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2022年7月20日水曜日

精神と身体は同一のものであり、身体の能動と受動の秩序、精神の能動と受動の秩序は、同時に生じている。建築や絵画、人間の技術などが、自然法則のみから演繹されるとは思えない一方で、身体自身は自らの法則に従って、精神でさえ驚くようなことを行っている。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677),『エチカ』,第3部 感情の起源と本性について,定理2の注解)

心身問題

精神と身体は同一のものであり、身体の能動と受動の秩序、精神の能動と受動の秩序は、同時に生じている。建築や絵画、人間の技術などが、自然法則のみから演繹されるとは思えない一方で、身体自身は自らの法則に従って、精神でさえ驚くようなことを行っている。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677),『エチカ』,第3部 感情の起源と本性について,定理2の注解)









(a)精神と身体

 精神と身体は同一のものであり、あるときは思惟の属性のもとで、またあるときは延長の属性のもとで把握される。身体の能動と受動の秩序、精神の能動と受動の秩序は、同時に生じている。

(b)身体の能動

 精神でさえ驚くような多くのことを身体自身が自己の本性の法則のみに従って行っている。そもそも、身体の複雑で精巧な構造は、人間の精神が作り上げたものではない。

(c)精神の能動

 建築や絵画、その他人間の技術によってのみ実現されるようなものは、自然法則のみから演繹されるだろうか。ここに、精神の能動があるのではないだろうか。

 



























(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677),『エチカ』,第3部 感情の起源と本性について,定理2の注解,中央公論社,世界の名著25,pp.189-191,1969年,工藤喜作,斎藤博(訳))

2022年7月18日月曜日

身体には、精神の思索活動を制限する能力はないし、また精神にも身体の運動や静止、あるいは他のものを(もしそのようなものがあるとしても)制限する能力はない。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677),『エチカ』,第3部 感情の起源と本性について,定理2)

心身問題

身体には、精神の思索活動を制限する能力はないし、また精神にも身体の運動や静止、あるいは他のものを(もしそのようなものがあるとしても)制限する能力はない。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677),『エチカ』,第3部 感情の起源と本性について,定理2)















(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677),『エチカ』,第3部 感情の起源と本性について,定理2,中央公論社,世界の名著25,p.188,1969年,工藤喜作,斎藤博(訳))





2018年8月27日月曜日

8.心身問題のまとめ:徹底的唯物論、同一説(中枢状態説)、随伴現象論、汎心論。(カール・ポパー(1902-1994))

心身問題のまとめ

【心身問題のまとめ:徹底的唯物論、同一説(中枢状態説)、随伴現象論、汎心論。(カール・ポパー(1902-1994))】

 (c1)徹底的唯物論、(c2)同一説(中枢状態説)、(c3)随伴現象論(epiphenomenalism)などの考え方の違いにもかかわらず、もし、物理的世界の諸法則が全てを支配しているのであれば、(c4)汎心論のような意識的な思考過程が、どのように生じて、どのように物理的世界に影響を及ぼし得るのか、というのが心身問題である。(b2)が、それを「理解するのを少しは容易にしてくれる」。

(a)世界2と世界3の相互作用
 世界2は、世界3を把握し、批判的な選択作用により、新たな世界3を作り出す。

 時間1 世界3・C1⇔世界2・M1
  │    │┌───┘
  ↓    ↓↓
 時間2 世界3・C2⇒世界2・M2

(b)世界3と世界1の相互作用
 世界3は、確かに世界1の対象としても存在してはいるが、世界1を支配する諸法則によって、その生成と変化を理解することができるだろうか。世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。これは、すなわち新たに生成された世界1でもある。

