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2020年5月22日金曜日

他人に直接的損害を与えない自由な行為でも,間接的な影響はあり,別評価が必要だ. たとえそれが"よい行為"とされても,間接的な損害の危険が明確なときは,特段の事情がない限り,他人への配慮が道徳や法の対象となり得る.(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

他人へ間接的に及ぼす影響

【他人に直接的損害を与えない自由な行為でも,間接的な影響はあり,別評価が必要だ. たとえそれが"よい行為"とされても,間接的な損害の危険が明確なときは,特段の事情がない限り,他人への配慮が道徳や法の対象となり得る.(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
(2.3.4)追記。

  (2.3.3)本人を通じて間接的に受ける影響について
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、一般的に、本人に影響があることは、間接的には本人を通じて他人に影響を与え得る。
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、家族への被害は? 頼っている人への被害は? また、社会全体としてみると害悪があるのでは? 他の人が真似をしてしまうような悪影響は?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (a)家族への被害は?
    誰でも、自分に深刻な害か、取り返しのつかない害のあることをすれば、少なくとも家族には被害が及ぶだろう。
   (b)頼っている人への被害は?
    自分の財産を減らせば、その財産に直接にか間接にか頼って生活している人が打撃を受けるだろう。
    (b.1)自分の財産の浪費自体は、非難や処罰の対象ではない。
    (b.2)その結果、人に打撃を与えたこと自体は、非難や処罰の対象になり得る。これは、浪費が悪い目的のためか、良い目的のためかには拠らない。
   (c)社会全体にとっての害悪は?
    自分の身体か頭の能力が低下すれば、幸せのある部分でその人に頼っている人たちに被害を与えるうえ、社会全体の役に立つ仕事をすべきなのにそれができなくなり、おそらくは逆に社会の愛情と慈悲に頼るようにすらなるだろう。
   (d)他の人が真似をしてしまうような悪影響は?
    悪徳や愚行によって他人に直接に被害を与えないとしても、悪い実例を示して社会に害悪を流すことになるので、その人の行動を見聞きした人が堕落か誤解をしないように、自制を強制されるのが当然である。
   (e)本人を社会が保護すべきではないのか?
    直接影響を与えるのが本人のみであっても、社会が保護すべきという考えは間違っているのか? また、明らかに社会にとって不都合と思われることは、可能な範囲で最小限、禁止してもよいのではないか?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
    子供や成年に達していない若者は明らかに、本人の意思を無視しても社会が保護すべきだというのであれば、大人になって自分を律することができない人も、社会が保護すべきではないのだろうか。
   (f)明らかに社会にとって不都合と思われること
    賭博や飲み過ぎ、淫乱、怠惰、不潔が、法律で禁止されている行為の多くと変わらないほど不幸をもたらし、進歩を妨げるのであれば、実行が可能な範囲で、そして社会にとって不都合にならない範囲で、法律でこれらを抑制してはならないという理由があるのだろうか。
  (2.3.4)周囲の人たちのために自分自身に配慮すべきなのに、そうしなかったことで周囲の人たちへの義務を果たせなかったときには、道徳の問題になり非難の対象となる。
   (a)本人の行為と、その結果を分けて考えること
    直接には他の人々に影響がない行為は、本人の自由の領域である。しかし、間接的に他の人々に損害を与えるなら、その結果に対しては道徳や法の問題となる。これは、原則的には分けて考える必要がある。特に、他人に直接影響がないとされる行為が、良い行為だと見なされている場合も、結果の責任については、分けて考える必要がある。
   (b)間接的な影響とはいえ、損害を及ぼす明らかな危険がある場合
    他人や社会へ損害を与える危険が明らかにあった場合には、それを配慮しないことは、自由の領域での問題ではなくなり、道徳か法の領域の問題になる。
   (c)自己の緊急の義務あるいは自由が許容される特別な事情
    他人の利益と感情に対して通常払うべき配慮を怠った人は、もっと緊急の義務を果たすためか、許容される範囲で自分の好みを優先したという事情がない限り、配慮を怠ったという点で道徳という観点からの非難の対象になる。

 「以上のような主張に対して、わたしはこう答える。ある人の行動によって本人が深刻な打撃を受けたとき、同情心と利害とによって周囲の人たちも深刻な影響を受ける場合があるし、社会全体もある程度の影響を受ける場合があることは十分に認める。この種の行動の結果、その人が他人に対する明確で具体的な義務を怠った場合、その事例は個人のみに関係する問題ではなくなり、言葉の本来の意味での道徳の問題、つまり社会道徳の問題になり、道徳に基づく非難の対象になる。たとえば、酒におぼれるか浪費にふけったために借金を返せなくなるか、家族に対する責任があるのに、家族を養い教育することができなくなれば、その人は非難を受けて当然であり、さらに、処罰を受けて当然だという場合もあるだろう。だが、非難や処罰は家族や貸し手に対する義務を怠ったことに対するものであって、浪費に対するものではない。家族や貸し手への義務を果たすために使うべきだった資金を、とりわけ賢明な投資に流用したとしても、道徳に反する行動であることには変わりはない。ジョージ・リローの戯曲『ロンドンの商人』で、主人公のジョージ・バーンウェルは愛人のための金が欲しくて叔父を殺したが、事業をはじめる資金が欲しかったのだとしても、やはり絞首刑になったはずだ。悪習に夢中になって家族が苦しむというのはよくあることだが、この場合にも非難されるべきは家族を大切にせず、親の恩を忘れている点である。そして、夢中になっているのがとくに悪い習慣ではなくても、そのために生活している家族や、個人的につながりがあってその人に頼って生活している人が苦しむのであれば、やはり非難されるべきである。他人の利益と感情に対して通常払うべき配慮を怠った人は、もっと緊急の義務を果たすためか、許容される範囲で自分の好みを優先したという事情がないかぎり、配慮を怠ったという点で道徳という観点からの非難の対象になる。だが、配慮を怠る原因となった点や、本人のみに関係する誤りで、配慮を怠る遠因になった可能性があるにすぎない点は、非難の対象にはならない。同様に、純粋に個人のみに関係する行動のために、社会に対して負っている具体的な義務を果たせなくなった場合、その人物は社会に対して罪をおかしたことになる。酔っぱらったというだけの理由では、誰も処罰されるべきではない。だが、兵士か警官が勤務中に酔っぱらったのであれば、処罰されるべきである。要するに、他人か社会に明らかな損害を与えたか、損害を与える危険が明らかにあった場合には、自由の領域での問題ではなくなり、道徳か法の領域の問題になるのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第4章 個人に対する社会の権威の限界,pp.178-180,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:他人へ間接的に及ぼす影響)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2020年5月5日火曜日

直接影響を与えるのが本人のみであっても、社会が保護すべきという考えは間違っているのか? また、明らかに社会にとって不都合と思われることは、可能な範囲で最小限、禁止してもよいのではないか?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

本人を通じて間接的に受ける影響

【直接影響を与えるのが本人のみであっても、社会が保護すべきという考えは間違っているのか? また、明らかに社会にとって不都合と思われることは、可能な範囲で最小限、禁止してもよいのではないか?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(e)(f)追加。

