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2020年6月11日木曜日

9.構成要素ごとの検証と,実物に近い全体システムの検証が必要となるが,原子炉の場合,燃料棒など実物が使えない要素があり,他の技術とは異なり真の意味での実証は不可能である.計算機による模擬実験は,技術における実証性を虚構化する.(高木仁三郎(1938-2000))

核技術は真の意味で実証できない技術

【構成要素ごとの検証と,実物に近い全体システムの検証が必要となるが,原子炉の場合,燃料棒など実物が使えない要素があり,他の技術とは異なり真の意味での実証は不可能である.計算機による模擬実験は,技術における実証性を虚構化する.(高木仁三郎(1938-2000))】

(1)実物による検証
 小さなシステムでの実験ならば、本物を使って何回も実験を繰り返し、失敗を重ねながら、生じるあらゆる物理的現象を把握しながら、いかなる条件下でも問題ないように改良していくことができる。
(2)構成要素ごとの実物による検証
 システムが大型化したときには、小型のシステムの実験では予測しえないことが起こりうる。そこでまず、実験室的な純化した条件下で、ある事象を構成するいろいろな基礎的な現象を解析し、その基礎データをもとに、ある事象の全体を再構成するという方法が用いられる。
(3)構成要素の結合が全体を再現しないという問題
 ところが、そのような細分化された個別的な因子の再構成が、全体としての一つのシステムの振舞いを必ずしも再現化しえないという、実証的手法に基づく解析的科学における、一つの大きな問題点がある。
(4)構成要素を結合した全体の検証
 そこで、伝統的な実証的方法に従えば、可能な限り実物に近いシステムを作り、実験を繰り返し、失敗を重ねながら、少しずつ(2)の精度を上げ、改良を積み上げていく必要がある。
(5)原子炉では実物が使えない
 ところが、原子炉の緊急炉心冷却システムのようなものは、失敗を重ねてデータを収集することを前提に実物を使うわけにはいかない。そこで、実際には、小規模な模擬実験炉を作り、実際の燃料棒ではなく、たとえば電熱で加熱した模擬的な燃料棒を用いるなどして、実験することになる。それでも、なかなかうまくいかない。
(6)コンピュータを使ったシミュレーションでの代替
 以上のような問題を抱えた状況での大型コンピュータの登場は、一挙に解析の適用範囲を拡げることになったが、検証性にかかわる問題の本質は、何ら変わっていない。これによって、科学は虚構的な領域に入り、従来の方法論からの変質が現実に進行していると言える。

 「ECCSとは、その名の通り、正規の冷却水の供給が配管の破断などによって断たれたとき、別のルートから緊急に原子炉に冷却水を注ぎこんで、空だきを防ぐための装置です。本書は、技術的な詳細に入ることを目的としていないので、ECCSの機能についてのこれ以上の記述は省きます。

 ECCSの最大の問題は、その機能の有効性が実証的に確かめられていないことにあり、さらにいえば、実証する手立てがないということです。

 伝統的な実証的方法に従えば、実際の大型原子炉を制作し、しかも実際と同じ運転条件を実現し、その条件下で冷却材(水)の喪失が起こるような事故(大口径配管の破断であるとか、圧力容器の亀裂であるとか)を生ぜしめて、ECCSを働かせ、首尾よく炉心に水が入って溶融事故を防ぎうることを確かめるというのが、ECCSの有効性を確認する最も直接的な手段といえます。

しかしもちろん、通常の実験のように、何回もそんなことを繰り返し、失敗を重ねながら、生じるあらゆる物理的現象を把握しながら、いかなる条件下でも緊急冷却水が炉心に注入されるようになるまでECCSの性能を改良して行くといった方法は取りようがありません。

経費の問題は別にしても、あまりに危険が大きすぎるから、ただの一回の失敗も許されないのです。

 そこで、実際には、小規模な模擬実験炉を作り、実際の燃料棒ではなく、たとえば電熱で加熱した模擬的な燃料棒を用いるなどして、ECCSの機能を検討するということになります。」(中略)

