2019年4月11日木曜日

7.グローバル化の影響:(a)賃金下落と労働条件悪化への圧力、(b)法人税率低下への圧力、(c)資本市場、コモディティ市場の不安定化、(d)非効率な産業からの転換による失業者の増加。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

グローバル化の影響

【グローバル化の影響:(a)賃金下落と労働条件悪化への圧力、(b)法人税率低下への圧力、(c)資本市場、コモディティ市場の不安定化、(d)非効率な産業からの転換による失業者の増加。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(1)グローバル化を推進する際に主張される理念
 (1.1)グローバル化は、国全体の産出量、たとえばGDPを上昇させる。
 (1.2)グローバル化の利益が、トリクルダウン効果で国民全体に行きわたる。
(2)グローバル化に伴い、実際に発生する事象
 (2.1)資本が自由に移動できることにより、労働者と政府に対する交渉力が強まる。
  (a)賃金が低く、労働条件が悪い国へ工場を移転させることができる。この結果、国内においても、労働者に対する交渉力が強まり、賃金を引き下げることができる。
  (b)法人税率が低い国へ事業所を移転させることができる。この結果、国内においても、政府に対する交渉力が強まり、法人税率を引き下げることができる。
  (c)仮に、労働力の移動が自由化され、資本の移動が禁止された場合には、各国は労働者を惹きつけるために、良い住環境、良い教育環境、労働者に対する低い税率を競うことだろう。
 (2.2)資本市場、コモディティ市場の変動性が高まる。
 (2.3)輸入増によって失業した人々は、次の仕事にありつけない確率が高く、失業者となる。
  (a)政府は、マクロ経済政策と雇用政策によって、失業率が跳ね上がらないようにする必要がある。
  (b)金融セクターは、破壊された古いビジネスの代わりに、新しいビジネスを創造するという本来の役割を果たす必要がある。
 「グローバル化の管理に用いられた手法は、それ自体が賃金を押し下げる効果を発揮してきた。

グローバル化の過程で、労働者の交渉力が骨抜きにされたのだ。

 資本の移動性が高くて関税率が低い場合、企業は労働者にこう言うだけでいい。賃金や労働条件の引き下げを呑まなければ、工場をどこかへ移転させる、と。

ここでは、労働力の移動が自由化され、資本の移動が禁止された世界を想定し、非対称的なグローバル化が交渉力にどのような影響を及ぼすかを見ていこう。

まず、各国は労働者をひきつけるために競い合うだろう。彼らは良い住環境や、良い教育環境や、労働者に対する低い税率を約束するだろう。そして、これらの財源を確保するため、資本に対して高い税率を課すだろう。

残念ながら、わたしたちが住む世界はそうなっていない。原因のひとつは、上位1パーセントの人々がそう望まないからだ。


 労働者の交渉力を弱める方向で、政府にグローバル化のルールを設定させたあと、企業はさらに政治のテコを使って、法人税率の引き下げを要求することができる。具体的に言えば、税金を下げてくれないなら、もっと税率の低い国に会社を移転させる、と国家に脅しをかけるのだ。

彼らは特定の政治課題を推し進めることで、自分たちに都合よく市場の力を形成してきたが、当然ながら、そのプロセスで真の目的を明かしてはいない。

企業はグローバル化――資本の自由な移動と投資の保護――を議論する際、結果として自分たちが利益にあずかり、結果として残りがツケを払うことを伏せ、社会全体が恩恵を受けるというまことしやかな主張に終始するのである。


 この主張には二つの穴がある。第一に、グローバル化は国全体の産出量、たとえばGDPを上昇させるという点。第二に、グローバル化の利益がトリクルダウン効果で国民全体に行きわたるという点だ。二つの議論はいずれも正しくない。

市場が完璧に機能する環境下で、自由貿易を実現するのであれば、労働者は保護された非効率的なセクターから、保護されていない効率的な輸出関連セクターへ移動できる。結果として、GDPが上昇する”可能性”もあるだろう。

