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2020年4月21日火曜日

9.自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

内なる砦への退却

【自分で目標を決め、方策を考え決定を下し実現してゆくという積極的自由のもう一つの歪曲は、内なる砦への退却である。欲望、情念、社会的な諸価値など外部的な要因を全てを排除し、理性による判断のみ自由であるとする。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(2.4)追加。

(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。
 干渉や妨害からの自由である消極的自由とは区別される、積極的自由の概念がある。自分で目標を決め、実現するための方策を考え、決定を下し、自分の目標を実現していけるという自由である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
 (2.1)自分自身が、主人公でありたいという個人の願望
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
 (2.2)積極的自由の歪曲1:欲望・情念・衝動
  欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えないとする説。
  自分で目標を決め、方策を考え決定を下し、実現してゆくという積極的自由は、歪曲されてきた。(a)欲望、情念は「低次」で、自律的ではないとする説、(b)「高次」の良い目標のためには、目標が強制できるとする説である。(アイザイア・バーリン(1909-1997))
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望、快楽の追求は「低次」なのか?
   (ii)情念は「制御できない」のか?
   (iii)社会的な諸価値の体系は「高次」「真実」「理想的」なのか?
   (iv)理性による判断
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)衝動は「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
   (i)衝動は「非合理的」なのか?
   (ii)理性による判断
 (2.3)積極的自由の歪曲2:良い目標のための消極的自由の制限
  正義なり、公共の健康など良い目標のためであれば、人々に強制を加えることは可能であり、時として正当化され得るとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)個人が自分で目標を決めるのではなく、「良い目標」を強制される。
   (ii)強制される人は、「啓発されたならば」自らその「良い目標」を進んで追求するとされる。
   (iii)すなわち、本人よりも、強制を加えようとする人の方が、「真の」必要を知っていると考えてられている。
   (iv)欲望や情念より、社会的な諸価値の方が「高次」で「真実」の目標なのだという教説とともに、民族や教会や国家の諸価値が導入され、これが「真の自由」であるとされる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

 (2.4)積極的自由の歪曲3:内なる砦への退却
  欲望、情念、衝動は低次で、制御できず、非合理的なので、自律的で自由とは言えない。また、社会的な諸価値の体系に従うことも、外部的な要因に依存しており自由とは言えないとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)欲望や情念に従うことは、外部的要因に依存することである。
   (ii)社会的な諸価値の体系に従うことも、外部的な要因に依存することである。
   (iii)外部的な要因は、自分では支配できない世界である。
   (iv)理性による判断は、自律的であり、このかぎりにおいて私は自由である。この法則は、自分自身が命ずる法則であって、この法則に服従することは、自由である。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
   (i)理性による判断
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。
   (i)理性による判断

 「この学説が個人に適用された場合、そこからカントのようなひとびとの考え方、つまり自由を欲望の除去とまではいわないにしても、欲望への抵抗および欲望の支配と同一視するという考え方までは、それほど大きな距離があるわけではない。

みずからをこの支配者と同一視し、支配されるものの隷従状態から脱却する。

わたくしは自律的であるがゆえに、また自律的である限りにおいて、自由である。

わたくしは法則に従う。けれどもわたくしは自分の強制されざる自我のうえにこの法則を課したのであり、いいかえればその自我のうちにこの法則を見出したのである。

自由は服従である。しかし、これは「われわれがわれわれ自身に命ずる法則に対する服従」であって、なんぴとも自分自身を奴隷とするというわけにはゆかない。

他律とは外部的要因への依存であり、自分では完全に支配しえないところの、また《それだけ》protanto わたくしを支配し「隷従させる」ところの外的世界のなぐさみものとなることを免れることである。

自分ではどうすることもできない力の下にある、いかなるものによってもわたくしが「束縛」されていない程度においてのみ、わたくしは自由である。

わたくしは自然の法則を支配することはできない。したがって、《その仮定からして》ex hypothesi わたくしの自由な活動は経験的な因果の世界の上に超越させられなければならぬことになる。

いまここでは、この古来有名な学説の真偽を議論しているわけにはゆかない。

ただ、実現不可能な欲望への抵抗(ないしそれからの逃避)としての自由、因果性の領域からの独立としての自由というこの観念は、倫理学におけると同様、政治学においても中心的な役割を演じてきたものなのだということだけは注意しておきたいと思う。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,pp.33-34,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:内なる砦への退却,積極的自由,欲望,情念,社会的な諸価値)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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2019年4月5日金曜日

21.「美」とは「陶酔」の感情が、ある行為や対象をして、私たちを魅了し尽くしてしまうように、強制する事象である。例として、強い欲情、祝祭、競闘、冒険、勝利、残酷さ、破壊、気象、麻薬、意志による陶酔。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

