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2020年6月11日木曜日

12.科学者・技術者は,組織的な仕事に携わることで,個人的な意図がどうであれ,ある特定の社会的な役割を担わされる.その仕事の意味,社会に与える影響がどれほど重大なものであっても,推進力は科学者の純粋で私的な探究心なのである.(高木仁三郎(1938-2000))

探究心と社会的責任

【科学者・技術者は,組織的な仕事に携わることで,個人的な意図がどうであれ,ある特定の社会的な役割を担わされる.その仕事の意味,社会に与える影響がどれほど重大なものであっても,推進力は科学者の純粋で私的な探究心なのである.(高木仁三郎(1938-2000))】

(4)影響の巨大化と研究の私的性格との間の矛盾
 (4.1)研究結果の影響の巨大化
  (a)科学上の発明・発見の影響が、人類全体の歩みを変えかねないほどの影響を持つようなことがある。
 (4.2)一つの構造の中で担わされる役割
  (a)研究は単一目標に向かって組織化され、研究者たちは巨大な機械の一部品・歯車の一コマというべき存在となった。
  (b)科学者の意図がどうであれ、ひとつの構造の中である役割が担わされる。
 (4.3)人間の好奇心、探究心と研究の私的性格
  (a)研究の推進力は「人々を夢中にさせずにはおかない」科学研究の性格に由来する。
  (b)プロジェクトの成否は、研究者個々人のすぐれて私的な研究への没入に多く依存している。そしてその没入は、科学者の視野を狭め、人間としての全体を矮小化してしまう。
  (c)その矮小化は、科学者をいっそう純化した「専門家」に育てあげていく。

 「科学研究という点からみれば、原爆の「成功」を生み出したのは、国家的規模の科学者の集中と豊富な資金であった。さらにその集中を可能にしたものを探れば、フェルトのいう「人々を夢中にさせずにはおかない」科学研究の性格と、ナイーブそのものともいえる科学者たちの目的意識に大いに関係しているように思われる。

 ほかならぬシラードについてもう一度考えてみよう。シラードこそ、原爆の示すであろう破壊性・残忍性にもっとも早くから気づき、ナチスと結びつけて考えていた数少ない人であった。「反ナチズム」としてのマンハッタン計画への関与は、その後、ヒトラー・ドイツの降伏に際して、トルーマン大統領に日本に対する原爆不使用を請願したことにみられるように、きわめて一貫したものであった。そのことに疑う余地はない。

しかし、シラードを原爆へと結びつけたのは、明らかにそのことだけではない。

 いち早く連鎖反応に着目し、「特許」をとり、核分裂が知れるや、ただちにこの現象と連鎖反応を結びつけるべく実験にとりかかったシラードをつき動かしたのは、やはり科学者的な探究心であった。

彼が探究を進めれば進めるほど、一方で彼は「世界が災厄に向かって進む」ことをますます強く認識し、でありながら、ますますその研究に没頭していった。

一見矛盾したようにみえるこの行動は、科学者にとってはごく一般的なものであったろう。いったん開け始めた扉を、開け切る前に「災厄の予感」によって閉じてしまうような自制は、科学と科学者にとってもっとも苦手とするところだ(このことは、「遺伝子工学の時代」を迎えつつある現在、すぐれて教訓的である)。

 マンハッタン計画を転換点として、科学は国家的な営為となり巨大化した。研究は単一目標に向かって組織化され、研究者たちは巨大な機械の一部品・歯車の一コマというべき存在となった。

なおかつ、そのプロジェクトの成否は、研究者個々人のすぐれて私的な研究への没入に多く依存している。そしてその没入は、科学者の視野を狭め、人間としての全体を矮小化してしまう。

逆にまた、その矮小化は、科学者をいっそう純化した「専門家」に育てあげていく。そこに原爆開発がほとんど無批判的に科学者たちに担われた理由をみておくことは、いまという時代にとくに重要だろう。

 私は、その後もパグウォッシュ会議で活躍したシラードの平和主義を疑っていない。だが、問題は個人の評価の問題ではない。シラードの意図がどうであれ、ひとつの構造の中でシラードが担わされ、演じた役割は、原爆づくりの一科学者としてのそれだった。

そのことを個人的に責めているのではない。皆がその意識もなしに非人道的プロジェクトにまきこまれ、没入した、そういうシステムとして、今のその可能性を十分に秘めたシステムとしての科学のとらえなおしが、どうしても必要なはずである。

にもかかわらず、そういった作業が決定的に欠如しているように思える(こういった点検の作業がもちこまれようとすると、科学への中傷として、科学者集団が拒否感を示すことが、議論を不毛にしている)。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第六巻 核の時代/エネルギー』核時代を生きる 第2章 歴史の教訓(一)、pp.55-56)
(索引:)

核の時代・エネルギー (高木仁三郎著作集)


(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
高木仁三郎の本(amazon)
検索(高木仁三郎)
ニュース(高木仁三郎)
高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
原子力市民委員会(2013-)
原子力市民委員会
Citizens' Commission on Nuclear Energy
原子力市民委員会 (@ccnejp) | Twitter
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10.政治は科学を利用し,都合が悪ければ切り捨てる.いかに名声があり偉大な科学者であっても,国家レベルの政治に影響を与え得た科学者はいなかった.それが可能なのは,普通の人々の幅ひろい運動と世論に支えられた場合だけである.(高木仁三郎(1938-2000))