 「計画の変更が余儀なくされたのは、表の八〇〇シリーズの実験の後半段階で行われた炉心への緊急冷却水の注入実験で、六回の実験で六回とも、炉心に水が到達しなかったからです。

その原因は、結局、原子炉内で起こる物理的現象が十分に把握できておらず、コンピュータによる予測と実験の間に大幅なずれが出てきてしまう、ということに尽きるといえます。

 実際の条件と比較すれば、はるかに小規模で、簡素化したシステムを用いた実験でもこういうことが起こるわけです。

ましてや、実際の条件ではどのようなことが起こるのか、確たる予測はできず、ECCSの機能の有効性を実証する、というのとは程遠いのが実情です。

システムを大型化したときには、小型のシステムの実験では予測しえないことが起こりうるし、その予測を行うのに必要な実証的手だてがない、という巨大科学技術に共通の困難がここに現われています。」(中略)

 「すでに述べたように、実証的手法に従えば、実験室的な純化した条件下で、ある事象を構成するいろいろな基礎的な現象を解析し、その基礎データをもとにある事象の全体を再構成するというアプローチの方法が用いられます。

そのような細分化された個別的な因子の再構成が、全体としての一つのシステムの振舞いを必ずしも再現化しえないということが、実証的手法に基づく解析的科学の一つの大きな問題点とされてきました。

 大型コンピュータの登場は、そのような実証科学の問題をそのままにしながら、一挙に解析の適用範囲を拡げることになったのです。それによって、科学は虚構的な領域に入り、従来の方法論からの変質が現実に進行しているのです。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第七巻 市民科学者として生きるⅠ』科学は変わる Ⅱ 原子力の困難(一)、pp.55-58)
(索引:科学の実証性、実験、実証性の虚構化)

市民科学者として生きる〈1〉 (高木仁三郎著作集)


(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
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高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
原子力市民委員会(2013-)
原子力市民委員会
Citizens' Commission on Nuclear Energy
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2020年4月9日木曜日

実験は、複雑になり測定の間接性が増し、また精度と客観性の度合いも増しているが、量子論が知られる前後で、実験の本質は何も変わらない。実験の設定、結果の解釈は、もちろん理論に依存するが、これも昔から同じである。(カール・ポパー(1902-1994))

量子論で、実験の概念が変わったか

【実験は、複雑になり測定の間接性が増し、また精度と客観性の度合いも増しているが、量子論が知られる前後で、実験の本質は何も変わらない。実験の設定、結果の解釈は、もちろん理論に依存するが、これも昔から同じである。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「ハイゼンベルクも同様だ。「……科学の伝統的な要請によれば、……この世界を主観と客観(観測者と観測されるもの)に分けることができる。……この仮定は、原子物理学では許されない。つまり、観測者と対象の相互作用は、観測されている系に制御不可能な大きな変化を引き起こす。これは、原子レベルの過程に特有の不連続な変化のためである。」したがって、ハイゼンベルクは、「この世界の主観的な面と客観的な面を区別することが困難だというこの基本的な議論は、認識論にとってきわめて重要であるから、いま、これを振り返ってみるのは有益である」と主張する。
 こうしたこととは反対に、わたくしは、物理学者は実際上、1925年以前と根本的に同じやり方で測定し、実験しているのだと指摘したい。重大な違いがあるとすれば、「客観性」の度合いも増したが、それと同じくらいに測定の間接性の度合いも増したということくらいである。3、40年まえであれば、シンチレーションの計測などを「記録」するのに、物理学者は顕微鏡を通して見ていたが、いまでは写真乾板や自動計測器があり、「記録」はそれらがやっている。そして、写真フィルムや計数管の読みは(あらゆる実験、観察が理論に照らして解釈されなければならないように)解釈を必要とするものの、われわれが理論的に解釈したからといって、それらが物理的に「干渉され」たり、「影響を受け」たりすることなどあるわけがない。たしかに、実験的テストの多くは、いまでは大部分が統計的な性格のものだが、だからといって実験の「客観性」が劣るわけではない。それらの統計的な性格(それらは計数管やコンピュータによって自動的に処理されることが多い)は、観測者や主観や意識などの物理学への侵入などと言われているものとはなんの関係もない。対照的に、実験の処方や設定は、これまでいつでも、われわれの知識が変化することと大いに関係があったし、また、いまでもそうである。つまりそれは、《理論に依存する》のである。
 《理論》は、実験を設定し、その結果を解釈するさいの案内役となるが、もちろん、われわれが考案したものである。それは、われわれの「意識」が考案した産物である。けれどもこのことは、科学におけるその理論の位置づけとはなんの関係もない。理論の位置づけは、その単純性、対称性、説明力、そして批判的討論や決定的な実験的テストに理論がいかに耐えているかということに依存する。またそれが真理であるか(実在との一致)、あるいは真理にどれだけ近いかに依存する。」
(カール・ポパー(1902-1994),『量子論と物理学の分裂』,序論,序章「観測者」なき量子力学,1 量子論と「観測者」の役割,pp.54-55,岩波書店(2003),小河原誠,蔭山泰之,篠崎研二,(訳))
(索引:)