美とは何か

【「美」とは「陶酔」の感情が、ある行為や対象をして、私たちを魅了し尽くしてしまうように、強制する事象である。例として、強い欲情、祝祭、競闘、冒険、勝利、残酷さ、破壊、気象、麻薬、意志による陶酔。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)ある行為や対象がもつ「美」とは何か。
 自らの力の上昇や充満の感情が、ある行為や対象をして、私たちを魅了し尽くしてしまうように、強制する。この事象が、ある行為や対象の「理想化」であり、行為や対象の主要特徴が際立たせられ、その他の諸特徴が姿を消す。
(2)「美」の生理学的先行条件
 力の上昇や充満の感情が、心身の興奮を高める。これが「陶酔」である。例として、
 (a)性的興奮
 (b)大きな欲望、強い欲情に伴って現れる陶酔
 (c)祝祭、競闘、冒険、勝利、あらゆる極端な運動の陶酔
 (d)残酷さの陶酔
 (e)破壊における陶酔
 (f)気象学的影響のもとにおける陶酔、たとえば春の陶酔
 (g)麻酔薬の影響のもとでの陶酔
 (h)意志による陶酔、鬱積し膨張した意志の陶酔

 「《芸術家の心理学によせて》―――芸術があるためには、なんらかの美的な行為や観照があるためには、一つの生理学的先行条件が不可欠である。すなわち、《陶酔》がそれである。

陶酔がまず全機械の興奮を高めておかなければならない。それ以前には芸術とはならないからである。

実にさまざまの条件をもったすべての種類の陶酔がそのための力をもっている。なかんずく、性的興奮という最も古くて最も根源的な陶酔のこの形式がそうである。

同じく、あらゆる大きな欲望、あらゆる強い欲情にともなってあらわれる陶酔がそうである。祝祭、競闘、冒険、勝利、あらゆる極端な運動の陶酔。残酷さの陶酔。破壊における陶酔。或る種の気象学的影響のもとにおける陶酔、たとえば春の陶酔。ないしは麻酔薬の影響のもとでの陶酔。最後に意志による陶酔、鬱積し膨張した意志の陶酔。

―――陶酔にある本質的なものは力の上昇や充満の感情である。この感情から人は事物に分与するのであり、私たちから奪い取るよう事物を《強いる》のであり、事物に暴力をくわえるのである、

―――人はこの事象を《理想化》と呼んでいる。

私たちはここで一つの偏見から抜けだそう。すなわち、理想化は、一般に信ぜられているように、些細なもの、副次的なものを取り去ったり除き去ったりすることにあるのでは《ない》。主要特徴を物すごく《際立たせること》がむしろ決定的なことであり、そのために他の諸特徴が姿を消すのである。」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『偶像の黄昏』或る反時代的人間の遊撃、八、ニーチェ全集14 偶像の黄昏 反キリスト者、pp.94-95、[原佑・1994])
(索引:美,陶酔,欲情,欲望,祝祭,競闘,冒険,勝利,残酷さ,破壊,気象,麻薬,意志)

ニーチェ全集〈14〉偶像の黄昏 反キリスト者 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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2018年4月12日木曜日

自由意志にのみ依存する善きことをなすのが、徳という欲望である。これは、私たちに依存するものであるゆえに、必ず成果をもたらす。(ルネ・デカルト(1596-1650))

徳と自由意志

【自由意志にのみ依存する善きことをなすのが、徳という欲望である。これは、私たちに依存するものであるゆえに、必ず成果をもたらす。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 わたしたちに依存するもの、すなわち自由意志にのみ依存する善きことをなすのが、徳に従うということであり、徳については、どんなに熱心な欲望をいだいても、熱心すぎることがありえない。そのうえ、それは、ただわたしたちにのみ依存するものである以上、必ず成果をもたらす。
 「わたしたちにのみ依存しているもの、つまり、わたしたちの自由意志にのみ依存しているものについては、それが善いと知りさえすれば、それを欲するに熱心すぎるということはありえないからだ。なぜなら、わたしたちに依存する善きことをなすのが徳に従うことであり、徳については、どんなに熱心な欲望をいだいても、熱心すぎることがありえないのは確かなのだから。そのうえ、わたしたちがこのようなしかたで欲するものは、ただわたしたちにのみ依存するものである以上、必ず成果をもたらすので、わたしたちは期待した満足すべてをつねに受け取るのである。しかしこの点においてふだん犯される過失は、欲しすぎるということではけっしてなく、ただ、欲し足りないということだけだ。これに対する最上の治療法は、それほどは有用でない他のあらゆる種類の欲望から精神をできるかぎり解放して、つぎに、欲望すべきものの善さをじゅうぶんに明晰に認識して、それを注意深く考察するよう努めることである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四四、pp.122-123、[谷川多佳子・2008])
(索引:徳、自由意志、欲望、私たちに依存しているもの)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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2018年4月9日月曜日

欲望の統御:欲望は、真なる認識に従っているか。また、私たちに依存しているものと、依存していないものが、よく区別できているか。(ルネ・デカルト(1596-1650))

