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2018年11月27日火曜日

記号が聴覚的なものから視覚的なものになることで、(a)明確性、持続性、不変性、(b)記号と記号の関係性の表現、(c)全体俯瞰性、(d)記号の操作性、が獲得される。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

聴覚記号と視覚記号

【記号が聴覚的なものから視覚的なものになることで、(a)明確性、持続性、不変性、(b)記号と記号の関係性の表現、(c)全体俯瞰性、(d)記号の操作性、が獲得される。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1)聴覚に訴える記号の特徴
 (1.1)時間的な継起である。
 (1.2)創出する際に、外的状況にそれほど依存しない。その結果、内的過程と相当程度に親近性をもっている。
 (1.3)感情に対して緊密な関係にあり、繊細この上ない感情の機微や移ろいにも即応できる。
(2)視覚に訴える記号の特徴
 (2.1)われわれの実際の思考運動の絶え間ない流れとは似ていない。
 (2.2)記号は、鋭利に境界付けがなされ、はっきりと区分されている。この結果、大きな持続性と不変性があり、表記されるものをより明確に示せる。
 (2.3)二次元的に広がっている書記平面上の文字記号の位置関係は、多様な内的な諸関係を表現するのに用いることができる。
 (2.4)一瞬一瞬には僅かな部分しか注視できないとしても、多くのことを同時に現前させ、全般的な印象を形成できる可能性を提供してくれる。
 (2.5)全体から、注意を向けようと思っていることを見つけ出すのが容易になり、必要に応じて、自由に操作することができる。

 「さて、聴覚に訴える記号と視覚に訴える記号とでどちらが好ましいかを考えてみよう。前者には、何よりもまず、それらを創出する際に、外的状況にそれほど依存しないという利点がある。さらに、音声は内的過程と相当程度に親近性をもっている、ということをとくに主張することもできる。現象形態からしても、両者に関しては、時間的な継起である。すなわち、両者は等しくつかの間のことである。とくに、音声は感情に対して形や色よりもより緊密な関係にある。その上、無限の柔軟性をもつ人間の声は、繊細この上ない感情の機微や移ろいにも即応できるのである。しかし、これらの長所が他の目的にとってどれほど価値があろうとも、それらは論理的推論の厳密さにとっては重要ではない。このように聴覚に訴える記号が理性の身体的精神的な条件にぴったりと適合するということが、まさしく、理性をこれらに一層依存させるという短所になりかねない。
 視覚的なもの、とくに形態については、事情は全く異なる。一般にそれらは鋭利に境界付けがなされ、はっきりと区分されている。書かれた記号にはこうした明確さがあるために、それらは表記されるものをより明確に示すことにもなるであろう。そして、表象に対するこのような働きこそが、推論の厳密さのためには望まれねばならない。しかし、これが達成できるのは、記号が直接的に事柄を意味する場合のみである。
 書かれたものの更なる利点は、より大きな持続性と不変性である。この点でもそれは概念本来のあり方に似ている。もちろん、それだけわれわれの実際の思考運動の絶え間ない流れとは似ていないのではあるが。文字は、多くのことを同時に現前させる可能性を提供してくれる。そして、一瞬一瞬にはたとえこれらのことをわずかの部分しか注視できないとしても、われわれはなお、残りの部分についても全般的な印象をずっともっているし、また必要なときには、これは直ちにわれわれの自由になるのである。二次元的に広がっている書記平面上の文字記号の位置関係は、一次元的に伸展している時間において単に後に続くとか先立つとかいうことよりもはるかに多様な形で、内的な諸関係を表現するのに用いることができる。そして、こうしたことによって、われわれがまさに注意を向けようと思っていることを見つけ出すのが容易になる。実際また、一次元的な系列は、思考を相互に結びつけている論理的関係の多様性に対応することは決してない。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『概念記法の科学的正当性について』52-53、フレーゲ著作集1、pp.206-207、藤村龍雄・大木島徹)
(索引:聴覚記号,視覚記号)

フレーゲ著作集〈1〉概念記法


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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