しかし、多くの場合、市場はそれほどうまく機能しない。たとえば、輸入増によって失業した人々は、次の仕事にありつけない確率が高く、彼らは失業者となる。

保護された非効率的なセクターの労働者が、失業者層へ移動してしまえば、GDPは低下をまぬがれない。アメリカではまさにこのような事態が起こってきたのである。

このような事態が起こるのは、政府がマクロ経済の舵取りを誤り、国内の失業率が跳ね上がったときと、金融セクターが本来の仕事を怠り、破壊された古いビジネスの代わりに新しいビジネスを創造できなかったときだ。

 グローバル化がGDPを低下させるもうひとつの理由としては、リスクの増加が挙げられる。

開放性を高めた国家は、資本市場の不安定化からコモディティ市場の不安定化まで、あらゆる種類のリスクにさらされる可能性がある。

市場の変動性が大きくなればなるほど、企業は事業上のリスクを縮小させる方向へ動くと予想されるが、リスクの低い事業はえてして収益性も低い。このリスク回避の効果がふくらんだ場合、全国民の暮らし向きが悪化するような事態も起こりうる。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第3章 政治と私欲がゆがめた市場,pp.114-116,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:グローバル化の影響,賃金下落,労働条件悪化,法人税率低下,市場の不安定化)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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2.何十億年とかかって豊かな共生を達成してきた地上のあらゆる生の営み、それはすべて化学反応の世界だ。核反応は化学反応より100万倍も強く、一歩間違えれば、もはややり直しがきかないような事故のリスクを抱えている。(高木仁三郎(1938-2000))

核技術の特殊性

【何十億年とかかって豊かな共生を達成してきた地上のあらゆる生の営み、それはすべて化学反応の世界だ。核反応は化学反応より100万倍も強く、一歩間違えれば、もはややり直しがきかないような事故のリスクを抱えている。(高木仁三郎(1938-2000))】

 「私たちの地上の世界は、生物界も含めて基本的に化学物質によって構成されている世界である。



 このことの恐ろしさの一端を、我々はチェルノブイリ原発の事故によって目のあたりにすることになった。

一瞬の爆発によって、世界中が放射能の恐怖に見舞われた。この出来事は、何十億年とかかって豊かな共生を達成してきた地上のあらゆる生の営みが、ヒトという生物のちょっとしたボタンの押し間違いといったことによっても、一瞬にして灰と化しうることを、あらためて私たちに悟らせた。

この破局の一瞬はいつ訪れるかしれない―――チェルノブイリがそうであったように。

そして、その一瞬がひとたび訪れた以上、もはややり直しはきかないのである。


 核文明は、そのように破滅の一瞬を、いつも時限爆弾のように、その胎内に宿しながら、存在している。

この危機は明らかにこれまでのものとまったく異質のものではないだろうか。

そして今、その時限爆弾がカチカチと時を刻む音が、いよいよ大きく、私たちの耳に入ってこないだろうか。」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第一巻 脱原発へ歩みだすⅠ』チェルノブイリ――最後の警告 第Ⅲ章 ポスト・チェルノブイリに向けて、pp.242-243)
(索引:核技術の特殊性,核反応,化学反応)

脱原発へ歩みだす〈1〉 (高木仁三郎著作集)

(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
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ニュース(高木仁三郎)
高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
原子力市民委員会(2013-)
原子力市民委員会
Citizens' Commission on Nuclear Energy
原子力市民委員会 (@ccnejp) | Twitter
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ニュース(原子力市民委員会)

1860年リンカーンが大統領に当選。50万人近い死者を出した南北戦争(1861~65)で奴隷制が廃止されたが、南部諸州では根強い差別が今も残る。先祖の功績を称える「南軍旗」は、今も黒人差別の象徴でもある。(池上彰(1950-))

