2018年4月20日金曜日

交渉家の資質:注意深さと勤勉さ、物事の本質を把握し的確に目的達成する判断力、物静かで忍耐強い傾聴の力、相手から好かれるような性格、相手の心理への洞察力、障害を除去する機略縦横な能力、不意打ち状況でも的確に応答できる沈着さ。(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717))

交渉家の資質

【交渉家の資質:注意深さと勤勉さ、物事の本質を把握し的確に目的達成する判断力、物静かで忍耐強い傾聴の力、相手から好かれるような性格、相手の心理への洞察力、障害を除去する機略縦横な能力、不意打ち状況でも的確に応答できる沈着さ。(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717))】
(1) 浮薄な快楽や慰みごとに気を散らすことの決してなく、注意深く勤勉であること。
(2) 物事をあるがままにずばりと把握し、いちばん近道で無理のない方法で目標を達成する判断力をもつこと。洗練の度がすぎたり、意味のない細かな手立てにおぼれないこと。
(3) 気分にむらがなく、物静かで忍耐強く、相手の言うことに、何時でも気を散らさずに耳を傾けられること。
(4) 人との応対がいつも開けっぱなしで、おだやかで、ていねいで、気持ちがよく、また、物腰が気どらないでさりげなく、そのためにうまく相手から好かれること。
(5) 人の心の中で起こっていることを見破り、相手の感情をうまく利用できるような洞察力をもつこと。
(6) 利害の調整に当たって出くわす障害を、たやすくとり除いてしまうような機略縦横な才をもつこと。
(7) 思いがけぬ問題に不意打ちされても、うまく受け答えができ、分別のある答弁でその場を切りぬけられるような沈着さをもつこと。
「そのような資質とは、浮薄な快楽や慰みごとに気を散らすことの決してない注意深く勤勉な精神である。物事をあるがままにずばりと把握し、いちばん近道で無理のない方法で目標に進み、洗練の度がすぎたり、意味のない細かな手立てにおぼれて、よくありがちなことながら、交渉相手を尻込みさせるというような間違いを犯さない正しい判断力である。ひとの心の中で起こっていることを見破ることができ、どんなにおとぼけの上手な人でも感情を抑えきれないで、それが顔の表情などにちょっとでも出るのをすぐうまく利用できるような洞察力である。任務である利害の調整に当たって出くわす障害を、たやすくとり除いてしまうような機略縦横の才である。思いがけぬ問題に不意打ちされても、うまく受け答えができ、足をすべらしそうになっても、分別のある答弁でその場を切りぬけられるような沈着さである。気分にむらがなく、物静かで忍耐強く、相手のいうことに、何時でも気を散らさずに耳を傾けられるということである。人との応対がいつも開けっぱなしで、おだやかで、ていねいで、気持ちがよく、また、物腰が気どらないでさりげなく、そのためにうまく相手から好かれるということである(その反対は、重々しく冷たいそぶりや、陰鬱でむっとしたような顔つきで、これでは相手を尻込みさせるし、反発を招くのが普通である)。」
(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)『外交談判法』第3章 交渉家の資質と行状について、pp.20-21、岩波文庫(1978)、坂野正高(訳))
(索引:交渉家の資質)

外交談判法 (岩波文庫 白 19-1)




(出典:wikipedia
「こうしたいろいろな交渉の仕方のいずれの場合にも、彼は、とりわけ、公明正大で礼儀にかなったやり方で成功を収めるようにするべきである。もし、細かい駆け引きを用い、相手よりもすぐれているつもりのおのれの才智にたよって、成功しようなどと思うならば、それはまず思い違いというものである。みずからの本当の利益を知る能力をそなえた顧問会議をもたないような君主や国家はない。いちばん粗野なようにみえる国民こそが、実は、自分の利益を最もよく理解して、ひとよりも一層粘り強くこれを追求する国民であることがしばしばある。であるから、どんなに有能な交渉家でも、そうした国民を、この点で欺こうなどと思ってはいけない。むしろ、彼が役目柄提案している事柄の中には、彼らにとって本当に有利な点がいろいろあることを分かってもらえるように、おのが知識と知力の限りを尽くして努力すべきである。人と人の間の友情とは、各人が自分の利益を追求する取引にほかならない、と昔のある哲人が言ったが、主権者相互の間に結ばれる関係や条約については、なおさら同じことが言える。相互的な利益を基礎においていない関係や条約は、存在しない。各主権者が相互に利益を見出さない場合には、条約は効力をほとんど持ち続けないで、自壊する。従って、交渉のいちばんの秘訣はかかる共通の諸利益を共存させ、できれば変わらぬ足どりで、前進させるための方法を見つけることである。」
(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)『外交談判法』第8章 交渉家の職務について、pp.58-59、岩波文庫(1978)、坂野正高(訳))

フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)
フランソワ・ド・カリエールの関連書籍(amazon)
検索(Francois de Callieres)
検索(フランソワ・ド・カリエール)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

2.交渉者に秘かな意図を伝えるべきか。誠実で非常に優秀な者でなければ、交渉相手に信じ込ませたいことのみを伝えること。なぜなら、目的が明確であり折衝が心底からのものでなければ、効果的な交渉はできないからだ。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))

