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2022年1月22日土曜日

人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー、社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真理、幻想、等々の観念は、記述的な概念だと考えられているが誤りである。人間観は、普遍的な諸価値を前提としている。そもそも、言語の意味はある意図(目的)を前提としているのである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

人間観を支持する諸価値

人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー、社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真理、幻想、等々の観念は、記述的な概念だと考えられているが誤りである。人間観は、普遍的な諸価値を前提としている。そもそも、言語の意味はある意図(目的)を前提としているのである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



参考:意図と解釈


「われわれが人間を定義するときに用いる基礎的カテゴリー(およびそれに対応する概念) ――社会、自由、時間および変化の感覚、苦悩、幸福、生産性、善悪、正邪、選択、努力、真 理、幻想、等々(以上はまったくアット・ランダムに挙げただけだが)の観念――は、帰納の問 題でも、仮説の問題でもない。あるひとを人間として考えること、そのこと自体によって、こ れらすべての観念が働かされることになる。したがって、あるひとが人間であると言っておき ながら、そのひとに選択とか真理の観念とかがなんの意味ももたないというのは、奇妙であろ う。それは、たんに言葉の上だけの定義(それならば意のままに変えられる)としてではな く、われわれがものを考える仕方、また(ありのままの事実として)われわれが考えざるをえ ないその仕方に本質的なものとして、「人間」というときに意味しているものと衝突すること になろう。  これにはまた、それによって人間が定義される価値(とりわけ政治的価値)も保持されてい るであろう。だから、もしわたくしがあるひとについて、かれは親切だとか、残酷だとか、か れは真理を愛するとか、真理には無関心だとか言うならば、そのひとはいずれの場合にもやは り人間的ではあるのである。ところが、もしわたくしが、そのひとにとっては石をけとばすこ とも家族を殺すことも、いずれも倦怠ないし無為への反対であるがゆえに、文字通りなんの差 別もないようなひとを見出したとしたら、わたくしは首尾一貫した相対主義者のように、たん にわたくし自身ないし大多数のひとびとのそれとはちがった道徳がかれにあるからだと考えた り、われわれは肝心な点で意見がくいちがっていると言ったりしないで、かれは精神異常であ り、非人間的であると言おうとするであろう。自分はナポレオンだと考えるひとが気違いであると同様に、かれは気違いであると見なしたいと思う。つまり、それは、わたくしがそのよう な存在を完全に人間であるとは考えないということである。この種の事例によって、普遍的な ――ないしはほとんど普遍的な――諸価値を認知する能力が、「人間」、「合理的」、「正気 の」、「自然的」等々の基本的概念の分析には入りこんでくることが明らかにされるように思 われる。それらの概念はふつう価値評価にかかわるものでなく、記述的な概念だと考えられて おり、古いア・プリオリな自然法学説における真理の核心を今日経験的用語に翻訳する試みの 根底におかれているものである。記述的陳述と価値の陳述との間のまったく論理的な差別に対 する忠実な経験論者たちの確信をゆるがせ、ヒュームに由来するこの有名な区別に疑問を投じ たのは、新アリストテレス主義者やウィットゲンシュタインの後期学説の信奉者たちによるこ のような考察なのである。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『政治理論はまだ存在するか』,収録:『自由 論』,VIII,pp.500-501,みすず書房(2000),生松敬三(訳))

自由論 新装版 [ アイザィア・バーリン ]


アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2021年11月8日月曜日

意図と目的による意識による行動コントロールは、無意識のプロセスを適切な手段として利用することで、意識の到達範囲はさらに増幅され、分析や計画などに専念できるようになる。(アントニオ・ダマシオ(1944-))

意識の役割
意図と目的による意識による行動コントロールは、無意識のプロセスを適切な手段として利用することで、意識の到達範囲はさらに増幅され、分析や計画などに専念できるようになる。(アントニオ・ダマシオ(1944-))


「人間の子供時代や思春期が異様に長い時間を要するのは、脳の無意識プロセスを教育し て、その無意識の脳空間の中に、意識的な意図や目的にしたがっておおむね忠実に活動するよ うなコントロールの形を作り上げるのに長い時間がかかるからだ。このゆっくりした教育は、 意識的コントロールを無意識の力(確かにそれは人間行動をむちゃくちゃにできる)に委ねる プロセスだと思うべきではないのだ。パトリシア・チャーチランドはこの立場を説得力ある形 で論じている。

