用いられているかぎり――すなわち、その行使が個人の人格に対する配慮と、教養ある知性に対する敬意によって和らげられているときには――有益なものである。

もしベンサムが、本質的に民主主義的な制度をこれら二つの感情を維持し強化するのにもっとも適したものにするための方策を明らかにすることに従事していたならば、彼はより永続的な価値があることや彼の卓越した知性によりふさわしいことを成し遂げていただろう。

モンテスキューが現代を知っていたならこのことを成し遂げただろう。私たちは、私たちの時代のモンテスキューであるド・トクヴィル氏からこのような恩恵を受け取ることになるだろう。

 それでは、私たちはベンサムの政治理論を無用のものと考えているのだろうか。そのようなことは断じてない。私たちはそれが一面的であると考えているだけである。

彼は完全な統治がもつべき理想的条件のうちのひとつ――受託者たちの利益と彼らに権力を信託している共同体の利益が一致すること――をはっきりと明るみにだし、無数の混乱と誤解を取り除き、それを発展させる最良の方法を見事なほど巧みに明らかにした。

この条件はその理想的完全の域には到達できないものであるうえに、他のあらゆる要件についても絶えず考えながら追求されなければならない。

しかし、他の要件を追求するためには、この条件を見失わないでいることがなおいっそう必要となる。この条件が他のものよりもわずかでも後回しにされるときには、その犠牲はしばしば不可欠なものであるけれども、つねに害悪を伴うことになる。

ベンサムは現代ヨーロッパ社会においてこの犠牲がいかに全面的なものになってきているかを明らかにし、そこでは一部の邪悪な利益が世論によってなされるような抑制を受けているのみで、支配的権力をどれほど独占しているかを明らかにした。

そして、世論はこのようにして現存の秩序においてつねに善の源泉であるように思われたので、彼は生来の偏見によってその内在的な優越性を誇張するようになった。

ベンサムは邪悪な利益を、あらゆる偽装を見破りながら、とりわけそれによって影響を受ける人々から隠蔽するための偽装を見破りながら探し出した。

普遍的な人間本性の哲学に対する彼の最大の貢献はおそらく彼が「利益に根ざした偏見(interest-begotten prejudice)」と呼んだもの――自らの私的利益を追求することを義務であり徳であるとみなす人間の生来の傾向――を例証したことだろう。

たしかに、この考えはけっしてベンサムに固有のものではなかった。利己的な性向に自分が屈している時にそうしていないかのように自分を納得させるずる賢さはあらゆる道徳論者の注意をひいてきたし、宗教的著述家は人間の心の深遠さや屈曲についてベンサムよりすぐれた知識をもっていたために、このことについてベンサムよりも深く調べていた。

しかし、ベンサムが例証したのは、階級利益の形をとった利己的な利害関心であり、それに基づいた階級道徳である。

彼が例証したのは、ともに交流しあい共通の利益をもっている人々の集団がその共通の利益を自分たちの徳の基準にしがちであることや、そこから歴史において頻繁に実証されているような、もっとも英雄的な公平無私ともっとも醜悪な階級利益との間の結びつきが生じてくるということである。

これがベンサムの主要な考えのひとつであったし、彼が歴史の解明に貢献したほとんど唯一のものであった。これによって説明されるものを除けば、歴史の大部分は彼にとってまったく不可解なものであった。

このような考えを彼に与えたのはエルヴェシウスであり、彼の著作『精神論』ではこの考えについて全体にわたってこの上なく鋭い解説がなされている。

この考えは、エルヴェシウスによる別の重要な考えである性格に対する環境の影響という考えとあいまって、他のすべての18世紀の哲学者が文学史の中にのみ名をとどめるようになるときにも、彼の名をルソーとともに後世に残すことになるだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.149-151,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:個人の人格に対する配慮,教養ある知性に対する敬意)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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