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2022年2月18日金曜日

12.人々の生活の安全が保証された自由な社会では、人々はお金以外の、心の底から望み、または善だと思うような諸価値を心置きなく追求できる。芸術や精神性、スポーツ、造園、ファンタジー、科学研究、知的、快楽主義的な楽しみ、それらの思いがけない組み合 わせ等々。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

真に自由な社会で創造される諸価値

人々の生活の安全が保証された自由な社会では、人々はお金以外の、心の底から望み、または善だと思うような諸価値を心置きなく追求できる。芸術や精神性、スポーツ、造園、ファンタジー、科学研究、知的、快楽主義的な楽しみ、それらの思いがけない組み合 わせ等々。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



「経済学的に僕が探究したいのは、人々が個人で、または他者とともに、追求するにふさわ しいと思った価値を心置きなく追い求めていけるよう、生活の安全を保証するというものだ。

 多くの人々がなんだかんだいってお金に走る主な理由がここにあるのはこれまで見てきたとこ ろだ。

人々が崇高で、美しく、心の底から望み、または善だと思うような、お金以外の何かを 求めていけるようにする。自由な社会では、人は何を求めていくのだろうか。その多くは現時 点ではほぼ想像できないが、それでも芸術や精神性、スポーツ、造園、ファンタジー、科学研 究、知的、あるいは快楽主義的な楽しみなどのなじみの価値や、それらの思いがけない組み合 わせがありうるだろう。  

求めている対象がまったく比較できない場合や、どうしても置き換えられない価値の場合、 どのように資源を配分するのかは難題だ。それは僕が時折質問されるもうひとつの問いを引き 出す。「平等」とは本当のところ何を意味しているのか、という問いである。」
 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第V章 呪文を解 く,pp.345-346,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳))


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






99.問題は、我々が既にやっていることをもっと推し進 め、自由が真の組織化の原理になるまで、自由の領域を拡張していくことにある。供給不足に陥っている物は世界中にたくさんあ る。我々には知性というほぼ無制限の供給物があり、問題を創造的に解決する方法を考え出すことができる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

自由の領域を拡張すること

問題は、我々が既にやっていることをもっと推し進 め、自由が真の組織化の原理になるまで、自由の領域を拡張していくことにある。供給不足に陥っている物は世界中にたくさんあ る。我々には知性というほぼ無制限の供給物があり、問題を創造的に解決する方法を考え出すことができる。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))



「さて、おそらく読者には僕の念頭にある方向性の全体を理解してもらえただろう。

われわ れはすでに自分たちの時間の大半を共産主義の実践に費やしているのだ。服従を強制する手段 としての物理的脅威を必要とせずに、お互いを理解しようとするとき、われわれはつねにアナ キストであるし、少なくともアナキストのようにふるまっている。

問題は、完全に新しい社会 を一から築き上げるということではなく、われわれがすでにやっていることをもっとも推し進 め、自由が真の組織化の原理になるまで自由の領域を拡張していくことにある。

実際のところ 僕は、どのように生産され配分されるのかを考案する技術的な側面が、これまでつねにいわれ てきたような大問題になるとは思っていない。

供給不足に陥っている物は世界中にたくさんあ る。

われわれには知性というほぼ無制限の供給物があり、問題を創造的に解決する方法を考え だすことができる。問題は想像力の欠如ではない。問題は、想像力を確実に発揮させないため につくられた、あるいは金融派生商品や新しい武器システム、書類記入用の新しいインター ネットシステムをつくらせないようにする、債務と暴力の抑圧的なシステムである。」

 (デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第V章 呪文を解 く,pp.341-342,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一郎(訳),原民樹(訳))


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2022年2月17日木曜日

7.圧倒的な富の不平等や奴隷制、債務労働、賃労働のような社会的諸制度は、軍隊と監獄、警察による支えがある場合のみ存在し得ることが、歴史的に明らかにされてきた。暴力の脅威で絶えず強制されることなく、人々が平等性と連帯に基づいて自由に結合するような社会は可能だろうか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))

真に自由な社会

圧倒的な富の不平等や奴隷制、債務労働、賃労働のような社会的諸制度は、軍隊と監獄、警察による支えがある場合のみ存在し得ることが、歴史的に明らかにされてきた。暴力の脅威で絶えず強制されることなく、人々が平等性と連帯に基づいて自由に結合するような社会は可能だろうか。(デヴィッド・グレーバー(1961-2020))