  (2.3.3)本人を通じて間接的に受ける影響について
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、一般的に、本人に影響があることは、間接的には本人を通じて他人に影響を与え得る。
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、家族への被害は? 頼っている人への被害は? また、社会全体としてみると害悪があるのでは? 他の人が真似をしてしまうような悪影響は?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
   (a)家族への被害は?
    誰でも、自分に深刻な害か、取り返しのつかない害のあることをすれば、少なくとも家族には被害が及ぶだろう。
   (b)頼っている人への被害は?
    自分の財産を減らせば、その財産に直接にか間接にか頼って生活している人が打撃を受けるだろう。
   (c)社会全体にとっての害悪は?
    自分の身体か頭の能力が低下すれば、幸せのある部分でその人に頼っている人たちに被害を与えるうえ、社会全体の役に立つ仕事をすべきなのにそれができなくなり、おそらくは逆に社会の愛情と慈悲に頼るようにすらなるだろう。
   (d)他の人が真似をしてしまうような悪影響は?
    悪徳や愚行によって他人に直接に被害を与えないとしても、悪い実例を示して社会に害悪を流すことになるので、その人の行動を見聞きした人が堕落か誤解をしないように、自制を強制されるのが当然である。
   (e)本人を社会が保護すべきではないのか?
    子供や成年に達していない若者は明らかに、本人の意思を無視しても社会が保護すべきだというのであれば、大人になって自分を律することができない人も、社会が保護すべきではないのだろうか。
   (f)明らかに社会にとって不都合と思われること
    賭博や飲み過ぎ、淫乱、怠惰、不潔が、法律で禁止されている行為の多くと変わらないほど不幸をもたらし、進歩を妨げるのであれば、実行が可能な範囲で、そして社会にとって不都合にならない範囲で、法律でこれらを抑制してはならないという理由があるのだろうか。
  (2.3.4)周囲の人たちのために自分自身に配慮すべきなのに、そうしなかったことで周囲の人たちへの義務を果たせなかったときには、道徳の問題になり非難の対象となる。

 「さらに、こうも主張されるだろう。間違った行動で打撃を受けるのが身持ちが悪いか愚かな本人だけだとしても、自分を律する力が明らかにない人に、自由にふるまわせておくべきなのだろうか。子供や成年に達していない若者は明らかに、本人の意思を無視しても社会が保護すべきだというのであれば、大人になって自分を律することができない人も、社会が保護すべきではないのだろうか。賭博や飲み過ぎ、淫乱、怠惰、不潔が、法律で禁止されている行為の多くと変わらないほど不幸をもたらし、進歩を妨げるのであれば、実行が可能な範囲で、そして社会にとって不都合にならない範囲で、法律でこれらを抑制してはならないという理由があるのだろうか。そして、法律にかならずある不完全さを補うために、少なくとも世論の力でこれらの害悪を抑制する仕組みを作り、これらの悪徳から抜け出せない人に社会が厳しい制裁をくわえるべきではないだろうか。そうしても、個性を抑圧することにはならないし、生活について独創的で新しい実験を行うのを妨げることにもならない。これで妨げようとしているのは、世界がはじまって以来、現在にいたるまで、繰り返し試され、非難されてきた点であり、誰にとっても有益でも適切でもないことが事実によって示されてきた点である。ある年数にわたって、ある量の事実が積み重なってこなければ、道徳上の真理や処世上の真理が確立したとは考えられないはずである。そこで当面は、過去のどの世代にとっても致命的であった失敗を、新しい世代がつぎつぎに繰り返すのを防ごうというだけだと。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第4章 個人に対する社会の権威の限界,pp.176-178,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:本人を通じて間接的に受ける影響)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

直接影響を与えるのが本人のみであっても、家族への被害は? 頼っている人への被害は? また、社会全体としてみると害悪があるのでは? 他の人が真似をしてしまうような悪影響は?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

本人を通じて間接的に受ける影響

【直接影響を与えるのが本人のみであっても、家族への被害は? 頼っている人への被害は? また、社会全体としてみると害悪があるのでは? 他の人が真似をしてしまうような悪影響は?(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.3.3)追記。

  (2.3.3)本人を通じて間接的に受ける影響について
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、一般的に、本人に影響があることは、間接的には本人を通じて他人に影響を与え得る。
   (a)家族への被害は?
    誰でも、自分に深刻な害か、取り返しのつかない害のあることをすれば、少なくとも家族には被害が及ぶだろう。
   (b)頼っている人への被害は?
    自分の財産を減らせば、その財産に直接にか間接にか頼って生活している人が打撃を受けるだろう。
   (c)社会全体にとっての害悪は?
    自分の身体か頭の能力が低下すれば、幸せのある部分でその人に頼っている人たちに被害を与えるうえ、社会全体の役に立つ仕事をすべきなのにそれができなくなり、おそらくは逆に社会の愛情と慈悲に頼るようにすらなるだろう。
   (d)他の人が真似をしてしまうような悪影響は?
    悪徳や愚行によって他人に直接に被害を与えないとしても、悪い実例を示して社会に害悪を流すことになるので、その人の行動を見聞きした人が堕落か誤解をしないように、自制を強制されるのが当然である。
  (2.3.4)周囲の人たちのために自分自身に配慮すべきなのに、そうしなかったことで周囲の人たちへの義務を果たせなかったときには、道徳の問題になり非難の対象となる。

 「以上では、個人の生活のうち、本人のみに関係する部分と他人に関係する部分とを区別してきたが、この区別を認めない人が多い。そうした人は以下のように主張する。社会の一員の行動のうちどのような部分であっても、他の人たちにとって無関心ではいられないものがあるだろうか。まったく孤立して生きている人はいない。誰でも、自分に深刻な害か、取り返しのつかない害のあることをすれば、少なくとも家族には被害が及ぶし、さらに広く被害が及ぶこともある。自分の財産を減らせば、その財産に直接にか間接にか頼って生活している人が打撃を受けるし、社会全体の資源が多かれ少なかれ減少する。自分の身体か頭の能力が低下すれば、幸せのある部分でその人に頼っている人たちに被害を与えるうえ、社会全体の役に立つ仕事をすべきなのにそれができなくなり、おそらくは逆に社会の愛情と慈悲に頼るようにすらなるだろう。このような行動が多ければ、どのような犯罪にも劣らないほど、社会全体の幸福の量を減らすことになろう。最後に、悪徳や愚行によって他人に直接に被害を与えないとしても、悪い実例を示して社会に害悪を流すことになるので、その人の行動を見聞きした人が堕落か誤解をしないように、自制を強制されるのが当然ではないかと。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第4章 個人に対する社会の権威の限界,pp.175-176,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:本人を通じて間接的に受ける影響)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2020年4月25日土曜日

いかに奇妙で愚かと思われても、当人以外に無関係な行為ならば、不快の念の表明や、哀れみの感情からの助言は許されるが、怒りや恨みの感情を抱き、制裁を加える必要があると考えるのは、不当でり誤りである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

当人以外に無関係な行為

【いかに奇妙で愚かと思われても、当人以外に無関係な行為ならば、不快の念の表明や、哀れみの感情からの助言は許されるが、怒りや恨みの感情を抱き、制裁を加える必要があると考えるのは、不当でり誤りである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.3.1)へ追記。

  (2.2.3)ある人の行為が、他人に関係するとき
   他人に危害が及ぶ行為は排除されるが、行為しないことによって他人に危害が発生する場合や、他人の利益になる行為は、個人の自由に任せる長所や、社会の管理による弊害を考慮して、義務とすべきか考える必要がある。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

   (2.2.3.1)ある人の行為によって、他人に危害が及ぶとき
    その行為をしないように、強制することが正当である。
    (a)(例)他人の権利の侵害、損失や損害を与えること、権利によって正当化できない行動、他人との関係での嘘と欺瞞、他人の弱みにつけこむ不正で卑劣な行動。
    (b)行動の背景にある性格も道徳的には非難の対象となり得る。
    (例)冷酷な性格、悪意と意地の悪さ、反社会的で憎むべき感情である嫉妬、偽善と不誠実、原因につりあわない怒りと恨み、他人を支配したがる性格、過分な利益を得ようとする貪欲、他人を貶めることに満足感を得る高慢、自分と自分の利益を何よりも重視する利己主義。

