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2019年8月4日日曜日

「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

正義の原理と権利

【「正義」の原理とは、違反者を処罰したいという感情に起源を持ち、社会による被害者の救済が正当な請求、すなわち「権利」と考える、全ての人の幸福を目的とした、全ての人に平等に適用される行為の規則である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)報復の原理
 (1.1)行為の規則
  (a)行為の規則は、自分自身や、自分が共感している人びとのものである。
  (b)行為の規則は、自分が共感している人びとにとっての善を目的としたものである。
 (1.2)行為の規則を是認する感情
   憤慨の感情、報復や復讐の感情
   自分自身や、自分が共感している人に対する危害や損害にたいして、反撃したり報復したりしたいという動物的欲求に由来する。
(2)正義の原理
 (2.1)行為の規則
  (a)行為の規則は、全ての人に共通である。
   カントの道徳の根本原理「その行為の規則が、すべての理性的存在によって法として採用されるように行為せよ」も、同じことを主張している。
  (b)行為の規則は、全ての人にとっての善を目的としたものである。
   仮に、規則が「行為者の善のみを目的とせよ」という完全に利己的なものであったとしたら、この規則は、すべての理性的存在によって採用されるという要請とは矛盾するだろう。
  (c)自分自身や、自分が共感している人びとに限定されることなく、全ての人びとに広げられている。
 (2.2)行為の規則を是認する感情
  (a)行為の規則を犯した人に、処罰を与えてよいという欲求がある。
  (b)行為の規則に違反することによって、被害を被る特定の人がいるという認識を伴う。
  (c)仮に、自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害であっても、まず、全ての人にとっての善という目的に適っているかどうかが判断される。
  (d)逆、自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害がない場合でも、社会全体に対する危害に対して憤慨の感情が生じる。
 (2.3)「権利」とは何か。
  (a)自分か他者かは問わず、自分が共感している人びとか否かを問わず、行為の規則を犯した人によって加えられた被害に対して、規則を犯した人を処罰し、被害者を救済することが、社会に対して正当に請求できるとき、被害者は「権利」を保持しており、その権利を侵害されていると表現する。
  (b)仮に、何らかの原因により特定の人が被害を被っていても、社会がその人に何の措置も講じる必要はなく、彼を運命や自らの努力に委ねるべきであるということが認められれば、彼に「権利」はない。