(a)真に自由な社会
 真に自由な社会とは、暴力の脅威で絶えず強制されることなく、人々が平等性と連帯に基づいて自由 に結合し、生きる価値の見出せる未来社会像や計画、構想を絶えずさまざまに追求していくような社会である。
(b)債務労働、賃労働の基礎としての軍隊、監獄、警察
 圧倒的な富の不平等や奴隷制、債務労働、賃労働のような社会的諸制度は、軍隊と監獄、警察による支えがある場合にのみ存在しうるということが歴史的に明らかにされてきた。
(c)構造的不平等の基礎としての力の脅威
 人種主義や性差別主義といったもっと根深い構造的不平等でさえ、究極的にはより巧妙かつ狡猾な力の脅威に基礎づけられている。




「どちらの文脈でも、一言でいえばアナキズムとは真に自由な社会の実現をめざす政治的運 動であり、「自由な社会」とは暴力の脅威で絶えず強制されることなく人々がお互いに民主主 義的な関係を取り結ぶことで初めて生まれるのである。

圧倒的な富の不平等や奴隷制、債務労 働、賃労働のような社会的諸制度は、軍隊と監獄、警察による支えがある場合にのみ存在しう るということが歴史的に明らかにされてきた。人種主義や性差別主義といったもっと根深い構 造的不平等でさえ、究極的にはより巧妙かつ狡猾な力の脅威に基礎づけられている。

したがっ て、アナキストが思い描くのは平等性と連帯に基づいた世界であり、そこでは人間同士が自由 に結合し、生きる価値の見出せる未来社会像や計画、構想を絶えずさまざまに追求していくの である。

アナキズム的社会に存在しうる組織とはどのようなものかと問われたら、僕はいつも こう答えている。

人間が想像しうるあらゆる形態の組織、そしてその多くは現在のわれわれに は想像もできないような組織だろうが、たったひとつだけ条件がある――いかなる場合でも武装 した男を頼みにして「お前の話などどうでもいい、黙って言われたとおりにしろ」という権限 をもつ人間を必要とせずに成立しうる組織であることだ。  

こうした意味合いにおいては、アナキストはいつでも存在してきたのだ。

ある人々の集団が かれらを抑圧する権力あるいは支配のシステムに直面し、それに激しく反対するなかから、ど んな権力や支配にも縛られずにお互いを扱う方法を想像しはじめるところでは、つねに数多く のアナキストを見いだすことができる。」
(デヴィッド・グレーバー(1961-2020),『デモクラシー・プロジェクト』,第III章 「群衆 は知性と理性を手に入れはじめる」,pp.222-223,航思社(2015),木下ちがや(訳),江上賢一 郎(訳),原民樹(訳)


デヴィッド・グレーバー
(1961-2020)






2022年2月8日火曜日

ある人の自由の範囲を決定するのは現実に開かれている扉であり、その当人の好みではない。主人が鎖を愛するように奴隷に教え込めば、それによって奴隷の満足が大きくなり、少なくとも悲 惨さが少なくなるとしても、主人がそれ自体で奴隷の自由を大きくしたわけではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

鎖を愛する奴隷の自由

ある人の自由の範囲を決定するのは現実に開かれている扉であり、その当人の好みではない。主人が鎖を愛するように奴隷に教え込めば、それによって奴隷の満足が大きくなり、少なくとも悲 惨さが少なくなるとしても、主人がそれ自体で奴隷の自由を大きくしたわけではない。(アイザイア・バーリン(1909-1997))



「ある人の自由の範囲を決定するのは現実に開かれている扉であり、その当人の好みではな いということに、注目しておく必要がある。好きなように行動できるとして、願望の途上に心 理的ないしその他の障害がないというだけで、自由になるわけではない。この場合、行動の可 能性を変えずに欲望と意向を変えることによって、自由になることもできるからである。主人 が鎖を愛するように奴隷に教え込めば、それによって奴隷の満足が大きくなり、少なくとも悲 惨さが少なくなるとしても、主人がそれ自体で奴隷の自由を大きくしたわけではない。歴史 上、良心に欠けた人間の管理者たちが宗教教育を利用して、野蛮で不法な扱いを人々に甘受させたことがあった。このような政策が成功するとすれば――そしてこれら人間の管理者がそのよ うな手段にしばしば訴えると考えてよい理由もある――、そしてその政策の犠牲者たちが(例え ばもと奴隷の哲学者エピクテートスのように)苦痛と侮辱を気にとめないことを学んだとすれ ば、いくつかの専制体制は自由の創造者と呼んでよいことになるであろう。そのような体制は よそに気を引くような誘惑を排除し、願望と情熱を「奴隷化」することによって、個人の選択 ないし民主的選択の領域を拡大する政治制度よりも(仮定からして)一層大きな自由を作り出 しているからである。」

(アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,p.290,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和(訳)) 

