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2018年10月29日月曜日

10.14.人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタフ・ラートブルフ(1878-1949))

人道主義的道徳と法

【人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタフ・ラートブルフ(1878-1949))】

(3.4.1)~(3.4.3)追記

 参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))
 参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
 (3.1)法の支配の下での生活の一般的な処方は、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であるが、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは、この処方を切り崩してしまう。
 (3.2)在る法と在るべき法の区別は、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するのに必要である。
  (3.2.1)各人が抱く在るべき法についての見解と、法とその権威とを同一視してしまう危険がある。すなわち、「これは法であるべきではない。従って法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストの考えに通ずる。
 (3.3)在る法と在るべき法の区別は、道徳的悪法の引き起こす問題の正確な分析に必要である。
  (3.3.1)存在する法が、行為の最終的なテストとして道徳にとって代わり、批判を受けつけなくなる危険がある。すなわち、「これは法である。従ってこれは在るべき法である」と言い、法に対する批判が提起される前にそれを潰してしまう反動家の考えに通ずる。
 (3.4)法の命令があまりに悪いために、(3.1)の処方を超えて、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかも知れない。このような問題を解明するためにも、(3.2)のように余りに単純化してしまうことは誤りである。
  (3.4.1)「無害な、ないし、はっきりと有益である行為が、主権者によって死刑でもって禁止されているとしよう。もし私がこの行為をすると、私は裁判にかけられ有罪とされるであろう。そして、もし私がこの有罪判決に対して神の意志に反すると抗議したとしても、正義の法廷は、私の挙げる理由が決定力を持たないことを、私が妥当でないと非難している法を執行して私を絞首することで実証してみせるだろう。」(ジョン・オースティン(1790-1859))
  (3.4.2)もし法が、一定の度合の不正状態に達するならば、法に抵抗し、法に服従することをやめる道徳的義務が生じる。(ジョン・オースティン(1790-1859)、ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
  (3.4.3)人道主義的道徳は、法とか合法性という概念自体の一部である。したがって、いかなる制定法も、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば、妥当性を持たず、法ではない。(グスタフ・ラートブルフ(1878-1949))
(出典:wikipedia
グスタフ・ラートブルフ(1878-1949)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
グスタフ・ラートブルフ(1878-1949)
検索(ラートブルフ)

 「この訴えは、ナチ体制の下で生き、その体制が邪悪な法体系を生みだしたことについて反省したドイツの思想家たちによる訴えである。

その中の一人、ラートブルフは、ナチの専制までは「実証主義的」原理を支持していたが、ナチの専制を経験して転向した人であるから、彼が法と道徳の分離という原理を捨てるように他の人に訴える様子には、自説を変更するという特殊な痛烈さがある。

この批判に関して重要であるのは、在る法と在るべき法との分離を力説するときにベンサムとオースティンが念頭においていた主張に、この批判が対決しているということである。

これらのドイツの思想家たちは、功利主義者が分離したものを、功利主義者の目にはこの分離が最も重要であるちょうどその場面で、結合させることが必要だという主張をした。

彼らは道徳的な悪法の存在という問題に関心をよせたのである。

 ラートブルフは、転向する以前には、法への抵抗は個人の良心の問題で、個人によって道徳的な問題として考えられるべきであるとし、法の要求するところが道徳的に悪であることを示したとしても、さらに、法への服従のもたらす結果が法への不服従のもたらす結果よりも悪いことを示したとしても、法の妥当性は否定されるものではないという意見を持っていた。

ここでオースティンを思い起こしてもらいたい。オースティンは、もし人の法が道徳の基本的な原則と衝突するならばそれは法ではないと言う者に対して、「全くナンセンスなこと」を語っていると強い非難をあびせている。

 『最も邪悪な法、したがって最も神の意志とは対立する法が、司法裁定機関によって、法として強行されてきたし、また強行され続けている。

無害な、ないし、はっきりと有益である行為が、主権者によって死刑でもって禁止されているとしよう。

もし私がこの行為をすると、私は裁判にかけられ有罪とされるであろう。

そして、もし私がこの有罪判決に対して神の意志に反すると抗議したとしても、正義の法廷は、私の挙げる理由が決定力を持たないことを、私が妥当でないと非難している法を執行して私を絞首することで実証してみせるだろう。