隠された意図

【交渉者に秘かな意図を伝えるべきか。誠実で非常に優秀な者でなければ、交渉相手に信じ込ませたいことのみを伝えること。なぜなら、目的が明確であり折衝が心底からのものでなければ、効果的な交渉はできないからだ。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))】
 大使に自分の秘かな意図を伝えておくべきかどうか。
(1) 慎重で誠実で、主君にたいしては敬愛を感じ、他の君主に色目を使うなど思いにもよらぬほど、自分の主君に心服しているような大使の場合。派遣する大使に、自分の秘かな意図、相手方との折衝における企みを教え込むのが良策である。ただし、次のデメリットがある。
(1.1) もし大使が、その折衝が心底からのもので、見せかけのものではないと信じこんでいるばあいに演ずるような、大胆で効果的で真に迫った言動を、とることはむずかしくなる。
(1.2) また、どんな事態にも対処できるような細かい指示を大使に与えておくことは、ほとんどできない相談なので、大まかな目標にたいしてどう対処したらよいかを、自らの意志どおりに裁量できるようにしむけてやらなければならない。けれども、もし大使が、その目的を充分に理解していなければ、彼は目的を遂行しえない。このために、数かぎりないあやまちを犯しやすくなるのである。
(2) 君主が、自分の大使が完全に(1)のような条件をみたしているという確信がもてないときには、君主にとって最も安全な道は、大使に自分の心のなかを漏らさないようにしておくことである。そして、その君主が、外国の君主に信じこませようとしている同じことがらを、自分の大使にも植えつけておくことである。もし相手の君主をたぶらかそうとすれば、まず第一に自分自身の大使から、だましてかからなければならないと考えるからである。次のメリットがある。
(2.1) 大使が、それを本当のことだと思いこんでいるばあいには、事態が要求している以上に真に迫った行動をとることが多い。そしてもし大使が、自分の君主がある特定の目標を成就しようと本当に心を砕いているのだと信じきっているなら、その大使は、そのからくりを見抜いているばあいの行動にくらべて、折衝にあたって、より思いきったふるまいにでるものなのである。

 「君主の中には、大使を派遣するにあたって、その人物に自分のひそかな意図をあらいざらいうちあけて、相手方の君主との折衝で、もっていこうとしているたくらみまでも教えこむ人がいる。

また一方、別の君主の中には、相手方の君主に思いこませようとしていることだけを自分の大使に言っておくほうが良策だと考えている人がいる。

というのも、もし相手の君主をたぶらかそうとすれば、まず第一に自分自身の大使から、だましてかからなければならないと考えるからである。そしてこの大使が、相手の君主と折衝してあることを思いこませる役目を果たすことになるわけだ。

 両者いずれの考えにしても、それぞれの言い分がある。

というのは、前者のばあい、自分の主君が相手の君主に一杯くわそうとしているその意図をのみこんでいる大使は、もし彼がその折衝が心底からのもので見せかけのものではないと信じこんでいるばあいに演ずるような、大胆で効果的で真に迫った言動をとることはむずかしいと思われるからである。

すなわち偶然か故意かのどちらかで、君主の本心を知ってしまった大使なら、君主の本心を知らないままに行動するばあいのようには、とてもふるまえないのである。

 他方、大使がうそを吹きこまれて、しかも、それを本当のことだと思いこんでいるばあいには、事態が要求している以上に真に迫った行動をとることが多い。

そしてもし大使が、自分の君主がある特定の目標を成就しようと本当に心を砕いているのだと信じきっているなら、その大使は、そのからくりを見抜いているばあいの行動にくらべて、折衝にあたって、より思いきったふるまいにでるものなのである。

 また、どんな事態にも対処できるような細かい指示を大使に与えておくことは、ほとんどできない相談なので、大まかな目標にたいしてどう対処したらよいかを自らの意志どおりに裁量できるようにしむけてやらなければならない。

けれども、もし大使が、その目的を充分に理解していなければ、彼は目的を遂行しえない。このために数かぎりないあやまちを犯しやすくなるのである。

 私の考えによれば、慎重で誠実で、主君にたいしては敬愛を感じ、他の君主に色目を使うなど思いにもよらぬほど自分の主君に心服しているような大使を召し抱えている君主は、自分の考えをその大使にうちあけるのが良策であろう。

けれども、君主が、自分の大使が完全にこのような条件をみたしているという確信がもてないときには、君主にとって最も安全な道は、大使に心のなかをもらさないようにしておくことである。

そして、その君主が外国の君主に信じこませようとしている同じことがらを、自分の大使にも植えつけておくことである。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)C、2 君主と大使、pp.45-46、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

(索引:交渉家)

フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)



フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「この書物の各断章を考えつくのはたやすいことではないけれども、それを実行に移すのはいっそうむずかしい。それというのも、人間は自分の知っていることにもとづいて行動をおこすことはきわめて少ないからである。したがって君がこの書物を利用しようと思えば、心にいいきかせてそれを良い習慣にそだてあげなければならない。こうすることによって、君はこの書物を利用できるようになるばかりでなく、理性が命ずることをなんの抵抗もなしに実行できるようになるだろう。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)B、100 本書の利用のし方、p.227、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)
グィッチャルディーニの関連書籍(amazon)
検索(フランチェスコ・グィッチャルディーニ)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

あなたの意見が合理的で正しく、またあなたが、いかに誠実善良な人であったとしても、相手を説得するのは難しいということを覚えておくこと。相手が、よほどの聖人・賢者でもなければ、あなたの意見は悪口や非難だと見なされてしまうだろう。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))