(b1)世界1を支配する諸法則によって、その生成と変化を理解することができるだろうか。

 時間1 世界1・P1⇒世界3・C1
  ↓    ↓
 時間2 世界1・P2⇒世界3・C2

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

(c)世界2と世界1の相互作用(心身問題)
(c1)徹底的唯物論
 世界1のみが実在する。

 時間1 世界1・P1 ⊃ 世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⊃ 世界2・M2

(c2)同一説(中枢状態説)
 世界1は、次の2つの世界に区別することができるとする。意識的過程と同一である物理過程の世界 1mと、それ以外の世界 1pである。世界 1mと、世界 1pには、相互作用が可能である。
 徹底的唯物論とは異なり、心的世界2も実在すると考える。心的世界2と、身体・大脳の物理的過程 1m とは、世界1のなかの同一の実体についての、異なる二つの記述方法である。したがって、随伴現象論とは異なり、心的世界2も、世界1の実体として物理過程と相互作用することができる。

 時間1 世界1・P1 ⊃ 1m・状態1
  │   │     =世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⊃ 1m・状態2
            =世界2・M2

(c3)随伴現象論(epiphenomenalism)
 精神状態は、脳内のプロセスに随伴する。ただし、因果関係にはかかわらない。
 また、汎心論とは異なり、生命のある対象のみが、内的または主観的経験を持つと考える。

 時間1 世界1・P1 ⇒ 世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⇒ 世界2・M2

 しかし、次の疑問がある。例えば、視覚による知覚は無意識的な神経生理学的過程に支えられているとしても、そこには、能動的で生産的なものが存在している。

(c4)汎心論
 純粋な物理的対象も、多かれ少なかれ我々自身の内的意識に類似の内面を持っている。

 時間1 世界1・P1 世界2・M1
  ↓   ↓    ↓意識的な思考過程
 時間2 世界1・P2 世界2・M2


 「既に10節で、私は歯医者を訪れるという例を手短に論じることで、そのような行為が物理状態(世界1)、われわれの意識的な自覚(世界2)、計画と制度(世界3)のすべてを含む仕方を明らかにした。われわれの四つの唯物論的理論の性格は、それらがこのような出来事を説明する仕方によって明らかにできるであろう。この出来事は、例えば、われわれが歯を悪くし、歯痛が起こり、歯医者に予約の電話をし、その後治療を受けるために歯医者に行くというようなことを含んでいるであろう。
 (1)徹底的唯物論の解釈:私の歯の中には私の神経系の過程に通じる過程が存在する。起こることすべては世界1に制限された物理過程から成立している(この過程には私の言語行動――電話で話すこと――も含まれている)。
 (2)汎心論的解釈:(1)と同様に、物理過程が存在する。だが、これに対してまた別の側面がある。すなわち、われわれが経験するがままのことを語る《平行的な》説明(種々な汎心論者が異なる仕方で説明する)がある。われわれの経験はある仕方で(1)で与えられたような物理的説明に《対応している》ばかりでなく、そこに含まれる(電話のような)明らかに純粋な物理的対象もまた、多かれ少なかれわれわれ自身の内的意識に類似の《内面》をもっている、と汎心論は説く。
 (3)随伴現象論の解釈:(1)と同様に、物理過程が存在する。その他の側面も(2)と異なっていない。だが、次のような(2)とは異なる点がある。
  (a)《生命のある》対象のみが《内的》または主観的経験をもつ。
  (b)(2)ではわれわれは二つの異なった、しかし同等に妥当な説明をもてたが、随伴現象論者は物理的説明に優位性を与えるばかりでなく、主観的経験は因果的に余分なものであることを強調する。私が感じた痛みは話の中では何の因果的役割も演じないし、私の行為の動機とはならないのである。
 (4)同一説:(1)と同様であるが、しかしここではわれわれは、意識経験と同一でない世界1の過程(世界 1p:下に書いたpは《純粋に物理的》を示す)と、経験された過程ないし意識的過程と同一である物理過程(世界 1m:下に書いたmは《心的を示す》)とを区別できる。世界1の二つの部分(つまり、部分世界 1pと 1m)はむろん相互作用が可能である。したがって、私の痛み(世界 1m)は私の記憶の蓄積に作用して、電話番号を調べさす。すべてのことは相互作用論者の分析と同じように生起する。(私の考えでは、これがこの見解を魅惑的なものにしている)。ただ、(主観的な知識を含んだ)私の世界2だけが世界 1m、すなわち世界1の部分と同一視され、世界3は世界1の他の部分と、すなわち、電話帳や電話のような《道具ないし装置》と同一視される(あるいは、おそらく大脳過程と同一視される。というのは、同一論者にとっては、私の世界3の核心となる《抽象的な知識内容》は存在しないからである)。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P3章 唯物論批判、16――4つの唯物論的あるいは物理主義的な立場(上)pp.91-92、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:)
 「(3)随伴現象論(epiphenomenalism)は汎心論の修正の一つとして解釈できる。