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2022年2月6日日曜日

真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と動機にあるのかが問題である。麻薬、催眠術、根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶の影響はどうだろう。合理化とかイデオロギーの影響はどうだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

真の自由とは何か

真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と動機にあるのかが問題である。麻薬、催眠術、根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶の影響はどうだろう。合理化とかイデオロギーの影響はどうだろう。(アイザイア・バーリン(1909-1997))


(1)麻薬、催眠術
 自由でない人とは、いわば麻薬を呑まされたり催眠術にかけられている状態にあ る人である。行動主体がどのような説明や正当化を試 みるかにはかかわりなく、何か隠された心理的、生理的条件によって自分には統制できない力の手中に握られていれば、自由ではない。

(2)根拠のない恐怖、幻想、夢想、無意識の記憶
 人間の行動が方向を誤った感情、例えば、存在していないものに対する恐怖、事態の真の状態の合理的知覚によらず、幻想や夢想、無意識の記憶と忘れ去られた 傷による憎悪などを原因にしている時には、人は自己指導的でなく、したがって自由ではな い。
(3)合理化、イデオロギー
 合理化やイデオロギーといったものは、行動の真の根源を知らない、あるいは真の根源を無視ないし誤解している偽りの行動の説明である。この偽りの 説明は、さらに幻想と夢想を生み、非合理的で衝動的な行動様式を生むであろう。

(4)意識的な意図と動機、目的
 真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と 動機にあるのかが問題である。ある合理的人間が自由なのは、彼の行動が機械的でなく、自らの動機から発し、彼が意識して いる、また欲すれば意識しうる目的の達成を意図している場合である。



「この理論によると、人間の行動が方向を誤った感情――例えば、存在していないものにたい する恐怖、事態の真の状態の合理的知覚によらず、幻想や夢想、無意識の記憶と忘れ去られた 傷による憎悪など――を原因にしている時には、人は自己指導的でなく、したがって自由ではな い。この見解では、合理化やイデオロギーといったものは、行動の真の根源を知らない、ある いはそれを無視ないし誤解している偽りの行動の説明ということになるであろう。この偽りの 説明は、さらに幻想と夢想を生み、非合理的で衝動的な行動様式を生むであろう。したがって 真の自由とは、自己指導にある。彼の行動の真の説明がどの程度まで彼の意識している意図と 動機にあるか、逆にいえば、同じ効果、つまり(行動主体がどのような説明ないし正当化を試 みるかにかかわりなく)選択の結果であるかのように装って同じ行動を生み出すとしても、ど の程度まで何か隠された心理的、生理的条件によっていないかによって、人間は自由である。 ある合理的人間が自由なのは、彼の行動が機械的でなく、自らの動機から発し、彼が意識して いる、また欲すれば意識しうる目的の達成を意図している場合である。つまり、このような意 図と目的を持っていることが、彼の行動の充分条件ではないが、必要条件であるといってよい 場合である。自由でない人とは、いわば麻薬を呑まされたり催眠術にかけられている状態にあ る人である――彼が自分の行動をどう説明しようと、彼の表面の明白な動機と方針がいかに変化 しようとも、その事実には変わりはない。彼がどのような理由を挙げるにせよ、彼の行動が明 白に同じと予言できる時には、彼は自分には統制できない力の手中に握られており、したがっ て自由でないと、われわれは考える。」
 (アイザイア・バーリン(1909-1997),『希望と恐怖から自由に』,収録書籍名『時代と回 想 バーリン選集2』,pp.256-257,岩波書店(1983),福田歓一,河合秀和(編),河合秀和 (訳))

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アイザイア・バーリン
(1909-1997)




2019年11月19日火曜日

4.消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

消極的自由

【消極的自由とは、他人から故意の干渉や妨害を受けず、また制度的な制約もなく、放任されていることである。可能でないことの諸原因、開かれている可能性の程度については、別に考察を要する。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

(1)消極的自由
 (1.1)他人から故意の干渉や妨害を受けず、放任されていること。
  (a)個人あるいは個人の集団が、自分のしたいことをしても、放任されている。
  (b)個人あるいは個人の集団が、自分のありたいものであることを、放任されている。
  (c)他人から、故意の干渉や妨害を受けない。
  (d)他人から、行動の範囲を限定されていれば、自由ではなく強制されていると言える。
 (1.2)可能でないことの諸原因と消極的自由
  (a)他人の妨害ではない物理的制約、身体的制約、病気や障害
   可能でないことの全てが、消極的自由の制限ではない。
  (b)他人の妨害ではない個人の能力の不足や貧困
   (i)一般には、消極的自由の制限とは考えられない。
   (ii)可能でないことが、特定の社会・経済理論によって、個人の能力の不足や貧困の原因が、個人以外の原因に帰属させられるとき、「自由が奪われている」と認識される。
  (c)他人の故意の干渉や妨害:消極的自由の制限
  (d)法律により制度的な制限:消極的自由の制限
(2)積極的自由
 「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。


