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2019年11月13日水曜日

論理学によって思考の訓練をすることで、(a)曖昧な考えを明確に表現し、(b)暗黙の前提を明らかにし、(c)論理的一貫性の欠如から誤謬が発見できる。(d)また、誤った一般化を避けるための帰納論理学も必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

論理学の教育

【論理学によって思考の訓練をすることで、(a)曖昧な考えを明確に表現し、(b)暗黙の前提を明らかにし、(c)論理的一貫性の欠如から誤謬が発見できる。(d)また、誤った一般化を避けるための帰納論理学も必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 (5.3)論理学 追加


 (5.2)科学教育
   科学教育は、(a)善き生活に必要な世界の諸法則を理解させ、(b)事実と真理を把握するための科学的方法の訓練をさせ、(c)確実な知識の境界と誰に学べばよいかを教え、無知ゆえの不信と虚偽への盲信を防ぐ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
  (5.2.1)私たちがうまく活動できるかどうかは、世界についての諸法則の知識に依存している。
   (a)私たちは、生まれたときは、まだ何も知らない。
   (b)この種の知識の大部分は、それぞれの分野でこの知識の獲得を自分の一生の仕事としている少数の人々の恩恵による。
  (5.2.2)事実と真理に到達するために、知性をどう適用させるかの訓練になる。
    個々の経験からの簡単な一般化によっては、真理や事実には到達できない。例えば、政治科学は、人間がもつ諸傾向に関する仮説からの演繹結果を、個々の経験によって検証することによって事実と判断される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (a)事実を素材として、知性を道具として、真理にどのように到達するか。
    双方の意見が、証拠によってではなく、先入観によって主張されているような場合は、真に経験的な知識による基礎固めをしておかなければならない。
   (b)事実から何が証明されるか。
    (b.1)科学的実験の仕方を正確に理解すれば、自分達の意見が経験的に証明されていると、それほど簡単に確信しないであろう。
    (b.2)簡単に一般化することが、いかに確実性に乏しいことも理解するであろう。
   (c)既に知っている事実から、知りたいと思う事実に達するには、どうすればよいか。
    (c.1)単なる表面的な経験によって暗示される結論は、それがそのまま真理ではない。
    (c.2)個々の特定な経験は、推論による結論を検証するに役立つにすぎない。
    (c.3)例えば、政治科学は、人間がもつ諸傾向についての仮説から演繹された結論の、個々の特定な経験による検証によって事実と判断される。すなわち、仮説の設定は「ある意味においては、ア・プリオリ的なもの」である。
    (c.4)あるいは、人間がもつ諸傾向についての仮説から演繹された、段階的に進化するとみなされている歴史過程についての結論の、個々の特定な歴史事象による検証によって事実と判断される。
  (5.2.3)科学的真理についての基礎的な知識が、一般の人々の間に普及される必要がある。
   科学的真理についての基礎的な知識が普及しないことの弊害。
   (a)普通の人は、何が確実で、何が確実でないかが分からない。
   (b)また、知られている真理を語る資格と権威をもっているのかが誰かも知ることができない。
   (c)その結果、科学的証明に対して全く信頼をおかなくなる。(無知ゆえの不信感)
   (d)また、大ぼら吹きや詐欺師に騙されてしまうことになる。(虚偽への盲信)

 (5.3)論理学
  (5.3.1)論理学の役割
   (a)自分の考えを言葉にしてみることによって、曖昧な考えを明確な命題に書き換え、互いに絡み合った推論を、個々の発展段階に書き改めるように強要する。
   (b)暗黙の前提
    こうすることで、暗黙の前提、仮定に注意を向け、明らかにすることができる。
   (c)論理的一貫性
    また、個々の意見がそれ自体においても、また相互間においても、矛盾しないようにさせる。
   (d)誤謬の発見
    以上のようにして、自分の考えに曖昧な形で含まれていた誤りに、気づくことができる。
  (5.3.2)規則と訓練
   人間の行為は、規則を覚え訓練することにより、技能が向上する。思考の訓練も同じであり、論理学によって正しい方法を身につける必要がある。
  (5.3.3)演繹的論理学と帰納的論理学
   (a)演繹的論理学の手助けで、間違った演繹をしないようにする。
   (b)帰納的論理学の手助けで、間違った概括化を犯さないようにする。
    (i)特に人は、自分自身の経験から一般的結論を引き出そうとする際に誤る。
    (ii)また、自分自身の観察や他人による観察を解釈して、ある一般命題から他の一般命題に論を進めて行く際に容易に誤りを犯す。