そこでは《汎》という要素は消去され、《心論》は心を持っている生物に制限される。

汎心論と同様、それは通常の形態では一種の平行論である。つまり、心的過程はある物理過程と平行してある、という見解である――つまり、平行であるのは、それらの過程はある(未知の)第三の存在者を内面と外面とから見た二つの眺めだからである。
 しかし、平行論でない形態をとる随伴現象論もある。

私が随伴現象論において本質的とみなすものは、物理過程《のみ》がそれ以後の物理過程に《因果的に関連》しており、心的過程は存在するにしても因果的にはまったく無関係であるというテーゼである。

 (4)同一説または中枢状態説は、心身問題に答えようと展開された理論の中では現在最も有力なものである。

これは汎心論と随伴現象論の修正の一つとみることができる。

随伴現象論のように、《汎》のない汎心論とみることができる。だが、随伴現象論とは反対に、心的事実を重要で因果的に効果のあるものと考える。

この理論は、心的過程と一定の大脳の過程の間に、ある種の《同一性》(identity)が存在する、と主張する。

この同一性は理論的意味での同一性ではなく、金星という唯一の惑星の別の名前である《宵の明星》と《明の明星》の間にあるような同一性である。この二つの名前は金星の異なる外観をも示している。

M・シュリック(Schlick)とファイグルによる同一説の形式では、心的過程は(ライプニッツ同様)内側から感得的に(by aquaintance)知られる物自体として考えられている。

一方、われわれの大脳過程――理論的記述によってのみ知られる過程――に関する理論は同じ物を外側から記述することになる。

随伴現象論とは対照的に、同一論者は心的過程は物理過程と相互作用するということができる。なぜならば、心的過程は単に物理過程《であり》、より正確には、特殊な大脳過程にすぎないからである。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P3章 唯物論批判、16――4つの唯物論的あるいは物理主義的な立場(上)pp.90-91、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:心身問題,徹底的唯物論,同一説,中枢状態説,随伴現象論,汎心論)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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2018年8月26日日曜日

7.言語は、世界1の基盤に支えられ、意識的、能動的な世界3の学習と探究を通じて、世界1との関係、他者との関係、自我の形成に強い作用を及ぼす。自我は、世界1、他者、世界3との能動的な相互作用の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))

言語と心身問題

【言語は、世界1の基盤に支えられ、意識的、能動的な世界3の学習と探究を通じて、世界1との関係、他者との関係、自我の形成に強い作用を及ぼす。自我は、世界1、他者、世界3との能動的な相互作用の所産である。(カール・ポパー(1902-1994))】

心身問題における言語の役割の考察。

世界1:自然淘汰によって進化した遺伝的な基盤をもつ自然的過程
 言語を学習する強い必要性と、無意識的で生得的な動機
 言語を学習する能力

世界3:種々の言語と、その文化的進化
 様々な差異を持った数多くの言語が存在する。

世界2:個々の言語を実際に学習する過程
(1)言語の習得は、世界1の基盤によって支えられている。
(2)言語の習得は、意識的、能動的な世界3の学習と探究の過程である。
(3)言語は、以下に対して強いフィードバック効果を持っている。
 (3.1)自らの物質的環境への精通
 (3.2)他者との関係
 (3.3)自我、人格の形成
(4)すなわち、自我、人格とは、
  (4.1)能動的な学習と探究の成果の所産である。
  (4.2)世界3の所産である。
  (4.3)物質的環境との相互作用の所産である。
  (4.4)他者との相互作用の所産である。

(再掲)