説得の困難さ

【あなたの意見が合理的で正しく、またあなたが、いかに誠実善良な人であったとしても、相手を説得するのは難しいということを覚えておくこと。相手が、よほどの聖人・賢者でもなければ、あなたの意見は悪口や非難だと見なされてしまうだろう。(韓非(B.C.280頃-B.C.233))】
 あなたが、いかに仁徳のある賢者で、また誠実善良な人であったとしても、また、あなたの意見が、筋道がたっていて正しいとしても、あなたが説得の相手に信用されており、また相手が賢者でない限りは、相手を説得するのは難しいだろう。説得の相手が力のある者の場合、あなたには禍いや災難がふりかかってくるだろう。過去、多くの聖人・賢者が、道に外れた暗愚な君主によって辱めを受けたり命を落としたりしてきた。
 なぜなのか。すばらしい最高の言葉であっても、愚かな者には、耳に逆らい心にそむくものに聞こえ、その人に対する悪口や非難だと見なされてしまうからだ。このような言葉は、聖人・賢者でなければなかなか聞きいれることができないものなのだ。
 相手の好みに合わせて美辞麗句で説得すれば「うわべの華やかさだけで実がない」、逆に、まじめ一方で慎み深く、手堅くて落ち度のないように説得すると「話し方が拙くて筋が通っていない」。喩えをあげ、例を引き雄弁に説得し過ぎると「内容がなくて無益」、逆に、飾り気なく要点を簡略に述べると「暗愚で弁が立たない」。激しく迫った調子で説得すると「僭越で無遠慮」、大きく話をひろげて説得をすると「おおげさで派手なだけで無益」、逆に、日常生活の細かいことで計算ずくの話をすると「下品」。世俗にあわせて無難な話をしていると「生命大事にとお上にへつらっている」、逆に、変わったことで世間の目を引こうとすると「でたらめだ」。機敏で口達者に、飾りたてて説得すると「ただの文章家」、逆に、生地のまごころで話をすると「下賤」、古い歴史を規準にしたりすると「暗記のくりかえし」。
「私め韓非は、申しあげることをためらってしぶっているわけではありませんが、申しあげるのがはばかられる理由は、こういうことです。ものの言い方を、殿さまの好みに合わせて美しくなめらかにし、のびのびと広がってつづいていくようにすると、殿さまからはうわべの華やかさだけで実がないと思われるでしょう。まじめ一方で慎み深く、手堅くて落ち度のないようにすると、殿さまからは話し方が拙くて筋が通っていないと思われるでしょう。そこで雄弁になってしゃべりたて、喩えをあげて例を引くようにすると、殿さまからは内容がなくて無益だと思われるでしょう。要点をまとめてあらましを説き、まっ直ぐ簡略に述べて飾り気がないと、殿さまからは暗愚で弁が立たないと思われるでしょう。激しく迫った調子で人の腹をさぐるようなことをすると、殿さまからは僭越で無遠慮だと思われるでしょう。広々と大きく話をひろげて、はかり知れないほど高遠にすると、殿さまからはおおげさで派手なだけで無益だと思われるでしょう。そこで、日常生活のこまかいことで計算ずくの話をしたりすると、殿さまからは下品だと思われるでしょう。世俗にあわせてことばで人に逆らわない話をしていると、殿さまからは生命大事にとお上にへつらっていると思われるでしょう。そこで俗な話はやめて、変わったことで世間の目を引こうとすると、殿さまからはでたらめだと思われるでしょう。機敏で口達者に、飾りたてたことばをたくさん使うと、殿さまからはただの文章家と思われるでしょう。そこで、文章学問をきっぱり棄て去って、生地のまごころで話をすると、殿さまからは下賤だと思われるでしょう。『詩経』や『書経』を時どき取りあげ、古い歴史を規準にしたりすると、殿さまからはまる暗記のくりかえしと思われるでしょう。以上が、この私め韓非が殿さまに事を申しあげるのをはばかって、深く心を傷めている理由なのです。」
「そこで、規準にかなって正しいからといって、申しあげたことが必ず受けいれられるとは限りません。筋道がたって完璧だからといって、申しあげたことが必ず用いられるとは限りません。大王がもし前に述べたようなことで信用してくださらないとなると、軽くても悪口か非難だと見なされ、重い場合は禍いや災難がふりかかって、死罪で命を失うことにもなりましょう。」(中略)
「以上の十数人の人々は、みな世間の認める仁徳の賢者で誠実善良な人であり、道術を身につけた士人ばかりです。ところが、不幸なことには道に外れた暗愚な君主に出あって命を落としました。してみると、たとえ聖人・賢者であっても、殺されたり辱めを受けたりすることを避けられないというのは、どうしてでしょうか。つまりは、愚かな者には説得するのが難しいからです。そこで、君子は申しあげるのをためらうのです。それに、すばらしい最高の言葉というものは、耳に逆らい心にそむくものですから、聖人・賢者でなければなかなか聞きいれることができません。大王さま、どうかここのところをよくよくお考えください。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』難言 第三、(第1冊)pp.64-65,67,71、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(索引:説得の困難さ)
(原文:3.難言韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

韓非子 (第1冊) (岩波文庫)



韓非(B.C.280頃-B.C.233)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:twwiki
「国を安泰にする方策として七つのことがあり、国を危険にするやり方として六つのことがある。
安泰にする方策。第一は、賞罰は必ず事の是非に従って行うこと、第二は、禍福は必ず事の善悪に従ってくだすこと、第三は、殺すも生かすも法のきまりどおりに行うこと、第四は、優秀か否かの判別はするが、愛憎による差別はしないこと、第五は、愚か者と知恵者との判別はするが、謗ったり誉めたりはしないこと、第六は、客観的な規準で事を考え、かってな推量はしないこと、第七は、信義が行われて、だましあいのないこと、以上である。
 危険にするやり方。第一は、規則があるのにそのなかでかってな裁量をすること、第二は、法規をはみ出してその外でかってな裁断をくだすこと、第三は、人が受けた損害を自分の利益とすること、第四は、人が受けた禍いを自分の楽しみとすること、第五は、人が安楽にしているのを怯かして危うくすること、第六は、愛すべき者に親しまず、憎むべき者を遠ざけないこと、以上である。こんなことをしていると、人々には人生の楽しさがわからなくなり、死ぬことがなぜいやなのかもわからなくなってしまう。人々が人生を楽しいと思わなくなれば、君主は尊重されないし、死ぬことをいやがらなくなれば、お上の命令は行われない。」
(韓非(B.C.280頃-B.C.233)『韓非子』安危 第二十五、(第2冊)pp.184-185、岩波文庫(1994)、金谷治(訳))
(原文:25.安危韓非子法家先秦兩漢中國哲學書電子化計劃

韓非(B.C.280頃-B.C.233)
韓非子の関連書籍(amazon)
検索(韓非子)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