神の法に基づいた異議申し立てや妨訴抗弁や抗弁は、天地創造の時から現在に至るまで、正義の法廷で聞き入れられたことはない。』

 これはたいへん頑固な、暴力的なとさえ言える発言であるが、――オースティンの場合、そして、もちろん、ベンサムの場合も――もし法が一定の度合の不正状態に達するならば、法に抵抗し、法に服従することをやめる道徳的義務が生じるという確信とともにこれらの言葉を語っていることに注意しなくてはならない。

人間が陥るかもしれないディレンマをこのように率直に表現する以外に方策はないのかと思案してみてもらいたい。

この率直な表現がどれほど崩しにくいものであるかがわかるだろう。

 しかし、ラートブルフは、たんなる法規への隷従――彼によれば、「法は法だ」(Gesetz ist Gesetz)という「実証主義的」スローガンによって表現される――をナチの体制が容易に利用したということから、また、ドイツの法曹界が、法の名の下に行なうことを要求された極悪な行為に対して抵抗することができなかったということから、いとも簡単に「実証主義」(ここでは、在る法と在るべき法との分離の主張を意味している)はこの惨事の発生に積極的に加担したと結論している。

彼は熟慮反省して、人道主義的道徳は法 Recht とか合法性という概念自体の一部であり、どのような実定的立法も制定法も、いかに明確な表現を持っていても、また、いかに既存の法体系の持つ妥当性の形式的基準に合致していても、もし道徳の基礎的原則に矛盾するならば妥当性を持たないという原理に到達した。

この原理は、Recht というドイツ語の帯びているニュアンスが把握できなければ完全に理解することはできない。

しかし、この原理が、すべての法律家と裁判官は、基本的な原則の範囲から逸脱した制定法を、不道徳で間違ったものとしてだけでなく法的性格を持たないものとして糾弾すべきであり、また、基本的な原則の範囲から逸脱していることで法である性質を欠く立法は、個別具体的な状況下にあるどのような個人についてであれ、その法的立場を決定する際に考慮されるべきものではない、という意味であるのは明らかである。

ラートブルフが彼のそれまで支持していた原理を衝撃的に変更した様子は、残念なことに、彼の著作の翻訳では省かれているが、法と道徳の相互連関の問題を新しく考え直そうとする者すべての読むべきものである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.80-82,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:人道主義的道徳,法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年10月28日日曜日

9.半影的問題における合理的決定の解明には、(a)何らかの「べき」観点の必要性、(b)にもかかわらず、在る法と在るべき法の区別、(c)法の不完全性と中核部分の正しい理解、が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

半影的問題における合理的決定

【半影的問題における合理的決定の解明には、(a)何らかの「べき」観点の必要性、(b)にもかかわらず、在る法と在るべき法の区別、(c)法の不完全性と中核部分の正しい理解、が必要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)半影的問題における司法的決定が合理的であるためには、下記のことが、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられるかもしれない。
 (1.1)「在るべきもの」の観点が含まれる。「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映している。
 (1.2)批判の基準は、道徳的なものとは限らない。
 (1.3)在るものと、さまざまな観点からの在るべきものとの間に、区別がなければならない。
 (1.4)目標、社会的な政策や目的が含まれるかもしれない。
(2)しかし、在る法と在るべき法との功利主義的な区別は、必要である。
 参照: 在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))
 参照: 在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))
(3)ルールの適用のはっきりしているケースと、半影的決定との間には本質的な連続性が存在する。すなわち、裁判官は、見付けられるべくそこに存在しており、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」。
(4)(1)(2)(3)の要請を、すべて充たすことができるだろうか。この問題の解決のためには、以下の2つのことが重要だと思われる。
 (4.1)法は、どうしようもなく、不完全なものだということ。
 (4.2)法は、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分を持つということ。不完全で曖昧であるにしても、まず線がなければならない。

 「明らかに、もし形式主義の誤りを指摘することによって功利主義者の区別が誤りであると示そうとするならば、論旨を徹底的に言い直さなければならない。

司法的決定が合理的であるためには在るべきものの観点から決定が下されなければならないだけではなく、目標、すなわち、決定が合理的なものになるために裁判官が訴えかけるべき社会的な政策や目的は、それ自体、ある適切に広い意味での「法」の一部分として考えられ、こういう法の観念は功利主義者の使う観念よりも有益なものである、ということが論旨となるはずである。