   (2.2.3.2)ある人が行動しなかったことによって、他人に害を与えることになるとき
    (a)この場合も、他人に与えた被害について責任を負うのが当然である。
    (b)ただし、強制力の行使は、はるかに慎重にならなければならない。責任を問うのは、どちらかといえば例外である。だが、責任が明白で重大なことから、例外として責任を問うのが適切な場合はかなり多い。
     (例)利己的な理由で他人に被害が及ぶのを防がないこと。
    (c)考えるための事例
    ・命の危険にさらされている人を助けること。
    ・虐待されている弱者を保護するために干渉すること。
   (2.2.3.3)ある人の行為によって、他人の利益になるとき
    (a)各人にその行動をとるよう強制するのが適切だともいえるものが多数ある。
    (b)逆に、社会による強制が好ましくない場合。
    ・自由意思に任せておく方が、本人が全体として良い行動をとる可能性が高い場合。
    ・社会が管理しようとすると、より大きな害悪が生まれると予想される場合。
    (c)考えるための事例。
    ・裁判所で証言すること。
    ・社会のために必要な防衛などの共同の仕事に参加して、応分の義務を果たすこと。
   (2.2.3.4)義務と考えられている行為
    行動をとらなかったときに、社会に対する責任を問われることになる。

 (2.3)個人の自由の領域
  (2.3.1)ある人の行為が、本人だけに関係しており、他人には関係がないとき
   いかに奇妙な行為でも当人以外に無関係なら、妨害は不当である。また、いかに「良い」と思われる行為でも、忠告や説得を超える強制は不当である。その行為によって他人に危害が及ぶ場合のみ、強制は正当化される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

   (a)いかに奇妙な行為でも当人以外に無関係なら、妨害は不当である。
    いかに奇妙で愚かと思われても、当人以外に無関係な行為ならば、不快の念の表明や、哀れみの感情からの助言は許されるが、怒りや恨みの感情を抱き、制裁を加える必要があると考えるのは、不当でり誤りである。
    (i)各人は、自分自身の身体と心に対して、絶対的な自主独立を維持する権利を持っている。
    (ii)ただし、子供や、法的に成人に達していない若者は対象にならない。
    (iii)仮に、愚かに思え、気高さや自尊心を欠いていると思われても、また個人の資質の欠陥の程度が極端であっても、道徳とは関係なく、悪ではない。
    (iv)嫌悪を感じ不快の念を表明し、哀れみの感情を持ち本人が被るだろう悪評と害悪を避ける方法を教えることはできる。しかし、怒りや恨みの感情を抱き、その人物に制裁をくわえる必要があると考えるのは、誤りである。
   (b)ある人に、物質的にか精神的にか「良い」行為をさせたいとき。
    (i)その当人にある行動を強制したり、ある行動を控えるように強制することは、正当ではない。ましては、その「良い」行為をしなかったことを、処罰するのは不当である。
    (ii)忠告したり、理を説いたり、説得したり、懇願することは、正当である。

  (2.3.2)他人が影響を受けるが、自由に自発的に騙されることなく選択可能なとき
   他人に影響を与えるにしても、影響を受けているのが、自由に、自発的に、騙されたわけではなく、同意して行動に参加している人だけである場合も、「直接的な影響を受けない」ケースに含まれる。

  (2.3.3)本人を通じて間接的に受ける影響について
   直接影響を与えるのが本人のみであっても、一般的に、本人に影響があることは、間接的には本人を通じて他人に影響を与え得る。
   (a)周囲の人たちのために自分自身に配慮すべきなのに、そうしなかったことで周囲の人たちへの義務を果たせなかったときには、道徳の問題になり非難の対象となる。
 「要するに私の主張はこうだ。個人の行動と性格のうち本人の幸福に影響を与えるが、その人と関係する他人の利益には影響を与えない部分に問題があったとき、本人が被るべき不便は、他人から受ける悪評と切り離せない不便だけだと。他人に被害を与える行動に対しては、まったく違った対応が必要になる。他人の権利を侵害する行為、他人に損失や損害を与え、自分の権利によって正当化できない行動、他人との関係での嘘と欺瞞、他人の弱みにつけこむ不正で卑劣な行動は、さらには利己的な理由で他人に被害が及ぶのを防がないことすらも、道徳に反するとして非難の対象とするのが当然であり、深刻な場合には社会による報復と制裁の対象とするのが当然である。これらの行動だけでなく、これらの行動の背景にある性格も道徳に反しており、非難の対象とするのが当然であって、憎悪されることもある。冷酷な性格、悪意と意地の悪さ、とりわけ反社会的で憎むべき感情である嫉妬、偽善と不誠実、原因につりあわない怒りと恨み、他人を支配したがる性格、過分な利益を得ようとする貪欲、他人をおとしめることに満足感を得る高慢、自分と自分の利益を何よりも重視し、あいまいな点はすべて自分に都合よく解釈する利己主義といった性格はすべて悪徳であり、道徳に反する性格だとされて嫌われる。これとはまったく違うのが前述の点、つまり、個人のみに関係する資質での欠陥である。この欠陥は本来、道徳という観点で非難されるべきものではなく、欠陥の程度が極端であっても邪悪だととはいえない。その人の愚かさを示しているか、気高さや自尊心の欠如を示しているとしても、道徳の問題になり非難の対象になるのは、周囲の人たちのために自分自身に配慮すべきなのに、そうしなかったことで周囲の人たちへの義務を果たせなかったときだけである。自分に対する義務とされているものは、それが同時に他人に対する義務になる状況がないかぎり、社会に対する義務ではない。自分に対する義務という言葉は、思慮分別以上のものを意味する場合には、自尊心をもつことか自分を磨くことを意味するが、これらのいずれに関しても、他人に対して責任を負うことはない。これらの点で他人に対する責任を個人に負わせても、人類にとって利益にならないからである。
 個人に賢さか気高さが欠けている場合に当然の結果として他人に低く評価されることと、他人の権利を侵害したときに非難されることの違いは、言葉のうえだけのものではない。社会に管理の権利がある領域で不快な行動をとっているのか、それとも社会にそのような権利がないことが分かっている領域で不快な行動をとっているのかによって、その人物に対するわれわれの感情と行動は大きく違う。本人の行動が不快なだけであれば、不快の念を表明できるし、不快な人物や不快なものに近づかないようにすることもできる。しかし、その人物に制裁をくわえる必要があるなどと考えてはならない。その人が自分の過ちで罰を受けているか、今後に受けることを考えるべきだ。自分の失敗によって自分の生活を損なっているのであれば、その点を理由にさらに苦しめてやろうなどと考えるべきではない。罰を与えたいと望むのではなく、本人の行動によって本人に跳ね返ってくるはずの害悪を避けるか解消する方法を教えて、罰を軽くするように努力すべきだ。その人に対して哀れみの感情をもつだろうし、嫌悪するかもしれないが、怒りや恨みの対象にはならない。その人を社会の敵であるかのように扱うべきではない。関心や懸念を示して好意的に接することはないにしても、正当だといえるのはぎりぎりのところ、付き合いを止めて好きなようにさせておくことまでである。これに対して、個人としてであれ集団としてであれ、他人を保護するために必要な規則をやぶった場合には、事情がまったく違う。その人の行動によって悪影響を受けるのは本人ではなく、他人である。社会はすべての成員を保護する責任を負っているので、その人に報復しなければならない。処罰を与えることを明確な目的として掲げ、その人に苦痛を与えなければならず、その苦痛が十分に厳しいものになるようにしなければならない。この場合には、その人を犯罪者として裁判にかけ、何らかの判決を下したうえ、何らかの形で刑罰を執行しなければならない。これに対して個人のみに関係する欠陥の場合には、社会はその人に苦痛を与える立場にはなく、例外は、社会の人びとがその人に認めているのと同じ自由を行使して自分自身の問題を処理したとき、それに伴ってその人が受ける苦痛だけである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第4章 個人に対する社会の権威の限界,pp.172-175,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:当人以外に無関係な行為)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2020年4月18日土曜日