2018年4月19日木曜日

国家にとって、腕利きの交渉家の交渉技術ほど重要なものはない。それは、無数の権利主張や紛争を、自国の利益にかなう協定で解決する。また、安全保障においても、自国の安全と利益にかなう状況工作により、しばしば軍隊を維持するにも劣らぬ効果を上げる。(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717))

国家と交渉技術

【国家にとって、腕利きの交渉家の交渉技術ほど重要なものはない。それは、無数の権利主張や紛争を、自国の利益にかなう協定で解決する。また、安全保障においても、自国の安全と利益にかなう状況工作により、しばしば軍隊を維持するにも劣らぬ効果を上げる。(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717))】
 交渉技術は、人間が考え出したすべての法律よりも、一層大きな影響力を人間の行動に及ぼす。なぜなら法律は、紛争やきまりのつかない権利主張を無数にもらたし、これは協定を結ぶことによってのみ解決しうるからである。そしてその成果は、かかる任務を与えられる交渉家の行状と資質の如何によって左右される。
 利害の相対立する政府の間での条約の締結、条約の解消は言うに及ばず、交渉家は、しばしば軍隊を維持するにも劣らぬ効果を、わずかな費用であげる。慎重で腕利きの交渉家を、世界の諸国に常時駐在させ、諸国において選り抜きの友人と情報源を大切にしている君主は、彼自身の利益に従って、隣接諸国の運命を左右し、平和を維持し、あるいは戦争を続けさせることが可能である。
 例えば、任国の軍隊を、自国の利益になるように行動させる。憎悪をかき立たせ、嫉妬心を燃え上がらせることで、反乱をけしかけ、突如として政変を起こさせる。あるいは、己の利益に反するにもかかわらず、君主たちや諸国民をして武器を取らせる。
 もちろん、他の主権者たちの間に起こる紛争に対して、交渉家を使って調停を申し入れ、こちらの仲立ちによって平和を回復させることもまた、大国の君主にとって利益となる。けだし、これほどに、彼の勢力の評判を広め、彼の勢力をすべての国の国民に重んじさせるものはないからである。
「交渉によって何が可能であるかを知るためには、なにも過去の例を引き合いに出すまでもない。交渉がもたらす眼に見える効果を、われわれは毎日のように見ている。交渉は、大国に突如として政変を起こさせる。交渉は、君主たちや諸国民をして、おのれの利益に反するにもかかわらず、国全体をこぞって武器をとらせる。交渉は反乱をけしかける。憎悪をかき立たせる。また、嫉妬心を燃え上がらせる。交渉は、利害の相対立する君主や政府の間に同盟条約またはその他の種類の条約を結ばせる。交渉は、そうした条約を破壊し、最も緊密な結合をも解消させる。交渉技術の上手下手によって、政治全般のあり方も、無数の個々の問題の様子も、その善し悪しが左右されるといえる。また、交渉技術は、人間が考え出したすべての法律よりも、一層大きな影響力を人間の行動に及ぼすといえる。何故ならば、人間が現在以上に法律を守ることに細心であったとしても、法律は紛争やきまりのつかない権利主張を無数にもらたし、これは協定を結ぶことによってのみ解決しうるからである。そして、このような協定は、一般的な性質のものも、特殊的なものも、その締結にあたる交渉家の手腕のほどに応じて、各当事者にとって、有利なものとも、不利なものとも、なるのである。
 従って、次のような結論をたやすく引き出すことができる。ヨーロッパ諸国に配置されたえりぬきの少数の交渉家は、彼らを派遣する君主ないしは政府に対して大いに役立つことができる。彼らは、しばしば軍隊を維持するにも劣らぬ効果を、わずかな費用であげる。何故ならば、彼らは任国の軍隊を主君の利益になるように行動させるすべを心得ているからであって、近くや遠くの同盟国がちょうどうまい時機に牽制作戦をしてくれるほど有益なことはないのである。
 他の主権者たちの間に起こる紛争に対して、交渉家を使って調停を申し入れ、こちらの仲立ちによって平和を回復させることもまた、大国の君主にとって利益となる。けだし、これほどに、彼の勢力の評判を広め、彼の勢力をすべての国の国民に重んじさせるものはない。
 慎重で腕利きの交渉家をヨーロッパの諸国に常時駐在させ、諸国においてえりぬきの友人と情報源を大切にしている強大な君主は、彼自身の利益に従って、隣接諸国の運命を左右し、平和を維持し、あるいは戦争をつづけさせることが可能である。ところで、このような偉大な効果があるか否かは、とりわけ、かかる任務を与えられる交渉家の行状と資質の如何によって左右されるから、この種の仕事につかせるにあたっては、その人材に必要な資質を詳細に検討することが適当である。」
(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)『外交談判法』第2章 交渉の効用について、pp.18-19、岩波文庫(1978)、坂野正高(訳))
(索引:交渉技術、交渉家、法律、安全保障)

外交談判法 (岩波文庫 白 19-1)




(出典:wikipedia
「こうしたいろいろな交渉の仕方のいずれの場合にも、彼は、とりわけ、公明正大で礼儀にかなったやり方で成功を収めるようにするべきである。もし、細かい駆け引きを用い、相手よりもすぐれているつもりのおのれの才智にたよって、成功しようなどと思うならば、それはまず思い違いというものである。みずからの本当の利益を知る能力をそなえた顧問会議をもたないような君主や国家はない。いちばん粗野なようにみえる国民こそが、実は、自分の利益を最もよく理解して、ひとよりも一層粘り強くこれを追求する国民であることがしばしばある。であるから、どんなに有能な交渉家でも、そうした国民を、この点で欺こうなどと思ってはいけない。むしろ、彼が役目柄提案している事柄の中には、彼らにとって本当に有利な点がいろいろあることを分かってもらえるように、おのが知識と知力の限りを尽くして努力すべきである。人と人の間の友情とは、各人が自分の利益を追求する取引にほかならない、と昔のある哲人が言ったが、主権者相互の間に結ばれる関係や条約については、なおさら同じことが言える。相互的な利益を基礎においていない関係や条約は、存在しない。各主権者が相互に利益を見出さない場合には、条約は効力をほとんど持ち続けないで、自壊する。従って、交渉のいちばんの秘訣はかかる共通の諸利益を共存させ、できれば変わらぬ足どりで、前進させるための方法を見つけることである。」
(フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)『外交談判法』第8章 交渉家の職務について、pp.58-59、岩波文庫(1978)、坂野正高(訳))