 「自由という言葉(わたしは freedom も liberty も同じ意味で用いる)の政治的な意味の第一は――わたくしはこれを「消極的」negative な意味と名づけるのだが――、次のような問いに対する答えのなかに含まれているものである。

その問いとはつまり、「主体――一個人あるいは個人の集団――が、いかなる他人からの干渉もうけずに、自分のしたいことをし、自分のありたいものであることを放任されている、あるいは放任されているべき範囲はどのようなものであるか」。

第二の意味――これをわたくしは「積極的」positive な意味と名づける――は、次のような問い、つまり「あるひとがあれよりもこれをすること、あれよりもこれであること、を決定できる統制ないし干渉の根拠はなんであるか、またはだれであるか」という問いに対する答えのなかに含まれている。

この二つの問いは、それへの解答は重複することがあるにしても、それぞれ明らかに区別されるちがった問いなのである。

 「消極的」自由の観念

 ふつうには、他人によって自分の活動が干渉されない程度に応じて、わたくしは自由だといわれる。

この意味における政治的自由とは、たんにあるひとがそのひとのしたいことをすることのできる範囲のことである。

もしわたくしが自分のしたいことを他人に妨げられれば、その程度にわたくしは自由ではないわけだし、またもし自分のしたいことのできる範囲がある最小限度以上に他人によって狭められたならば、わたくしは強制されている、あるいはおそらく隷従させられている、ということができる。

しかしながら、強制とは、することのできぬ状態 inability のすべてにあてはまる言葉ではない。わたくしは空中に10フィート以上飛び上がることはできないとか、盲目だからものを読むことができないとか、あるいはヘーゲルの晦渋な文章を理解することができないとかいう場合に、わたくしがその程度にまで隷従させられているとか強制されているとかいうのは的はずれであろう。

強制には、わたくしが行為しようとする範囲内における他人の故意の干渉という意味が含まれている。

あなたが自分の目標の達成を他人によって妨害されるときにのみ、あなたは政治的自由を欠いているのである。たんに目標に到達できないというだけのことでは、政治的自由の欠如ではないのだ。

このことは、「経済的自由」とか、その反対の「経済的隷従」とかいう最近の用語法からも引き出せる。

もしあるひとがたいへん貧乏であって、法律的になんら禁じられていないもの――たとえば一塊のパンとか世界旅行とか法廷への依頼とか――を手に入れたり、やったりできないときには、そのひとはそれがかれに法律によって禁じられているときと同じように、それを手に入れたりやったりする自由がないのだ、とまことにもっともらしく主張されている。

もしもわたくしの貧乏が一種の病気のようなもので、これによってわたくしが、ちょうど跛で走れないというのと同じく、パンを買ったり世界旅行の費用を支払ったり、あるいは訴訟を審理させたりすることができないというのであるならば、このできない状態は決して自由の欠如と呼ばれない、ましてや政治的自由の欠如とは呼ばれないのはもちろんのことであろう。

自分が強制あるいは隷従の状態におかれていると考えられるのは、ただ、自分の欲するものを得ることができないという状態が、他の人間のためにそうさせられている、他人はそうでないのに自分はそれに支払う金をじゅうぶんにもつことを妨げられているという事実のためだと信じられるからなのである。

いいかえれば、この「経済的自由」とか「経済的隷従」とかいう用語法は、自分の貧乏ないし弱さの原因に関するある特定の社会・経済理論に依拠しているのだ。

手段がえられないということが自分の精神的ないし肉体的能力の欠如のせいである場合に、自由を奪われているという(たんに貧乏のことをいうのではなくて)のは、その理論を受けいれたうえではじめてできることである。

さらにいえば、自分が不正ないし不公平と考えている特定の社会のしくみによって窮乏状態におかれているのだと信ずる場合に、この経済的隷従とか抑圧とかが口にされるわけである。

「事物の自然はわれわれを怒らせたり狂乱させはしない。ただ悪意のみがそうさせるのだ」と、ルソーはいっている。

抑圧であるかどうかの規準は、わたくしの願望をうちくだくのに直接・間接に他の人間によって演じられると考えられるその役割にある。

この意味において自由であるとは、他人によって干渉されないということだ。

 干渉を受けない範囲が広くなるにつれて、わたくしの自由も拡大されるのである。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),1 「消極的」自由の概念,pp.9-12,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:積極的自由,消極的自由,故意の干渉や妨害,放任,物理的制約,身体的制約,病気や障害)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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