(a)世界2と世界3の相互作用
 世界2は、世界3を把握し、批判的な選択作用により、新たな世界3を作り出す。

 時間1 世界3・C1⇔世界2・M1
  │    │┌───┘
  ↓    ↓↓
 時間2 世界3・C2⇒世界2・M2

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)


 「心身問題に関係した第三の論証は人間言語の地位と結びついている。

 言語を学習する能力は――そして言語を学習する強い必要性さえも――人間の遺伝的構造の一部であるようにみえる。

これとは対照的に、個々の言語を実際に学習することは、無意識の生得的な必要性と動機に影響されるとはいえ、遺伝子に制御された過程、したがって自然的過程ではなく、世界3に制御された、文化的過程である。

したがって、言語学習は自然淘汰によって進化した遺伝的な基盤をもつ性質が、文化的進化に基づく探究と学習の意識過程といくらか入り組み合い、相互作用する過程である。これは世界3と世界1の相互作用という考えを裏づけており、さらにわれわれの以前の論証から、それは世界2の存在をも裏づけている。」(中略)

「種々の言語は、その数と差異が示しているように、人間が作ったものである。それらは文化的な世界3の対象である。

もっとも、それらは遺伝的に確立された能力、要求、目的によって可能となるものである。普通の子供はみな、楽しくそしてたぶん苦痛でもあるきわめて能動的な勉強によって、一つの言語を習得する。言語に伴う知的成果は多大なものである。

もちろん、この努力は子供の人格、他人への関係、自らの物質的環境への関係に対して強いフィードバックの効果をもっている。

 こうして、子供は部分的には彼自身の成果の所産であると言うことができる。

彼は自分自身ある程度まで世界3の所産である。子供の物質的環境への精通とその意識が、自分の新しく習得した話すという能力によって拡大されるが、それと同じことが彼自身の意識についても言える。

自我、人格は、他我、彼の環境内の人工物ならびに他の対象との相互作用から生じる。これはすべて言語の習得に深く影響を与える。

その影響が強いのは、特に、子供が自分自身の名前に気づく時、彼の身体の種々の部分の名称を学ぶ時、そして最も重要な、彼が人称代名詞を用いることを学ぶ時である。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、15――世界3と心身問題(上)pp.80-82、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:言語,心身問題,世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月20日月曜日

意識的思考が、世界1の諸法則に従いつつも、なぜ能動的に働き世界1に影響を与え得るように見えるのかを理解するのに、世界2が世界3を把握して新たな世界3を生成するという事実が、重要なヒントを与える。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3と心身問題

【意識的思考が、世界1の諸法則に従いつつも、なぜ能動的に働き世界1に影響を与え得るように見えるのかを理解するのに、世界2が世界3を把握して新たな世界3を生成するという事実が、重要なヒントを与える。(カール・ポパー(1902-1994))】

(a)世界2と世界3の相互作用
 世界2は、世界3を把握し、批判的な選択作用により、新たな世界3を作り出す。

 時間1 世界3・C1⇔世界2・M1
  │    │┌───┘
  ↓    ↓↓
 時間2 世界3・C2⇒世界2・M2

(b)世界3と世界1の相互作用
 世界3は、確かに世界1の対象としても存在してはいるが、世界1を支配する諸法則によって、その生成と変化を理解することができるだろうか。世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。これは、すなわち新たに生成された世界1でもある。

(b1)世界1を支配する諸法則によって、その生成と変化を理解することができるだろうか。

 時間1 世界1・P1⇒世界3・C1
  ↓    ↓
 時間2 世界1・P2⇒世界3・C2

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

(c)世界2と世界1の相互作用(心身問題)
(c1)精神状態は脳内のプロセスから生じるとすると?