社会の、人々を訓練し管理する機能と、個人の自由を守る機能とのバランスが問題である。各個人が、自らの欲求に基づき、自らの計画を選択し、多様な能力を磨き上げ、開花できることが目的だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

幸福の要素としての個性

【社会の、人々を訓練し管理する機能と、個人の自由を守る機能とのバランスが問題である。各個人が、自らの欲求に基づき、自らの計画を選択し、多様な能力を磨き上げ、開花できることが目的だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

個人の個性と社会の3つの類型
(a)人々を訓練し管理する社会の能力が不足している状態
 社会的な地位や個人的な資質によって強い力をもつ人が、情熱にまかせて法律や慣習につねに反抗し、その影響を受ける人たちが安全に生活できないような社会。社会の初期の段階は、このような社会であった。
(b)人々を訓練し管理する社会の能力が過剰な状態
 人々は、自分の好みは何なのかとは考えない。考えるのは、自分の地位にふさわしいのは何なのか、自分と同じ地位、同じ収入の人は普通、どうしているのかとしか考えない。大勢に順応し、慣習になっているもの以外には、自分の好みを何も思いつけない。
(c)好ましい状態
 自分の性格と気質に合っているのは何なのか、どうすれば自分のうちで最高で最善の部分を活かし、それが成長し開花するようにできるのだろうかと考える。
 参考:各個人が自分の計画を選択し、観察力、推理力、判断力、行動力、意志の強さ、自制心など多様な能力を磨き上げ、多様に開花すること、これが最も重要である。また各人独自の、強い欲求、衝動、感情も不可欠だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「社会のもっと初期の段階には、こうした活気が強すぎて、人びとを訓練し管理する社会の能力を超えていた可能性があるし、ある部分ではたしかに超えていた。自発性と個性が強すぎて、社会の原理によってそれを抑えるのに苦労した時代があった。その当時に困難だったのは、体力や知力が強い人を誘導して、その衝動を管理するのに必要な規則にしたがわせることであった。この困難を克服するために、皇帝と争っていたローマ法王が教会についてそう主張していたように、法律と規律には全人格に対する支配権があると主張され、性格を管理するには生活のすべての面を管理する必要があると主張された。それ以外には、社会が人びとの衝動を抑える十分な手段をみつけだせなかったのである。しかしいまでは、社会は個性をほぼ抑えつけられるようになっている。そして、人間性を脅かしているのは、個人の衝動と好みの過剰ではなく、不足になった。状況が様変わりしているのだ。以前には、社会的な地位や個人的な資質によって強い力をもつ人が情熱にまかせて法律や慣習につねに反抗し、その影響を受ける人たちがわずかでも安全に生活できるようにするには、こうした人の情熱を厳しく管理する必要があった。いまでは、社会の最上層から最下層まで、すべての人が敵意をもった恐ろしい監視のもとに暮らしている。他人に関係する点だけでなく、自分自身にしか関係しない点でも、個人や家族は、自分の好みは何なのかとは考えない。自分の性格と気質に合っているのは何なのか、どうすれば自分のうちで最高で最善の部分を活かし、それが成長し開花するようにできるのだろうかとも考えない。考えるのは、自分の地位にふさわしいのは何なのか、自分と同じ地位、同じ収入の人はふつう、どうしているのか、そしてもっと悪い見方だが、自分より地位が高く、収入も多い人はふつう、どうしているのかである。各人が自分の好みに合うものより、世の中の慣習になっているものを選ぶといいたいわけではない。そうではなくて、慣習になっているもの以外には、自分の好みを何も思いつけなくなっているのである。精神まで、抑圧の軛に屈服している。娯楽のときですら、真っ先に考えるのは世の中に合わせることである。いつも大勢に順応していたいのだ。何かを選ぶときでも、ふつうに行われていることのなかからしか選ばない。人とは違う趣味や、変わった行動は犯罪と変わらないほど避けようとし、いつも自分の本性にしたがわないようにしているので、やがて、したがうべき本性をもたなくなる。人間としての能力は委縮し、衰えていく。強い望みや自然な喜びはもてなくなり、たいていは自前の意見や感情、まさに自分のものだという意見や感情をもたなくなる。これが人間性の望ましい状態なのだろうか。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第3章 幸福の要素としての個性,pp.133-135,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:幸福の要素としての個性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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各個人が自分の計画を選択し、観察力、推理力、判断力、行動力、意志の強さ、自制心など多様な能力を磨き上げ、多様に開花すること、これが最も重要である。また各人独自の、強い欲求、衝動、感情も不可欠だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

幸福の要素としての個性

【各個人が自分の計画を選択し、観察力、推理力、判断力、行動力、意志の強さ、自制心など多様な能力を磨き上げ、多様に開花すること、これが最も重要である。また各人独自の、強い欲求、衝動、感情も不可欠だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 「自分の計画を自分で選ぶ人は、能力のすべてを使う。現実をみるために観察力を使い、将来を予想するために推理力と判断力を使い、決断をくだすのに必要な材料を集めるために行動力を使い、決定をくだすために識別能力を使う必要があるし、決定をくだした後にも、考え抜いた決定を守るために意志の強さと自制心を発揮する必要がある。自分がとる行動のうち、みずからの判断と感情にしたがって決定する部分の比率が高いほど、これらの能力が必要になり、使われることになる。これらの能力を使わなくても、正しい道を歩めるように、誤った道に陥らないように、導かれることもありうる。だがその場合、その人は人間としての価値が高いといえるのだろうか。ほんとうに重要なのは、人がどのような行動をとるかだけではない。その行動をとる人がどのような人間なのかも重要である。人が一生を使って完成し磨き上げていくのが適切なもののなかで、何よりも重要だといえるのは明らかに自分自身である。機械を使えば、それも人間の形をした自動機械を使えば、家を建て、穀物を栽培し、戦争を行い、訴訟を裁き、さらには教会を建てて神に祈ることすらできると仮定しても、人間をそうした自動機械に置き換えるのは大きな損失であろう。現在の先進的な地域に住んでいる人であっても、自然が生み出しうるし、やがて生み出すとみられる人間と比較すればまったく貧弱だといえるにすぎないのだから。人間は機械と違って、ある設計図にしたがって作られているわけではなく、決められた仕事を正確に行うように作られているわけでもない。樹木に似ており、生命のあるものに特有の内部の力にしたがって、あらゆる方向に成長し発展していくべきものなのである。
 人びとがみずからの理解力を使うのが望ましいこと、理性的な判断に基づいて慣習を取り入れ、ときには理性的な判断に基づいて慣習から逸脱する方が、何も考え得ずに慣習に機械的にしたがうより良いことは、おそらく誰でも認めるだろう。各人の理解力が各人のものでなければならないことは、誰でもある程度まで認めている。だが、各人の欲求と衝動もやはり各人のものでなければならず、自分自身の衝動をもっているとき、その衝動がいかに強いものであっても、危険や落とし穴ではまったくないことは、簡単に認めようとはしない。しかし、欲求と衝動も信念や自制心と同様に、完全な人間に欠くことができないものである。そして、強い衝動が危険なのは、適切な均衡が失われているときだけである。つまり、ある意図と好みとが強くなる一方で、それと併存して均衡をとるべき要素が弱く、不活発なときである。人が間違った行動をとるのは、欲求が強いからではない。良心が弱いからである。衝動が強いことと、良心が弱いこととの間には自然な因果関係はない。自然な因果関係はその逆である。ある人の欲求と感情が他人より強く多様だというのは、その人が人間性の素材を豊富にもっているということなのであり、おそらく悪事をはたらく力が強いのだろうが、良いことを行う力もたしかに強いのである。衝動が強いとは、活力があるということの言い換えにすぎない。活力は悪いことに使われるかもしれないが、無気力で無感動な人より活力のある人の方がつねに、良いことを大量に行えるだろう。自然な感情が強い人は、洗練された感情もとくに強くなりうる。個人の衝動が活発で強力なのは感受性が強いからだが、その感受性の強さが源泉となって、美徳を強く求める感情と厳格に自己を律する自制心とが生まれうる。社会が義務を果たし、その利益を守っているのは、こうした感受性を育むことによってであって、英雄を育てる方法が分からないという理由で英雄の素材を排除することによってではない。欲求と衝動が独自のものである人、つまり、鍛錬を積み重ねて育成し修正してきた自分の本性の現れである人は、独自の性格をもった人物だといわれる。欲求と衝動が独自のものではない人は独自の性格をもっておらず、蒸気機関が独自の性格をもたないのと同様である。衝動が独自のものであるうえに、強い衝動を強い意志で制御している人は、活力のある性格をもっている。欲求と衝動の面で個性を伸ばすのを奨励してはならないと考える人は、社会には強い性格をもつ人は不要であり、強い性格をもつ人が多いのは社会にとって不利な条件であって、人びとの活力が平均して高いのは望ましくないと主張していることになる。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第3章 幸福の要素としての個性,pp.130-133,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:幸福の要素としての個性,欲求,衝動,感情,個性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2020年4月17日金曜日

