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2020年5月26日火曜日

法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。(ハーバート・ハート(1907-1992))

実定法と自然法

【法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(4.4.2)追記。

 (4.4)在る法と在るべき法の区別
  それでもなお、在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、区別すべきである。
   仮に、ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、また、在るべき法が客観的なものとして知られたとしても、現に在る法と在るべき法の区別は、厳然と存在するし、また区別すべきである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (4.4.1)在る法
   ある法の道徳的邪悪さが事実問題として証明されたとしても、その法が法でないことを示したことにはならない。法は様々な程度において邪悪であったり馬鹿げていたりしながら、なお法であり続ける。
  (4.4.2)道徳的な原則
   法であるべき全ての道徳的資格を備えていながら、しかしなお法ではないルールが存在する。ベンサムは、自然法に基づく自然権の概念を批判した。法に先行する権利も、法に反する権利も存在しない。
 「ベンサムは、自然権の観念を二つの主要な仕方で攻撃したのである。第一に、彼は以下のように主張した。実定法により創造されない権利の観念は「冷たい熱」とか「輝く闇」のような用語矛盾である。つまり、権利とは、彼の主張によれば、すべて実定法の産物にすぎないし、また、人為法に先立ちそれから独立した権利が存在するという主張は、人びとが誤解して自然法を自然権の淵源だと語ってきたから、明らかに不条理だとして即座に摘発されるのを免れたにすぎない。しかし、これら(自然法と自然権)はともに、次のような事実に示されているように、実在しないものであった。すなわち、ある人が何らかの法的権利を有しているかどうか、その範囲はどのくらいか、ということに関して論争があるとすれば、これは確証可能な客観的事実に関する問題であって、関連する実定法の文言を引証することによって、あるいは、それがない場合には法廷に委ねることによって合理的に解決できる、という事実である。〔しかし〕このような合理的な解決や客観的な判決手続は、ある人が非実定法的な自然権たとえば言論や集会の自由への権利を持っているかどうかという問題を解決するのに、まったく役立たない。自然権の存否を立証するこれと同種の承認されたテストは存在しないし、それを知りうるための確定された法も存在しないのである。それゆえ、ベンサムは、「《法》の観念を問題にしなければ、《権利》という言葉で言われるものは反駁されるべきものとなる」と述べたのである。法に先行する権利も法に反する権利も存在しない。そのために、自然権の教義は話し手の感情、欲求、偏見を表出するかもしれないが、法が正当に行なったり要求したりすることに対する、合理的に識別し論議しうる客観的な制限として、それは功利主義のようには役立ちえないのである。人びとが彼ら自身の自然権について語るのは、思い通りにしたい理由を示さずにそうしたいときである、とベンサムは述べた。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第4部 自由・功利・権利,8 功利主義と自然権,pp.213-214,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),玉木秀敏(訳))
(索引:実定法,自然法,自然権)

法学・哲学論集


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年9月1日日曜日

人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。これは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))

自然法とは何か

【人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。これは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)目的と手段による説明
 (a)生存する目的を前提として仮定する。
 (b)自然的事実:人間に関する、ある単純で自明な諸事実が幾つか存在する。
 (c)法と道徳は、自然的事実に対応する、ある特定の内容を含まなければならない。
  その特定の内容を含まなければ、生存という目的を達成することができないため、そのルールに自発的に服従する人々が存在することになり、彼らは、自発的に服従しようとしない他の人にも、強制して服従させようとする。
(2)原因と結果による説明
 (a)心理学や社会学における説明のように、人間の成長過程において、身体的、心理的、経済的な条件のもとにおいて、どのようなルール体系が獲得されていくかを、原因と結果の関係として解明する。
 (b)因果的な説明は、人々がなぜ、そのような諸目的やルール体系を持つのかも、解明しようとする。
 (c)他の科学と同様、観察や実験と、一般化と理論という方式を用いて確立するものである。