 時間1 世界1・P1⇒世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2⇒世界2・M2

 しかし、世界2は、世界1の対象を視覚により知覚する場合であっても、能動的で生産的な方法により知覚を作り出す。これは、無意識的な神経生理学的過程に支えられている。

(c2)意識的な思考過程は、どのように理解すればよいのだろうか。

 時間1 世界1・P1 世界2・M1
  ↓   ↓    ↓意識的な思考過程
 時間2 世界1・P2 世界2・M2

 もし物理的世界の諸法則が全てを支配しており(c1)が正しいとすると、(c2)のような意識的な思考過程が、どのように生じて、どのように物理的世界に影響を及ぼし得るのか、というのが心身問題である。(b2)が、それを「理解するのを少しは容易にしてくれる」。

 「第二の論証は第一のものに部分的に依存している。もしわれわれが三つの世界の相互作用を認め、したがって、それらの実在性をも認めるならば、いくぶんかはわれわれが理解できる世界2と世界3の相互作用は、心身問題の一部である、世界1と世界2の相互作用の問題をよりよく理解するためにわずかとはいえ、おそらく助けとなるであろう。

 なぜなら、われわれは、世界2と世界3の相互作用の一つ(《把握作用》)は、世界3の対象を作り出す働きとして、そして批判的な選択によってそれら対象を照合する働きとして解釈できるということをみてきた。

同じようなことは世界1の対象の視覚による知覚についても正しいように思われる。このことは世界2を能動的――生産的で批判的(製作的と調合的)――とみるべきであることを示唆している。

だが、ある無意識的な神経生理学的過程がまさにそれを行っているのだ、と考えるべき理由をわれわれはもっている。このことはおそらく、意識過程も同じ仕方で行なわれていることを《理解する》のを少しは容易にしてくれる。すなわち、神経過程によって意識的過程が行なわれていることは、行なわれているのと同じような仕方である程度まで《理解できる》。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、15――世界3と心身問題(上)p.80、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:心身問題,世界3)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月19日日曜日

世界3についての考察は、心身問題に何らかの新しい解明をもたらすことができる。(カール・ポパー(1902-1994))

世界3と心身問題

【世界3についての考察は、心身問題に何らかの新しい解明をもたらすことができる。(カール・ポパー(1902-1994))】

(再掲)
1 人間の心の所産である対象も、物理的な世界1には属するが、それが人間と相互作用するとき、個々の主観的経験の世界2を超えた、世界3を生み出す。世界3は、世界2を経由して世界1に作用し、新たな世界3を作る。(カール・ポパー(1902-1994))
1.1【世界3は、世界1の対象でもある。】
1.2【世界3は、個々の世界2の集まりを超える、何ものかである。】
1.3【世界3は、世界2としては全く具現化されていなくても、存在する。】
1.4【世界3の対象は、世界2と世界1を経由して、世界3の他の対象を作り出す。】
2【世界3は、世界1や世界2と同じ意味で、実在的な存在である。】
  人間の科学と技術の営みを考えると、次の命題が正しいことを確信させる:世界3の対象は、世界2を経由して間接的に、物理的な世界1に働きかける。ゆえに、世界1を実在的と呼ぶならば、それに作用する世界3も実在的な対象である。(カール・ポパー(1902-1994))
3【世界3の自律性】
  世界3の自律性:世界3はいったん存在するようになると、意図しなかった結果を生むようになる。また、今は誰も知らない未発見の諸結果が、その中に客観的に存在しているかのようである。(カール・ポパー(1902-1994))

 「世界3についての考察が心身問題に何らかの新しい解明をもたらすことができる、というのが本書で提起される主要な推測の一つである。三つの論証を簡単に述べてみよう。
 第一の論証は次のようである。
(1)世界3の対象は抽象的である(物理的な力よりもいっそう抽象的である)が、それにもかかわらず実在的である。なぜなら、それらは世界1を変革する強力な手段なのである。(私はこのことが世界3の対象を実在的と呼ぶ唯一の理由であるとも、またそれらは手段以外の何物でもないとは思わない。)
(2)世界3の対象は人間がそれらの製作者として介在することを通してのみ世界1に影響を及ぼす。とりわけ、世界3の対象が把握されるということを通して世界1に影響を及ぼす。そして、把握とは、世界2の過程、または心的過程であり、より正確には世界2と世界3が相互作用する過程である。
(3)したがって、われわれは世界3の対象と世界2の過程がともに実在的であることを認めねばならない――たとえ唯物論の偉大な伝統への尊敬から、これを認めることを好まなくともである。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P2章 世界1・2・3、15――世界3と心身問題(上)p.79、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:世界3,心身問題)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年7月28日土曜日