 「もし諸君が自分が正しく思考しているかどうかを知りたければ、自分の考えを言葉にしてみればよいでしょう。言葉にしようとする正にその行為の過程で、自分が、意識的であれ、無意識的であれ、論理形式を用いていることに気付くでしょう。論理学は、われわれにわれわれが言わんとする意味を明確な命題に、そして推論を個々の発展段階に書き改めるように強要します。論理学は、その上に立って推論を進め、もしそれが誤りならば全過程が崩壊するような暗黙の仮定にわれわれの注意を向けさせます。論理学は、われわれに推論過程でどこまで立証すればよいのかを教え、従って、暗黙の前提を真正面から直視させ、それにわれわれが忠実に従っていかるかどうかの決定をわれわれに迫ります。論理学は、われわれの個々の意見がそれ自体においても、また相互間においても、矛盾しないようにさせ、たとえ正確に思考させるところまではできてくとも、われわれに明確に思考するように強制します。確かに、真理と同様に、誤謬もまた一貫性をもち、体系的でありうるでしょう。しかしこのようなことは一般的ではありません。自分の意見を形成する際に、当然承認しなければならない原理と帰結とを――さもなければ、自分の意見そのものを放棄せざるをえなくなるでしょう――はっきりと見定めることは、大変有益なことです。白日のもとで真理を探究すれば、われわれは真理の発見に更に一歩近づくことができます。誤謬というものは、そこに含意されている一切の事柄にまで厳しく追及の手をのばすと、必ずある既知の、公認されている事実と対立することになりますし、その結果、それが誤謬であることはほぼ確実に突きとめられることになります。
 論理学は思考の手助けにはなりえないとか、いくら規則を覚えても、ものの考え方は学べない、と言う人々に諸君はしばしば出会うことでしょう。勿論、訓練を積むことなく、単に規則だけを教えたのでは、何事においても大した進歩は期待できません。しかし、もし思考の訓練が規則を教えることによって更に一層効果的になるということがないならば、人間の行為のなかで、規則を教えることによって効果が上がらないものは、ただ思考だけであると、私は断言して憚らないでしょう。人は鋸の挽き方を、主に、練習で身につけますが、しかしその作業の性質に基づく規則があります。もしその規則を教わらなければ、それを自分で発見するまでは、上手に木を挽くことはできないでしょう。正しい方法と誤った方法がある場合には、両方の間には必ずなんらかの相違が生じるはずであり、またその相違がどんなものであるかを見付け出すこともできるはずであります。そしてその相違が一度見出され、言葉で表現されますと、それが、つまり、その作業の規則ということになります。とかく規則を軽視したがる人がいるものですが、私はその人にこう尋ねてみたい。規則のあるものならどんな仕事でもよいから、それをその規則を知らずに覚えてごらんなさい、そしてそれがうまく行くかどうかをみて下さい、と。」(中略)「演繹的論理学の手助けで間違った演繹をせずにすむように、帰納的論理学のお蔭で、更にそれ以上に一般的な誤りである間違った概括化を犯さずにすみます。ある一般命題から他の一般命題に論を進めて行く際に容易に誤りを犯すような人は、自分自身の観察や他人による観察を解釈する場合には、更にたやすく誤りを犯すものであります。論理的訓練を受けていない人々は、自分自身の経験から正しい一般的結論を引き出そうとする際に、最もあからさまに自分のどうしようもない無能ぶりを暴露します。また訓練を積んだ人々でさえ、その訓練がある特定な分野に限られ、帰納法の一般原理にまで及ばない場合には、彼らの推論を事実によってたやすく検証できる機会がない限り、誤りを犯します。有能な科学者達も、まだ事実関係が確認されていないような問題に敢えて取り組む時には、自分達の実験データから、帰納法の理論に照らせば全く根拠のないことが判明するような結論を平気で引き出したり、概括化を行ったりすることがよくあります。事実、練習だけでは、よしんばそれが適切な練習であっても、原理と規則がなければ、不充分であります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,4 科学教育,(4)論理学,pp.49-52,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:論理学,論理学の役割,暗黙の前提,論理的一貫性,誤謬の発見,帰納論理学)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

2018年8月30日木曜日

11.数学や論理学が、世界1における人間の脳の進化と自然淘汰の産物だとしても、ある論理法則の「正誤」は、世界1に具現化されている対象物や、それと相互作用する世界2の集合体を超える、別の世界に属していると思われる。(カール・ポパー(1902-1994))

物理法則と論理学の法則

【数学や論理学が、世界1における人間の脳の進化と自然淘汰の産物だとしても、ある論理法則の「正誤」は、世界1に具現化されている対象物や、それと相互作用する世界2の集合体を超える、別の世界に属していると思われる。(カール・ポパー(1902-1994))】