「南軍旗」

【1860年リンカーンが大統領に当選。50万人近い死者を出した南北戦争(1861~65)で奴隷制が廃止されたが、南部諸州では根強い差別が今も残る。先祖の功績を称える「南軍旗」は、今も黒人差別の象徴でもある。(池上彰(1950-))】
 「アメリカの黒人教会で発生した銃の乱射事件は、いまだにアメリカに残る黒人差別を象徴するものでした。この事件をきっかけに、アメリカ国内では、グーグルやアマゾンが動き出すなど思わぬ影響が広がりました。
 事件が起きたのは2015年6月17日の夜のこと。アメリカ南部のサウスカロライナ州チャールストン市の黒人教会で白人男性が銃を乱射。教会で聖書の勉強会に参加していた黒人12人のうち9人が死亡しました。犠牲者の中には州の上院議員を務めていた教会の牧師も含まれています。
 アメリカには、俗に黒人教会と呼ばれる教会が存在します。自らをそう名乗るわけではなく、宗派もさまざまですが、集まる信者はほとんどが黒人。ゴスペルを歌って踊るなど、独特の文化を持っています。
 襲撃された教会は、エマニュエル・アフリカン・メソジスト・エピスコパル教会。1816年創設といいますから、200年の歴史を持つ由緒あるものです。
 黒人の地位向上運動に取り組んだキング牧師も、1962年にこの教会で演説しています。
 事件が起きたチャールストン市の隣の市では、2015年4月、逃げる黒人男性を白人警察官が背後から射殺する事件が起き、警察官は殺人の罪で起訴されました。黒人は、黒人であるだけで白人警察官から不審者として職務質問されることが多く、その過程でトラブルになることがしばしばあります。
 こんな雰囲気は、アメリカ南部に行くと、至るところで感じます。私がとりわけ違和感を覚えるのは、アメリカ南部の州の公共施設に、その州の旗と共に「南軍旗」が掲げられていることです。20年以上前になりますが、始めて見たときには、「南北戦争が終わって100年以上経つのに、まだ南部連合の旗を掲げているのか」と仰天したことを思い出します。
 この南軍旗が、今回の事件で槍玉に上がりました。事件を起こした黒人差別主義者の21歳の男が、南軍旗を持っている写真を事件前にインターネットに投稿していたことがわかったからです。
 南軍旗は、赤地に青い対角線が描かれ、青い対角線の中に13個の白い星が交差しています。13個の星は、7つずつ交差し、中央の星はひとつ。これは、南部の州がアメリカからの離脱を宣言したときに同調した7つの州と、最終的にアメリカ連合国に参加したとされる13の州の数を象徴しています。
 アメリカの南北戦争は、1861年から65年まで戦われました。1860年、奴隷制に反対するエイブラハム・リンカーンが大統領に当選すると、奴隷制を維持していた南部の諸州が反発。真っ先にサウスカロライナがアメリカ合衆国から離脱を宣言。計7州が脱退して、アメリカ連合国を結成しました。
 その後4州が合流して計11州となりますが、さらに2州内の反対派が加わったことから、アメリカ連合国を13と数えることもあり、星の数の13は、これを意味しています。
 アメリカ連合国と、アメリカ合衆国からの離脱を認めない北部の州は戦争に突入。これが南北戦争です。投入された兵士は、北軍が156万人、南軍が90万人という総力戦となり、両軍合わせて50万人近い死者を出しました。
 結局は北軍の勝利に終わり、これをきっかけに、アメリカでは奴隷制が廃止されることになりますが、南部では根強い黒人差別が続いています。
 また、負けた南部諸州には、南軍に対するノスタルジーが残ります。英雄的に戦った先祖の功績を称えようという意識もあり、これが、南軍旗の掲揚につながります。州の施設に、アメリカの国旗と州の旗、それに南軍旗を並列して掲揚する州があるのです。サウスカロライナも、そのひとつです。
 州の旗も、ミシシッピ、アラバマ、フロリダについては、現在も南軍旗のデザインが一部に取り入れられています。
 しかし、黒人奴隷制を守ろうとした南部を象徴する旗は、そのまま黒人差別の象徴にもなります。」(後略)
(池上彰(1950-),『これが「世界を動かすパワー」だ!』POWER1 アメリカ,「南軍旗」を知っていますか?,pp.58-61,文藝春秋(2016))
(索引:南軍旗,南北戦争,黒人差別)

