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2018年11月23日金曜日

9.二つの表明し得ぬもの:(a)何かが存在する、この世界が存在するとは、いかに異常なことであるかという驚き、(b)私は安全であり、何が起ころうとも何ものも私を傷つけることはできない、という感覚。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

二つの表明し得ぬもの

【二つの表明し得ぬもの:(a)何かが存在する、この世界が存在するとは、いかに異常なことであるかという驚き、(b)私は安全であり、何が起ころうとも何ものも私を傷つけることはできない、という感覚。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
 「正しい道は任意にあらかじめ決められた目的地に通ずる道であり、そして、このようにあらかじめ決められた目標を離れて正しい道について語るのが無意味であることはわれわれ全員にとってまったく明らかであります。

さて、「《唯一の》絶対的に正しい道」という表現でわれわれは一体何を意味することができるかを考えてみましょう。それは、《誰も》がそれを見ると《論理的必然性をもって》行かねばならないか、あるいは行かないことを恥じる道であろう、と私は考えます。

そして、同様に、《絶対的善》とは、もしそれが記述可能な状態であれば、自分の趣味とか性癖からは独立に、誰もが《必然的に》産み出す、あるいは産み出さないことに対しては罪悪感をおぼえると考えられるような状態でありましょう。

そして、このような状態は幻想である、と私は言いたいのであります。いかなる状態にも、それ自身では、絶対的審判の強制力と私が呼びたいものはありません。とすれば、われわれのうちで、私自身と同様に、「絶対的善」「絶対的価値」等々のような表現をいぜんとして使いたいという誘惑に駆られる人は皆、何を考え、また何を表現しようとしているのでしょうか。」(中略)

「さて、私が絶対的すなわち倫理的価値とはどういう意味かということに心を集中しようと思えば、私はこの状況の中におかれているのであります。

そして、私の場合には、この状況におかれると、必ずある特殊な経験が観念となって私に立ち現われてくるのですが、したがって、それはある意味において《すぐれて》私の経験であり、そして、いま皆様方に向って語りかけているときこの経験を私のまず第一の経験として利用する理由もここにあります。

(さきに述べたように、これはまったく個人的なことがらであり、他の人々はもっと顕著な例を見つけるかも知れません。)

もしできれば皆様方にこれと同じかあるいは類似の経験を想い出していただき、その結果われわれの探究に共通の基盤ができるようにするために、私はこの経験について述べることにしましょう。

この経験を述べる最善の方法と私が信ずるのは、私がこの経験をするとき《私は世界の存在に驚きの念をもつ》、と言うことであります。そして、その場合私は、「何かが存在するとはどんなに異常なことであるか」とか、「この世界が存在するとはどんなに異常なことであるか」といった言葉を使いたくなります。

さっそくもう一つの例をあげましょう―――これもまた私が知っている例ですし、他にも皆様のうちで身に憶えのある方がいらっしゃるかも知れない例であります―――それは、《絶対に安全である》と感じる経験、と呼んでよいかも知れないような経験であります。私が言おうとするのは、そうした状態におかれると人は「私は安全であり、何が起ろうとも何ものも私を傷つけることはできない」、というような精神状態であります。」


(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『倫理学講話』、全集5、pp.387-389、杖下隆英)
(索引:表明し得ぬもの,存在することへの驚き,絶対的な安全感)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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2018年7月20日金曜日

8.生の問題は、思考可能なものとしては表明され得ず、また問い得ない。我々が未解決と感じるにもかかわらず、これが解答なのである。しかし、表明し得ぬもの、神秘的な何かが存在し、それは自らを示す。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

表明し得ぬもの

【生の問題は、思考可能なものとしては表明され得ず、また問い得ない。我々が未解決と感じるにもかかわらず、これが解答なのである。しかし、表明し得ぬもの、神秘的な何かが存在し、それは自らを示す。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
(1) いやしくも考えられ得ることは全て明晰に考えられ得る。表明され得ることは全て明晰に表明され得る。
(2) 哲学は、思考可能なものを限界づける。これは、自然科学が論議可能な領域も限界づける。
(3) (2)により、思考不可能なものが限界づけられる。
 (3.1) 可能な全ての科学的な問が答えられた場合でさえ、我々の生の問題は依然として全く手を付けられないままになっている、と我々は感じる。
 (3.2) もちろん、この時には問はもはや全く残っていない。そしてまさにこれが解答なのである。生の問題の解決を人が認めるのは、この問題が消え去ることによってである。
(4) 哲学は語りうることを明晰に描出することによって、語りえぬことを意味するであろう。
 (4.1) だがしかし、表明し得ぬものが存在する。それは自らを示す。それは神秘的なものである。

 「六・五二 《可能な》全ての科学的な問が答えられた場合でさえ、我々の生の問題は依然として全く手を付けられないままになっている、と我々は感じる。勿論この時には問はもはや全く残っていない。そしてまさにこれが解答なのである。
 六・五二一 生の問題の解決を人が認めるのは、この問題が消え去ることによってである。
 (このことが、永い懐疑の末に生の意義がある人々に明らかとなった時に、彼等がこの意義がどの点に存するかを語りえなかったことの理由ではないのか。)
 六・五二二 だがしかし表明しえぬものが存在する。それは自らを《示す》。それは神秘的なものである。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『論理哲学論考』六・五二~六・五二二、全集1、p.119、奥雅博)
(索引:表明し得ぬもの)

ウィトゲンシュタイン全集 1 論理哲学論考


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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2018年6月21日木曜日

3.明晰に思考し、明晰に表明し得ることの領域を限界づけることで、自然科学が論議可能な領域も限界づけられ、また同時に、表明し得ないものの本質を、明らかにする。これが、哲学の仕事である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

哲学とは何か?

【明晰に思考し、明晰に表明し得ることの領域を限界づけることで、自然科学が論議可能な領域も限界づけられ、また同時に、表明し得ないものの本質を、明らかにする。これが、哲学の仕事である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
(1) いやしくも考えられ得ることは全て明晰に考えられ得る。表明され得ることは全て明晰に表明され得る。
(2) 哲学は、思考可能なものを限界づける。これは、自然科学が論議可能な領域も限界づける。
(3) (2)により、思考不可能なものが限界づけられる。
(4) 哲学は語りうることを明晰に描出することによって、語りえぬことを意味するであろう。

 「四・一一三 哲学は自然科学が論議可能な領域を限界づける。
 四・一一四 哲学は思考可能なものを限界づけ、これにより思考不可能なものをも限界づけねばならない。哲学は思考不可能なものを、内側から思考可能なものによって、限界づけねばならない。
 四・一一五 哲学は語りうることを明晰に描出することによって、語りえぬことを意味するであろう。
 四・一一六 いやしくも考えられうることは全て明晰に考えられうる。表明されうることは全て明晰に表明されうる。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『論理哲学論考』四・一一三~四・一一六、全集1、p.54、奥雅博)
(索引:哲学、表明し得ないもの)

ウィトゲンシュタイン全集 1 論理哲学論考


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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