ラベル 身体の記号としての精神 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 身体の記号としての精神 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2018年9月7日金曜日

3.意識無しに多くの驚異的なことが成就されていること、また精神的なものの狭量さ、不充分さ、誤謬とを考えると、精神的なものは身体の道具、身体の記号であることがわかる。価値判断や道徳も、再考が必要だ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

身体の記号としての精神

【意識無しに多くの驚異的なことが成就されていること、また精神的なものの狭量さ、不充分さ、誤謬とを考えると、精神的なものは身体の道具、身体の記号であることがわかる。価値判断や道徳も、再考が必要だ。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】

(1)意識
 (1.1)意識は、私たちに最も近いもので、最も親密なものである。
(2)身体
 (2.1)多くの組織が同時に働いており、この働きにおける諸々の義務や権利の戦いの調停には、実に多くの繊細さが存在している。
 (2.2)偉大なことや驚異的な多くのことが、意識なしで成就されている。
(3)疑問
 (3.1)なんと僅かのものしか、私たちには意識されないことか。
 (3.2)精神は、何か貧しくて狭いもの、近似的にしか充分でない。また、この僅かのものが、誤謬へと、また取り違えへと導き、しばしば欠陥のある仕事をする。
 (3.3)私たちが、最も親密な精神を、身体より重要なものとみなすのは、古い先入観なのではないか。
(4)結論。
 (4.1)精神は、最後に発生した器官であって、最も必要な道具でも、最も感嘆すべき道具でもない。まだ子供なのだ。一切の「意識されたもの」は、二番目に重要なものにすぎない。
 (4.2)精神的なものは、まさに一つの道具であり、身体の記号とみなされるべきものである。
 (4.3)人間の精神と行為に関する価値判断や道徳も、この事実に基づいて再考されねばなららない。

 「いくらかでも身体について―――いかに多くの組織がそこでは同時に働いているか、いかに多くのことがたがいに助けあったり背きあったりするかたちで行なわれているか、いかに多くの繊細さが調停等々のはたらきのうちに現存するかを―――思い浮かべた者は、一切の意識が、これに比較すれば、何か貧しくて狭いものであり、いかなる精神も、ここで成就されうるでもあろう精神的なことには、近似的にしか充分ではなく、そしておそらくはまた、最も賢明な道徳の教師や立法者も、もろもろの義務や権利の戦いのこの活発な営みのただなかでは、おのれが無骨で初心者めいていると感じざるをえないことだろうと、判断するであろう。

なんとわずかしか私たちには意識されないことか! なんとはなはだしくこのわずかのものが、誤謬へと、また取り違えへと導くことか! 意識はまさに一つの《道具》なのである。

そして、なんと多くのことや偉大なことが意識なしで成就されるかを考慮すれば、それは最も必要な道具でも、最も感嘆すべき道具でもないのだ、―――反対に、それほど発達しそこねた器官は、それほどしばしば欠陥のある仕事をする器官は、おそらくないであろう。

意識はまさに最後に発生した器官なのであって、それゆえまだ子供なのだ、―――私たちは意識にその《児戯》を赦してやろうじゃないか! こうした児戯には、多くの他のもののほかに、人間たちの行為と心術とに関するこれまでの価値判断の総計としての、《道徳》が属する。

 それゆえ私たちは位階を逆転させなくてはならない。一切の「意識されたもの」は《第二の重要なもの》にすぎないのだ。それが私たちに《いっそう近くいっそう親密で》あるということは、それを別様に査定するためのいかなる根拠、少なくともいかなる道徳的な根拠でもないであろう。

私たちが《最も近いもの》を《最も重要なもの》とみなすのは、まさに《古い先入見》なのだ。―――それゆえ《学び直す》ことだ! つまり主要な評価において! 精神的なものはあくまで《身体》の記号とみなされるべきなのだ!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅱ道徳哲学 七二九、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.358-359、[原佑・吉沢伝三郎・1994]
) (索引:意識,身体,身体の記号としての精神)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
ニーチェの関連書籍(amazon)
検索(ニーチェ)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

心理学ランキング
ブログサークル

人気の記事(週間)

人気の記事(月間)

人気の記事(年間)

人気の記事(全期間)

ランキング

ランキング


哲学・思想ランキング



FC2