池上彰のこれが「世界を動かすパワー」だ! (文春e-book)


(出典:wikipedia
池上彰(1950-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが同じ立場だったらどうするか?
 もし、あなた方があのときにそのチッソの水俣工場で働いている社員だったら、どうしますか、ということです。つまり熊本県でも有数の企業です。水俣にとってはいちばん大手の企業です。水俣で生まれ育って、学校を出て、チッソに就職するというのは地元の人にとってはいちばんのエリートコースですよね。それこそ、みなさんがもしチッソに就職が決まったと報告をすれば、家族はもちろん親戚もみんな、「いやあいいところに就職したね、よかったね」と祝福してくれるはずです。もちろん、プラスチックの可塑剤という、日本という国が豊かになるときに必要なものをつくっているわけですから、みんな誇りを持って働いていたはずです。ところがやがて、そこから出てくる廃水が原因で、地元の住民に健康被害が出る、という話が聞こえるようになってきた。さあ、みなさんは果たしてどんな行動をとりますか、ということです。当時のチッソの社員たち。たとえば病院の医師が、原因究明のために猫を使って実験をしていた。でも会社から、そんな実験はやめろ、と言われたからやめてしまった。あるいは多くの社員は気がついていたからこそ、排水口の場所を変えたわけです。それによってさらに被害を広めてしまった。労働組合が分裂をして、そこで初めて、企業の仕打ちに気がついた社員たちが声を上げるようになった。さあ、もしそういうことになったら、みなさんはどういう態度をとりますか。
 いまの日本は廃水の基準に厳しいですから、何かあればすぐわかるでしょう。でもいま、実は、まったく同じようなことが中国のあちこちで起きています。開発途上国で同じようなことが起きているのですね。みなさんが就職をしました。そこの会社が実は、東南アジアあるいはアフリカに、現地の工場を持っている。現地の工場に、要員として派遣されました。そこで働いていた。そうしたらその周辺で、健康被害が出ている住民たちがいることに気がついた。あなたはどういう態度をとるのか。まさにそれが問われている、ということなのですね。決して他人事ではないのだということがわかっていただけるのではないでしょうか。」
(池上彰(1950-),『「経済学」講義 歴史編』lecture5 高度経済成長の歪み,pp.228-229,KADOKAWA(2015))
(索引:)

池上彰(1950-)
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2019年4月10日水曜日

6.レントシーキングに都合の悪い規制の廃止、緩和方法:(a)規制の取り込み(規制対象セクターへの天下り)、(b)認知の取り込み(ロビー活動、規制当局の人事への影響力の行使)。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

レントシーキングに都合の悪い規制の廃止、緩和方法

【レントシーキングに都合の悪い規制の廃止、緩和方法:(a)規制の取り込み(規制対象セクターへの天下り)、(b)認知の取り込み(ロビー活動、規制当局の人事への影響力の行使)。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(4.3)(a)追記

 (4.3)都合の悪い規制の廃止、緩和
  レントシーキングに都合の悪い法律が作られないようにする。政府の規制は少ない方がいい。
  (a)ロビー活動と選挙支援に巨額の資金を投資することで、政策決定に影響力を行使する。
   (a.1)規制の取り込み
    (i)政治的影響力を使って、自分の意見に近い人々を規制当局へ送り込む。
    (ii)規制当局者が退任した後、規制対象のセクターへ天下りさせ、太っ腹な報酬で迎える。
   (a.2)認知の取り込み
    (i)大量のロビイストを送り込む。
    (ii)何らかの方法で“取り込み済み”の人々が規制当局者に任命されるよう、政府に対して働きかける。
    (iii)逆に「市場には自らを規制する能力があり、銀行には自らのリスクを管理する能力がある」という業界の綱領を踏みはずす候補者が現れれば、途方もなく大きな抗議の声によって、人事案を葬り去る。
  (b)反競争的行為が法律で禁止されないようにする。
  (c)仮に法律が存在する場合は、実効的な取り締まりが行なわれないようする。
  (d)法律家たちのインセンティブ。
   法律は複雑な方が、都合がよい。顧客に法律の回避方法を指南し、また法律の抜け穴を利用した複雑な取引を組み立て、合法的に見える契約をお膳立てし、レントシーキングと独占力を維持することが可能となる。