このように論旨を言いかえると次のような主張に行きつく。すなわち、半影の問題が繰り返し現れるところで法的ルールが本質的に不完全なものであることがわかるというのではなく、

また、裁判官は、判断できないときには、立法をおこない、したがって、選択肢の中から創造的な選択をするというのではなく、  

裁判官の選択の指針となる社会政策が、ある意味で、見付けられるべくそこに存在しており、裁判官は、正しく理解しさえすればその中に「隠れている」のがわかるルールを「引き出している」にすぎない、というのである。

これを司法的立法と呼ぶと、ルールの適用のはっきりしているケースと半影的決定との間にある本質的連続性が曖昧になってしまう。

このように論旨を語ることが有益であるか否かについては後で検討しようと考えるが、ここでは、言うまでもないことではあるが、もし指摘しておかなければ問題をもつれさせると危惧されるので、次のことを指摘しておきたい。

形式主義的、文言解釈主義的な方法で盲目的になされる決定の対極にあるのは在るべきものの観念を考慮して知性的になされる決定であるということから、法と道徳の接合する点が存在することになる、ということにはならない。

「べき」という言葉についてあまりに素朴に考えないように注意しなければならない。

在る法と在るべき法との間に区別がないからではない。その逆である。在るものと、さまざまな観点からの在るべきものとの間に、区別がなければならないからである。

「べき」という言葉は、ある批判の基準の存在を反映しているにすぎない。

これらの基準の一つは道徳的な基準であるが、しかし、すべての基準が道徳的であるわけではない。

隣人に向かって「嘘をつくべきではない」と言うときには、それはたしかに道徳的判断であろうが、しかし、毒を盛るのに失敗した者が「もう一服盛っておくべきだった」と言うこともある。

つまり、言いたいことは、機械的、形式的決定に対置される知性的決定は、必ずしも道徳的理由から擁護される決定と同一ではないということである。

「そうだ、それは正しい。それが在るべき姿だ」という表明が、ある承認された目的や政策がそれによって推進されたことだけを意味し、その政策や決定の道徳的性格の是認を意味しない場合も多く存在する。

したがって、機械的な決定と知性的な決定との対照は、最も有害な目的の追求に向けられた体系の中でも起こりうる。

この対照は、私たちの法的体系にみられるように、正義の原則と個人の道徳的要求とを広く受け入れている法的体系の中でのみ見られるものではない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.76-78,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:)

 「半影の問題について知性的な決定とは、機械的になされるのではなく、道徳的原則と呼ばれるものに限られず、目標、目的、政策を考慮してなされるものである、ということがもし正しいとするならば、この重要な事実を表現するのに、在る法と在るべき法との功利主義的な区別を止めるべきだと主張するのは賢明なことであろうか。

おそらく、それが賢明だという主張を理論的に反駁することはできない。というのは、それは、結果的に、法的ルールについての私たちの観念を見直す《切っ掛け》だからである。

それによって私たちは「ルール」の中にさまざまの目標や政策を含めるように誘われる。

これらの目標や政策は、その重要性からして、法的ルールの意味が確定している中核部分と同様に法と呼ばれてしかるべきであり、これらの目標や政策を考慮してルールの半影的なケースには決定が下されるべきではないか。

この誘いを論駁することはできないが、しかし、断ることはできよう。 

この誘いを断る理由として私は二つの理由をあげたい。第一に、司法過程について学んだことはすべては、より神秘的でない他の形で表現できる。

法はどうしようもなく不完全であるから、半影的ケースについては社会的目標を考慮して合理的に決定しなければならない、ということができる。

ホームズなら、「一般的命題は具体的ケースを決定しない」という事実を鮮明に察知していたのであるから、このような形で表現するだろうと私は考える。

第二に、功利主義的な区別を主張することは、ある最も重要な意味において、確定した意味という中核部分は法であること、そして、曖昧であるにしても、まず線がなければならないことを強調するものである。

もしそうでなければ、裁判所の判決を制御しているルールという観念は、「リアリスト」の幾人かが――その最も極端な風潮の中で、私が思うに、不適切な根拠に基づいて――主張したように、無意味なものになってしまうだろう。

 逆に、この区別を緩めようとすること、すなわち、在る法と在るべき法との間に両者が融合して一体となった部分があるという不可解な主張をすることは、すべての法的問題は基本的に半影の問題のようなものであると示唆するものである。