  無意識プロセスがあるからといって、意識の価値が下がりはしない。むしろ、意識の到達範 囲はさらに増幅される。そして、普通に脳が機能していれば、一部の行動が健全で頑強な無意 識により実行されているからといって、行動に対するその人の責任は必ずしも低下するわけで はない。

   結局のところ、意識プロセスと無意識プロセスとの関係は、共進化するプロセスの結果とし て生じた奇妙な機能的パートナーシップの新たな一例というわけだ。必然的に、意識と直接的 な意識による行動コントロールは、意識のない心の後から発生したものだ。それまでは意識の ない心が仕切っており、かなりよい結果も出していたが、常に成功したわけではない。もっと うまくやれる余地があった。意識が成熟したのは、まず無意識による実行部隊の一部を制圧し て、それらを容赦なく小突き回し、計画通りのあらかじめ決まった行動を実施させたことによ る。無意識プロセスは、行動を実行するための適切で便利な手段となり、それにより意識は、 分析と計画にもっと時間を割けるようになったのだ。

  家に歩いて帰るとき、どの道で帰ろうか考えるよりは何か別の問題の解決法を考えていたり するが、それでも安全にきちんと家に帰れる。このとき、われわれはそれまで数多くの意識的 な実行により、学習曲線にそって身につけた無意識的な技能の恩恵を受け入れたことになる。 家に歩いて帰るとき、意識がモニターする必要があったのは、その旅の全体的な目的地だけ だ。意識プロセスの残りは、創造的な目的のために自由に使えた。

 ほとんど同じことが、音楽家や運動選手の専門活動についてもいえる。その意識的処理は、 目的の達成だけに専念している。ある時点で何らかの水準を達成し、その実施にあたってのい くつかの危険を回避し、予想外の状況を検出することだ。あとは練習、練習、また練習で、そ れが第二の天性になればいずれ大成し、カーネギー・ホールに立てるかもしれない。」

(アントニオ・ダマシオ(1944-)『自己が心にやってくる』第4部 意識の後しばらく、第11 章 意識と共に生き得る、pp.322-324、早川書房 (2013)、山形浩生(訳))

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アントニオ・ダマシオ

「もし社会的情動とその後の感情が存在しなかったら、たとえ他の知的能力は影響されないという非現実的な仮定を立てても、倫理的行動、宗教的信条、法、正義、政治組織と いった文化的構築物は出現していなかったか、まったく別の種類の知的構築物になっていたか のいずれかだろう。が、少し付言しておきたい。私は情動と感情だけがそうした文化的構築物 を出現させているなどと言おうとしているのではない。第一に、そうした文化的構築物の出現 を可能にしていると思われる神経生物学的傾性には、情動と感情だけでなく、人間が複雑な 自伝を構築するのを可能にしている大容量の個人的記憶、そして、感情と自 己と外的事象の密接な相互関係を可能にしている延長意識のプロセスがある。第二 に、倫理、宗教、法律、正義の誕生に対する単純な神経生物学的解釈にはほとんど望みがもて ない。あえて言うなら、将来の解釈においては神経生物学が重要な役割を果たすだろう。しか し、こうした文化的現象を十分に理解するには、人間学、社会学、精神分析学、進化心理学な どからの概念と、倫理、法律、宗教という分野における研究で得られた知見を考慮に入れる必 要がある。実際、興味深い解釈を生み出す可能性がもっとも高いのは、これらすべての学問分 野と神経生物学の〈双方〉から得られた統合的知識にもとづいて仮説を検証しようとする新し い種類の研究だ。」

(アントニオ・ダマシオ(1944-)『スピノザを探し求めて』(日本語名『感じる脳 情動と感 情の脳科学 よみがえるスピノザ』)4 感情の存在理由、pp.209-210、ダイヤモンド社 (2005)、田中三彦())

2020年5月3日日曜日

人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、現実になぜ残虐行為が発生するのかの解明には、科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係している。(マルコ・イアコボーニ(1960-))

感情や意図の共有能力と残虐行為

【人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、現実になぜ残虐行為が発生するのかの解明には、科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係している。(マルコ・イアコボーニ(1960-))】