量子論と物理学の分裂


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2018年5月2日水曜日

真理の探究を続けることが、真の知恵、人間の生活の完成と幸福にとっていかに重要かを、認識してほしい。多くの優れた人たちが、この研究に従事しようと試みることを信ずる。願わくば我々の子孫がその成果を見んことを。(ルネ・デカルト(1596-1650))

真の哲学と未来への希望

【真理の探究を続けることが、真の知恵、人間の生活の完成と幸福にとっていかに重要かを、認識してほしい。多くの優れた人たちが、この研究に従事しようと試みることを信ずる。願わくば我々の子孫がその成果を見んことを。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
(1) 今後発見されるはずの真理の大部分は、ある特殊な経験に依存し、この経験は決して偶然に出会われるものではなく、極めて知能のすぐれた人たちによって、配意と費用とをかけて求められるようなものだ。
(2) このような特殊な経験を行う能力と、これらの経験を利用して哲学の探究を行う能力の両方が必要だが、これは簡単なことではないだろう。
(3) また、過去行われてきた哲学は欠陥が多く、優れた人たちは哲学に対して悪い考えを抱き、哲学にあまり大きな期待を抱いていないように思われる。
(4) しかし、真理の探究を続けることがいかに重要であり、そしてこれらの真理が知恵のどのような段階に、生活のどのような完成に、またどのような幸福にまで導き得るかを、十分に認識することができれば、多くの優れた人たちが、かように有益な研究に従事しようと試みることを信ずる。願わくば我々の子孫がその成果を見んことを。
 「また、これらの原理から導き出し得るあらゆる真理を、かように導出してしまうまでには、幾世紀もが流れるかもしれないことも、私は充分に心得ています。なぜならば、今後発見されるはずの真理の大部分は、或る特殊な経験に依存し、この経験は決して偶然に出会われるものではなく、極めて知能のすぐれた人たちによって、配意と費用とをかけて求められねばならず、そしてこれをうまく利用することのできる同じ人が、そうした経験を行う能力を有つということは、困難であろうからであります。さらにまた、大部分の知能のすぐれた人たちは、彼らが現在まで行われてきた哲学のうちに認めた欠陥の故に、哲学全体に対して悪い考えを抱き、よりよい哲学を求めることに、専念できないだろうからであります。しかしながら結局、これら(私の)原理と、他の人々のあらゆる原理との間に見出される差異、ならびに前者から導き出される諸真理の堂々たる系列とが、これら真理の探究を続けることがいかに重要であり、そしてこれらの真理が知恵のどのような段階に、生活のどのような完成に、またどのような幸福にまで導き得るかを、彼らに認識せしめるならば、私はあえて信ずるのですが、かように有益な研究に従事しようと試みない人、或いは少なくとも、成果をあげてこれに従事するものに好意を示し、その全能力をあげて援助することを望まない人はないでありましょう。願わくば我々の子孫がその成果を見んことを云々。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、p.29、[桂寿一・1964])
(索引:哲学、特殊な経験、実験)

哲学原理 (岩波文庫 青 613-3)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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