フランソワ・ド・カリエール(1645-1717)
フランソワ・ド・カリエールの関連書籍(amazon)
検索(Francois de Callieres)
検索(フランソワ・ド・カリエール)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

1.この世の中のことがらは、数かぎりない変化や偶然によって左右されるものなので、もしあなたが、自分の信念をおし通し続けるならば、その思いが実現するということも、しばしば起こってくる。たとえ、その信念が合理的でないにしてもだ。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))

信仰の効果

【この世の中のことがらは、数かぎりない変化や偶然によって左右されるものなので、もしあなたが、自分の信念をおし通し続けるならば、その思いが実現するということも、しばしば起こってくる。たとえ、その信念が合理的でないにしてもだ。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))】
 たとえ、筋の通らないことがらでも、それを信じたとしてみよ。あるいは、筋の通っていることであるにしても、理屈以上にそれをより固く信じて疑わないとしてみよ。信仰をもっている人は、自分の信念には頑とした確信がある。そして困難と危険を物ともせず、あらゆる極限情況にあまんじて身をさらしつつ、恐れることなく決然と我が道を突き進んでいくであろう。この世の中のことがらは、数かぎりない変化や偶然によって左右されるものなので、頑固に信念をおし通す人間にたいして、思いもよらぬ救いの手がさしのべられるということも、時の移ろううちには、しばしばおこってくる。

 「信仰をもつ人間は大事業をやりとげるものだ、と敬虔な人々はいっている。そして福音書のことばどおり、信仰は山をもゆりうごかすのだ、という。

その理由は、信仰は堅忍不抜の信念をうえつけるものだからである。信仰心ということは、すじの通らないことがらでも、信じこんでしまうということにほかならない。

さもなくて、たとえすじの通っていることであるにしても、理屈以上にそれをより固く信じて疑わないものなのである。したがって信仰をもっている人は、自分の信念には頑とした確信がある。そして困難と危険を物ともせず、あらゆる極限情況にあまんじて身をさらしつつ、恐れることなく決然と我が道をつきすすんでいくのである。

 この世の中のことがらは、数かぎりない変化や偶然によって左右されるものなので、頑固に信念をおし通す人間にたいして思いもよらぬ救いの手がさしのべられるということも、時のうつろううちには、しばしばおこってくる。

頑固におし通すということは信念のたまものなのだから、信仰をもつ人が大事業をやりとげるといわれるのも、もっともなことなのだ。」(後略)
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)C、1 信仰の効果、p.43、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))
(索引:信仰の効果、信念、偶然)

フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)



フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「この書物の各断章を考えつくのはたやすいことではないけれども、それを実行に移すのはいっそうむずかしい。それというのも、人間は自分の知っていることにもとづいて行動をおこすことはきわめて少ないからである。したがって君がこの書物を利用しようと思えば、心にいいきかせてそれを良い習慣にそだてあげなければならない。こうすることによって、君はこの書物を利用できるようになるばかりでなく、理性が命ずることをなんの抵抗もなしに実行できるようになるだろう。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)B、100 本書の利用のし方、p.227、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)
グィッチャルディーニの関連書籍(amazon)
検索(フランチェスコ・グィッチャルディーニ)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

2018年4月16日月曜日

不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするときに感じるさまざまな情念は、私たちに、知的な喜びともいえる快感を経験させる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

情念が経験される知的な喜び

【不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするときに感じるさまざまな情念は、私たちに、知的な喜びともいえる快感を経験させる。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「また、わたしたちが不思議な出来事を本で読んだり、舞台で演じられるのを見たりするとき、わたしたちの想像力に与えられる対象の違いによって、ときに悲しみ、ときに喜び、あるいは愛、憎しみ、一般にすべての情念が、わたしたちのうちに引き起こされる。だがそれとともに、わたしたちは、それらの情念がわたしたちのうちに引き起こされるのを感じて、快感をおぼえる。この快感は、知的な喜びであって、他のすべての情念からと同じように、悲しみからも生じうるものだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四七、pp.127-128、[谷川多佳子・2008])
(索引:情念が経験させる知的な喜び)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
デカルトの関連書籍(amazon)
検索(デカルト)
検索(デカルト ac.jp)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

永遠の決定が、私たちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、すべて必然的、運命的でないものは何も起こらない。私たちにのみ依存する部分に欲望を限定し、理性が認識できた最善を尽くすこと。(ルネ・デカルト(1596-1650))

永遠の決定と自由意志

【永遠の決定が、私たちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、すべて必然的、運命的でないものは何も起こらない。私たちにのみ依存する部分に欲望を限定し、理性が認識できた最善を尽くすこと。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 永遠の決定が、私たちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、すべて必然的、運命的でないものは何も起こらない。しかし、いずれを選ぶかに無関心であってはならないし、この神意の決定の不変の運命に頼ってもならない。私たちにのみ依存する部分を正確に見きわめ、この部分以上に欲望が広がらないようにすること。そして、理性が認識できた最善を尽くすこと。

 「ゆえに、わたしたちの外部に偶然的運があって、その意向のままに、事物を起こさせたり起こさせなかったりしている、という通俗的意見を、まったく捨て去らねばならないし、そして次のことを知らねばならない。