(1)問題:人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、なぜ残虐にもなれるのか。
 (1.1)感情や意図の共有
  感情や意図を共有し合えるという能力は、人と人とを意識以前の基本的なレベルで互いに深く結びつけ、人間の社会的行動の根本的な出発点でもある。
 (1.2)残虐行為が存在するという事実
(2)仮説
 (2.1)科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係する
  共感を促進するのと同じ神経生物学的メカニズムが、特定の環境や背景のものでは共感的行動と正反対の行動を生じさせている可能性があるが、科学的な事実と制度、政策の関係の問題と、人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題が絡み、解決を難しくしている。
  (2.1.1)暴力的な映像による模倣暴力の事例
    暴力的な映像による模倣暴力の存在は、実験で検証されている。攻撃的な行動は、未就学児でも青年期でも、性別、生来の性格、人種によらず一貫して観察される。実際の社会においても、因果関係が実証されている。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
  (2.1.2)科学的な事実と制度、政策の関係の問題
   (a)これを解明するためには、科学的な事実を、社会全般の幸福を促進するための政策策定に反映させる制度的な仕組みが必要だが、そのような体制にはなっていない。
   (b)規制すべきかどうかの問題。言論の自由との絡みがある。
   (c)規制すべきかどうかの問題。市場と金銭的利害との絡みがある。
  (2.1.3)人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題
   (a)社会性と人間の自由意志の関係
    人間の最大の成功ではないかとも思える私たちの社会性が、一方では私たちの個としての自主性を制限する要因でもあることを示唆している。これは長きにわたって信じられてきた概念に対する重大な修正である。
   (b)人間の生物学的組成と自由意志の関係
    一方、人間はその生物学的組成を乗り越えて、自らの考えを社会の掟を通じて自らを定義できるとする見方がある。

 「人は人と出会うと、感情や意図を伝えて共有する。人と人とは意識以前の基本的なレベルで互いに深く結びついている。これがわかってみると、この《事実》は社会的行動の根本的な出発点なのではないかと私には思える。しかし伝統的な分析哲学では、意識しての行動や人と人との違いを強調するあまり、こうしたことがほとんど無視されてきた。一方、私たちはまた別の事実も突きつけられている。それは文字どおり残虐な世界だ。この世では毎日いたるところで残虐行為が起こっている。私たちの神経生物学的機構は共感を生むように配線され、ミラーリングと意味の共有をするように調整されているはずなのに、なぜそんなことになってしまうのか?
 私の考えでは、これには三つのおもな要因がある。第一に、模倣暴力という現象で見たように、共感を促進するのと同じ神経生物学的メカニズムが、特定の環境や背景のものでは共感的行動と正反対の行動を生じさせる可能性がある。これはいまのところ仮説でしかないが、非常に信憑性の高い仮説だと思う。もし裏づけが取れれば、この神経科学上の事実はぜひとも政策決定に役立てるべきである。とはいえ、実際にはそうはならないだろう。理由は二つある。第一に、私たちの社会は科学的データを政策策定に使えるような態勢には少しもなっていない。とくに模倣暴力のような事例では、金銭的利害と言論の自由との複雑な関係が絡んでくるから、なお難しい。これは簡単に答えの出ない厄介な案件だが、科学全般、そしてその一部である神経科学を、象牙の塔や市場だけに閉じ込めておくのは決して得策ではないと思う。現状ではどんな発見も神経疾患の薬物治療を発達させることに適用されるだけで、社会全般の幸福を促進するために適用されることはめったにない。神経科学上の発見が政策決定に実際に役立てられること、またそうすべきであることを、せめて公開の場で討論できるようになればと思う。こうした考えはいまのところほとんど現われていないが、絶対に必要なことだと確信する。
 神経科学を政策に反映させようとする考えに抵抗が生じる第二の理由は、自由意志をいう大切な概念が脅かされるのではないかという恐れに関係している。その恐れが模倣暴力に関する議論にも結びついているのは明らかだ。ミラーニューロンについての研究は、人間の最大の成功ではないかとも思える私たちの社会性が、一方では私たちの個としての自主性を制限する要因でもあることを示唆している。これは長きにわたって信じられてきた概念に対する重大な修正である。伝統的に、個体行動の生物学的決定論の一方には、それと対比をなすものとして、人間はその生物学的組成を乗り越えて、自らの考えを社会の掟を通じて自らを定義できるとする見方がある。しかしミラーニューロンの研究は、私たちの社会の掟のほどんどが、私たちの生物学的仕組みによって決められていることを示している。この新たな知見にどう対処すればいい? 受け入れがたいとして拒否するか? それともこれを利用して政策に反映し、よりよい社会をつくっていくか? 私はもちろん後者に与する。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.327-329,塩原通緒(訳))
(索引:感情,意図,残虐行為,制度,政策,社会性,自由意志)

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)