心身問題。(マイケル・S・ガザニガ(1939-))

心身問題

【心身問題。(マイケル・S・ガザニガ(1939-))】

(a) M1からM2にはどうやって移ったのか?
 時間1 物理的状態P1 精神状態M1
  ↓    ↓     ↓
 時間2 物理的状態P2 精神状態M2

(b) 精神状態は脳内のプロセスから生じるとすると?
 時間1 物理的状態P1⇒精神状態M1
  ↓    ↓
 時間2 物理的状態P2⇒精神状態M2
 これだと、精神活動は何の仕事もしていないことになる。しかし、これが事実であろう。「実行された一連の行動は意志的な選択のように見えるが、実は相互に作用する複雑な環境がそのとき選んだ、創発的な精神状態の結果なのだ。」

(c) M1が直接M2を生成するならば?
 時間1 物理的状態P1 精神状態M1
  ↓    ↓     ↓
 時間2 物理的状態P2 精神状態M2
 それでもなお、物理的状態と精神状態は並行して同期しているのか?

(d) M1はP2を手引きしてM2に影響を与えているのだろうか?
 時間1 物理的状態P1⇒精神状態M1
  │    │┌────┘
  ↓    ↓↓
 時間2 物理的状態P2⇒精神状態M2
「下向きの因果関係は私たちを惑わせるだろう」。

 「ある精神状態が出現したら、そこに下向きの因果関係は存在しているか。思考はその製造元である脳を制約することがあるのか。全体は部分を制約するか。いずれもこの業界では100万ドルの価値がある古典的かつ重要な問題だ。これはよく次のように表現される。時間1において、物理的状態P1が精神状態M1を生みだすとする。そこから少しだけ時間が経過した時間2には、別の物理的状態P2があり、それが精神状態M2を生みだす。M1からM2にはどうやって移ったのか?
 これが難問だ。精神状態は脳内のプロセスから生じるわけだから、脳の関与なしにM1が直接M2を生成することはないだろう。P1からP2、さらにM2になったのだとしたら、精神活動はただのひやかしで、何の仕事もしていないことになる。それでは誰も納得しない。下向きに制約をかけるプロセスにおいて、M1はP2を手引きしてM2に影響を与えているのだろうか? これは難問だ。」(中略)
 「行動の道筋を定める作業は自動的かつ決定論的だ。それをある時点でモジュール化して推進するのはひとつの物理系ではなく、数百、数千、いや数百万の物理系である。実行された一連の行動は意志的な選択のように見えるが、実は相互に作用する複雑な環境がそのとき選んだ、創発的な精神状態の結果なのだ。内外で生まれる相補的な要素が行動を形づくっている。脳という装置はそうやって動いているのである。下向きの因果関係は私たちを惑わせるだろう。ジョン・ドイルが言うように、「原因はどこにある?」とつい探りたくなる。しかし実際は、つねに存在しているいくつもの精神状態と、外からの文脈の影響力がぶつかりあっているなかで、脳は機能している。そのうえで、私たちのインタープリターは「自由意志で選択した」と結論づけているのである。」
(マイケル・S・ガザニガ(1939-),『「わたし」はどこにあるのか』,第4章 自由意志という概念を捨てる,紀伊國屋書店(2014),pp.175-177,藤井留美(訳))
(索引:心身問題)

〈わたし〉はどこにあるのか: ガザニガ脳科学講義


(出典:scholar google
マイケル・S・ガザニガ(1939-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちは、人類共通の倫理が存在するという立場に立って、その倫理を理解し、定義する努力をしなければならない。信じ難い考え方であるし、一見すると荒唐無稽にも思える。だが、他に手立てはない。世界について、また人間の経験の本質について、私たちが信じていることは実際には偏っている。また、私たちが拠り所にしてきたものは過去に作られた物語である。ある一面では、誰もがそれを知っている。しかしながら、人間は何かを、何らかの自然の秩序を信じたがる生き物だ。その秩序をどのように特徴づけるべきかを考える手助けをすることが、現代科学の務めである。」
(マイケル・S・ガザニガ(1939-),『脳のなかの倫理』,第4部 道徳的な信念と人類共通の倫理,第10章 人類共通の倫理に向けて,紀伊國屋書店(2006),p.214,梶山あゆみ(訳))
(索引:)