(b2.2)を追記。

(c1)徹底的唯物論
 世界1のみが実在する。

 時間1 世界1・P1 ⊃ 世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⊃ 世界2・M2

 (c1.1)もし、これが正しいならば、世界2での過程はすべて世界1の物理学、化学の法則に支配されているのか。しかし、たとえば数学の公理とか論理学の法則とは、いったい何なのか。これも、世界1の諸法則に従っているのか。
 (c1.2)コンピュータは、世界1の諸法則によって実現され、動作しているにもかかわらず、同時に論理的諸原理にも従っている。
 (c1.3)なぜ、(c1.2)のようなことが可能なのか。それは、コンピュータも論理学の法則も、世界3に属しているからである。参照:(b2)

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

 (b2.1)しかし、すべては物理的世界1における現象であることには、変わりないのではないか。
  (b2.1.1)進化と自然淘汰の産物として、人間の大脳が生まれた。
  (b2.1.2)環境に適応するこの過程のなかで言語活動が生まれた。
  (b2.1.3)適応的な行動を生むための思考と、適応的な推理のための性向的能力が習得された。
  (b2.1.4)やがて学校教育において、論理的思考が組織的に学習されることになった。
 (b2.2)(b2.1)が正しいとしても、ある論理法則が「正しい」とか「誤っている」という基準は、物理的世界1に具現化されている対象物や、それと相互作用する主観的経験の世界2の集合体を超える、別の世界に属していると思われる。
  (b2.2.1)たとえば、世界2における計算、または世界1に書き下した計算式、または、ある計算を行なっているコンピュータが「正しい」とか「誤っている」と言うことには、確かに意味がある。「正しい」論理法則とは、何なのか。
  (b2.2.2)「正しい」「誤っている」と言うためには、基準が必要であるが、この基準は、物理的世界1の中に具現化されているだろうか。たとえば、ある特定の論理学の書物が基準であるとか。
  (b2.2.3)あるいは、大多数の論理学者が正しいと判断するから「正しい」というような方法で、世界2の集合体が、その基準を具現化しているのだろうか。

 「I――コンピュータや大脳は誤りを犯さないのでしょうか。

 P――もちろん、コンピュータは完全ではありません、人間の大脳もまたそうです。言わずと知れたことですよ。

 I――でも、もしそうならば、あなたには世界1の中の対象に具現化または具体化されていない妥当性の基準のような、世界3の対象が必要になりますよ。《推論の妥当性》に訴えることができるためにはそれら基準が必要です。でもあなたはそのような対象の存在を否定しています。

 P――私は非物質的な世界3の対象の存在を断固否定します。しかし、私にはまだあなたの要点がよくわかったわけではないのです。

 I――私の要点はまったく簡単です。もしコンピュータや大脳が誤りを犯すことができるなら、それらは何に比べて劣っているのだろうか。

 P――他のコンピュータや大脳、あるいは論理と数学の書物の内容より劣っているのです。

 I――それらの書物は誤りを犯すことがないのでしょうか。

 P――もちろん、あります。でも間違いは稀です。

 I――それはあやしいが、そうだったとしましょう。でもまだ質問があります。もし間違いがあるなら――いいですか、それが論理的な間違いとしたら――どんな基準でそれは間違いなのですか。

 P――論理学の基準です。

 I――そのとおりです。でも、それら基準は非物質的世界3の基準ですね。

 P――それには賛成しかねます。それらは抽象的な基準ではなく、大多数の論理学者――事実、少数の過信派以外のすべて――がそのようなものとして受け入れる気になる基準や原理なのです。

 I――原理が妥当だから論理学者がその気になるのでしょうか。それとも彼らが受け入れる気になるから原理は妥当なのでしょうか。

 P――紛らわしい質問ですね。それへの明白な答え、そしてとにかくあなたの答えは、「論理的基準が妥当であるゆえに、論理学者はそれを受け入れる気になる」ということのようだ。だがこれは、私が否定する非物質的な、したがって抽象的な基準や原理の存在を認めることでしょう。

いや、私はあなたの質問に別の答えをしなければなりません。基準は、それらが存在する以上は、人々の大脳の状態や性向として存在するのです。状態や性向というのは人々に正しい基準を受け入れさせるものです。

するともちろん、あなたは次のように問うかもしれません。「《妥当な》基準以外の《正しい》基準は他にあるのだろうか、と。

私の答えは「言語行動のいくつかの仕方、あるいはいくつかの信念を他の信念と結び合わせるいくつかの仕方がその基準であり、それらの仕方は生存闘争で有用だとわかり、それゆえ自然淘汰によって淘汰されたか、またはたぶん学校教育その他で条件づけによって学ばれたものです」。

 これらの遺伝され、学習された性向は何人かの人々によって《われわれの論理的直感》と呼ばれるものです。私はそれらが(抽象的な世界3の対象と反対に)存在することを認めます。