ルールの持つ中心的意味の中には法の中心的要素は発見できない、また、社会政策の観点から問題《すべて》を再検討することと法的ルールの本質との間には矛盾するところはない、と主張するものである。

もちろん、半影に注目することは結構なことである。半影の問題はロー・スクールにおいてはまさに日々の糧である。しかし、半影に注目することとそれに夢中になることとは違う。

半影に夢中になるのは、言ってみれば、アメリカの法的伝統における混乱の温床であり、それはイギリスの法的伝統における形式主義に対応する。

もちろん、ルールは権威を持つという考え方を放棄することもできる。

この事件はルールそして先例の範囲に明らかに包摂されるものだという議論を支持するのをやめたり、また、それに意味すら認めないこともできる。そのような推論をすべて「自動的」「機械的」と呼ぶこともできる。これは裁判所批判の常套手段である。

しかし、これが私たちの望むものに《他ならない》と確信するまでは、功利主義的な区別を抹消することによってこれを助長するべきではない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.79-80,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:半影的問題)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年10月27日土曜日

8.問題:法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれており、半影の部分を決定する責任を、誰かが負わなければならない。このような決定を正しいもの、より良いものにするのは何だろうか?(ハーバート・ハート(1907-1992))

半影の問題

【問題:法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれており、半影の部分を決定する責任を、誰かが負わなければならない。このような決定を正しいもの、より良いものにするのは何だろうか?(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)法的ルールは、不確実な「半影の問題」に常に取り囲まれている。
 (1.1)特定の種類の行為が、ルールによって規制されるべきだという意志を表明するには、ルールの中で使用する言葉は、その言葉の適用に関して何の疑念も生じないある標準的な事例を持っていなければならない。
 (1.2)それにもかかわらず、言葉が明らかに適用できるとも適用できないとも言えないような議論の余地を持ったケースという半影の部分が存在する。
(2)半影の部分は、論理的演繹の問題ではなく、誰かが決定しなければならない。言葉が当面のあるケースを包含するか否かを決定する責任を、その決定に含まれるすべての実践的結論に対する責任とともに、誰かが負わなければならない。
(3)このような決定は、何によって正しいものになるのであろうか、少なくとも他のものよりは良いものになるのであろうか。

 「ある法的ルールが公園の中で乗物に乗ることを禁じている。

明らかにこれで自動車は禁じられているが、では、自転車、ローラースケート、玩具の自動車はどうだろう。飛行機はどうだろう。

このルールの目的からして、ここに挙げたこれらのものは、「乗物」と呼ばれるのか呼ばれないのか。

もし私たちが互いに意志を疎通させようとし、そして、最もありふれた形式の法におけるように、特定の種類の行為がルールによって規制されるべきだという意志を表明しようとするならば、私たちの使用する――私の挙げた例の中の「乗物」のような――一般的言葉は、その言葉の適用に関して何の疑念も生じないある標準的な事例を持っていなければならない。中核的な確固とした意味がなければならない。

だが、また同時に、言葉が明らかに適用できるとも適用できないともいえないような議論の余地を持ったケースという半影の部分も存在する。

このようなケースはそれぞれ、標準的なケースと共通のいくつかの特徴を持つであろう。

人間の創意工夫と自然な過程をたどって、既知のものの上にこのような変種が次第に積み上げられてゆく。

そして、もしこれらの範囲の事実は既に存在するルールの下に入るか否かを答えなければならないならば、その分類をする者はあるがままにではなく自らが決定を下さなければならない。

というのも、私たちが言葉をあてはめ、ルールを適用する事実や現象は、言わば、《沈黙を守っている》からである。玩具の自動車が声を上げて、「この法的ルール目的からすれば私は乗物である」などと言うことはあり得ないし、左右一組のローラースケートが「私たちは乗物ではない」と声を揃えて言うこともあり得ない。事実状況は私たちがうまく名付け、折り目をつけ、畳むのを待ってはくれない。

まして、法的な分類が裁判官にすぐに読めるように事実状況の上に書かれてあるなどということはない。

そうではなくて、法的ルールを適用する際には、言葉が当面のあるケースを包含するか否かを決定する責任を、その決定に含まれるすべての実践的結論に対する責任とともに、誰かが負わなければならない。標準的なケースという強固な核、ないし、確固とした意味の外で生じる問題を「半影の問題」と呼んでもいいかもしれない。