 「認知の取り込み
 “公正な”ゲームに勝利する能力と、ゲームのルールを設定する能力は、まったく別のものだ。

特定の人々の勝率が上がるようルールを設定する能力も別物であり、参加者が審判を選べれば、状況はもっと悪くなる。

現在、多くのセクターで規制当局が監督の任(ルールと規制の設定および執行)に就いている。たとえば、電気通信セクターでは連邦通信委員会(FCC)、証券セクターでは証券取引委員会(SEC)、銀行セクターのさまざまな分野では連邦準備銀行。

ここで問題となるのは、各セクターの有力者たちが政治的影響力を使って、自分の意見に近い人々を規制当局へ送り込んでしまうことだ。

 経済学者はこれを“規制の取り込み”と呼ぶ。

規制当局者が取り込まれる背景には、金銭的インセンティブが存在する場合もある。

なぜなら、彼らは規制対象のセクターから選ばれ、やがては規制対象のセクターへ戻っていくからだ。彼らのインセンティブは、残りの社会のインセンティブより、古巣のインセンティブのほうと一致している。規制当局者がセクターのために尽力すれば、退任後には太っ腹な報酬が待ち受けているのだ。

 しかし、取り込ま
れる動機が金だけとは限らない。規制当局者の思考様式が、規制対象者の思考様式に取り込まれてしまう場合もある。これは社会学的な現象で、“認知の取り込み”と呼ばれる。

アラン・グリーンスパンもティム・ガイトナーも大銀行で働いた経験はないが、連銀に来て以降、銀行業界に対して自然な親近感を抱いていった。ひょっとすると、同じ考え方を共有していたかもしれない。

銀行家たちはみずから大混乱を招いておきながら、政府救済のひきかえとして銀行にきびしい条件を課すべきでないと考えていた。

 規制に何らかの役割を果たしている人々全員に、銀行を規制するべきではないという主張を受け入れさせるため、これまで銀行業界は大量のロビイストを送り込んできた(推定では連邦議員1人あたり2.5人)。

しかし、ターゲットが初めから業界寄りの意見を持っていれば、説得の作業はたやすくなる。だからこそ銀行業界とそのロビイストたちは、何らかの方法で“取り込み済み”の人々が規制当局者に任命されるよう、政府に対して猛烈な働きかけを行なっているのだ。

逆に、考えのちがう人々が任命されそうになると、候補者が同じ業界の出身者であろうと、銀行家たちは拒否権を発動しようとする。

FRBの人事案が漏れるたびに繰り返されるこの動きを、わたしが初めて目の当たりにしたのはクリントン政権時代だった。

現在でも、市場にはみずからを規制する能力があり、銀行にはみずからのリスクを管理する能力がある、という業界の綱領を踏みはずす候補者が現れれば、途方もなく大きな抗議の声によって、人事案の提出は見送られるだろう。たとえ提出されても、議会の承認は決して得られないだろう。」 

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第2章 レントシーキング経済と不平等な社会のつくり方,pp.96-98,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:レントシーキング,規制の取り込み,認知の取り込み)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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1.46億年の地球の歴史を経て、過剰な有害放射能が消え去り生命が育まれた。これが、93番以降の超ウラン元素が天然に存在しない理由だ。核技術は、この46億年の歴史に取り返しのつかない影響を及ぼす可能性がある。(高木仁三郎(1938-2000))

核技術の特殊性

【46億年の地球の歴史を経て、過剰な有害放射能が消え去り生命が育まれた。これが、93番以降の超ウラン元素が天然に存在しない理由だ。核技術は、この46億年の歴史に取り返しのつかない影響を及ぼす可能性がある。(高木仁三郎(1938-2000))】