私はまた、それらが常に信頼できるとは限らず、論理的な誤りが存在することも認めます。でもこれらの誤った推論は批判し、取り除くことができます。」

(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P3章 唯物論批判、21――J・B・S・ホールディンの唯物論反駁の一修正形式(上)pp.121-122、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月29日水曜日

10.数学とか論理学も、物理的世界における人間の脳の進化と自然淘汰の産物ではないのか。環境に適応する過程のなかで、言語が生まれ、思考が生まれ、適応的な推理のための性向的能力が習得されたのではないか。(カール・ポパー(1902-1994))

物理法則と論理学の法則

【数学とか論理学も、物理的世界における人間の脳の進化と自然淘汰の産物ではないのか。環境に適応する過程のなかで、言語が生まれ、思考が生まれ、適応的な推理のための性向的能力が習得されたのではないか。(カール・ポパー(1902-1994))】

(b2.1)を追記。

(c1)徹底的唯物論
 世界1のみが実在する。

 時間1 世界1・P1 ⊃ 世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⊃ 世界2・M2

 (c1.1)もし、これが正しいならば、世界2での過程はすべて世界1の物理学、化学の法則に支配されているのか。しかし、たとえば数学の公理とか論理学の法則とは、いったい何なのか。これも、世界1の諸法則に従っているのか。
 (c1.2)コンピュータは、世界1の諸法則によって実現され、動作しているにもかかわらず、同時に論理的諸原理にも従っている。
 (c1.3)なぜ、(c1.2)のようなことが可能なのか。それは、コンピュータも論理学の法則も、世界3に属しているからである。参照:(b2)

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

 (b2.1)しかし、すべては物理的世界1における現象であることには、変わりないのではないか。
 (b2.1.1)進化と自然淘汰の産物として、人間の大脳が生まれた。
 (b2.1.2)環境に適応するこの過程のなかで言語活動が生まれた。
 (b2.1.3)適応的な行動を生むための思考と、適応的な推理のための性向的能力が習得された。
 (b2.1.4)やがて学校教育において、論理的思考が組織的に学習されることになった。

 「P――賛成です。しかし、私は、例えば論理や数学の書物が属し、そしてもちろんコンピュータも属している《物理的》世界3の存在しか認めません。あなたの言うこの世界3は実際は世界1の部分でしかないのです。

書物やコンピュータは男の人や女の人の産物です――それらは企図されたものであり、人間の《大脳》の所産なのです。

われわれの大脳の方はというと、これは真に企画されたものとは言えません――それらは大部分自然淘汰の産物なのです。大脳は淘汰されてその環境に適応するのです。推理に関する性向的能力はこの適応の結果です。

推理はある種の言語行動と、行為し話すことへ向う素質を習得することにあります。自然淘汰から離れて、われわれの行為や反応の成功、失敗を通しての正負の条件づけもまたその役割を演じます。

学校教育も同じです。それはわれわれに働きかける教師を通しての条件づけなのです――これはコンピュータの製作に従事する設計技師にいくぶん似ています。このようにして、われわれは条件づけられて、話し、行為し、合理的または理知的に推理するようになるのです。

 I――あなたと私はいくつかの点で一致しているようだ。われわれは自然淘汰《と》個人の学習が論理的思考の進化においてその役割を果たしていることで一致しています。

そしてわれわれは、合理的または理性的な唯物論は、信頼できるコンピュータのように、十分訓練された大脳が論理学の諸原理と物理学、ならびに電気化学の諸原理に従って働くように作られている、と主張しなければならないという点で一致しています。

 P――まさにそのとおり。もしこの見解が擁護できない場合には、ホールディンの論証は実際に唯物論をくつがえすであろう、ということを認めるつもりさえありますし、またその場合、唯物論は自らの合理性を過小評価していることを認めねばならないでしょう。」
(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P3章 唯物論批判、21――J・B・S・ホールディンの唯物論反駁の一修正形式(上)pp.120-121、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:物理法則,論理学)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年8月28日火曜日

数学とか論理学は、世界3に属しており、世界2との相互作用によって新たな世界3を生成する。世界3は、物理的世界の中で実現されつつも、独自の諸法則に従って生成される。コンピュータは、分かりやすい事例である。(カール・ポパー(1902-1994))

物理法則と論理学の法則

【数学とか論理学は、世界3に属しており、世界2との相互作用によって新たな世界3を生成する。世界3は、物理的世界の中で実現されつつも、独自の諸法則に従って生成される。コンピュータは、分かりやすい事例である。(カール・ポパー(1902-1994))】