すべてが神の摂理に導かれている。その摂理の永遠の決定は、不可謬かつ不変なので、その決定がわたしたちの自由意志に依存させようとしたもの以外は、わたしたちに必然的、いわば運命的でないものは何も起こらない、と考えねばならない。

したがって、わたしたちはそれと別様に起こるように欲すれば、必ず誤る。以上のことを知らなければならない。

しかし、わたしたちの欲望の大部分は、まったくわたしたちだけに依存するのでもなければ、まったく他に依存するのでもない、そうした事物にまで及んでいるから、これらのものにおいて、わたしたちにのみ依存する部分を正確に区別すべきである。

この部分以上にわたしたちの欲望が広がらないようにするためだ。

残りの部分については、その首尾はまったく運命的かつ不変と認めて、わたしたちの欲望がそれにかかわらないようにすべきである。

しかしやはり、その部分をも多少は期待させてしまう諸理由を考察することで、わたしたちの行動を統御するのに役立てるべきである。

たとえば、ある場所に用事があって、そこへは二つの違った道を通って行くことができ、その一方の道はふだんは、他方の道よりはるかに安全だ、という場合がある。

ところが、摂理の決定によればおそらく、このより安全と考えられる道を行けば必ず強盗に出会い、反対にもう一方の道はなんの危険もなしに通れることになっている。

だからといってわたしたちは、そのいずれかを選ぶことに無関心であってはならないし、また、この神意の決定の不変の運命に頼ってもならない。

が、理性は、通常はより安全である道を選ぶことを要求する。

そして、わたしたちがその道に従ったとき、そのことからいかなる悪が起こったとしても、わたしたちの欲望はこれに関してはすでに達成されているはずなのだ。

なぜなら、その悪はわたしたちにとっては不可避であったから、その悪を免れたいと望む理由はまったくなく、わたしたちはただ、上述の仮定でなしたように、知性が認識できた最善を尽くせばそれでよかったのだから。

そして、このように運命を偶然的運から区別する修練をつむとき、欲望を統御することをたやすく自ら習慣とし、そのようにして、欲望の達成はわたしたちにのみ依存するわけだから、欲望はつねにわたしたちに完全な満足を与えることができるのは確かである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四六、pp.125-127、[谷川多佳子・2008])
(索引:二つの道の喩え、自由意志、私たちに依存しないもの、偶然的運、必然性、永遠の決定)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
デカルトの関連書籍(amazon)
検索(デカルト)
検索(デカルト ac.jp)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

私たちに依存しないものを可能だと認め欲望を感じるとき、これは偶然的運であり、知性の誤りから生じただけの幻なのである。なぜなら摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、私たちは原因のすべてを知り尽くすことはできないからである。(ルネ・デカルト(1596-1650))

私たちに依存しないもの

【私たちに依存しないものを可能だと認め欲望を感じるとき、これは偶然的運であり、知性の誤りから生じただけの幻なのである。なぜなら摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、私たちは原因のすべてを知り尽くすことはできないからである。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 結果を生む原因のすべてを知り尽くしてはいないにもかかわらず、私たちに依存しないものを可能だと認め欲望を感じる場合には、かつてそれに似たものが起こったことがあると判断し、ただそれらを「偶然的運」と考えているのである。しかし摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、偶然的運とは対置されねばならない。もし、それが起こらなかったときは、生起に必要であった原因のどれかが欠けていたのであり、したがってそれは絶対に不可能なものであったのだ。私たちが予めこれらの点に無知でなかったならば、けっしてそれを可能とは考えなかったろうし、したがってそれを欲望もしなかっただろう。すなわち、偶然的運とは、わたしたちの知性の誤りから生じただけの幻なのである。

 「したがって摂理は、運命あるいは不変の必然性のようなものであり、偶然的運とは対置されねばならない。

そうやって、偶然的運とは、わたしたちの知性の誤りから生じただけの幻として打破されるべきものとなる。

たしかに、わたしたちは、ともかくも可能だと認めるものだけを欲望できる。

そしてわたしたちに依存しないものを可能だと認めるのは、ただそれらが偶然的運に依存すると考える場合である。つまり、それらは起こりうる、かつてそれに似たものが起こったことがある、と判断する場合である。

ところで、このような意見は、わたしたちがいちいちの結果を生むにあずかった原因のすべてを知り尽くしてはいないことにもとづくだけなのである。

事実、わたしたちが偶然的運に依存すると認めたものが起こらないとき、それによって明らかになるのは次のことだ。

偶然的運によって起こると考えられたものの生起に必要であった原因のどれかが欠けていたこと、したがってそれは絶対に不可能なものであったこと、また、それに似たものも、かつて起こらなかったこと、つまりその生起のためには同様の原因がやはり欠けていたこと。

そこで、もしわたしたちが予めこれらの点に無知でなかったならば、けっしてそれを可能とは考えなかったろうし、したがってそれを欲望もしなかっただろう。」

(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四五、pp.124-125、[谷川多佳子・2008])
(索引:私たちに依存しないもの、偶然的運、必然性、原因)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
デカルトの関連書籍(amazon)
検索(デカルト)
検索(デカルト ac.jp)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

2018年4月14日土曜日

命題集 ルネ・デカルト(1596-1650) (2)認識論

命題集 ルネ・デカルト(1596-1650) (2)認識論

6.1 認識するわれわれ
 ・ 最初に、精神に生来具わっている確実なものをまず見いだし、次には、認識とは何であるか、それはどこまで及びうるかを探究する必要がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 認識するわれわれと、認識さるべき物自身。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 (以下、5.1の再掲)
 5.1 意志のすべてが精神の能動である。
 5.1.1 精神そのもののうちに終結する精神の能動
  ・ 意志のひとつとして、精神そのもののうちに終結する精神の能動がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  ・ 認識力は、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけるときは認知と呼ばれ、記憶をもとにした想像力だけに働きかけるときは想起と呼ばれ、新たな形をつくるために想像力に働きかけるときは想像と呼ばれ、独りで働くときは理解(純粋悟性)と呼ばれる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

