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2020年5月6日水曜日

科学における仮説的推理に類似している司法過程の解明のため区別すべき3観点:(a)思考過程とか習慣についての心理学的な事実、(b)司法的技術の諸原理、諸基準、使われるべき思考過程、(c)評価、正当化の諸基準(ハーバート・ハート(1907-1992))

心理学的な事実と諸原理、評価基準

【科学における仮説的推理に類似している司法過程の解明のため区別すべき3観点:(a)思考過程とか習慣についての心理学的な事実、(b)司法的技術の諸原理、諸基準、使われるべき思考過程、(c)評価、正当化の諸基準(ハーバート・ハート(1907-1992))】

 参考:正義に反する定式化を回避しながら、広範囲の様々な判例に矛盾しない一般的ルールを精密化していく裁判所の方法は、帰納的方法というよりむしろ、科学理論における仮説的推理、仮説-演繹法推理と類似している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 参考:司法過程は、科学における仮説的推理に類似しているとはいえ、その方法の客観的な記述(記述的理論)とは別に、その方法がいかにあるべきかを指図する理論(指図的理論)も存在しており、別の評価が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「発見の方法と評価の基準 司法的推論に関する記述的理論と指図的理論の両方を考察する場合に、次のものを区別することが重要である。つまり、
(1)裁判官が実際にその決定に到達する際の、通常の思考過程とか思考習慣についてなされる主張、
(2)従われるべき思考過程についての提言、
(3)司法的決定が評価されるべき基準、
である。これらのなかで、(1)は記述心理学の問題に関わっている。そしてこの分野の主張は、そられが検討されている事例の記述を超え出ている限りにおいて、心理学の経験的一般命題ないし法則なのである。(2)は司法判断の技法ないし技巧に関わっており、この分野の一般命題は司法的技術の諸原理である。(3)は決定の評価ないし正当化に関係している。
 これらの区別は重要である。なぜなら、裁判官はしばしば、法的ルールないし先例の関与するいかなる熟考ないし推理の過程も経ることなく決定に到達しているから、決定において法的ルールからの演繹が何らかの役割を果たしているとする主張は誤りである、と時折論じられてきたからである。この議論は混乱している。というのは、一般的にいって、そこで争われているのは、裁判官が実際にその決定に到達している仕方、あるいは到達すべき仕方に関わる問題ではないからである。それはむしろ、裁判官が決定――それがどのようにして到達されようとも――を正当化する際に考慮する諸基準に関わっているのである。決定が熟慮によって到達されようと、直感的なひらめきによって到達されようと、その決定の評価において論理が用いられているかどうかということこそが真の問題であろう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,3 法哲学の諸問題,p.121,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳),古川彩二(訳))
(索引:仮説的推理,司法過程,思考過程,心理学的事実,原理,基準,評価)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2020年4月27日月曜日

司法過程における原理による論証は、先例を正当化し得る一般的な原理の組合せを抽出し、難解な事例に適用する公正の原理を基礎とする。原理は、あらゆる判決と制定法に内在する原理とに適合しなければならない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

司法過程における原理による論証

【司法過程における原理による論証は、先例を正当化し得る一般的な原理の組合せを抽出し、難解な事例に適用する公正の原理を基礎とする。原理は、あらゆる判決と制定法に内在する原理とに適合しなければならない。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))】

(5.4)追加。

(5)原理の問題
  裁判所は、法令それ自体は政策から生じたものであっても、判決は常に原理の論証により正当化される。この特徴は、難解な事案においてすら、論証の特徴となっているし、また「そうあるべきことを主張したい」。(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013))

 (5.1)政策の論証に優先する
  原理により論証される利益は、より効率的な利益配分を追求する政策の論証を無意味にする。すなわち原理により論証される権利は、政治的多数派の利益よりも優先する。
 (5.2)裁判官の地位について
  多数派の要求から隔離された裁判官の方が、原理の論証をより適切に評価しうる地位にあると考えられる。
 (5.3)原理により論証される権利は、新たな法の創造ではない
  原告が被告に対し権利を有していれば、被告はこれに対応する義務を有し、後者にとり不利な判決を正当化するのは、まさにこの義務であり、裁判において創造されるような新しい義務ではない。この義務が明示的な立法により予め彼に課されていなくても、これを執行することは、義務が明示的に課されている場合と同様、不正なことではない。
 (5.4)原理による論証
  (a)権利のテーゼ
   コモン・ローの基礎をなし、コモン・ローに埋め込まれている一定の原理という概念は、それ自体権利のテーゼの比喩的な表現である。
  (b)公正の原理
   (i)先例に関する実務を、一般的に正当化する根拠が、公正の原理である。
   (ii)先例を最もよく正当化する一般的な原理の組合せを抽出する。
   (iii)この一般的な原理は、あらゆる判決と制定法に内在する原理とに適合する必要がある。
   (iv)この一般的正当化が、特定の難解な事案における判断を導く。

