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2019年8月27日火曜日

経済的に恵まれている階級に属する人々の信条と伝統的な意見、それに対立する信条、意見の違いを乗り越えた変革を実現させるのは、信条を組織だて合理的に説明しようとする願望と、人間の知性の力である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

啓蒙による変革

【経済的に恵まれている階級に属する人々の信条と伝統的な意見、それに対立する信条、意見の違いを乗り越えた変革を実現させるのは、信条を組織だて合理的に説明しようとする願望と、人間の知性の力である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(4)追加。

(1)伝統的な意見
  単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)現在は、単に信じられているだけかもしれないが、最初の創始者たちにとっては、人間が持つある自然な要求や必要に由来する、現実的な何かしらの真理を表現したもののはずである。
 (1.2)信念は、人間の知性と感情との錯綜物であり、ある信念が長く存続したという事実は、少なくともその信念が、人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた証拠である。
(2)伝統的な意見と対立する意見
 (2.1)伝統的な意見は、単なる伝統に従って信じられてきただけであり、真理であるとは限らない。
 (2.2)伝統的な意見は、社会の支配的な階級に属する人たちの、利己的な利害に由来する。
(3)真理は、伝統的な意見とそれに対立する意見の双方にある
   人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (3.1)それぞれの観点にあまりにも厳格に固執するならば、相手方の真理に目をふさぐことになる。
 (3.2)真理の一部を全体と誤解する誤謬
  人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、虚偽を真理と誤認することであるというよりは、むしろ真理の一部をその全体と誤解することである。
 (3.3)論争における弊害
  社会哲学における論争においては、双方の意見を乗り越えて真理に迫ろうとするよりも、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれる。その結果、ほとんどそのすべての場合において、双方が彼らの否定する点においては誤っているが、彼らの肯定する点においては正当であるというような事態になる。
 (3.4)例として、人類は文明によって、どれほどの利益を得たかという問題
  (3.4.1)経済システムの恩恵と弊害、制約
   (a)物理的な安楽が増大したこと。
   (b.1)人類のきわめて多くの部分が、人為的な必要品の奴隷となり果てていること。
   (b.2)文明国の人民の大多数が、必要物の供給の点で無数の足かせに縛られて悩んでいること。
  (3.4.2)知識の進歩
   (a.1)知識が進歩し普及したこと。
   (a.2)迷信がすたれたこと。
  (3.4.3)文化一般と人間の個性
   (a)礼儀作法が優雅になったこと。
   (b)彼らの性格が、情熱に欠け面白味の無いものとなり、何らの鮮明な個性を持たないものになっていること。
  (3.4.4)交流と独立心
   (a)相互交流が容易になったこと。
   (b)誇り高くして自らを頼む独立心が失われたこと。
  (3.4.5)分業の効果と人間の諸能力
   (a)大衆の協力によって、地球上の至るところに諸々の偉大な事業が成就されたこと。
   (b.1)即座に目的に即応する手段を取りうるか否かによって、己の生存と安全とが刻々に決定されていく原始林の住民の持つ多様な能力に比較して、決まりきった規則に則って、決まりきった仕事を果たすことに生涯を費やすことによって産み出される狭く機械的な理解力。
   (b.2)彼らの生活が、退屈で刺激のない単調なものとなり変わったこと。
  (3.4.6)戦争、個人的闘争と人間の性格
   (a)戦争と個人的闘争とが減少したこと。
   (b.1)個人の精力と勇気とが減退したこと。
   (b.2)彼らが女々しくも苦痛の影をすら避けようとしていること。
  (3.4.7)直接的な圧制から富と社会的地位による支配へ
   (a)強者が弱者の上に及ぼす圧制が、漸次制限されてゆくこと。
   (b)富と社会的地位との甚だしい不平等が、道義的な退廃を醸し出していること。