(出典:UCLA Brain Research Institute
マルコ・イアコボーニ(1960-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ミラーリングネットワークの好ましい効果であるべきものを抑制してしまう第三の要因は、さまざまな人間の文化を形成するにあたってのミラーリングと模倣の強力な効果が、きわめて《局地的》であることに関係している。そうしてできあがった文化は互いに連結しないため、昨今、世界中のあちこちで見られるように、最終的に衝突にいたってしまう。もともと実存主義的現象学の流派では、地域伝統の模倣が個人の強力な形成要因として強く強調されている。人は集団の伝統を引き継ぐ者になる。当然だろう? しかしながら、この地域伝統の同化を可能にしているミラーリングの強力な神経生物学的メカニズムは、別の文化の存在を明かすこともできる。ただし、そうした出会いが本当に可能であるならばの話だ。私たちをつなぎあわせる根本的な神経生物学的機構を絶えず否定する巨大な信念体系――宗教的なものであれ政治的なものであれ――の影響があるかぎり、真の異文化間の出会いは決して望めない。
 私たちは現在、神経科学からの発見が、私たちの住む社会や私たち自身についての理解にとてつもなく深い影響と変化を及ぼせる地点に来ていると思う。いまこそこの選択肢を真剣に考慮すべきである。人間の社会性の根本にある強力な神経生物学的メカニズムを理解することは、どうやって暴力行為を減らし、共感を育て、自らの文化を保持したまま別の文化に寛容となるかを決定するのに、とても貴重な助けとなる。人間は別の人間と深くつながりあうように進化してきた。この事実に気づけば、私たちはさらに密接になれるし、また、そうしなくてはならないのである。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.331-332,塩原通緒(訳))
(索引:)

マルコ・イアコボーニ(1960-)
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2018年12月10日月曜日

ある一つの絵、ある記号が何を意味するのか。その絵の描き手、記号の使用者の「意図」が分かったとき、その絵、記号の「解釈」が我々に与えられ、絵と記号は実在として我々を取り囲み、我々はその内に住まうようになる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

記号の解釈と意図

【ある一つの絵、ある記号が何を意味するのか。その絵の描き手、記号の使用者の「意図」が分かったとき、その絵、記号の「解釈」が我々に与えられ、絵と記号は実在として我々を取り囲み、我々はその内に住まうようになる。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】 

(a)
 a b
(b)
 L R
(c)
 ← →
(d)
 意図とは、思考における記号の用い手の意図である。意図とは、最終的な解釈を与えることである。
 L:左へ行け
 R:右へ行け
(e)
 意図:これは道標である
  ←   解釈:左へ行け
  →   解釈:右へ行け
 意図:これは道路標識である
  →   解釈:この道路は一方通行である
(f)
 何らかの意図
  ある文 →   ある解釈
 ここで我々は、解釈のこれ以上の可能性はないと考えるようになる。

(g)
 何らかの意図
  ある絵 →  ある解釈
 意図をもった絵だけが、物差しとして実在に届く。外側から眺めれば、それはいわば死んでおり、孤立している。
 意図をもつと、われわれは意図空間の内に住み、意図の諸々の像(諸々の影像)の下で、現実の諸々の対象とかかわる。






 「二二九 だが、ある《解釈》は記号によって与えられる。この解釈は別の(異なった意味を与える)解釈との対比において成立している。―――したがって、われわれが「どの文もさらに解釈の必要がある」と言おうとするとき、それは、どんな文も添書きなしでは理解されない、という意味なのである。

 二三〇 それは、
骰子遊びにおいて、ある振りがどれほどの値打ちをもっているかが別の振りによって決まる場合によく似ている。

 二三一 「意図」という言葉によって、わたくしはここで、思考における記号の用い手を意味する。意図するとは、解釈すること、最終的な解釈を与えることであるように思われる。すなわち、さらにその上に次々と記号や像を与えないでそれ以上もう解釈できない別の何かを与えることであるように思われる。しかし、到達するのは心理的な終点であって、論理的な終点ではない。
 ある記号言語、すなわち〈抽象的な〉記号言語を考えて見よ。わたくしが言っているのは次のような言語、すなわちわれわれが聞きなれたものではなく、そこでわれわれは安住できないような、いわばそこで《ものを考えない》ような言語である。そしてこの言語は、いわば曖昧なところのない像言語、すなわち遠近法にかなった仕方で描かれた様々な絵からできている言語に翻訳することによって解釈される、と考えてみよう。書き言葉については様々の《解釈》を考える方が、普通の仕方で描かれた絵についてそれを考えるよりもはるかに容易であるということは明白である。ここでわれわれはまた、解釈のこれ以上の可能性はないと考えるようになる。
 二三二 ここで、われわれは記号言語の内には住まず、描かれた絵の内に住んだのだ、とも言えるかもしれない。