主流派の意見と少数派の意見のうち、一方が正しく他方が誤っているという場合は少ない。実際には、双方が真理の一部分を掴んでおり、論争がそれを見え難くしている。これが、意見の多様性が必要な理由である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

意見の多様性が必要な理由

【主流派の意見と少数派の意見のうち、一方が正しく他方が誤っているという場合は少ない。実際には、双方が真理の一部分を掴んでおり、論争がそれを見え難くしている。これが、意見の多様性が必要な理由である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 参照:人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 参考:
 異論を排除することの害悪
 仮に、主流の意見が正しく異論が間違っている場合であっても、異論を排除することは誤りである。なぜか。議論されることなく、根拠薄弱となった意見は、独断的な教条、単なる信念、迷信と区別できなくなる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 「もうひとつ、意見の多様性が有益だといえる主要な理由を論じておかなければならない。この理由に基づくなら、いまの時点でははるかな未来にしか達成できないと思えるほど知識が進歩した段階に入るまでは、意見の多様性が有益な状況が続くといえるのである。ここまでは二つの可能性だけを考えてきた。主流の意見が誤りであり、したがって主流ではない意見が正しい場合と、主流の意見が正しく、間違った反対意見と戦うことが真理をはっきりと理解し、深く感じ取るために不可欠な場合である。しかし、この二つのどちらよりも普通に見られる場合がある。対立する意見のうち一方が正しくて他方が間違っているのではなく、どちらも真理の一部をつかんでいて、主流の意見が真理の一部を明らかにしているにすぎないために、残りの部分を示すものとして少数派の意見が必要な場合である。すぐに理解できるわけではない問題では、主流の意見は正しい場合も多いが、真理の全体をつかんでいることはまずない。そんなことはまったくないとすらいえるほどである。真理の一部にすぎないのであり、真理全体のうち大きな部分であることも小さな部分であることもあるが、いずれにせよ誇張され歪められていて、その部分を制約する条件を示すために付けくわえておくべき別の真理から切り離されている。これに対して異端の意見を主張する人は一般に、真理のうち、抑えられ無視されてきた部分を抑圧の鉄鎖を断ち切って表明しているのであり、主流の意見に含まれる真理との折り合いを付けようとするか、そうでなければ、主流の意見を敵だと考え、やはり頑なな姿勢をとって、これこそ真理の全体なのだと主張しようとする。これまでの例ではこの二つのうち、頑なな姿勢をとる場合の方が多い。人間の知性は一面的であるのが通常であって、多面的であるのは例外だからである。このため、意見の革命が起こるときですら、真理のうちひとつの部分がすたれて、他の部分がはやるのが通常である。意見が進化していくときですら、本来なら新たな部分がくわわっていくはずだが、実際にはほとんどの場合、部分的で不完全な真理がやはり部分的で不完全な別の真理に置き換わるだけになる。それでも進歩といえるのは主に、真理のうち新たに採用された部分がその時点で、置き換えられた部分よりも必要とされていて、時代の要請に適合しているからである。このように主流の意見は正しい基礎のうえにたっている場合ですら、部分的なものという性格をもっているので、真理のうち主流の意見が無視していた部分をある程度まで主張している意見はすべて、一面の真理とともに誤りや混乱がどれほど主張されていても、貴重だと考えるべきである。人間というものを冷静に判断していれば、自分たちが見逃していたはずの真理に関心を向けるよう強いてくる人が、自分たちの気づいている真理を見逃しているとしても、憤慨する必要があるとは感じないだろう。それどころか、多数派の主張する真理が一面的なのであれば、少数派が一面の真理を主張している方が望ましいとすらいえる。その方が通常、とくに熱心だし、真理のうちそれが全体であるかのように主張している部分に、人びとの注意をしぶしぶとであっても向けさせる可能性がとくに高いからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.100-102,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:意見の多様性が必要な理由)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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反論の余地のない段階に達した真理の数と質によって人類の幸福度が測られる。ただし各人は、現実の問題と経験に適用し、その意味を理解する必要がある。また、疑問や論争を大切にする教育の工夫も必要だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

決着がついた問題は深い眠りにつく

【反論の余地のない段階に達した真理の数と質によって人類の幸福度が測られる。ただし各人は、現実の問題と経験に適用し、その意味を理解する必要がある。また、疑問や論争を大切にする教育の工夫も必要だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

参考:
異論を排除することの害悪
 仮に、主流の意見が正しく異論が間違っている場合であっても、異論を排除することは誤りである。なぜか。議論されることなく、根拠薄弱となった意見は、独断的な教条、単なる信念、迷信と区別できなくなる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 「一般論として、道徳や宗教でもそうだが、人生の知恵や知識でも、定説になった教えのすべてで同じことがいえる。どの言語で書かれた書物にも、人生とは何か、人生でどのように行動すべきかの両面で、人生についての教訓が大量に書かれている。ところが誰でも知っている教訓、誰でも他人に言い聞かせ、他人にいわれれば自明のこととして受け入れている教訓であっても、たいていの人は現実の問題にぶつかって、それも一般には苦しい思いをしてはじめて、その意味を学ぶ。予想もしなかった不幸や失敗に苦しんでいるとき、よく知っていた格言や常識を思い出し、その意味を前から実感していれば、その問題をうまく避けられただろうにと思うことがいかに多いことか。そうなる理由は、賛成派と反対派の間の議論が欠けている点以外にもある。真理のなかには、個人的に体験して実感しないかぎり、意味を完全には理解できないものがたくさんあるのだ。しかし、そのような真理でも、意味を理解している人たちが賛成と反対の意見をだして議論しているのをよく聞いていれば、意味をもっと理解していただろうし、理解した点がもっと強く印象づけられていただろう。人は疑わしくなくなった点については考えなくなるものだが、これは人間の誤りのうち半分の原因になるほど致命的な欠陥である。「決着がついた問題は深い眠りにつく」と現代のある論者が語っており、まさに至言である。
 何という暴論だと言われて、こう反論されるかもしれない。全員が賛成する状況になっていないことが、正しい知識に不可欠な条件だというのか。真理を認識できるようにするには、誤りに固執する人がいることが必要だというのか。世間に受け入れられるようになった信仰は生命力を失うというのか。何の疑問も残らなくなった意見は、十分に理解され実感されることがなくなるというのか。真理はすべての人が受け入れるようになるとすぐに腐りはじめるというのか。ほんとうに重要な真理を人類が一致して認めるようになることこそが、知性を高めていくときの最高の目的であり、最善の結果であると考えられてきたわけだが、この目的を達成するまでの間しか、知性は存続できないというのか。完全な勝利を収めたときには、その結果として勝利の果実が腐るとでもいうのか。
 わたしはそのような主張はしていない。人類が進歩するとともに、論争や疑問の対象にならなくなった教えや理論の数は増えつづけていくだろう。人類の幸福度は、反論の余地のない段階に達した真理の数と質によってはかられるといっても、それほど的外れではないほどである。さまざまな意見がつぎつぎに真剣な論争の対象から外れていくことは、意見の一致にかならず伴う現象である。意見が一致していくのは、間違った意見の場合には危険で有害だが、正しい意見の場合には有益である。このようにして意見のばらつきの範囲が徐々に狭まっていくことは、必然という言葉の両方の意味で必然であって、不可避であると同時に不可欠でもあるのだが、だからといってその結果がすべて好ましいものであるはずだと結論づけなければならないわけではない。ある真理をそれに反対する人に説明したり、反論を受けて弁護したりする必要があれば、その真理を知的に活き活きと理解する点で重要な一助となるのだが、このような機会を失うことによる損失は、その真理が広く認められるようになった利点より大きいとはいえないまでも、それほど小さくはないのである。この利点がなくなった場合には、人びとを教育する立場にある人がそれに代わるものを提供するよう努力してほしいと考えている。つまり、反対論の唱道者が考えを改めるように熱心にはたらきかけるかのように、真理への反対意見を学習者に強く印象づける仕組みを作ってほしいと願っている。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.94-97,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:決着がついた問題は深い眠りにつく)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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自説の根拠を説明し、論敵の根拠が論破できなければ、単に権威によってか、世間にあわせて、単に好みで自分の意見を選択しているのである。まず、論敵の主張は、真にそれを擁護し信じている人から学ぶこと。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