(c1)徹底的唯物論
 世界1のみが実在する。

 時間1 世界1・P1 ⊃ 世界2・M1
  ↓   ↓
 時間2 世界1・P2 ⊃ 世界2・M2

 (c1.1)もし、これが正しいならば、世界2での過程はすべて世界1の物理学、化学の法則に支配されているのか。しかし、たとえば数学の公理とか論理学の法則とは、いったい何なのか。これも、世界1の諸法則に従っているのか。
 (c1.2)コンピュータは、世界1の諸法則によって実現され、動作しているにもかかわらず、同時に論理的諸原理にも従っている。
 (c1.3)なぜ、(c1.2)のようなことが可能なのか。それは、コンピュータも論理学の法則も、世界3に属しているからである。参照:(b2)

(b2)世界3は、世界2との相互作用によって、新たな世界3を生成する。

 時間1 世界1・P1(世界3・C1⇔世界2・M1)
  │    │   │┌───┘
  ↓    ↓   ↓↓
 時間2 世界1・P2(世界3・C2⇒世界2・M2)

 「前節の終わりで述べた唯物論の論駁は、J・B・S・ホールディンによって簡潔に表現されている。ホールディン〔1932〕はそれを次のように述べる。

『……もし唯物論が正しいならば、われわれはその正しさを知ることができないように思える。もし私の持説が私の大脳で起こっている化学的過程の結果であるとすれば、それら持説は論理学の法則によってではなく、化学の法則によって決定されるのだ。』」(中略)

 「私は相互作用論者と物理主義者の対話という形式でこの修正論証を表現しよう。(I:相互作用論者、P:物理主義者)

 I――私はホールディンの論証に対するあなたの反駁を受け入れるのにやぶさかではありません。コンピュータはそのままでの論証に対する反例となります。

しかし、コンピュータは確かに物理的諸原理に従って、そして同時に論理的諸原理に従っても作動するが、それはこのように作動するように《われわれによって》――人間の《心》によって――《設計された》からである、ということを思い起こすのが肝要だと思えるのです。

実際、多量の論理的、数学的理論がコンピュータを作るのに用いられています。このことは、論理法則に従ってコンピュータが作動する理由を説明してくれます。物理法則に従うと同時に論理法則にも従って作動する物理的装置を一セット作るということは、けっして容易なことではありません。コンピュータも論理の法則もここで世界3と呼ばれるものに断固として属しているのです。」

(カール・ポパー(1902-1994)『自我と脳』第1部、P3章 唯物論批判、21――J・B・S・ホールディンの唯物論反駁の一修正形式(上)pp.118-120、思索社(1986)、西脇与作・沢田允茂(訳))
(索引:唯物論,物理法則,論理学の法則)

自我と脳


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

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2018年7月15日日曜日

思考を構成する言語と文法は、論理的なものと、表象や感情など心理的なものとの混合体である。これは、複数の異なる言語の比較から明確になる。また、純粋に論理的な形式言語や概念記法の有益性も教える。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

論理的なものと心理的なものの混合体

【思考を構成する言語と文法は、論理的なものと、表象や感情など心理的なものとの混合体である。これは、複数の異なる言語の比較から明確になる。また、純粋に論理的な形式言語や概念記法の有益性も教える。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】

(1) 我々は、ある特定の言語で考えている。
 (1.1) 思考には、表象及び感情と混ざり合っている。
 (1.2) 我々には、表象なしで思考するということは、明らかに不可能である。
(2) 文法とは、何か。
 (2.1) 文法は、論理が判断に対するのと類比的な重要性を、言語に対して持っている。
 (2.2) 文法は、論理的なものと心理学的なものとの混合体である。
(3) 論理学は、文法から論理的なものを純粋に取り出すことを課題とする。
 (3.1) 我々は、同じ思想を様々な言語で表現することができるが、異なる言語には、異なる心理学的な装飾が、しばしば纏わりついている。
 (3.2) 外国語を習うことは、言語の違いによる心理学的な装飾を理解させるとともに、純粋に論理的なものの把握にも役に立つ。
 (3.3) 私が提案した数学における形式言語や、概念記法のような根本的に違った方法で、純粋に論理的な方法で思想を表現することができるなら、有益であろう。

(再掲)
(a)記号の意義、意味と、記号に結合する表象
 記号─→一つの意義─→一つの意味
 │         (一つの対象)
 └記号に結合する表象
  ├記号の意味が感覚的に知覚可能な対象のときは
  │ 私が持っていたその対象の感覚的印象
  └対象に関連して私が遂行した内的、外的な行為
    から生成する内的な像
(b)記号に結合する表象の特徴
 ・像には、しばしば感情が浸透している。
 ・明瞭さは千差万別であり、移ろいやすい。
 ・同一の人物においてすら、同一の表象が同一の意義に結び付いているとは限らない。
 ・一人の人物が持つ表象は、他の人物の表象ではない。