公園の使用といった些細なことに関してであれ、憲法の多次元的一般性に関してであれ、この問題は常に付きまとう。

もし不確実な半影がすべての法的ルールを取り囲んでいるならば、半影部分にある特定のケースへの法的ルールの適用は論理的演繹の問題にはならず、したがって演繹的推論は、何世代にもわたってまさに完璧な人間の推論であるとして賞賛されてきたが、裁判官が、また実際誰であれ、一般的なルールの下に具体的なケースをもってくる際にすべきことのモデルとしては役に立たないことになる。

そこでは演繹だけでは十分ではない。

そして、半影の問題について法的議論と法的決定とが合理的であろうとするならば、その合理性は前提との論理的関係以外のものの中にあることになる。

したがって、このルールの目的からして飛行機は乗物ではないと議論し決定することが合理的、ないし、「もっとも」であるならば、この議論は、論理的に確定的でなくとも、もっともで合理的であることになる。

では、このような決定は、何によって正しいものになるのであろうか、少なくとも他のものよりは良いものになるのであろうか。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.72-73,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:半影の問題)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2018年10月26日金曜日

7.12.在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

在る法と在るべき法の区別

【在る法と在るべき法の区別は「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明する」という処方の要である。(a)法秩序の権威の正しい理解か、悪法を無視するアナーキストか、(b)在る法の批判的分析か、批判を許さない反動家か。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))】

在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))

(3.1)~(3.4)追記

(3)在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。
 (3.1)法の支配の下での生活の一般的な処方は、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であるが、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは、この処方を切り崩してしまう。
 (3.2)在る法と在るべき法の区別は、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するのに必要である。
  (3.2.1)各人が抱く在るべき法についての見解と、法とその権威とを同一視してしまう危険がある。すなわち、「これは法であるべきではない。従って法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストの考えに通ずる。
 (3.3)在る法と在るべき法の区別は、道徳的悪法の引き起こす問題の正確な分析に必要である。
  (3.3.1)存在する法が、行為の最終的なテストとして道徳にとって代わり、批判を受けつけなくなる危険がある。すなわち、「これは法である。従ってこれは在るべき法である」と言い、法に対する批判が提起される前にそれを潰してしまう反動家の考えに通ずる。
 (3.4)法の命令があまりに悪いために、(3.1)の処方を超えて、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかも知れない。このような問題を解明するためにも、(3.2)のように余りに単純化してしまうことは誤りである。

(出典:wikipedia
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
検索(ベンサム)

 「ベンサムはこの区別を主張するのに、道徳を神と関連させて特徴づけるのではなく、言うまでもなく、功利の原則のみに関連させて議論した。

二人がこの区別を主張した主要な理由は、道徳的悪法の存在の引き起こす問題の正確な論点をしっかりと把握するためであり、また、法秩序の権威の持つ特別の性格を理解するためであった。

ベンサムの言う法の支配の下での生活の一般的な処方は簡単で、「しっかりと遵守し、自由に不同意を表明すること」であった。

しかし、ベンサムは、フランス革命を心配しながら観察しており、この処方では十分ではないということを非常にはっきりと意識していた。どのような社会においても、法の命令があまりに悪いために、抵抗の問題に直面せざるを得ない時が来るかもしれず、そして、その時点で直面する問題をあまりに単純化したり曖昧にしたりしないことが大切であることを意識していた。

法と道徳を混同することで、このしてはならないことがまさになされてきたのであった。ベンサムは、この混同が人をまったく向きの異なる二つの方向に進ませると考えた。

一方でベンサムの念頭にあるのは、「これは法であるべきではない。したがって法ではなく、それに不同意を表明するだけではなく、それを無視するのも自由だ」と論じるアナーキストであり、他方で彼が考えているのは、「これは法である。したがってこれは在るべき法である」と言い、それでもって提起される前に批判を潰してしまう反動家である。

ベンサムは、このどちらの誤りもブラックストーンに見付けられると考えていた。ブラックストーンには、人の法は神の法に反するならば無効であるという不注意な語り方が見られる一方、「我らが著者〔ブラックストーン〕に基本的に見られる追従的な《キエティスム》の精神」が在ると在るべきの「違いを彼にほとんど認識できなくさせている」のである。 