地球の歴史
生命の誕生
人類の進化
物理学の歴史
アインシュタイン
核分裂の発見

 「さて、原子番号の大きい「重い」元素は、みな不安定で、放射性である。原子番号八四番の ポロニウム とそれより重い元素は、天然に存在するものもすべて放射性である。

そんななかで、九二番の ウラン までが天然に存在し、それより重い九三番以降のもの(「超ウラン元素」と呼ぶ)が天然に存在しないのは、どういうわけだろうか。

実は、地球ができた頃、あるいはそれよりももっと昔には、もっともっと多くの元素があったと考えられる。しかし、地球が生まれてからでもすでに四六億年もの年月がたっているので、それから現在までの間に、寿命の短い不安定な元素はみな死に絶えてしまったのである。

 ウランが残ったのは、その寿命が充分に長かったからだ。ウランの仲間のなかで最も長生きなのは、半減期が四五億年のウラン-二三八である。これだけ寿命が長かったからこそ、今も生き残り、私たちはその存在を天然に見出すわけだが、超ウラン元素はすべてもっと不安定で、天然には存在せず、人工的に作りだすよりほかにそれを手にする手段はない。

 したがって、原初の地球は放射能で満ち満ちていたといっても過言ではない。ウラン-二三八も現在量のちょうと二倍あったはずである。

私たちが今日あるのも、四六億年という地球の歴史の過程で、過剰な有害放射能が死に絶え、生命の条件が整ったということにも大いによっているという事実は、心に留めておくべきことである。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』プルトニウムの恐怖 第1章 パンドラの筐は開かれた、pp.127-128)
(索引:核技術の特殊性,地球の歴史,生命の誕生,人類の歴史)

プルートーンの火 (高木仁三郎著作集)

(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
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高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
原子力市民委員会(2013-)
原子力市民委員会
Citizens' Commission on Nuclear Energy
原子力市民委員会 (@ccnejp) | Twitter
検索(原子力市民委員会)
ニュース(原子力市民委員会)

国会議員に当選するには、地盤(後援会)、看板(知名度)、鞄(資金)の「三バン」が必要とされている。政治を変えるには、情熱のある人が誰でも立候補でき、落選したら以前の生活に戻れるような制度が必要だ。(池上彰(1950-))

地盤(後援会)、看板(知名度)、鞄(資金)

【国会議員に当選するには、地盤(後援会)、看板(知名度)、鞄(資金)の「三バン」が必要とされている。政治を変えるには、情熱のある人が誰でも立候補でき、落選したら以前の生活に戻れるような制度が必要だ。(池上彰(1950-))】
 「一般の人が国会議員になるのは大変です。最近は候補者公募をしている政党もあるので、そこに応募するという手もあります。
 こうしたしくみを通じて、会社でバリバリ働いていたエリート社員や、国際組織で働いていた人、ボランティア活動に従事していた若者など、候補者の多様化が進みました。
 しかし、候補者になれても、当選までの道のりは遠くて険しい。当選するためには、「三バン」が必要とされています。「ジバン」「カンバン」「カバン」です。
 「ジバン」とは、地盤のこと。支持者も後援会もない地域で立候補しても、誰も応援してくれませんよね。しかし、地元にゆかりの人なら、小・中学校や高校時代の同級生たちが、「あいつのためなら一肌脱ぐか」と言って応援してくれることもあるでしょう。
 自分が立候補を宣言したとき、どれだけの人が応援してくれるのか。それによって、人徳レベルがわかってしまいます。
 「カンバン」とは、看板。つまり候補者の知名度です。その地域で名の知られた人が有利です。地元で市議会議員や県議会議員として活躍してきた実績があれば、地域内でよく知られていますから、有権者も投票用紙に名前を書きやすいですよね。その地域に古くから伝わる名家の出という人も、知名度の点では有利になったりします。
 投票用紙に自分の名前を書いてもらえるようにするためには、知名度が必要です。地元に縁が薄くても、テレビで名や顔を売った人は有利でしょう。
 そして「カバン」とは、鞄のこと。政界の隠語で、資金のことです。資金のたっぷり入ったカバンが必要だ、という意味です。
 政治にはお金がかかります。選挙運動にも資金が必要です。それがないと選挙に勝てない、という意味なのです。
 これら三つを合わせて「三バン」といいます。単なる語呂合わせのような表現ですが、この「三バン」を持っていないと選挙で当選できないというわけです。
 でもこれだけのものを持っている人は少ないですよね。一般庶民はとても立候補できなくなってしまいます。
 政治を変えるには、「世の中を変えたい」という情熱がある人は誰でも気軽に立候補できるしくみが必要です。「とても当選は無理」とみんながしり込みをしていては、いつまでも同じ政治家が当選し続けることになり、政治を変えることができないからです。
 「よし、では頑張って立候補しよう!」と決意しても、落選したときのことを考えると、決意も鈍ります。
 一般のサラリーマンが選挙に立候補しようとすると、会社を辞めなければならないのが普通です。選挙に落ちたときに「復職させてください」と言っても、「選挙に出た特別な人」という色眼鏡で見られてしまい、もとの職場に戻ることは難しくなります。
 誰でも気軽に立候補できて、落選したら、以前の生活にすぐ戻れる。政治を変えるためには、まずはこんな社会にすることも大切なのです。」
(池上彰(1950-),『イラスト図解 社会人として必要な経済と政治のことが5時間でざっと学べる』PART2 政治,第1章 「国会議員」はどんなことをしている?,06 国会議員になるには「三バン」が必要?,pp.202-205,KADOKAWA(2018))
(索引:地盤(後援会),看板(知名度),鞄(資金))