(4)問題:伝統的な意見と、それに対立する意見の双方を乗り越えて、変革を実現するためには、どうすればよいのだろうか。
 (4.1)経済的に恵まれている階級に属する人々の意見
  大財産の所有者および大財産の所有者と親密な関係にあるすべての階級の大部分は、今の自分の状態を維持するために、伝統的な意見を支持しているものである。
 (4.2)経済的に恵まれている階級の強大な力
  大財産の所有者および大財産の所有者と親密な関係にあるすべての階級の人々は、強大な勢力を持っている。この事実を無視し、彼らを考慮することなく諸問題の解決を図ろうとすることは、愚の骨頂である。
 (4.3)論争や闘争の弊害
  伝統的な意見を否定し、それに対立する意見を、経済的に恵まれている階級の人々に対して主張し、彼らの意見を変えさせることが可能だろうか。
  参照:人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (4.4)啓蒙による変革
  経済的に恵まれている階級に属する人々が、自らの信念である伝統的な意見の一部が誤りであることに気づき、それに対立する意見のうちにある真理の一部を、伝統的な意見の一部として、自ら採用するように導かれるようにする。これ以外の方法に見込みがあるとは思われない。「この進歩を達成するための第一歩は、彼ら自身の現実の信条を組織だて、かつ、それを合理的に説明しようとする願望を、彼らの心に吹き入れることである」。

 「「主よ、われらの敵を啓蒙したまえ」、というのがあらゆる真の〈改革論者〉の祈りでなければならない。彼らの知力を鋭くし、彼らの知覚を鋭敏にし、彼らの推理力に連続性と明晰さとを与えたたまえ。彼らの弱さこそわれわれを不安の念で満たしているのであり、彼らの強さがそうさせているのではない。
 われわれ自身としては、われわれが特殊な意見を持っているからといって、次の事実に気づかないほど盲目となってはいない。すなわち、わが国および他のあらゆるヨーロッパ諸国において、大財産の所有者および大財産の所有者と親密な関係にあるすべての階級の大部分は、主として〈保守的〉であり、また当然そうであることが予期されなくてはならない、という事実がそれである。このように強力な団体が存在しながら、なおもそれが国内において強大な勢力を振るわずにいられるということを想定すること、あるいは、霊的な変革にせよ世俗的なそれにせよ、彼らを問題の外に置いて重要な変革を企てることは、愚の骨頂であるだろう。そのような変革を望む人は、すべからく次のことを自問すべきである。すなわち、われわれは、これらの階級がひとり残らず団結して、自分たちに反対し、かつまたいつまでもそうし続けることに甘んじていられるだろうか、と。また、一つの準備過程がほかならぬこれらの階級の人びとの心中に進行しない限りは、そしてその準備過程も、彼らを〈保守主義者〉から〈自由主義者〉に転向させるという実行不可能な方法によって促されるのではなく、彼らが〈保守主義〉自体の一部として次々と自由主義的な意見を採用するように導かれるという方法によるものでない限りは、われわれはいかなる進歩の実をあげる見込みがあるであろうか、またいかなる方法によって進歩をもたらしえようか、と。この進歩を達成するための第一歩は、彼ら自身の現実の信条を組織だてかつそれを合理的に説明しようとする願望を彼らの心に吹き入れることである。したがって、この第一歩を踏み出そうとする最も微力な試みでさえ、本質的な価値を持つのである。そうだとすれば、コウルリッジの哲学のように、道徳的善と真の洞察との二つながらをきわめて多く包含している試みが、なおさら貴重な価値を持つものであることは、改めて言うまでもないことである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『コウルリッジ』(集録本『ベンサムとコウルリッジ』),pp.216-217,みすず書房(1990),松本啓(訳))
(索引:啓蒙による変革,伝統的な意見,論争や闘争の弊害)

