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2019年11月5日火曜日

個々の経験からの簡単な一般化によっては、真理や事実には到達できない。例えば、政治科学は、人間がもつ諸傾向に関する仮説からの演繹結果を、個々の経験によって検証することによって事実と判断される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

科学的方法

【個々の経験からの簡単な一般化によっては、真理や事実には到達できない。例えば、政治科学は、人間がもつ諸傾向に関する仮説からの演繹結果を、個々の経験によって検証することによって事実と判断される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(5.2.2)追加記載。

 (5.2)科学教育
   科学教育は、(a)善き生活に必要な世界の諸法則を理解させ、(b)事実と真理を把握するための科学的方法の訓練をさせ、(c)確実な知識の境界と誰に学べばよいかを教え、無知ゆえの不信と虚偽への盲信を防ぐ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (5.2.1)私たちがうまく活動できるかどうかは、世界についての諸法則の知識に依存している。
   (a)私たちは、生まれたときは、まだ何も知らない。
   (b)この種の知識の大部分は、それぞれの分野でこの知識の獲得を自分の一生の仕事としている少数の人々の恩恵による。
  (5.2.2)事実と真理に到達するために、知性をどう適用させるかの訓練になる。
   (a)事実を素材として、知性を道具として、真理にどのように到達するか。
    双方の意見が、証拠によってではなく、先入観によって主張されているような場合は、真に経験的な知識による基礎固めをしておかなければならない。
   (b)事実から何が証明されるか。
    (b.1)科学的実験の仕方を正確に理解すれば、自分達の意見が経験的に証明されていると、それほど簡単に確信しないであろう。
    (b.2)簡単に一般化することが、いかに確実性に乏しいことも理解するであろう。
   (c)既に知っている事実から、知りたいと思う事実に達するには、どうすればよいか。
    (c.1)単なる表面的な経験によって暗示される結論は、それがそのまま真理ではない。
    (c.2)個々の特定な経験は、推論による結論を検証するに役立つにすぎない。
    (c.3)例えば、政治科学は、人間がもつ諸傾向についての仮説から演繹された結論の、個々の特定な経験による検証によって事実と判断される。すなわち、仮説の設定は「ある意味においては、ア・プリオリ的なもの」である。
    (c.4)あるいは、人間がもつ諸傾向についての仮説から演繹された、段階的に進化するとみなされている歴史過程についての結論の、個々の特定な歴史事象による検証によって事実と判断される。
  (5.2.3)科学的真理についての基礎的な知識が、一般の人々の間に普及される必要がある。
   科学的真理についての基礎的な知識が普及しないことの弊害。
   (a)普通の人は、何が確実で、何が確実でないかが分からない。
   (b)また、知られている真理を語る資格と権威をもっているのかが誰かも知ることができない。
   (c)その結果、科学的証明に対して全く信頼をおかなくなる。(無知ゆえの不信感)
   (d)また、大ぼら吹きや詐欺師に騙されてしまうことになる。(虚偽への盲信)