論敵の主張を学ぶこと

【自説の根拠を説明し、論敵の根拠が論破できなければ、単に権威によってか、世間にあわせて、単に好みで自分の意見を選択しているのである。まず、論敵の主張は、真にそれを擁護し信じている人から学ぶこと。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

参考:
異論を排除することの害悪
 仮に、主流の意見が正しく異論が間違っている場合であっても、異論を排除することは誤りである。なぜか。議論されることなく、根拠薄弱となった意見は、独断的な教条、単なる信念、迷信と区別できなくなる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 「自説の根拠しか知らない人は、その問題についてほとんど何も知ってはいない。もちろん、自説の根拠としてあげる点は適切な場合もあるだろうし、誰にも論破されていない場合もあるだろう。しかし、その人も論敵の根拠を論破できないのであれば、あるいは論敵が何を根拠にしているのかすら知らないのであれば、どちらか一方の意見を選ぶ理由はもっていないのである。理に適った立場をとるのであれば、どちらの意見についても判断を留保すべきであり、それでは満足できない場合には、権威にしたがっているのか、世間の人たちがそうしているように、自分の好みにいちばんあうと感じる意見を選んでいるのである。また、自分の教師から論敵の主張について説明を受け、同時に、それを論破する方法を教えられるだけでは不十分である。これでは論敵の主張を公平に扱うことにならないし、ほんとうの意味で論敵の主張に触れることにもならない。その意見を実際に信じている人から、つまり、その意見を真剣に擁護し、そのために最大限に努力する人から、主張を聞くことができなければならない。もっとも納得しやすい形、説得力がある形で知らなければならない。正しい意見を主張するときにぶつかり、対応することになる反論が実際にどれほど強力なのかを感じなければならない。そうでなければ、正しい意見のうち、手ごわい反論に対処し、それを克服するのに必要な部分を、ほんとうに自分のものにすることはできない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.82-83,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:論敵の主張を学ぶ)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2020年4月16日木曜日

仮に、主流の意見が正しく異論が間違っている場合であっても、異論を排除することは誤りである。なぜか。議論されることなく、根拠薄弱となった意見は、独断的な教条、単なる信念、迷信と区別できなくなる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

言論の自由

【仮に、主流の意見が正しく異論が間違っている場合であっても、異論を排除することは誤りである。なぜか。議論されることなく、根拠薄弱となった意見は、独断的な教条、単なる信念、迷信と区別できなくなる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

参考:ある意見が間違っており、有害で不道徳で不信仰であると確信しても、その意見を弁護する主張を他人が聞く機会を奪うのであれば、自らの無謬性を想定している。こうして、優れた人物や崇高な教えが抑圧されてきた。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「つぎに、議論の第二の部分に話を進めよう。つまり、主流の意見のいずれかが間違っている可能性があるとの想定を捨て、主流の意見は正しいと想定したうえで、その正しさが公然と自由に議論されていない場合に、人びとがその意見に対してとるであろう姿勢が価値のあるものになるかどうかを検討していこう。ある意見を強く信じている人は、その意見が間違っている可能性を認めるのをどれほど嫌っていても、次の点を考慮すれば、考えを変えるはずである。まったく正しい意見であっても、十分に、頻繁に、大胆に議論されていなければ、生命を失って独断的な教条にすぎなくなり、生きた真理として使われることはなくなるという点である。
 幸いなことに以前ほど多くはなくなったが、いまでもかなりの人がこう考えている。自分たちが正しいと考えている意見に世間の人びとが無条件に同意しさえすれば、その意見の根拠をまったく知らず、ごく表面的な反論に対してすら自説の正しさを主張できないとしても、とくに問題はないと。こうした人は当然ながら、自分たちの意見を権威者が教え込むことができれば、その意見に疑問を差し挟むのを許すのは害悪になるだけで、何の益もないと考える。こうした人が強い影響力をもっている地域では、主流の意見に対して考え抜かれた賢明な批判がだされるのをほとんど不可能にすることができるだろうが、それでも、無知なために軽率に主流の意見を拒否する人がでてくることはある。議論を完全に排除できることはまずなく、議論がはじまれば、確信に基づいていない信念は、反論ともいえないほど根拠薄弱な反論を受けただけで屈服することになりやすいからである。しかし、このような可能性は無視して、正しい意見がいつまでも維持されるが、一種の先入観として、議論とは無関係に、議論を受けつけない信念として維持されると想定しても、これは理性ある人間が真理に対してとるべき姿勢ではない。これでは真理を知っているとはいえない。このような形で信じているのであれば、それは迷信のひとつにすぎず、迷信がたまたま、言葉のうえでは真実を表現しているにすぎない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.78-80,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:言論の自由)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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言論の自由の抑圧は、陳腐な決まり文句、権力や世間に阿る言説を蔓延らせる。知的能力の開花のためには、異端的な意見を排除しない公正で徹底した議論が守られ、率直で恐れを知らない知的勇気の醸成が必要だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

言論の自由

【言論の自由の抑圧は、陳腐な決まり文句、権力や世間に阿る言説を蔓延らせる。知的能力の開花のためには、異端的な意見を排除しない公正で徹底した議論が守られ、率直で恐れを知らない知的勇気の醸成が必要だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