 「判決は政策の論証ではなく原理の論証によって正当化されると考えるべきことが社会において明白に認められていなくても、これが一般的には了解されていることを、ハーキュリーズは前提としなければならない。ハーキュリーズは今や先例からの理由づけを説明するために裁判官が使用する周知の概念、すなわちコモン・ローの基礎をなし、あるいはコモン・ローに埋め込まれている一定の原理という概念が、それ自体権利のテーゼの比喩的な表現にすぎないことに気づくであろう。彼はこれからはコモン・ロー上の難解な事案の判決においてこの概念を用いることができる。この概念は、ゲームの性格に関するチェス審判員の概念及び立法趣旨に関する彼自身の概念と同様、この種の事案を判決するために必要な一般的判断基準を彼に与えてくれる。この概念は一つの問題――どのような原理の組み合わせが先例を最もよく正当化するかという問題――を提示し、この問題は、先例に関する実務を一般的に正当化する根拠――すなわち公正――とこの一般的正当化が特定の難解な事案において何を要求するかに関する彼自身の判断とを架橋することになる。
 いまやハーキュリーズは、関連する先例の各々にその先例の判決内容を正当化する原理の体系をあてがうことによって、コモン・ローの基礎をなす諸原理に関する彼の概念を発展させなければならない。彼は次に、この概念と彼が制定法の解釈で用いた立法趣旨の概念との間にみられる更に重要な差異に気づくであろう。ハーキュリーズは、制定法の場合には、問題になっている特定の制定法の立法趣旨に関して何らかの理論を選択する必要があり、その場合、当該制定法にほぼ同様によく適合する複数の理論の間での選別を容易にするかぎりにおいてのみ、立法府の他の法令にも目を向ける必要があると考えた。しかし先例の牽引力が、公正は権利の一貫した強制を要請するという考えに基づくとすれば、ハーキュリーズはある訴訟当事者が彼に注意を喚起するような特定の先例だけではなく、彼の一般的法域に属する他のあらゆる判決にも一致し、更には制定法――ただし、制定法が政策ではなく原理によって生じたと考えられるべきかぎりにおいて――とも適合する諸原理を発見しなければならない。ハーキュリーズが既に確立されたものとして援用する原理自体が、彼の裁判所が同様に支持しようとする他の判決と矛盾しているのであれば、自己の判決が既に確立された原理に一致し、それ故公正であることを示すべき彼の義務は、果たされていないことになる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第3章 難解な事案,5 法的権利,B コモン・ロー,木鐸社(2003),pp.144-145,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))
(索引:司法過程,原理による論証,先例,公正の原理)

権利論


(出典:wikipedia
ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)の命題集(Propositions of great philosophers)  「法的義務に関するこの見解を我々が受け容れ得るためには、これに先立ち多くの問題に対する解答が与えられなければならない。いかなる承認のルールも存在せず、またこれと同様の意義を有するいかなる法のテストも存在しない場合、我々はこれに対処すべく、どの原理をどの程度顧慮すべきかにつきいかにして判定を下すことができるのだろうか。ある論拠が他の論拠より有力であることを我々はいかにして決定しうるのか。もし法的義務がこの種の論証されえない判断に基礎を置くのであれば、なぜこの判断が、一方当事者に法的義務を認める判決を正当化しうるのか。義務に関するこの見解は、法律家や裁判官や一般の人々のものの観方と合致しているか。そしてまたこの見解は、道徳的義務についての我々の態度と矛盾してはいないか。また上記の分析は、法の本質に関する古典的な法理論上の難問を取り扱う際に我々の助けとなりうるだろうか。
 確かにこれらは我々が取り組まねばならぬ問題である。しかし問題の所在を指摘するだけでも、法実証主義が寄与したこと以上のものを我々に約束してくれる。法実証主義は、まさに自らの主張の故に、我々を困惑させ我々に様々な法理論の検討を促すこれら難解な事案を前にして立ち止まってしまうのである。これらの難解な事案を理解しようとするとき、実証主義者は自由裁量論へと我々を向かわせるのであるが、この理論は何の解決も与えず何も語ってはくれない。法を法準則の体系とみなす実証主義的な観方が我々の想像力に対し執拗な支配力を及ぼすのは、おそらくそのきわめて単純明快な性格によるのであろう。法準則のこのようなモデルから身を振り離すことができれば、我々は我々自身の法的実践の複雑で精緻な性格にもっと忠実なモデルを構築することができると思われる。」
(ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013),『権利論』,第1章 ルールのモデルⅠ,6 承認のルール,木鐸社(2003),pp.45-46,木下毅(訳),野坂泰司(訳),小林公(訳))

ロナルド・ドゥオーキン(1931-2013)
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