政治と科学

【政治は科学を利用し,都合が悪ければ切り捨てる.いかに名声があり偉大な科学者であっても,国家レベルの政治に影響を与え得た科学者はいなかった.それが可能なのは,普通の人々の幅ひろい運動と世論に支えられた場合だけである.(高木仁三郎(1938-2000))】

 「バーンスタインの指摘を待つまでもなく、シラードたちが最初に原爆について提言し(「アインシュタインの手紙」)、それが政府にいれられたと信じ、その後もその種の意志の伝達が政府(政治)に対して科学(者)の側から可能だと考えていたら、それはあまりにナイーブにすぎるというものだろう。

 実際問題としても、シラードたちが原爆の不使用を一九四五年五月にトルーマン大統領に請願したとき、請願は簡単に無視された。バーンスタインはいう。

 「そして当初から、ローズヴェルトとかれの側近は、原爆が正当な兵器であり、それが開発できる場合には使用されるであろうということを当然の前提としていたのです。攻撃目標は、日本に変えられることになりましたが、変更にさいしてはこれといった再検討は行われませんでしたし、いささかのためらいも疑念も熟考もなく、いわんや苦悩をともなうものではありませんでした」(『原爆投下と科学者』)

 つまり、権力者(政治の側)は科学者(科学の側)の提言を、みずからに都合のよい情報としては利用するが、都合が悪ければいつでも切り捨てる。政治の側からみれば、最初からそのようなものとして、プロジェクトが組織され、科学者を組みこんでいったのであって、主-従の関係ははっきりしていた。

 ボーアに起こったことも同じ文脈で考えられよう。世界の科学者の代表ともいえたニールス・ボーアは、四四年七月にルーズベルトとチャーチルに手紙を送り、米英ソ三国による原子力の国際管理を訴えた。しかし、これもまったく無視された。ボーアがいかに偉大な科学者であり、人格者であっても、そのことによって政治の側が影響されることはなかった。

 原爆開発から現在にいたるまで、科学者たちの一連の行動には、とくにそれが著名で、科学上の業績がある科学者を含むものであれば、なお強く、政治(家)や権力(者)に対して影響力をもっていると信じこんだナイーブさがうかがえる。

しかしそれは、すでにマンハッタン計画で破産した行動パターンであり、歴史から否定的な教訓をうるべきことがらだった。科学者たちがある場合に、署名や請願、アピールなどを通じて政治に影響を与えたのは、あくまで大衆的な運動の背景があり、広範な大衆の意向が、科学者たちに反映されただけのことである。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第六巻 核の時代/エネルギー』核時代を生きる 第2章 歴史の教訓(一)、pp.56-57)
(索引:)

核の時代・エネルギー (高木仁三郎著作集)


(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
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高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
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2020年5月13日水曜日

7.核技術は,まだ技術とは言えない。なぜなら,原子力の火は,つけることはできるが消せない火だからだ。寿命の長い放射能を寿命の短いものにするとか,放射能のないものに変えてしまうという試みは成功していない。(高木仁三郎(1938-2000))

消せない火

【核技術は,まだ技術とは言えない。なぜなら,原子力の火は,つけることはできるが消せない火だからだ。寿命の長い放射能を寿命の短いものにするとか,放射能のないものに変えてしまうという試みは成功していない。(高木仁三郎(1938-2000))】

 「この火を人工的に何とか消してしまおうという試みはありました。

例えば、ある他の核反応をさらに起こさせて寿命の長い放射能を寿命の短いものにしてしまう。そして寿命の短いものにしておいてしばらく待っていると死んでくれるだろうと、或いは放射能のないものに変えてしまうという、錬金術のような事の試みがありましたが、いろいろやっても結局旨くいかない。

つ放射能を消したかと思うと別の放射能が出来てしまう、もぐらたたきのような事をやっていましたね。結局旨くいかない。結局寿命の非常に長い放射能が残ってしまいます。」(中略)

「その消せない火を作り出すという事は、したがって人間がエネルギーの技術を手にしたという事にはならない。

人間がある火を手にしたというのは、その火を付けたいときに付けられるし、消したいときには消せるという事でないといけない。原子力の火は、付けたいときには付けられるようにはなったけれども、消したいときには消せるという点ではまったくこれ零です。出来ない。

そうである以上、これは完成された技術でもないし、人間が頼るべき技術でもない。私はそういう観点から今は確信を持って反対をする。これは事故があってもなくても駄目だと私は思っている。

そのうえに事故というのは人間のやる事ですから起こり得る事です。

チェルノブイリがなくても私はこれは原理的に駄目だと思っています。反対をしなくては、どこかでこの残った消せない火がかならず将来の世代を苦しめる事になると思います。私たちの時代に事故が起こらなかったとしてもね。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第六巻 核の時代/エネルギー』核と人間、pp.380-381)
(索引:点火できるが消せない火)

核の時代・エネルギー (高木仁三郎著作集)


(出典:高木仁三郎の部屋
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 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
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高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
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