イラスト図解 社会人として必要な経済と政治のことが5時間でざっと学べる


(出典:wikipedia
池上彰(1950-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが同じ立場だったらどうするか?
 もし、あなた方があのときにそのチッソの水俣工場で働いている社員だったら、どうしますか、ということです。つまり熊本県でも有数の企業です。水俣にとってはいちばん大手の企業です。水俣で生まれ育って、学校を出て、チッソに就職するというのは地元の人にとってはいちばんのエリートコースですよね。それこそ、みなさんがもしチッソに就職が決まったと報告をすれば、家族はもちろん親戚もみんな、「いやあいいところに就職したね、よかったね」と祝福してくれるはずです。もちろん、プラスチックの可塑剤という、日本という国が豊かになるときに必要なものをつくっているわけですから、みんな誇りを持って働いていたはずです。ところがやがて、そこから出てくる廃水が原因で、地元の住民に健康被害が出る、という話が聞こえるようになってきた。さあ、みなさんは果たしてどんな行動をとりますか、ということです。当時のチッソの社員たち。たとえば病院の医師が、原因究明のために猫を使って実験をしていた。でも会社から、そんな実験はやめろ、と言われたからやめてしまった。あるいは多くの社員は気がついていたからこそ、排水口の場所を変えたわけです。それによってさらに被害を広めてしまった。労働組合が分裂をして、そこで初めて、企業の仕打ちに気がついた社員たちが声を上げるようになった。さあ、もしそういうことになったら、みなさんはどういう態度をとりますか。
 いまの日本は廃水の基準に厳しいですから、何かあればすぐわかるでしょう。でもいま、実は、まったく同じようなことが中国のあちこちで起きています。開発途上国で同じようなことが起きているのですね。みなさんが就職をしました。そこの会社が実は、東南アジアあるいはアフリカに、現地の工場を持っている。現地の工場に、要員として派遣されました。そこで働いていた。そうしたらその周辺で、健康被害が出ている住民たちがいることに気がついた。あなたはどういう態度をとるのか。まさにそれが問われている、ということなのですね。決して他人事ではないのだということがわかっていただけるのではないでしょうか。」
(池上彰(1950-),『「経済学」講義 歴史編』lecture5 高度経済成長の歪み,pp.228-229,KADOKAWA(2015))
(索引:)

池上彰(1950-)
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2019年4月9日火曜日

ルールは、裁判所、公機関、私人の、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。ただし、ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))

承認のルールの存在

【ルールは、裁判所、公機関、私人の、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。ただし、ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.3.1)追記。