マイケル・S・ガザニガ(1939-)
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2018年6月11日月曜日

すべて魂の本性は、宇宙を表出するところにある。魂の状態は、「魂の状態と表裏の関係にある肉体の状態」の表出である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))

予定調和

【すべて魂の本性は、宇宙を表出するところにある。魂の状態は、「魂の状態と表裏の関係にある肉体の状態」の表出である。(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716))】
 すべて魂の本性は、宇宙を表出するところにある。自己の本性に固有な法則の力によって、物体とりわけ自分の肉体の中に起こることと一致するように出来ている。魂のそれぞれの状態は、自然的かつ本質的に世界の状態、対応する世界のそれぞれの状態の表出である。なかんずくそのとき、魂の状態と表裏の関係にある肉体の状態の。

体にチクリときたときに、そのチクリを魂が自分の中に表現することができるようになっている。
瞬間A   肉体の状態     表出⇒ 魂の状態
       ↓             ↓
次の瞬間B 肉体の状態(チクリ)表出⇒ 魂の状態(痛み)
 「さてその概念によれば、そのような実体のいまこの一瞬における状態は、つねにそれに先だつ状態の自然的な帰結である。なぜならすべて魂の本性は、宇宙を表出するところにあるからにほかなりません。魂はひとたび創造されるが早いか、自己の本性に固有な法則の力によって、物体とりわけ自分の肉体の中に起こることと一致するように出来ている。ですから体にチクリときたときに、そのチクリを魂が自分の中に表現することができるようになっているからといって、べつだんビックリするには当たらないのです。ではこう申し上げて、この問題についての私の説明に、ケリをつけることにいたしましょう。いま仮に、
 瞬間Aにおける肉体の状態        瞬間Aにおける魂の状態
 次の瞬間Bにおける肉体の状態(チクリ) 瞬間Bにおける魂の状態(痛み)
であるとします。
 と、瞬間Bにおける肉体の状態は、瞬間Aにおける肉体の状態から出てくる。同様に魂の状態Bも、実体一般の概念にしたがって、同一の魂における先だつ状態、すなわち状態Aの帰結である、ということになりましょう。ところで魂のそれぞれの状態は、自然的かつ本質的に世界の状態、対応する世界のそれぞれの状態の表出である。なかんずくそのとき、魂の状態と表裏の関係にある肉体の状態の。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『アルノーとの往復書簡』ハノーファーから、一六八七年一〇月九日、ライプニッツ著作集8、pp.361-362、[竹田篤司・1990])
(索引:心身問題、予定調和)

前期哲学 (ライプニッツ著作集)


(出典:wikipedia
ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「すべての実体は一つの全たき世界のようなもの、神をうつす鏡もしくは全宇宙をうつす鏡のようなものである。実体はそれぞれ自分の流儀に従って宇宙を表出するが、それはちょうど、同一の都市がそれを眺める人の位置が違っているのに応じて、さまざまに表現されるようなものである。そこでいわば、宇宙は存在している実体の数だけ倍増化され、神の栄光も同様に、神のわざについてお互いに異なっている表現の数だけ倍増化されることになる。また、どの実体も神の無限な知恵と全能という特性をいくぶんか具えており、できる限り神を模倣している、とさえ言える。というのは、実体はたとえ混雑していても、過去、現在、未来における宇宙の出来事のすべてを表出しており、このことは無限の表象ないしは無限の認識にいささか似ているからである。ところで、他のすべての実体もそれなりにこの実体を表出し、これに適応しているので、この実体は創造者の全能を模倣して、他のすべての実体に自分の力を及ぼしていると言うことができる。」
(ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ(1646-1716)『形而上学叙説』九、ライプニッツ著作集8、pp.155-156、[西谷裕作・1990])

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