これはまさにベンサムにしてみれば、法律家の職業的宿痾であった。「法律家にだまされやすい人すなわち非法律家の大多数はもちろん、法律家の目にも、《在る》と在る《べき》とは一にして不可分なものである。」だからこそ、在ると在るべきとの区別にこだわることが二つの危険の間隙をぬって進む助けになるのである。

一つの危険は、法とその権威を各人が抱く在るべき法についての見解と同一化してしまう危険であり、もう一つの危険は、存在する法が行為の最終的なテストとして道徳にとってかわり、その結果批判を受けつけなくなる危険である。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.63-64,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在る法,在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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2018年10月25日木曜日

6.11.在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))

在る法と在るべき法

【在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。(ジョン・オースティン(1790-1859))】

(1)在る法
 法が存在しているか存在していないかが問題である。好きか嫌いか、是認するか否認するかにかかわらず、現実に存在していれば、それは法である。
(2)在るべき法
 例えば、
 (2.1)道徳の根本的な原則が要求する命令
 (2.2)あるいは、その命令の「指標」である「功利」
 (2.3)あるいは、社会集団によって現実に受け入れられている道徳
(3)在るべき法についての基準が何であれ、在る法と在るべき法の区別を曖昧にすることは誤りである。
 この区別を曖昧にする人は、在るべき法と対立する人の法は、義務ではないし拘束力を持たないという誤った考えに導かれてゆく傾向がある。
(出典:wikipedia
ジョン・オースティン(1790-1859)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジョン・オースティン(1790-1859)
検索(ジョン・オースティン)

 「ベンサムとオースティンは、街が燃えているのに言葉の区別をいじっている薄情な分析家ではなく、情熱的な勢いで活動し、より良い社会やより良い法をもたらすことに功績のあった運動の先鋒であった。

では、なぜ、彼らは在る法と在るべき法の分離を主張したのであろうか。何を彼らは言うつもりであったのか。まず彼らの言葉を見てみよう。

オースティンは次のようにこの原理を定式化している。

 『法の存在と、法の持つメリット、デメリットとは別のことである。法が存在しているか存在していないかを探るのは一つの探究であり、法がある基準に適合しているか否かを探るのは別の探究である。

法は、私たちがそれを嫌いに思おうが、また、私たちが是認するか否認するかを決める典拠にしているものと合致しまいが、現実に存在していれば、法である。

この真理は、抽象的命題として形式的に表明されてみれば、あえてそれを主張する理由もないことのように思われるほど単純で明白である。

しかし、単純で明白なものだから、抽象的な表現の中でそれが落ちてしまっている場合を数えあげたら一巻の書物になるほどの量である。

 たとえば、ブラックストーン卿は彼の『釈義』の中で次のように述べている。

神の法は他のどの法よりも優先的に遵守されなければならない。どのような人の法も神の法と矛盾することは認められない。人の法は神の法に矛盾するならば妥当性を持たない。すべての妥当する法はその力を神的な源から引き出している。

 ここで、彼が言いたいのは、すべての人の法は神的な法に合致していなければならないということ《かも》しれない。
もしこれが彼の意味するところならば、私は躊躇なくこれに同意する……。

おそらく、また、彼が言いたいのは、人の法を定める者たちは、神的な法によって、彼らが強制する法をかの究極の基準に適合させるように自ら拘束されているが、それはもしそうしなければ神が彼らを罰するからである、ということであろう。これに対しても私は完全に同意する……。

 しかし、このブラックストーンからの引用文の意味するところは、そもそも意味を持っているとすれば、むしろ次のようになると思われる。

神的な法と対立する人の法は義務ではないし拘束力を持たない。言い換えれば、神的な法と対立する人の法は《法ではない》……。』

 在る法と在るべき法との区別を曖昧にすることに対するオースティンの抗議は非常に一般的なものである。

彼は、在るべきものについての基準が何であれ、この区別を曖昧にすることは誤りであると説く。

ただし、彼の挙げている例は常に、在る法と道徳が要求する法とを混同している例である。

彼にとっては、道徳の根本的な原則は神の命令であり、功利はこの「指標」であったこと、さらに、これに加えて、社会集団によって現実に受け入れられている道徳、すなわち「実定」道徳の存在が考えられていた、ということが思い起こされなければならない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第1部 一般理論,2 実証主義と法・道徳分離論,pp.61-63,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),上山友一(訳),松浦好治(訳))
(索引:在る法,在るべき法)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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