 「元来人間にとって、思考は表象及び感情と混ざり合っている。論理学は、論理的なものを純粋に取り出すことを課題とするが、しかし、もちろんだからといって我々が表象なしで思考するということ―――これは明らかに不可能である―――にはならない。我々は意識的に論理的なものと、論理的なものに観念や感情というかたちでで結び付いているものとを区別しなければならないのである。ここには、我々がある言語で考えているという困難、ならびに、文法―――それは論理が判断に対するのと類比的な重要性を言語に対して持っている―――が論理的なものと心理学的なものとの混合体であるという困難が存在する。もし、そうでないとするならば、すべての言語は必然的に同じ文法を持つことになろう。確かに我々は同じ思想を様々な言語で表現することができるが、しかし、心理学的な装飾、思想の衣服は異なることがしばしばある。外国語を習うことが論理的な教育として役立つ理由はここにある。同じ思想を異なった言語で表わせることを知ることで、どのような言語においても外皮と有機的に結び付いている言語の芯と、その外皮とを区別することがよりよくできるようになるのである。このようにして言語の間の違いが、論理的なものの把握に役に立つ。だが、それでもなお、困難が完全に取り除かれるわけではないし、論理学の本は、厳密に言えば論理とは関係のない数多くの事柄―――例えば、主語ー述語―――を相も変わらず持ち出している。それゆえ、算術における形式言語や私の提案した概念記法のような、根本的に違った方法で思想を表現することに慣れることも有益なのである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学[二]』154、フレーゲ著作集4、p.139、関口浩喜・大辻正晴)
(索引:言語,文法,論理学,思考,表象,感情,概念記法,形式言語)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年6月19日火曜日

「真であることの法則」と論理法則は、人がそれを「真とみなす」かどうかの心理法則ではなく、何か動かしがたい永遠の基礎に依存しているに違いない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

真理と論理法則

【「真であることの法則」と論理法則は、人がそれを「真とみなす」かどうかの心理法則ではなく、何か動かしがたい永遠の基礎に依存しているに違いない。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
(1) 論理法則は、「真とみなす」ことに関する心理法則ではない。論理法則が真であることは、以下のすべての状況と矛盾するものではない。それは、「真であることの法則」である。
 (a) 全ての人によって真とみなされる。
 (b) 多数の人によって真とみなされる。
 (c) 一人の人によって真とみなされる。
 (d) 全ての人によって偽とみなされる。
(2) 真であることは、誰かによって承認されるということに依存しない。従って、「真であることの法則」も、心理法則ではない。
(3) 我々の思考が、「真であることの法則」を逸脱することはあり得るとしても、その法則は何か「動かすことのできない永遠の基礎」を持っているに違いない。
 「真理は、一人によってであれ多数のひとによってであれ、すべてのひとにおいてであれ、真と見なされることとは何か別のことであり、真と見なされることには決して還元できない、と。真であるということは、すべてのひとによって偽と見なされることとはなんら矛盾しない。私は論理法則を、真と見なすことに関する心理法則ではなく、真であることの法則であると解する。戸外で風がうなっている間に私はこれを一八九三年七月一三日に私の部屋で書いているということが真であるならば、すべての人間がそれを後刻偽と見なしたとしても、それは真であり続ける。もしこのように真であることが誰かによって承認されるということに依存しないのならば、真であることの法則もまた心理法則ではないのであり、それら[真であることの法則]は、我々の思考が[それを]逸脱することがありうるとしても、動かすことのできない永遠の基礎のうちに境界石を固定しているのである。真であることの法則はこうしたものであるが故に、我々の思考が真理に到達しようとする場合に、それら[の法則]は我々の思考にとって規準となるのである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『算術の基本法則』序言 XVI、フレーゲ著作集3 、pp.18-19、野本和幸)
(索引:真理、論理法則)

フレーゲ著作集〈3〉算術の基本法則


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

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2018年5月9日水曜日

12.意志において理性の力を助ける方法:(1)巧妙な詭弁を、論理学の力で見破る。(2)激烈な感情に十分に対抗できるような想像、印象を、弁論術の力で理性の判断から仕立てる。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