 「もし人々が、科学的実験を行う際にどれほど多くの細心の注意を払わなければならないかを知りさえすれば、例えば、実験対象に関わりのない要素すべてを排除するために、どれほど用意周到に随伴状況を設定、変更するかを、あるいは、妨げとなる要素が除去できない場合には、その影響力を正確に計算し、それを差し引いて、残りすべてが研究対象となっている要素そのものに起因するもの以外何も含まないようにするかを、知りさえすれば、つまり、これらの事に注意を向けさえするならば、自分達の意見が経験的に証明されているとそうも簡単に確信しないでありましょう。同様に、誰もが口にするようなありふれた考えや、一般化の多くも、当然そう思われているよりもはるかに確実性に乏しいと思われることでしょう。そこで、われわれはまず第一に、現在単なる曖昧な議論の対象にすぎなくなっている事柄、つまり、どちらの側にもそれ相当の言い分があり、双方とも確信をもって主張するがお互いの意見は証拠によってではなく、むしろ自分のその時の都合や先入観によって決定されるような事柄に関しては、真に経験的な知識による基礎固めをしておかなければなりません。例えば、政治において、直接的な経験からは実践的価値を伴う政治的判断は決してなしえないということは、実験科学の研究の後、政治学の研究に足を踏み入れた人ならば誰でもよく知るところであります。われわれがもつことのできる個々の特定な経験は、推論による結論を検証するに役立つにすぎないし、しかもその検証すら不十分なものであります。政治を現実に動かしている力ならどれでもかまいません。さあ、何かその例を取り上げてみましょう。例えば、イギリス人に付与されている自由の諸権利、あるいは自由貿易はどうでしょう。もしわれわれがこれらの政治的力自体のなかに繁栄を生み出す傾向性があることに全く気付かないとしたならば、どうしてそれらのどれもが繁栄に寄与すると知りうるでしょうか。もし経験と呼ばれるもの以外に何の証拠もないならば、われわれが現に享受している繁栄は、数多くの別の原因によるもので、自由の諸権利、自由貿易によって促進されるどころか、却って阻害させられると言われるかもしれません。真の政治科学はすべて、ものの諸傾向、つまり人間性についてのわれわれの一般的経験を通じて、あるいは、段階的進化とみなされている歴史過程の分析の結果から、知られる様々な傾向性からの演繹であり、ある意味においては、ア・プリオリ的なものであります。従って、政治科学においては、帰納と演繹の結合が必要となり、政治科学を研究する人は、あらかじめ帰納と演繹の二つの思考方法を十分訓練していなければなりません。ともあれ、科学的実験は、人がそれに慣れ親しめば、少なくとも、単なる表面的な経験によって暗示される結論に対して健全な懐疑を抱くようになる、という有益な役割を果たします。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,4 科学教育,(3)自然科学,pp.44-46,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:科学的方法,科学教育,科学教育の役割)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年11月3日日曜日

科学教育は、(a)善き生活に必要な世界の諸法則を理解させ、(b)事実と真理を把握するための科学的方法の訓練をさせ、(c)確実な知識の境界と誰に学べばよいかを教え、無知ゆえの不信と虚偽への盲信を防ぐ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

科学教育

【科学教育は、(a)善き生活に必要な世界の諸法則を理解させ、(b)事実と真理を把握するための科学的方法の訓練をさせ、(c)確実な知識の境界と誰に学べばよいかを教え、無知ゆえの不信と虚偽への盲信を防ぐ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(5.2)追加。

(5)一般教養教育の内容(各論)

 (5.1)他の国の言語や文化を学ぶこと
   自国において当然だと思われている意見や方法も、先入観や単なる習慣であり、修正され得るものである。外国の言語や文化を学ぶことは、意見や方法を修正し、自国の文化を豊かにするのに必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (5.1.1)意見や方法は修正され得るものである。
   (a)すなわち、自分とは異なる意見や方法も、正しいことがあり得る。
   (b)他の国には、学ぶべき多くの事柄がある。
   (c)他の国の言語を学習することが必要である。ある国の言語を知らなければ、我々はその国の人々の思想、感情、国民性を実際に知ることはできない。
   (d)なぜ外国人が違った考え方をするのか、あるいは、彼らが本当に考えていることは一体何なのかということを理解する。
  (5.1.2)我々の意見や方法は、正しい。この前提から出発すれば、我々は決して自らの意見を訂正することも、考え方を修正することもしないであろう。
   (a)なぜなら、異なった別の意見や考え方があるとは夢にも思わない。
   (b)自分のとは異なる意見や考え方を耳にしたならば、そういう意見や考え方は道徳的欠陥、性格の下劣さあるいは教育程度の低さによるものだと考える。
   (c)すなわち、そのような考え方と習慣は、「本性」そのものになっている。

 (5.2)科学教育
  (5.2.1)私たちがうまく活動できるかどうかは、世界についての諸法則の知識に依存している。
   (a)私たちは、生まれたときは、まだ何も知らない。
   (b)この種の知識の大部分は、それぞれの分野でこの知識の獲得を自分の一生の仕事としている少数の人々の恩恵による。
  (5.2.2)事実と真理に到達するために、知性をどう適用させるかの訓練になる。
   (a)事実を素材として、知性を道具として、真理にどのように到達するか。
   (b)事実から何が証明されるか。
   (c)既に知っている事実から、知りたいと思う事実に達するには、どうすればよいか。
  (5.2.3)科学的真理についての基礎的な知識が、一般の人々の間に普及される必要がある。
   科学的真理についての基礎的な知識が普及しないことの弊害。
   (a)普通の人は、何が確実で、何が確実でないかが分からない。
   (b)また、知られている真理を語る資格と権威をもっているのかが誰かも知ることができない。
   (c)その結果、科学的証明に対して全く信頼をおかなくなる。(無知ゆえの不信感)
   (d)また、大ぼら吹きや詐欺師に騙されてしまうことになる。(虚偽への盲信)