OD>ベンサムとコウルリッジ


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月26日月曜日

人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

真理の一部をその全体と誤解すること

【人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)追記。

(1)伝統的な意見
  単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)現在は、単に信じられているだけかもしれないが、最初の創始者たちにとっては、人間が持つある自然な要求や必要に由来する、現実的な何かしらの真理を表現したもののはずである。
 (1.2)信念は、人間の知性と感情との錯綜物であり、ある信念が長く存続したという事実は、少なくともその信念が、人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた証拠である。
(2)伝統的な意見と対立する意見
 (2.1)伝統的な意見は、単なる伝統に従って信じられてきただけであり、真理であるとは限らない。
 (2.2)伝統的な意見は、社会の支配的な階級に属する人たちの、利己的な利害に由来する。
(3)真理は、伝統的な意見とそれに対立する意見の双方にある
 (3.1)それぞれの観点にあまりにも厳格に固執するならば、相手方の真理に目をふさぐことになる。
 (3.2)真理の一部を全体と誤解する誤謬
  人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、虚偽を真理と誤認することであるというよりは、むしろ真理の一部をその全体と誤解することである。
 (3.3)論争における弊害
  社会哲学における論争においては、双方の意見を乗り越えて真理に迫ろうとするよりも、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれる。その結果、ほとんどそのすべての場合において、双方が彼らの否定する点においては誤っているが、彼らの肯定する点においては正当であるというような事態になる。
 (3.4)例として、人類は文明によって、どれほどの利益を得たかという問題
  (3.4.1)経済システムの恩恵と弊害、制約
   (a)物理的な安楽が増大したこと。
   (b.1)人類のきわめて多くの部分が、人為的な必要品の奴隷となり果てていること。
   (b.2)文明国の人民の大多数が、必要物の供給の点で無数の足かせに縛られて悩んでいること。
  (3.4.2)知識の進歩
   (a.1)知識が進歩し普及したこと。
   (a.2)迷信がすたれたこと。
  (3.4.3)文化一般と人間の個性
   (a)礼儀作法が優雅になったこと。
   (b)彼らの性格が、情熱に欠け面白味の無いものとなり、何らの鮮明な個性を持たないものになっていること。
  (3.4.4)交流と独立心
   (a)相互交流が容易になったこと。
   (b)誇り高くして自らを頼む独立心が失われたこと。
  (3.4.5)分業の効果と人間の諸能力
   (a)大衆の協力によって、地球上の至るところに諸々の偉大な事業が成就されたこと。
   (b.1)即座に目的に即応する手段を取りうるか否かによって、己の生存と安全とが刻々に決定されていく原始林の住民の持つ多様な能力に比較して、決まりきった規則に則って、決まりきった仕事を果たすことに生涯を費やすことによって産み出される狭く機械的な理解力。
   (b.2)彼らの生活が、退屈で刺激のない単調なものとなり変わったこと。
  (3.4.6)戦争、個人的闘争と人間の性格
   (a)戦争と個人的闘争とが減少したこと。
   (b.1)個人の精力と勇気とが減退したこと。
   (b.2)彼らが女々しくも苦痛の影をすら避けようとしていること。
  (3.4.7)直接的な圧制から富と社会的地位による支配へ
   (a)強者が弱者の上に及ぼす圧制が、漸次制限されてゆくこと。
   (b)富と社会的地位との甚だしい不平等が、道義的な退廃を醸し出していること。

 「人間と社会との研究家で、しかもそのように困難な研究にとっての第一要件、すなわちその研究にともなうもろもろの困難についてのしかるべき認識、を備えている人は皆、絶えずつきまとう危険は、虚偽を真理と誤認することであるというよりはむしろ真理の一部をその全体と誤解することである、ということを知っているはずである。社会哲学における、過去または現在の、主な論争は、ほとんどそのすべての場合において、双方が彼らの否定する点においては誤っているが、彼らの肯定する点においては正当であるということ、また、いずれの側にせよ、そもそも己の見解の上に相手の見解を加味することができたならば、その教説を完全なものにするためには、それ以上にほとんど何ものをも要しなかったであろうということ、以上のことは、まず間違いなく主張しうるところであると言ってよいだろう。人類は文明によってどれほどの利益を得たかという問題を例にとってみるがよい。ある観察者は、物理的な安楽が増大したこと、知識が進歩し普及したこと、迷信がすたれたこと、相互交流が容易になったこと、礼儀作法が優雅になったこと、戦争と個人的闘争とが減少したこと、強者が弱者の上に及ぼす圧制が漸次制限されてゆくこと、大衆の協力によって地球上のいたるところにもろもろの偉大な事業が成就されたこと、以上のことによって強烈な印象をうける。こうして彼は、あのきわめてありふれた人物、すなわち「わが開明の時代」の礼賛者となるのである。しかるに、他の観察者は、これらの利益の持っている価値にではなしに、これらの利益を得るために支払われた高価な代償に、もっぱらその注意を向ける。すなわち、個人の精力と勇気とが減退したこと、誇り高くして自らをたのむ独立心が失われたこと、人類のきわめて多くの部分が人為的な必要品の奴隷となり果てていること、彼らが女々しくも苦痛の影をすら避けようとしていること、彼らの生活が退屈で刺激のない単調なものとなり変わったこと、彼らの性格が情熱に欠け面白味のないものとなり、何らの鮮明な個性を持たないものになっていること、決まりきった規則にのっとって決まりきった仕事を果たすことに生涯を費やすことによって産み出される狭く機械的な理解力と、即座に目的に即応する手段を取りうるか否かによって己の生存と安全とが刻々に決定されていく原始林の住民の持つ多様な能力と、この両者の間にいちじるしい対照が感じられること、富と社会的地位とのはなはだしい不平等が道義的な退廃をかもし出していること、文明国の人民の大多数が、必要物の供給の点では野蛮人の場合とほとんど変わらないにもかかわらず、野蛮人が必要物の供給のうえの不便さの代償として持っている自由と刺激との代わりに、無数の足かせに縛られて悩んでいること、などがそれである。こうしたことに、しかももっぱらこうしたことのみに、注目する人は、野蛮生活は文明生活よりも望ましいものであり、文明の作用は、できる限り、抑制されるべきものであると推論しがちになるのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『コウルリッジ』(集録本『ベンサムとコウルリッジ』),pp.138-139,みすず書房(1990),松本啓(訳))
(索引:真理の一部をその全体と誤解すること)