参考:ある意見が間違っており、有害で不道徳で不信仰であると確信しても、その意見を弁護する主張を他人が聞く機会を奪うのであれば、自らの無謬性を想定している。こうして、優れた人物や崇高な教えが抑圧されてきた。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「社会が不寛容な姿勢をとっているというだけでは、誰も処刑するわけではないし、どのような意見も根絶するわけではない。社会が嫌う意見をもつ人が自分の意見を隠すか、自分の意見を積極的に広める努力を控えるようになるだけである。その結果イギリスでは、異端の意見は十年、三十年という単位でみたとき、目にみえて勢力が拡大することはないが、縮小することもない。燃え上って遠く広く光を注ぐことはなく、その意見を生み出した研究熱心な思索家の狭いサークルのなかでくすぶりつづけ、正しいにせよ間違っているにせよ、人類全体にとっての問題に一石を投じることはない。こうして、ある種の人びとにとって満足できる状態が保たれていく。誰に対しても罰金や禁固などの刑罰を科す不愉快な手段を使わなくても、社会で支配的な意見が表面上、波風がたたないまま維持され、しかも、思想上の病をもつ異端者に対して、理性を使って考えるのを完全に禁止するような方法もとっていないからである。思想の世界で平和を維持し、その世界でのすべての動きを現状のまま継続させるには、まったく便利な方法である。だが、このようにして思想の対立を避けたために、人間の知的な勇気がすべて犠牲にされている。とくに活発で探究心が強い知識人の大部分が、自分の信念の一般原則や根拠を胸のうちに秘めておく方がいいと考え、自分の意見を発表する際には、内心では否定している原則にできるかぎりあわせようとしている状況では、かつて思想の世界に光輝いていたような率直で恐れをしらない思想家や、論理的で首尾一貫した思想家が登場するはずがない。そうした状況で登場すると期待できるのは、陳腐な決まり文句をならべるだけの人か、権力や世間におもねって真理を曲げ、重要な問題について論じる際にも、自分が確信している点を主張するのではなく、聞き手が喜ぶように話そうとする人である。そうなるのを避けようとする人は、自分の思考と興味の対象を狭め、原理原則の領域にあえて立ち入らなくてもいい問題だけを論じようとする。つまり、小さな現実的な問題、人類の知性が強化し拡大しさえすれば自然に解決するが、そうならなければまともに解決することがない問題だけを論じて、人類の知性を強化し拡大する問題、つまり、もっとも高度な問題に関する自由で大胆な思索は放棄するのである。
 異端者の側がこのように控え目な姿勢をとっていれば害悪を流すこともないと考える人は、何よりもまず、その結果、異端の意見について公正で徹底した議論が行われなくなることを考慮すべきである。また、異端の意見のうち、公正で徹底した議論に耐えられないものも、広まるのは防げても、消滅はしないことを考慮すべきである。だが、正統的な意見を支持する結論に達するもの以外の議論をすべて禁止したとき、そのためにものごとを考えなくなり、知性がとくに堕落するのは異端者の側ではない。とくに大きな損害を受けるのは異端ではない人たちであり、こうした人たちは異端だとされるのを恐れるため、知的能力の自由な発展が妨げられ、理性をはたらかせるのに臆病になる。優れた知性をもちながら臆病な人たちが、宗教か道徳に反するとされうる結論に達するのを恐れて、大胆に、積極的に、自由に考えぬくのを控えているために、世界がどれほどのものを失っているのかは、推測すらできないほどである。そういう集団のなかにも、きわめて誠実な心と、洗練された鋭い理解力をもつ人がいることがある。そういう人はおさえがたい知性を詭弁のために使いつづけ、自分の良心と理性が示す見方と正統的な意見との矛盾を解決しようとして思考力を使いはたし、おそらくは矛盾を解決できないまま終わることになる。思想家にとって、どのような結論に達するとしても、自分の知性にしたがってどこまでも考え抜くのが第一の義務であり、この点を理解しないかぎり、偉大な思想家にはなれない。十分に研究し準備したうえで自分で考え抜く人は、その意見が間違っていた場合ですら、自分で考えようとしないために正しい意見を鵜呑みにしているにすぎない人よりも、真理に大きく貢献する。思想の自由が必要なのは、偉大な思想家を生み出すにはそれが不可欠だからだけではないし、この点が主要な理由だというわけですらない。それどころか、思想の自由はごく普通の人が知的能力を最大限に高められるようにするためにも必要であり、そのためにこそ必要不可欠である。社会全体としては思想の自由のない隷属的な環境であっても、偉大な思想家があらわれた例は過去にあるし、これからもあるだろう。だがそうした環境で、国民が旺盛な知識欲をもった例はかつてないし、今後もないだろう。ある国民が知識欲旺盛だといえる状況に近づいた時期があれば、それは、異端の思想とされることへの恐怖心が一時的に消えていたからである。原理や原則については異を唱えてはならないという暗黙の了解がある場合や、人間にとっての最大の関心事はすでに議論の決着がついたとされている場合には、国民全体の知的な活動が高水準になる状況、歴史上のいくつかの時期が輝かしい時代になった状況が生まれるとは期待できない。人びとが情熱を燃やすほど重要な大問題を論争の対象にしないようにしているときには、人びとの心が根底から揺り動かされることはないし、ごく普通の知性をもったものが強烈な刺激を受けて、考える人としての気高さを備えるまでになることもない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.72-77,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:言論の自由)

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(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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真理には力があり常に迫害に勝つというのは事実ではなく、根拠のない感傷にすぎない。歴史を見ると、何世紀にも渡って圧殺され続けたこともあった。ただし、長年のうちには、必ず同じ真理が再発見される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

真理の力

【真理には力があり常に迫害に勝つというのは事実ではなく、根拠のない感傷にすぎない。歴史を見ると、何世紀にも渡って圧殺され続けたこともあった。ただし、長年のうちには、必ず同じ真理が再発見される。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

参考:ある意見が間違っており、有害で不道徳で不信仰であると確信しても、その意見を弁護する主張を他人が聞く機会を奪うのであれば、自らの無謬性を想定している。こうして、優れた人物や崇高な教えが抑圧されてきた。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 「抑圧しても真理を傷つけることはできないのだから真理の抑圧は正当だとする主張は、新たな真理の受容に頑迷に反対するものだと非難できるものではない。だが、新しい真理を見いだし伝えた功績を人類が感謝すべき人に対して過酷だとはいえる。世界にとって重要な意味をもっているのにそれまで知られていなかった点を発見すること、現世か来世に関するきわめて重要な点でそれまでの見方の間違いを証明することは、個人が人類になしうる貢献のなかで、もっとも重要なものである。そしてたとえば初期のキリスト教徒や宗教改革家の場合には、人類にとりわけ貴重なものを贈った人たちだと、サミュエル・ジョンソンに同意する人は信じている。それほどの利益を人類にもたらした人たちを迫害し、最悪の犯罪者として処刑することが、この主張によれば、人類が粗布をまとい灰をかぶって嘆き悲しむべき間違いでも不運でもなく、正常で正当な事態だというのである。この主張によれば、新たな真理を提唱するものは、古代ギリシャ人がイタリアに築いた植民都市、ロクリの法典で新法の提案者について規定されていたのと同じ扱いを受けることになる。ロクリでは市民の総会で新しい法律を提案するものは、綱を首にまきつけて登場し、理由を聞いた総会がその場で提案を採用しないかぎり、ただちに絞首刑にされると規定されていたのである。真理を伝えた恩人をこのように扱うのが正しいと主張する人が、真理の価値を十分に認めているとは考えにくい。このような見方をする人は、新しい真理は過去には望ましいものだっただろうが、いまでは真理が十分に理解されているので、学ぶべきものはないと考えている人だけだと思われる。
 しかし、真理はつねに迫害に勝つという格言は耳に心地よい嘘のひとつであり、繰り返し語られているうちに決まり文句になってはいるが、事実をみていけばこれが間違いであることがはっきりしている。歴史をみていくと、迫害によって真理が圧殺された例がいくらでもある。二度と主張されなくなるわけではなくても、何世紀にもわたって圧殺されたままになることがある。宗教に関する意見だけをみても、宗教改革はルター以前に少なくとも二十回は起こっており、そのたびに鎮圧されている。」(中略)
 「真理が真理であるからという理由で間違った意見にはない力をもともともっていて、地下牢にも処刑台にも打ち勝てるというのは、根拠のない感傷にすぎない。人は間違った意見に熱意をいだくこともあり、真理に対してそれ以上の熱意をいだくわけではないので、法律による刑罰を十分に活用すれば、そして社会による制裁をうまく使った場合すら、間違った意見であろうが真理であろうが、普及するのを阻止できるのが通常である。真理のもつ強みは違った点にある。ある意見が正しければ、一度や二度、あるいは何度も根絶されても、長年のうちに同じ真理が何度も再発見される。いずれは環境が良い時期に再発見され、迫害を受けることなく大きな勢力になり、その後に抑圧の動きがあっても耐えられるほどになるのである。
 いまの時代には新しい意見を紹介したものを処刑することはなく、昔とは違って預言者を殺すどころか、墓を建てて祭っているという意見もあるだろう。たしかに、異端者を処刑することはなくなった。いまではとりわけ不快な意見でも、人びとがおそらく許容する範囲の処罰は、その意見を圧殺できるほど重いものではない。だが、法律による迫害を受ける心配はなくなったなどと考えるべきではない。意見を罰する法律、少なくとも意見の発表を罰する法律はまだなくなっていない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.64-68,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:言論の自由,真理の力)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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2020年4月15日水曜日