 「われわれがここで提出する単純な自明の真理を考え、またそれらが法や道徳とどのような関係をもつかを考察するにあたって注意しなければならないのは、それぞれの場合についてそこにのべられた事実が、生存という目的が前提された場合、法と道徳はなぜ特定の内容を含まなければならないかの《理由》を示しているということである。この議論のたどる普通の形態は、簡単にいって、そのような内容がなければ、法と道徳は、人々が互いに結合するさいにもつ生存という最小限の目的をも推し進めることはできないであろうということである。この内容がない場合、人々はそのままでは、いかなるルールにも自発的に服従する理由をもたないことになろう。つまり、ルールに従いそれを維持するほうが有利であると思う人々が自発的に最小限の協力をしなければ、自発的に服従しようとはしない他の人を強制することは不可能である。とりわけ強調したいのは、このアプローチにおいては、自然的事実と法的ないし道徳的ルールの内容とが、とくに合理的な関係をもっていることである。というのは、自然的事実と法的ないしは道徳的ルールとがもつこれとはまったく異なった形の関連を探究することも可能であり重要だからである。たとえば、心理学や社会学のようなまだ若い科学は、一定の肉体的、心理的あるいは経済的条件が充足されなければ、たとえば、幼い子供が家族のなかで一定の仕方で食物を与えられ養育されることがなかったならば、法体系や道徳律などというものは、確定されえないということ、あるいは一定のタイプに一致する法だけがうまく機能しうるということを発見するかもしれないし、またすでに発見しているかもしれない。自然条件とルールの体系とがこの種の関係をもつのは《理由》によって媒介されるわけではない。というのは、この種の関係は、一定のルールの存在を、人々がそれを意識的な目的ないし目標にしていることに関連づけるものではないからである。幼年時代に一定の仕方で食物を与えられるということは、人々が道徳律あるいは法を発展あるいは維持させる必要条件であり、また《原因》でさえあるということは十分示されるだろうが、しかしそれは、人々がそうする《理由》ではない。そのような因果的な関係は、目標とか意識的目的にもとづく関係とはもちろん矛盾しない。因果的な関係は、実際、目的的関係よりも重要で基本的だと考えられるかもしれないが、それは、この因果的な関係が、自然法の出発点となっている意識的目的、目標を人々がなぜもつかを実際的に説明するからである。しかし、このタイプの因果的説明は、自明の真理にもとづいているのでもなければ、意識的な目的とか目標に媒介されているのでもない。それは、社会学や心理学が、他の科学と同様、観察に、また可能な場合には実験により、一般化と理論という方式を用いて確立するものである。したがってそのような関係は、一定の法的ないしは道徳的ルールの内容を、以下の自明の真理としてのべる事実に結びつける関係とは異なっている。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第2節 自然法の最小限の内容,pp.211-212,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:自然法,生存する目的,目的と手段による説明,原因と結果による説明,因果的説明)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年3月30日土曜日

2.義務や正・不正を基礎づけるものとして、人々が考えついた様々な成句:道徳感覚、共通感覚、悟性、永久不変の正義の規則、事物の適性との調和、自然法、理性の法、自然的正義、公正、良い秩序、神の啓示。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))

義務や正・不正を基礎づけるもの

【義務や正・不正を基礎づけるものとして、人々が考えついた様々な成句:道徳感覚、共通感覚、悟性、永久不変の正義の規則、事物の適性との調和、自然法、理性の法、自然的正義、公正、良い秩序、神の啓示。(ジェレミ・ベンサム(1748-1832))】

 何が正しく何が不正かを教えてくれるという「道徳感覚」と同じように、人々が考えついた様々な表現の仕方がある。
(a)何が正しく何が不正かは、私たちの「共通感覚」が教えてくれる。
 (a.1)共通感覚は、人間が持っている普遍的な感覚であり、すべての人が持っている。
 (a.2)特別の人だけが持てる特殊な感覚ではなく、私たちが共通に持っている。
 (a.3)それにもかかわらず、同じ感覚を持っていない人の感覚は、どのように扱われるのか。それは、考慮する価値のないものとして排除されることになる。
(b)何が正しく何が不正かは、私たちの「悟性」が教えてくれる。
 (b.1)しかし、悟性とは何なのか。
(c)何が正しく何が不正かは、「永久不変の正義の規則」が教えてくれる。
 (c.1)道徳感覚や共通感覚は、永久不変の正義の規則に由来して生じるものである。
 (c.2)しかし、永久不変の正義の規則とは何なのか。
(d)何が正しく何が不正かは、「事物の適性と調和するか、一致しないか」に由来する。
 (d.1)しかし、何が「調和的」であり、何が「一致しない」ことなのか。
(e)何が正しく何が不正かは、「自然法」が教えてくれる。
 (e.1)道徳感覚や共通感覚は、自然法に由来して生じるものである。
 (e.2)しかし、自然法とは何なのか。
(f)何が正しく何が不正かは、「理性の法」、「正しい理性」、「自然的正義」、「自然的公正」、「良い秩序」が教えてくれる。
 (f.1)いずれも、問題になっている事柄が、ある適切な基準に従っていることを表現している。
 (f.2)しかし、適切な基準は具体的には何なのか。
 (f.3)この基準は、多くの場合、功利性である。明確に言えば、快と苦痛による基準である。
(g)何が正しく何が不正かは、「私が知っている」と率直に言う人がいる。その人は、神に選ばれた人である。
 これらの成句は、それが根拠とする基準と、論拠として認められ得る意味と範囲が確定されない限りは、自己の主観的な感覚・感情に基づいた根拠の曖昧な主張を、世間と自己自身に隠し立てておくための表現にしかならない。

(出典:wikipedia
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
ジェレミ・ベンサム(1748-1832)
検索(ベンサム)