 「科学が提供する知識は、単にそれだけで十分に、科学教育の有用性を自明なものとすることでしょう。われわれは、われわれの意志とは無関係な世界、つまり、様々な現象が一定の法則に従って生起している世界に、生まれるのです。そしてわれわれは、その法則については全く何も知ることなく、この世界にやってきたのであります。このような世界に住むことを、われわれは運命づけられ、すべての活動はそのなかでなされなければならないのです。われわれが完全に活動しているか否かは、世界についての諸法則の知識をもつか否かに、言い換えればわれわれがそれらを用いて働き、それらのなかで働き、それらに働きかけるその種の様々な事物の性質について知っているか否かに、かかっているのであります。われわれがもつこの種の知識の大部分は、それぞれの分野でこの知識の獲得を自分の一生の仕事としている少数の人々の恩恵によるものであり、事実そうなのであります。他方、科学的真理についての基礎的な知識が一般の人々の間に行きわたらない限り、一般大衆は何が確実で、何が確実でないかを、あるいは、誰が権威をもって語りうるのか、誰がその資格をもちえないのかを決して知ることはないのです。そしてその結果、一般大衆は、科学的証明に対して全く信頼をおかなくなるか、それとも、すぐに大ぼら吹きや詐欺師に騙されてしまう愚か者になるか、そのどちらかになってしまうでしょう。一般大衆は、無知故に不信感をもつという状態と、盲目的でしかもほとんど見当違いの確信をもという状態とをただ繰り返すことになるでしょう。他方、自分の眼前で起こっているありふれた物理的現象の原因について理解しようと思わない人が一体いるでしょうか。例えば、なぜポンプが水を汲み上げるのか、なぜ梃が重いものを動かすのか、なぜ熱帯では暑く、南極・北極では寒いのか、なぜ月は暗くなったり、明るくなったりするのか、潮の干満が起こる原因は何であるか、ということを知りたいと思わない人が本当にいるのでしょうか。このような事について全く無知な人は、たとえある専門的な職業に熟達しているとしても、教育のある人間ではなく、むしろ無教養な人間とみなされてもよいのではないでしょうか。宇宙についての最も重要で、しかも誰もが興味を抱く事実に関する十分な知識をわれわれに与え、われわれを取り囲むこの世界がわれわれにとって、理解できない故に全く面白くない、いわば一冊を封印された書物にしないことは、確かに、教育の重要な役割であります。しかしながら、こうしたことは科学の有用性の最も単純明解な部分にすぎず、青年時代にこの種の教育を受けなかったとしても、あとで容易に取り返しがつくものなのであります。これに対して、科学教育の価値は、人間本来の仕事に知性を適用させるための訓練あるいは鍛錬過程にあると理解する方がはるかに重要なのであります。 事実はわれわれの知識の素材であり、他方、精神は知識を作り上げる道具なのであります。そして事実を集積する方が、事実から何が証明されるかを、あるいは、既に知っている事実から知りたいと思う事実に達するにはどうしたらいいのかを判断するより、ずっと簡単なのであります。
 一生を通じて人間の知性が最も活発に働き続けるのは、真理を探究する時であります。われわれは、絶えず、あるなんらかの事柄について何が本当に真実であるかを知る必要があります。われわれと同世代の人々すべてにとってだけではなく、今後の世代の人々にとっても光明となるような偉大な普遍的真理の発見は、もとよりわれわれすべてのなしうることではありません。しかし、一般教養教育が改善されれば、そのような発見をなしうる人の数は現在よりはるかに増大することでありましょう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,4 科学教育,(1)科学教育の意義,pp.36-38,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:科学教育)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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