意志において理性の力を助ける方法

【意志において理性の力を助ける方法:(1)巧妙な詭弁を、論理学の力で見破る。(2)激烈な感情に十分に対抗できるような想像、印象を、弁論術の力で理性の判断から仕立てる。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】
 意志は理性による支配から、3つのものに妨害されている。
(a1) 巧妙な詭弁:論理学に関係のある罠で、まちがった推論によって理性は罠をかけられる。
(b1) 激烈な情念と感情:道徳哲学に関係し、我を忘れさせられる。
(c1) しつこい想像、印象:弁論術に関係のある罠で、印象あるいは所見にまといつかれる。
 意志を、理性の命ずる方向に動かすにあたっては、どうすれば良いか。すなわち理性の命令を、想像力に受け入れさせるには、どうすれば良いか。
(a2) 論理学の力をかりて巧妙な詭弁を見破り、理性を確実にする。
 理性は未来と時間の全体とを見るという点で、情念とは異なる。
(b2) 感情そのものにも、つねに、善への欲求がある。
(c2) ところが、感情は現在だけを見るので、未来と時間の全体とを見る理性よりも、いっそう多く想像力をかきたて、理性はふつう負かされてしまう。
 そこで、
(c3) 弁論術の力をかりて雄弁と説得とで、理性が命ずるもの、例えば未来の遠いものを現在のように見えさせてしまえば、そのときは想像力が、現在だけを見ている感情から、理性のほうへ寝がえり、理性が勝つ。

 「弁論術の任務と役目は、意志を理性の命ずる方向にいっそうよく動かすために、理性の命令を想像力にうけいれさせることである。

現に、理性はその支配を三つのものによって妨害されているからである。三つのものとは、論理学に関係のあるわなあるいは詭弁と、弁論術に関係のある想像あるいは印象と、道徳哲学に関係のある情念と感情とである。

そして他人との折衝の場合、人間は巧妙な手としつこい要求と激烈さとによって左右されるように、内心における折衝の場合も、人間は、まちがった推論によって根底をくずされ、印象あるいは所見にしつこくまといつかれ、情念のために我を忘れさせられる。

といっても、人間の本性はそれほど できそこなってはいないので、あの三つの能力と技術は、理性をかき乱して、それを確立し高めないような力をもっているわけではない。

というのは、論理学の目的は、立論の形式を教えて理性を確実にすることであって、理性をわなにかけることではなく、道徳哲学の目的も、感情を理性に従わせることであって、理性の領域を侵させることではなく、弁論術の目的も、想像力をみたして理性を補佐することであるからである。」(中略)

「なおまた、もしも感情それ自身が御しやすくて、理性に従順なものであったら、意志に対する説得と巧言などを用いる必要は たいしてなく、ただの命題と証明だけで十分であろうが、しかし、感情がたえず むほんをおこし扇動する、
 「よいほうの道はわかっており、そのほうがよいと思う。
  しかし、わたしはわるいほうの道をたどる」〔オウィディウス『変身譚』七の二〇〕
のをみると、もし説得の雄弁がうまくやって、想像力を感情の側からこちらの味方に引き入れ、理性と想像力との同盟を結んで、感情と対抗しなければ、理性は捕虜と奴隷になるであろう。

というのは、感情そのものにも、理性と同じように、つねに、善への欲求があるが、感情は現在だけを見、理性は未来と時間の全体とを見るという点で異なり、そしてそれゆえ、現在のほうがいっそう多く想像力をみたすので、理性はふつう負かされてしまうからである。

しかし、雄弁と説得との力が未来の遠いものを、現在のように見えさせてしまえば、そのときは、想像力の寝がえりで、理性が勝つのである。」

(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第二巻、一八・二、一八・四、pp.249-252、[服部英次郎、多田英次・1974])
(索引:論理学、道徳哲学、弁論術、詭弁、情念、感情、想像、印象)

学問の進歩 (岩波文庫 青 617-1)


(出典:wikipedia
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


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2018年5月8日火曜日

8.推論式による通常の論理学がすべての学問に適用できるように、帰納法も、自然哲学だけでなく、残りの諸学、論理学・倫理学・政治学についても、適用される。(フランシス・ベーコン(1561-1626))

帰納法の適用範囲

【推論式による通常の論理学がすべての学問に適用できるように、帰納法も、自然哲学だけでなく、残りの諸学、論理学・倫理学・政治学についても、適用される。(フランシス・ベーコン(1561-1626))】

 「また人は次のように反対する、というよりむしろ疑いもするであろ、果して我々は自然哲学だけについて言うのか、それとも残りの諸学、論理学・倫理学・政治学についても、我々の方法で行なわるべきだと語っているのかと。

ところでたしかに我々は、言われたことはすべてについてであると解しており、そして事物を推論式で支配する通常の論理学が、単に自然的のみならずすべての学に及ぶごとく、「帰納法」によって進行する我々の論理学も、一切を包括するわけである。

というのは我々は怒り・恐れ・恥じらいその他同様のものについて、また政治的事例についても、〔自然〕誌および発見表を作り上げるし、また、寒熱や光や植物の生育等について劣らず、記憶・合成および分割・判断その他の精神的働きについても同様である。

とは言え我々のいう「解明」の仕方は、誌が用意され整序された後には、(通常の論理学のように)単に精神の働きおよび運びを見るだけではなく、事物の本性をも考察するのであるから、我々は精神をばあらゆる点で適切な仕方で、事物の本性に適用されるように指導する。」