 二三三 「意図をもった絵だけが、物差しとして実在に届く。外側から眺めれば、それはいわば死んでおり、孤立している。」―――これは、いわば次のようなことである。われわれははじめ、ある絵を、われわれがその絵の内に住んでおり、その中の諸々の対象は現実の対象のようにわれわれを取り囲んでいるかのように眺める、ついで、そこから身を引き、絵の外に立ち、額縁を眺める、するとその絵は一つの描かれた平面になる。このように、われわれが意図をもつと、その意図の像はわれわれを取り囲み、われわれはその内に住まう。しかし、その意図から抜け出ると、それは画布の上の単なる斑点になり、生命がなくなり、われわれの関心の対象でもなくなる。意図をもつと、われわれは意図空間の内に住み、意図の諸々の像(諸々の影像)の下で、現実の諸々の対象とかかわる。暗い映画館の中に座って、映画の内に浸っている、と想像してみよう。さて館内が点燈されたが、映画は銀幕上でまだ続けられている。しかし、われわれは突然その外に立ち、映画を銀幕上の光と影からなる諸々の斑点の動きとして見る。
 (夢の中で、はじめはある物語を読んでいて、その内に自分自身がその物語の登場人物になる、ということが時折生じる。また夢から醒めた後で、あたかもその夢から抜け出て、今その夢を自分の眼前にある一つの見知らぬ像として見る、といったことが時折生じる。)したがって、「本の中で暮らす」ということもまたある意味をもっているのである。」

(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『断片』二二九~二三四、全集9、pp.248-250、菅豊彦)
(索引:記号の解釈,意図)

ウィトゲンシュタイン全集 9 確実性の問題/断片


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)
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2018年12月7日金曜日

19.すべての行為には、多くの無意識的な意図性がある。ある行為が行なわれるための言表され得る意図、動機である意識的な意図は、偽であり得る一つの解釈、恣意的で単純化された一つの偽造である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

行為の無意識的な意図、言表された意図

【すべての行為には、多くの無意識的な意図性がある。ある行為が行なわれるための言表され得る意図、動機である意識的な意図は、偽であり得る一つの解釈、恣意的で単純化された一つの偽造である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(3.5.1)(3.5.2)追加記載。

(3)行為
 我々の行為は、根本において比類ない仕方で個人的であり、唯一的であり、あくまでも個性的であることに疑いの余地がない。
 (3.1)目的意識的な行為であっても、無数の個々の運動が、明確に意識されることなく遂行される。
  目的意識的な行為も、無数の諸運動が、未知のまま遂行されている。(a)先行する心像は不明確である、(b)意志が制御しているわけではない、(c)現実的な過程は未知のままである、(d)意識による理解は、仮構である。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))
 (3.2)それらは、私たちには、あらかじめ全く未知のものである。例えば、咀嚼に先行する咀嚼の心像を考えてみること。それは、まったく不明確である。
 (3.3)これらの諸運動は、意志によってひき起こされるのではない。
 (3.4)これらの諸運動は起こるのだが、私たちには明確には、知られないままである。
 (3.5)現実的な経過や本質とは別に、私たちの空想は、私たちが「本質」とみなすのを常とする何らかの仮構を対置する。
  (3.5.1)すべての行為には、多くの無意識的な意図性がある。
  (3.5.2)ある行為が行なわれるための言表され得る意図、動機である意識的な意図は、偽であり得る一つの解釈、恣意的で単純化された一つの偽造である。

 「或る行為の価値を、その行為が行なわれるための動機であった意図にしたがって測定する者は、《意識的な意図》をそのさい考えている。

だが、すべての行為には多くの無意識的な意図性があるのだ。

そして、「意志」や「目的」として前景のうちへと入り込んでくるものは、《多種多様に》解釈可能であって、それ自体一つの徴候にすぎない。

「言表された、また言表されうる意図というもの」は、一つの解釈、《偽》でありうる一つの解釈であり、かつまた、一つの恣意的な単純化や偽造等々なのだ。


 行為の一つの可能的な結果としての《「快」を打算すること》と、拘束され堰き止められた力の発現としての、なんらかの活動自身と結びついた快、これら二つの快を区別するだけでもう、なんという骨折りが必要とされたことか! これはお笑いぐさだ! 

これは、生の快適さと―――道徳的な陶酔や自己崇拝としての《浄福》とが取り違えられるのと同様だ。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅱ道徳哲学 六九三、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、p.338、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:行為、意図)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

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