 「正義の感情は処罰したいという欲求を作り上げている要素の一つであるという点からして、そのような被害、つまり社会を通じて、あるいは社会全体とともに、私たちを傷つけるような危害に対して適用される、知性と共感によって起こる報復や復讐という自然な感情であるように思われる。この感情はそれ自体としては道徳的なものを一切含んではいない。道徳的なのは、この感情が社会的共感の求めるところに付随し従うようになるくらい完全にその下位に置かれることである。というのは、私たちは誰かに不愉快なことをされると、それがどのようなことであっても、自然な感情によって見境なく憤慨するだろうが、社会的感情によって道徳化されている場合には、自然な感情は全体の善と一致するような方向にしか作用しないからである。正義にかなっている人々は自らに対するものではなくても社会に対する危害に憤慨するが、自らに対する危害に対しては、それを制圧することが社会の共通の利益になるようなものでないかぎりは、それがどれほど苦痛なものであっても憤慨しない。
 私たちの正義の感情が踏みにじられたと感じるとき、私たちは社会全体のことや社会全体の集合的利益のことを考えていないし、個人的なことしか考えていないと述べても、この理論に対する反論にはならない。たしかに、自分が苦痛を被るという理由だけから憤慨の感情を抱くことはまったく一般的なことである。しかし、憤慨が本当に道徳的感情であるような人、つまりある行為に憤慨する前にそれが非難されるべきものなのかを考える人――このような人は、自分が社会の利益のために行動しているとははっきりとは自認していないかもしれないが、自分自身の利益のためだけでなく他者の利益のためにもなる規則を主張しているということをたしかに感じている。もしその人がこのことを感じていないとしたら――その行為が自分一人にだけ影響を与えるものと考えているとしたら――彼は自覚的に正義にかなおうとしていないことになる。その人は自らの行為が正義にかなっているかに関心を持っていないのである。このことは反功利主義的道徳論者によっても認められている。カントは(先に指摘したように)道徳の根本原理として「その行為の規則がすべての理性的存在によって法として採用されるように行為せよ」というものを提案したとき、行為の道徳性を入念に確定するためには、人類の利益が集合的に、あるいは少なくとも人々の利益が差別されることなく、行為者の念頭におかれていなければならないということを事実上認めていた。そうでなければ、彼は無意味な言葉を用いていたことになる。というのは、完全に利己的な規則がすべての理性的存在によっては《おそらく》採用されえないということ――これを採用することを阻む超えることのできない障壁が事物の本性には存在しているということ――を説得力をもって主張できないからである。カントの原理に何らかの意味をもたせるには、次のような意味が与えられなければならない。すなわち、私たちはすべての理性的存在が採用するであろう規則と《それらの存在の集合的利益への便益》を勘案して自らの行為を決定しなければならない。
 要約すると、正義の観念は行為の規則とその規則を是認する感情という二つのことを想定している。前者は全人類に共通し全人類の善を目的としていると思われるものでなければならない。後者(感情)は規則を犯した人に処罰を与えてよいという欲求である。さらに、規則を違反することによって被害を被る特定の人、規則を違反することによって権利を(この場合に適切な表現を使えば)侵害される人がいるという考えも含まれている。自分自身や自分が共感している人に対する危害や損害にたいして反撃したり報復したりしたいという動物的欲求が、深められた共感能力と理にかなった自己利益という人間にふさわしい考え方によってすべての人間を対象とするように広げられているものが正義の感情であるように私には思える。
 私はここまでずっと、危害を受けた人に属している危害によって侵害された権利という観念を、正義の観念や感情を構成している個別の要素としてではなく、他の二つの要素が形を取って現れるときの一つの形態として扱ってきた。二つの要素とは、一つは特定可能な一人あるいは複数の人に対する危害というものであり、もう一つは処罰の要求である。自分たち自身の精神を吟味してみると、私たちが権利の侵害について語るときに意味しているのはこれら二つのことに尽きるということが分かると思う。私たちが何らかのものを人の権利と呼ぶとき、私たちが意味しているのは、人がその所有しているものを法律の力あるいは教育や世論の力によって保護してもらうことを社会に対して正当に請求できるということである。どのような理由であっても、社会によって保護されるべきものをもっているということに関して、その人が十分な主張だと私たちがみなすものをもっているとしたら、私たちはその人はそれに対する権利をもっていると述べる。あるものが権利として人に属していないことを明らかにしたいと望むなら、社会がそれをその人に保障するために何の措置も講じる必要はなく、彼を運命や自らの努力に委ねるべきであるということが認められさえすればよい。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第5章 正義と功利性の関係について,集録本:『功利主義論集』,pp.326-329,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:正義の原理,権利,憤慨の感情,報復や復讐の感情)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2018年4月3日火曜日

他の人たちによってなされた行為による〈悪〉の感受:憤慨、怒り(ルネ・デカルト(1596-1650))

憤慨と怒り

【他の人たちによってなされた行為による〈悪〉の感受:憤慨、怒り(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 意志に依存する想像、思考や理性がとらえた、他の人たちによってなされた行為が、「憤慨」を感じさせるとき、またその行為がわたしたちに対してなされ「怒り」を感じさせるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。
 「まったく同様に、他の人たちによってなされた悪は、わたしたちに関係ない場合は、その人たちへの憤慨の気持ちを抱かせるだけだが、それがわたしたちに関わると、怒りをも触発する。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 六五、pp.58-59、[谷川多佳子・2008])
 「憤慨が好意の正反対であるのと同様に、怒りは感謝の正反対である。けれども、怒りは、これら三つの他の情念とは比較にならないほど激しい。なぜなら、有害なものを押し返し、その復讐をしようとする欲望は、あらゆる欲望のうちで最も切実だからだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第三部 一九九、p.169、[谷川多佳子・2008])
(索引:憤慨、怒り)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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