欲望の統制

【欲望の統御:欲望は、真なる認識に従っているか。また、私たちに依存しているものと、依存していないものが、よく区別できているか。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 入念に統御すべきは特に欲望である。まず、欲望は、真なる認識に従っている場合はつねに善く、何らかの誤りにもとづいている場合は必ず悪い。つぎに、わたしたちにまるごと依存しているものと、依存していないものとをよく区別すること。
 「これらの情念は、その引き起こす欲望を介してのみ、わたしたちを何らかの行動に向かわせうるのだから、入念に統御すべきは特に欲望であり、そこにこそ道徳の主たる有用性が存する。さて、いま述べたように欲望は、真なる認識に従っている場合はつねに善く、同様に、何らかの誤りにもとづいている場合は必ず悪い。そして欲望について最もふつうに犯される誤りは、わたしたちにまるごと依存しているものと、依存していないものとをよく区別しないことだと思われる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四四、p.122、[谷川多佳子・2008])
(索引:欲望の統御、欲望、私たちに依存しているもの)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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欲望の種類は、愛や憎しみの種類の数だけある。そして最も注目すべき最強の欲望は、快と嫌悪から生じる欲望である。(ルネ・デカルト(1596-1650))

欲望の種類

【欲望の種類は、愛や憎しみの種類の数だけある。そして最も注目すべき最強の欲望は、快と嫌悪から生じる欲望である。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「欲望を、追求する対象の多様性に応じてそれと同数の多様な種類に区別するのは、いっそう理にかなっている。というのも、たとえば、知る欲望にほかならない好奇心は、名誉の欲望とは大きく異なるし、またこの名誉欲は復讐の欲望とは大きく異なり、他も同様だからだ。だがここでは、欲望の種類が愛や憎しみの種類の数だけあること、そして最も注目すべき最強の欲望は快と嫌悪から生じる欲望であることを知れば、十分である。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 八八、pp.76-77、[谷川多佳子・2008])
(索引:欲望、愛、憎しみ、快、嫌悪)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年4月7日土曜日

情念が、欲望を介して行動や生活態度を導く場合には、原因が誤りである情念はすべて有害である。特に、偽なる喜びは、偽なる悲しみよりも有害である(ルネ・デカルト(1596-1650))

偽りの情念

【情念が、欲望を介して行動や生活態度を導く場合には、原因が誤りである情念はすべて有害である。特に、偽なる喜びは、偽なる悲しみよりも有害である(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 情念が、欲望を介して行動や生活態度を導く場合には、原因が誤りである情念はすべて有害である。さらに、喜びと悲しみがいずれも誤った根拠にもとづいている場合、喜びはふつう、悲しみよりも有害であることさえ確かだ。
 「ここで明確に認めておくべきは、わたしが四つの情念についていま述べたことが、ただ、それらの情念が他から切り離されてそれ自体において考慮された場合にのみ、しかもわたしたちをいかなる行動にも向かわせない場合にのみ、あてはまることだ。なぜなら、それらの情念が、わたしたちのうちに欲望を引き起こし、欲望を介してわたしたちの生活態度を導くものである限りにおいて、原因が誤りである情念はすべて有害でありうること、反対に原因が正しい情念はすべて役に立ちうること、は確かだから。さらに、喜びと悲しみがいずれも誤った根拠にもとづいている場合、喜びはふつう、悲しみよりも有害であることさえ確かだ。悲しみは、自制と恐れを与え、ともかく人を慎重にするのに対して、喜びは、それに身を任せる人たちを、軽率で無謀にするからである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四三、pp.121-122、[谷川多佳子・2008])
(索引:偽なる善への愛、偽なる悪への憎しみ、欲望、行動、生活態度)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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2018年4月5日木曜日

わたしたち自身の未来による〈善〉と〈悪〉の感受:〈欲望〉(ルネ・デカルト(1596-1650))

欲望

【わたしたち自身の未来による〈善〉と〈悪〉の感受:〈欲望〉(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 わたしたち自身の現在の状況が、「喜び」を感じさせるとき、未来においてもそれを保存しようと「欲望」されるとき、そこには、私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。(善の保存の欲望)
 わたしたち自身の現在の状況が、「悲しみ」を感じせれるとき、未来においてはそれを無くそうと「欲望」されるとき、そこには、私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。(悪の不在の欲望、改善の欲望)
 わたしたち自身の予測される未来が、避けるべき未来として「欲望」されるとき、そこには私たちの本性を害するであろう何かが存在する。それが本性を害するものであるとき、それは〈悪〉である。(悪の回避の欲望)
 わたしたち自身のめざすべき未来が、新たな未来の獲得として「欲望」されるとき、このめざすべき未来には私たちの本性に適するであろう何かが存在する。それが本性に適するものであるとき、それは〈善〉である。(善の獲得の欲望)
 「善と悪のこの同じ考察から、他のすべての情念が生まれる。だが、それらを順序だてるため、わたしは時間を区別する。そして、情念が、現在や過去よりもなおいっそう、未来へわたしたちを向かわせることに注目して、欲望から始める。というのも、次のいずれの場合も、この情念がつねに未来に向かっているのは明白だから―――まだ手に入れていない善を得ようと欲したり、今後起こりうる悪を避けようと欲したりする場合ばかりか、ただ、善の保存、悪の不在を願うだけの場合にも、そうである。これらは、欲望という情念の及びうるすべてである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 五七、p.55、[谷川多佳子・2008])
(索引:欲望)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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