 5.1.1.1 「見る」とか「触れる」等の認知とは
  認識力が、想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけること。
 5.1.1.2 記憶の「想起」とは
  認識力が、記憶をもとにした想像力だけに働きかけること。
 5.1.1.3 「想像する」とか「表象する」こととは
  認識力が、新たな形をつくるために想像力に働きかけること。
  (例)存在しない何かを想像する。
  ・ 存在しない何かを想像しようと努める場合、また、可知的なだけで想像不可能なものを考えようと努める場合、こうしたものについての精神の知覚も主として、それらを精神に知覚させる意志による。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  (例)詩人は、精神的なものを形象化するために、想像力を用いる。
  ・ 悟性は精神的なものを形象化するために、風や光などのようなある種の感覚的物体も、用いることができる。これは詩人たちの手法だ。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 5.1.1.4 「理解する」こと(純粋悟性)とは
  認識力が、独りで働くこと。
 5.1.1.4.1 悟性はいかにして、想像力、感覚、記憶から助けられ、あるいは妨げられるか。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 5.1.1.4.2 悟性は、感覚でとらえ得ないものを理解するときは、かえって想像力に妨げられる。逆に、感覚的なものの場合は、観念を表現する物自体(モデル)を作り、本質的な属性を抽象し、物のある省略された形(記号)を利用する。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 5.1.1.4.3 問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。次に紙の上で、記号をもって解決を見出すことで、当初の問題の解を得る。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  (例)可知的なだけで想像不可能なものを考える。
  (例)捨象、抽象
  (例)観念を表現する物自体(モデル)
  (例)物のある省略された形(記号)
  (例)問題となっている対象を表わす抽象化された記号を、紙の上の諸項として表現する。
 5.1.1.4.4 認識に関係させて考察するのは、事実上存在するものとしてのそれらについて語るとは、異なった仕方でなすべきである。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 5.1.1.4.5 悟性の充分に直感しえぬ何ものかは、その困難自体の本性による場合もあるし、人間という身分がそれを妨げるがゆえである場合もある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 5.1.1.4.6 (補足説明)眼の前の蜜蝋は、確かに、ただ単に精神の洞観と言えるようなものとして、明晰かつ判明に現われている。(参照:蜜蝋の例)このような認知の働きは、認識力が想像力と共同して外部感覚や共通感覚に働きかけることによるもので、精神の能動(意志)の一つである。(参照:認知、想起、想像、純粋悟性)これは確かに、私が「事実上存在するもの」の認識に迫る一つの方法である。この同じ蜜蝋を、多数の化学物質の複雑な混合物として表現したとすれば、これは純粋悟性による一つの記述である。あるいはこの蜜蝋を、形と質量を持った物理的な物体として理解することもできよう。しかし注意すべきは、このように純粋悟性により理解された蜜蝋は、「事実上存在するもの」とは、もはや異なるものであり、記号やモデルに過ぎない。では、単純なものなら、存在そのものに迫れるだろうか。一個の電子なら、それも可能であろう。しかし、眼の前のたった一滴の水といえども、それを「事実上存在するもの」として記述することはできない。

(蜜蝋 出典:wikipedia
 5.1.1.4.7 人間に知られ得るものは、論拠から論拠への長い論理の鎖で、連続し合っているのであろう。そして、そこに至るための四つの教則は、(1)明証的に真、および明晰かつ判明な現前、(2)分析と分割、(3)総合と演繹、(4)枚挙による再検査である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
(1)明証的に真、および明晰かつ判明な現前
(2)分析と分割
(3)総合と演繹
(4)枚挙による再検査
 5.1.1.4.8 「我々がどんなものの認識にも到達し得ない」ということを否定する限り、我々が、我々の本性の創造者によって欺かれているかもしれないということは、否定される。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))
 5.1.1.4.9 人間は自然の一部分であって他の諸部分と密接に結合している。だから、もしこの自然がいまとは異なった仕方で創造されていたとしたら、我々の本性もまた、それら創造された事物を理解し得るようなものに創られていたことであろう。(バールーフ・デ・スピノザ(1632-1677))

(出典:wikipedia

 5.1.2 身体において終結する精神の能動(運動、行動)
  ・ 意志のひとつとして、身体において終結する能動がある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  ・ 想像が、多数のさまざまな運動の原因となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  ・ デカルトの第二格率:日常の生活行動において最も真実な意見が分からないときには、蓋然性の最も高い意見に従うこと。そして、薄弱な理由のゆえに自らのこの決定を変えてはならない。志を貫き行動することによって、真偽の見極めと軌道修正も可能となる。(ルネ・デカルト(1596-1650))

6.2 認識さるべき物自身
 ・ いかなる事においても発見せらるべき真理はただ一つしかないのであって、その真理を発見しうる人はいかなる人にもせよ、そのものについては人の知りうるかぎりを知るのである。(ルネ・デカルト(1596-1650))

6.2.1 おのずからしてわれらに明らかであるもの
 ・ おのずからしてわれらに明らかであるもの。(ルネ・デカルト(1596-1650))
(以下、2~5の再掲 要約)
  2.私は存在する
   人間精神が何であるか。
  3.私でないものが、存在する
  4.精神と身体
   身体は何であるか。
   身体は精神によっていかに形成されるか。
  5.私(精神)のなかに見出されるもの
   この複合物(人間)全体において、事物を認識するに役立つ能力はいったい何であるか。
   それらの一々はいかなる働きをするか。
   5.1 意志のすべてが精神の能動である。
   5.1.1 精神そのもののうちに終結する精神の能動
   5.1.2 身体において終結する精神の能動(運動、行動)
   5.2 あらゆる種類の知覚ないし認識が、一般に精神の受動である。
   5.2.1 身体を原因とする知覚
   5.2.1.1 外部感覚
   5.2.1.2 共通感覚
   5.2.1.3 想像力、記憶
   5.2.1.4 自分の肢体のなかにあるように感じる痛み、熱さ、その他の変様
   5.2.1.5 身体ないしその一部に関係づける知覚としての、飢え、渇き、その他の自然的欲求
   5.2.1.6 精神の能動によらない想像、夢の中の幻覚や、目覚めているときの夢想
      (広い意味では、情念の一種)
   5.2.2 精神を原因とする知覚
   5.2.2.1 意志についての知覚
   5.2.2.2 意志に依存するいっさいの想像や他の思考についての知覚
   5.2.3 精神だけに関係づけられる知覚(情念)
   (身体を原因とする知覚や、精神を原因とする知覚を、原因とする。)