(フランシス・ベーコン(1561-1626)『ノヴム・オルガヌム』アフォリズム 第一巻、一二七、p.191、[桂寿一・1978])
(索引:論理学、倫理学、政治学、帰納法)

ノヴム・オルガヌム―新機関 (岩波文庫 青 617-2)



(出典:wikipedia
フランシス・ベーコン(1561-1626)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「不死こそ、子をうみ、家名をあげる目的であり、それこそ、建築物と記念の施設と記念碑をたてる目的であり、それこそ、遺名と名声と令名を求める目的であり、つまり、その他すべての人間の欲望を強めるものであるからである。そうであるなら、知力と学問の記念碑のほうが、権力あるいは技術の記念碑よりもずっと永続的であることはあきらかである。というのは、ホメロスの詩句は、シラブル一つ、あるいは文字一つも失われることなく、二千五百年、あるいはそれ以上も存続したではないか。そのあいだに、無数の宮殿と神殿と城塞と都市がたちくされ、とりこわされたのに。」(中略)「ところが、人びとの知力と知識の似姿は、書物のなかにいつまでもあり、時の損傷を免れ、たえず更新されることができるのである。これを似姿と呼ぶのも適当ではない。というのは、それはつねに子をうみ、他人の精神のなかに種子をまき、のちのちの時代に、はてしなく行動をひきおこし意見をうむからである。それゆえ、富と物資をかなたからこなたへ運び、きわめて遠く隔たった地域をも、その産物をわかちあうことによって結びつける、船の発明がりっぱなものであると考えられたのなら、それにもまして、学問はどれほどほめたたえられねばならぬことだろう。学問は、さながら船のように、時という広大な海を渡って、遠く隔たった時代に、つぎつぎと、知恵と知識と発明のわけまえをとらせるのである。
(フランシス・ベーコン(1561-1626)『学問の進歩』第一巻、八・六、pp.109-110、[服部英次郎、多田英次・1974])(索引:学問の船)


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2018年1月14日日曜日

問題:諸公理と推論規則による演繹体系である数学は、なぜ、大規模な同語反復に帰しないのであろうか。この豊かな諸成果は、何からもたらされるのか?(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))

数学の豊かさの由来

【問題:諸公理と推論規則による演繹体系である数学は、なぜ、大規模な同語反復に帰しないのであろうか。この豊かな諸成果は、何からもたらされるのか?(アンリ・ポアンカレ(1854-1912))】
 数学の豊かな諸成果は、いったい何からもたらされるのだろうか。数学の諸定理が、推論全部の根源にある諸公理をもとにして、形式論理学の規則によって次から次へと引き出すことができるのならば、どうして数学は大規模な同語反復に帰しないのであろうか。これら諸公理と推論規則の由来が、仮に実験的事実のようなものとして理解することができたり、あるいは、人間の認識が従わざるを得ない「先天的総合判断」のようなものとして理解することができたとしても、この数学の豊かな生産性は、依然として謎なのである。
 「数学についてはその可能性からしてすでに解けない矛盾であるように思われる。もし数学が演繹的なのはただ見かけに過ぎないならば、だれも夢にも疑おうとしないこの完全な厳密性はどこから来るのか。もし反対に数学で述べられている命題全部が形式論理学の規則によって次から次へ引き出すことができるならば、どうして数学は大規模な同語反復に帰しないのであろうか。三段論法は我々に何も本質的に新しいことを教えることはできないし、もしすべてが同一律から出てくるべきものだとすれば、すべてはまたそこに帰着するはずである。それではこんなに多くの書物を満たしている定理の全部の叙述は「AはAである」というのを、まわりくどい方法でいったものに過ぎないということを承認するものがあるだろうか。
 もちろん推論全部の根源にある公理にまでさかのぼることはできる。もし公理を矛盾律に帰着させることができないと判断し、そのうえそれを数学的必然性を持ち得ない実験的事実と認めることを欲しないとしても、なおこれらの公理を[カントのいう]先天的総合判断のうちに入れるというくふうもある。これはその困難を解決するものではなく、ただ名前をつけただけである。そのうえ総合判断の本性が我々にとって少しも神秘的でないとしたところで、矛盾は消滅するわけでなくて、あとじさりさせただけのことになる。三段論法的推論はそこに持ち出された材料に何一つ付け加えることができずにいるし、その材料はいくつかの公理に帰着するのだから、その結論のうちには別のものは何も発見できないはずである。」
(アンリ・ポアンカレ(1854-1912)『科学と仮説』第1章、1、pp.20-21、河野伊三郎(訳))
(索引:公理、論理学、同語反復、推論規則、先天的総合判断)

科学と仮説 (岩波文庫)





アンリ・ポアンカレ(1854-1912)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia

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