OD>ベンサムとコウルリッジ


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年8月25日日曜日

単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

伝統的な意見と、それに対立する意見

【単なる信念である伝統的な意見も、人間の自然な要求や必要に関する諸事実を明らかにする。しかし信念は、人間の利己的な利害、諸感情、知性の錯綜物であり、それが真理であるかどうかは別問題である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)伝統的な意見
 (1.1)現在は、単に信じられているだけかもしれないが、最初の創始者たちにとっては、人間が持つある自然な要求や必要に由来する、現実的な何かしらの真理を表現したもののはずである。
 (1.2)信念は、人間の知性と感情との錯綜物であり、ある信念が長く存続したという事実は、少なくともその信念が、人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた証拠である。
(2)伝統的な意見と対立する意見
 (2.1)伝統的な意見は、単なる伝統に従って信じられてきただけであり、真理であるとは限らない。
 (2.2)伝統的な意見は、社会の支配的な階級に属する人たちの、利己的な利害に由来する。
(3)真理は、伝統的な意見とそれに対立する意見の双方にある
 (3.1)それぞれの観点にあまりにも厳格に固執するならば、相手方の真理に目をふさぐことになる。

 「コウルリッジの場合には、いかなる教説にせよ、それが思慮ある人びとによって信じられてきて、あらゆる国民またはいく世代もの人類によって受け入れられてきたという事実そのものが、解決されるべき問題の一部であり、また説明を要する現象の一つなのであった。そして、万事を貴族、聖職者、法律家、その他何らかの詐欺師たちの利己的な利害のせいにする、ベンサムの短絡的で安易な方法は、人間の知性と感情との錯綜物をはるかに深く見抜いていたひとりの人物を満足されることはできなかったので――彼コウルリッジは、いかなる意見にせよ、それが長くまたは広く流布されていたという事実をもって、それがまんざら謬見とは限らないという推定の一つの根拠とみなしたのである。また、のちに至って単なる伝統に従ってその教説を受け入れている人びとの多数にとってはおそらくそうではないにしても、少なくとも最初の創始者たちにとっては、その教説は、彼らにとってある現実性の感じられるものを、言葉に表現しようとする努力の結果である、と彼は考えたのである。また彼は、こう考えた。すなわち、一つの信念が長く存続したということは、少なくともその信念が人間の精神の何らかの部分に対してある適合性を持っていた根拠である、と。また、かりに、その信念の根元まで掘りさげていった際に、たいていの場合そうであるように、ある真理を見出しえないとしても、なおもわれわれは、当の教説がそれを満足させるに適した人間性の、ある自然な要求または必要を発見しうるのである、と。そしてまた、これらの要求の中には利己と軽信との本能が一つの場所を占めてはいるが、決してそれ以外のものを締め出しているわけではない、と彼は考えたのである。二人の哲学者の観点にはこのような相違があったことから、そしておのおのがあまりにも厳格に自らの観点を固執したことから、ベンサムは伝統的な意見のうちに存する真理を絶えず見落とすであろうし、コウルリッジは伝統的な意見の外にあってこれら伝統的意見と対立している真理を絶えず見落とすであろうということは、当然予期しえた事柄である。しかしまた、おのおのは、相手の見落とした真理の多くを見出すか、またはそれらを見出すための途を示すだろうことも、大いにありうることであった。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『コウルリッジ』(集録本『ベンサムとコウルリッジ』),pp.132-133,みすず書房(1990),松本啓(訳))
(索引:伝統的な意見,信念,真理,伝統的な意見に対立する意見)

OD>ベンサムとコウルリッジ


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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