6.2.2 いかにしてあるものが他のものから認識せられるか
 ・ いかにしてあるものが他のものから認識せられるか。(ルネ・デカルト(1596-1650))
6.2.2.1 単純なる事物の概念
   (単純本質、すべてそれ自身によって知られるもの)
   (悟性が、事物を直感し認識する能力によって知られるもの)
   ・ 悟性にとって単純なる事物には、純粋に悟性的なもの、純粋に物質的なもの、共通的なものがある。(ルネ・デカルト(1596-1650))
   ・ 悟性が直感し、真と認識するところの単純本質は、すべてそれ自身によって真である。(ルネ・デカルト(1596-1650))
6.2.2.1.1 純粋に悟性的なもの
     認識とは何であるか。
     疑いとは何であるか。
     意志の働きとは何であるか。
6.2.2.1.2 純粋に物質的なもの
     形、延長、運動など。
6.2.2.1.3 共通的なもの
     共通概念(公理):他の諸々の単純本質を相互に結合する鎖
     存在、統一、持続など。
6.2.2.2 単純なる事物の概念から複合せられた概念
  (悟性が、肯定あるいは否定の判断を下すところの能力によって知られるもの)
  ・ 単純本質は、必然的にか偶然的にか結合される。単純本質と、これらの混合または複合のほかに、われらは何ものをも理解できない。複合的と呼ばれる本質は、経験することによってか、または、われわれ自身が複合することによって認識される。この複合は、衝動によるか、推測によるか、または演繹による。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    単純本質の必然的結合
     (例)形と延長は、必然的に結合されている。
     (例)運動と持続、時間は、必然的に結合されている。
    単純本質の偶然的結合
    経験によって知られる複合的本質
     感覚によって知覚するすべてのもの
     一般に悟性に現れる一切のもの
     他人から聴くところのすべてのもの
     (例)最も聡明な人たちが実践上では一般に承認する最も穏健な意見
     (例)国の法律および慣習
     (例)私を幼時から育ててきた宗教
     ・ デカルトの第一格率:理性による判断が決意を鈍らせ不決断に陥らせるような場合には、私を育ててきた宗教、聡明な人たちの穏健な意見、国の法律、慣習に服従することで、日々の生活をできるだけ幸福に維持すること。(ルネ・デカルト(1596-1650))
    悟性が複合した複合的本質
    衝動により得られた複合的本質
    推測により得られた複合的本質
    演繹により得られた複合的本質

6.2.3 各々の物からいかなる事柄が演繹されるか
 ・ 言葉から物を、結果から原因を、原因から結果を、似たものから似たものを、部分から部分または全体そのものを、引き出す。(ルネ・デカルト(1596-1650))
  言葉から物を引き出す。(言葉の不明瞭さに困難が存する場合)
  結果から原因を引き出す。(それが何であるか、それが存在するか否かを探る。)
  似たものから似たものを引き出す。(類推)
  部分から部分を引き出す。
  部分から全体そのものを引き出す。
  原因から結果を引き出す。(演繹)
 ・ 哲学とは知恵の探究、人間の知り得るすべての事物の完全な知識の探究を意味し、生活の思慮、健康の維持、技術の発見にも及ぶ。これは(1)人間精神が把握できる明白かつ自証的な真理と、(2)原因、原理に基づく演繹過程を基礎とし、単なる「処世の才能」ではない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学であり、これら諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳にまで至る。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ 哲学とは、真偽を識別し、この人生を導いてくれるようなものだ。自分の人生に大きな影響をもつ、この世間という大きな書物のうちで経験する様々な事物や事件のなかでこそ、私は、多くの真理に出会うことができよう。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ あらゆる学問は人間的知恵にほかならず、対象の相違によって諸々の学問に細分化して研究すべきだと思い込んだのは誤りである。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ すべての学問は相互に結合し、互いに他に依存しているから、事物の真理を探究しようと欲するなら、どれかただ一つの学問を選んではならない。(ルネ・デカルト(1596-1650))
 ・ デカルトの第三格率:運命に、よりはむしろ自分にうち勝とう、世界の秩序を、よりはむしろ自分の欲望を変えよう、と努めること。(ルネ・デカルト(1596-1650))



(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (2)認識論
 6.認識論
 6.1 認識するわれわれ
 6.2 認識さるべき物自身
哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (3)情念論
 7.情念論
 7.1〈驚き〉
 7.2〈快〉と〈嫌悪〉
 7.3 わたしたちの状況・行為、他の人たちの状況・行為による〈善〉〈悪〉の感受
 7.4 〈善〉〈悪〉〈美〉〈醜〉と、情念の関係
 7.5 真なる〈善〉〈悪〉、偽なる〈善〉〈悪〉にもとづく情念
 7.6 さまざまな〈愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受
 7.7 欲望論
 7.8 自由意志論
 7.9 徳

ルネ・デカルト(1596-1650)
デカルトの関連書籍(amazon)
検索(デカルト)
検索(デカルト ac.jp)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

人気の記事(週間)

人気の記事(月間)

人気の記事(年間)

人気の記事(全期間)

ランキング

ランキング


哲学・思想ランキング



FC2