ある意見が間違っており、有害で不道徳で不信仰であると確信しても、その意見を弁護する主張を他人が聞く機会を奪うのであれば、自らの無謬性を想定している。こうして、優れた人物や崇高な教えが抑圧されてきた。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

有害で不道徳な意見

【ある意見が間違っており、有害で不道徳で不信仰であると確信しても、その意見を弁護する主張を他人が聞く機会を奪うのであれば、自らの無謬性を想定している。こうして、優れた人物や崇高な教えが抑圧されてきた。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 「自分たちが、みずからの判断にしたがって非難している意見だという理由で、ある意見の発表の機会を奪うのが有害であることをもっと十分に示すには、具体的な例をあげて議論するのが望ましい。その際には、わたしにとってもっとも不利な例を選ぶのが適切だと考える。正しさの点でも効用の点でも、言論の自由に反対する論拠がもっとも強いと考えられる例である。そこで、神と来世への信仰か、一般に受け入れられている道徳が攻撃されている例をとりあげよう。この分野で論争すると、公明正大だとはいえない議論でこの小論の主張に反対しようとする人にきわめて有利になる。そうした人はかならずこう非難するはずだ(そして、不公正な議論の仕方を好まない多数の人も、口には出さないが、内心でこう思うはずだ)。これらの教えが、法律で保護するに値するほど確実だとはいえないというのか、ある意見が確実に正しいと主張すると自分の無謬性を想定することになるというが、神への信仰もそういう意見のひとつだというのかと。こうした非難に対しては以下のように反論したい。ここでいう無謬性の想定、つまり、自分が間違いをおかすはずがないという想定とは、どのような意見であれ、ある意見が正しいという確信を意味しているわけではない。ある問題について、他人がどう判断すべきかを決め、反対意見を聞く機会を与えないことである。わたしがもっとも大切にしている確信を支持する側からこのような動きがでてきたとしても、わたしはその動きを強く非難する。ある意見について、それが間違っているだけでなく、有害な影響を与えるとどれほど強く確信していても、そして、それが有害な影響を与えるだけでなく、わたしが強く非難する表現を使うなら、不道徳で不信仰であるとどれほど強く確信していても、自分自身の判断にしたがって、その意見を弁護する主張を他人が聞く機会を奪うのであれば、自分の国の世論か同時代人の見方によって判断が裏付けられている場合ですら、無謬性を想定しているのである。その意見が不道徳で不信仰だとされていても、無謬性の想定の問題や危険性が少なくなるわけではなく、逆に、だからこそどのような場合よりも致命的になる。こうした場合にこそ、後の世代が驚愕し恐怖するほどおそろしい誤りを、ある世代の人びとがおかしているのである。歴史上忘れがたい例、それも、とりわけ優れた人物を抑圧し、とりわけ崇高な教えを根絶するために法律の力が使われた例はまさに、こうした場合に起こっている。そして、優れた人物が痛ましい死を遂げており、教えての一部は生き残ることができたが、まるで世間を愚弄するかのように、その教えや正統とされる解釈に反対する人を抑圧するときに、抑圧を正当化するために使われている。
 かつてソクラテスという人物がいて、当時の司法当局や世論と衝突した事件を、人類は繰り返し思い起こすべきである。ソクラテスは偉大な人物を輩出した時代と国に生まれ、その人物と時代をよく知る人びとによって、そのなかでももっとも高潔な人物であると語りつがれてきた。後世の人間は、ソクラテスこそがその後に美徳を説いたすべての思想家の師、原型であることを知っているし、「知恵あるすべての人の二人の師」、プラトンの崇高な直感とアリストテレスの賢明な効用主義の源泉となり、倫理哲学をはじめとするすべての哲学の二大源流を生み出したことも知っている。その後に登場した優れた思想家全員の師と認められており、二千年以上を経たいま、その名声はさらに高まっていて、アテネの輝きを支えている他の偉人全員の名声をあわせたものより大きいともいえるほどである。そのソクラテスが、不信仰と不道徳の罪で有罪判決を受け、自国の人たちによって死刑に処せられた。不信仰の罪に問われたのは、国が認めた神を否定したからであり、それどころか、どの神も信じていないとされたからである(この点はプラトンの『ソクラテスの弁明』にくわしく書かれている)。不道徳の罪に問われたのは、その思想と教えによって「若者を堕落させた」とされたからである。これらの罪について、裁判所は誠実に検討した結果、有罪だと判断したのであり、裁判所が誠実であったと信じる根拠は十二分にある。その結果、おそらくそれまでに生まれた人のなかで最高の栄誉を受けるに値する人が、犯罪者として死刑判決を受けることになった。
 次に裁判の誤りの例としてあげるのは、ソクラテス裁判の後に取り上げても、小さな話だとは思えないもの、一千八百年以上前にエルサレム郊外のゴルゴタの丘で起こった事件である。その生き方と言葉を直接に見聞きした人に強烈な印象を与え、道徳的で偉大な人物として記憶され、その後の一千八百年にわたって神として崇拝されてきた人物が、罪人として死刑に処せられた。何の罪で死刑になったのか。神を冒涜した罪によってである。当時の人たちは自分たちの恩人を誤解しただけではなかった。実際とはまさに正反対のものと誤解し、不信仰の悪漢として扱ったのであり、そのためにいまでは、そう扱った人こそ不信仰者だとされているのである。この二つの誤り、とくにエルサレムでの裁判の誤りはいまではまったく悲しむべきことだとされているので、誤りをおかした不幸な人たちについての判断が、極端に公平さを欠くものになっている。これらの人たちはどうみても、悪人ではなかった。普通より悪い人物だったわけではなく、正反対だったともいえるほどである。それぞれの時代と国に人びとがもっていた宗教心、道徳心、愛国心を十分に、あるいは十分以上にもっていたのであり、どの時代にも、もちろんいまの時代にも、非難を受けるどころか、尊敬される一生を送る可能性がきわめて高い種類の人物であった。裁判にあたった大祭司はイエスの言葉を聞いて自分の服を引き裂いたというが、当時の考え方からは極悪の罪になる言葉だったのだから、その憎しみと怒りが本心からのものであったという点でおそらく、いま、高潔で敬虔な人の大部分にとって、各人が公言する宗教的道徳的感情が本心からのものであるのと少しも変わらなかったはずである。大祭司の行為に戦慄する人びとの大部分も、同じ時代にユダヤ人として生まれていたとすれば、まったく同じ行動をとったはずである。正統派のキリスト教徒は、石を投げて初期の殉教者を殺した人たちについて、自分たちより悪い人間だったと考えたがるだろうが、そのひとりが聖パウロであったことを思い起こすべきである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.55-60,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:有害で不道徳な意見,無謬性)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
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