 「以下の一節は彼の最初の体系的著作である『道徳と立法の原理序説』からのものであるが、彼の哲学体系の長所と短所をこれ以上にはっきりと示しているものを引用することはできないだろう。
 『きわめて一般的で、それゆえにきわめて許容されうる自己充足を世間から、そして可能なら自分自身からも隠し立てておくために、人々が考えついたさまざまな作り事や人々が持ちだしてきたさまざまな成句を調べてみることはなかなか興味深いことである。
 1、ある人が言うには、人が何が正しくて何が不正であるかを自分に教えることを目的として作られているものを持っており、それは「道徳感覚(moral sense)」と呼ばれている。彼は安心して仕事に取りかかり、これこれのことは正しく、これこれのことは不正であると述べ、なぜかと聞かれたならば「私の道徳感覚がそのように教えてくれているから」と答える。
 2、別の人はその成句を修正して、《道徳》という言葉を省いて、そこに《共通》という言葉を挿入する。そうして、その人は、自分の共通感覚(common sense)が、他の人の道徳感覚がそうしているのと同じくらい確実に、何が正しくて何が不正なのかを教えてくれると述べる。共通感覚とはすべての人間が持っている何らかの感情のことを意味していると述べる。そして、論者と同じ感覚をもっていない人の感覚は考慮する価値のないものとして排除される。この工夫は道徳感覚よりも優れている。というのも、道徳感覚は新奇なものなので、人にそれを見出すことがなくてもその人に好感をもつかもしれないが、共通感覚は人の創造と同じくらい古くからあるものなので、同胞と同じような共通感覚をもっていないと思われることを恥ずかしいと思わない人はいない。それはもうひとつ別の利点をもっており、それは権力を共有しているように見せかけることで妬みを小さくするというものである。というのは、ある人がこの根拠に基づいて自分と異なっている人を呪おうとするときには、「我かく欲し、かく命ず」とは言わずに、「汝の欲するごとく命ぜよ」と言うからである。
 3、また別の人は、道徳感覚なるものが実際にあるとは思えないけれども、私は《悟性》(understanding)をもっており、それもきわめて役立つものであると述べる。その人が言うには、この悟性が正・不正の基準であり、いろいろなことを教えてくれる。善良で賢明な人はみな、自分と同じように悟性を働かせている。他の人々の悟性がいずれかの点で自分と違っているとしたら、間違っているのは彼らであり、それは彼らに何かが欠けているか間違っているかの兆候なのである。
 4、また別の人は、永久不変の正義の規則があり、その正義の規則がいろいろなことを命じていると述べる。その上で、その人は真っ先に思い浮かぶものについての自らの感情を認めさせようとする。その感情は永久的な正義の規則から数多く派生したものである(と思うしかなくなるだろう)。
 5、他の人は、あるいは同じ人かもしれないが(それはどうでもよいことである)、事物の適性と調和する行為もあれば、それと一致しない行為もあると述べる。それから、その人は暇にまかせて、どのような行為が調和的であり、どのようなものが一致しないのか語るだろうが、その人が何となくその行為を好んでいるか嫌っているかに応じてそうするのである。
 6、大多数の人々が、自然法についてつねに語り、その上で彼らは何が正しくて何が不正なのかに関する自分たちの感情を表明しようとしており、人はその感情が自然法の数多くの章節を構成しているものであることを知ることになるだろう。
 7、自然法という成句の代わりに、時には理性の法、正しい理性、自然的正義、自然的公正、良い秩序という成句が用いられる。そのいずれもが同じように用いられる。最後のものは政治学においてもっとも用いられている。最後の3つのものは他のものにくらべたらましである。というのは、成句が意味している以上のものをそれほどはっきりとは主張していないからである。それらはそれ自体で多くの積極的基準とみなされることをごくわずかしか求めておらず、どのような基準であっても、問題になっている事柄が適切な基準に従っていることを表現している成句として時おり受け取られることで満足しているように思われる。しかし、多くの場合、[その基準は]《功利性》であるというのがよいだろう。《功利性》はより明確に快と苦痛に言及しており、より明快なものである。
 8、ある哲学者が言うには、嘘をつくということ以外にこの世界には有害なものはなく、たとえば、もし人が自分自身の父親を殺害しようとしているならば、これは彼がその人の父親ではないということを述べる一つの仕方にすぎないことになるだろう。もちろん、この哲学者は自分が好まないものを見たときには、それは嘘をつく一つの仕方であると述べるだろう。それは、《実際には》行為がなされるべきでないときに、その行為はなされるべきであり、なされてもよいと言っているようなものである。
 9、彼らすべてのなかでもっとも聡明でもっとも率直なひとははっきりと意見を述べるような人であり、自分は選ばれし人の一人であると述べている。今や神自らが選ばれし人に何が正しいかを知らせるように取り計らっており、それはよい効果をもっているので、選ばれし人は非常に努力するようになり、何が正しいかを知るだけでなく実践せずにはいられなくなる。それゆえ、何が正しくて何が不正なのかを知りたいと思うならば、人は選ばれし私のところに来る以外にない。』
 これらの成句やそれに類似したものが、ベンサムが理解していた程度のものにすぎないという見解をもっている人はほとんどいないように思われる。しかし、これらの成句が訴える基準が確かめられ、論拠として認められうる《意味》と《範囲》が的確に明らかにされるまでは、これらの成句の意味は完全に分析されており、より正確な言葉に言い換えられており、これらの成句は根拠として通用しうるということを、今日では思想家として権威ある人は誰もあえて主張しようとしないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.109-113,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:道徳感覚,共通感覚,悟性,永久不変の正義の規則,事物の適性との調和,自然法,理性の法,自然的正義,公正,良い秩序,神の啓示)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

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