 (3.3)法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。
 「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
 承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方で用いることが適当であるとして単に容認されている。

 (i)究極の承認のルールの適用……事実
 (ii)裁判所を含む一般的な諸活動での容認・使用……事実として確証可能
   ↓
 特定の法体系の妥当性

  (3.3.1)究極の承認のルールとして、実際に用いられているかどうかが、まず問題である。
   (a)承認のルールは、裁判所、公機関、私人が一定の基準を参照して法を確認する際、複雑ではあるが、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在する。
   (b)ルールの正確な内容と範囲、ときにはルールの存在そのものに関して、確定的な答えができないような状況も存在し得る。
  (3.3.2)次の諸問題は、また別の問題である。
   (a)承認のルールが、法体系に対して有する意義は何か。
   (b)あるルールが、ある「目的」に対してどのような利益や害悪をもたらすか。
   (c)あるルールを支持する「十分な理由」があるか。
   (d)あるルールが、「道徳的責務」とどのような関連があるか。

 「一層重要な異議は、究極の承認のルールが妥当するという「想定」について語ることは妥当性に関する法律家の陳述の背後にある第二の前提のもつ基本的に事実的な性質を隠すことになる、というものである。承認のルールが実際に存在しているのは、裁判官、公機関、その他の人々の実際の活動においてではあるが、その活動は明らかに複雑な事柄である。のちに見るように、この種のルールの正確な内容と範囲について、またその存在についてさえ生じてくる疑問には明確なあるいは確定的な答ができないような状況がたしかにある。それにもかかわらず、「妥当性を想定すること」をそのようなルールの「存在を前提すること」から区別することは重要であって、そのような区別をしないとそういったルールが《存在する》という主張の意味が曖昧になるという理由からだけでも重要なのである。
 前章で素描した責務の第1次的ルールの単純な体系においては、あるルールが存在するという主張はそのルールを容認していない観察者が行なうような事実に関する外的陳述でありうるだけであって、この場合その検証は観察者が事実の問題として、ある行動様式が一般に基準として容認されているかどうか、またその様式が単なる一定方向に向かう単なる習慣から社会的ルールを区別する上述の特徴を伴っているかどうかを確認することでなされる。イギリスでは教会に入るときには帽子を取らなければならないという、法的なものではないが、あるルールが存在するという主張を解釈し検証する場合もこの方法によるべきなのである。もしこのようなルールが社会集団の実際の活動のなかに存在していることがわかれば、それらのルールの価値や望ましさはもちろん問題になるけれども、それらの妥当性について別個に議論すべき問題はないのである。一度それらのルールの存在が事実として確証されてしまうと、それらが妥当していることを肯定したり否定したりするならば、あるいはそれらの妥当性を「想定する」が示すことはできないと言ったりするならば、われわれは事態を混乱させるだけであろう。他方、成熟した法体系におけるように承認のルールを含むルールの体系が存在し、したがってルールがその体系の一部であるということが、今や承認のルールの与える一定の基準を満足させているかどうかにかかっているところにおいては、「存在する」という言葉は新しい用い方をされるのである。ルールが存在するという陳述は、それが慣習的ルールの単純な場合におけるように、一定の行動様式が実際の活動のなかで基準として一般的に容認されているという《事実》に関する外的陳述ではもはやないのである。それは、現在容認されてはいるがのべられていない承認のルールを適用し、また(おおざっぱに言えば)「体系に妥当性の基準があるところでは妥当する」ことを単に意味する内的陳述なのである。しかし、他の点と同様にこの点においても承認のルールは体系のその他のルールと異なっている。それが存在するという主張は、事実に関する外的陳述でありうるのみである。というのは体系の下位のルールはたとえ一般的に無視されているとしても妥当するだろうし、その意味で「存在する」だろうが、それに対して、承認のルールは裁判所、公機関、私人が一定の基準を参照して法を確認するさいの、複雑ではあるが、普通は調和した習慣的活動としてのみ存在するからである。その存在は事実の問題なのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第1節 承認のルールと法の妥当性,pp.119-120,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))
(索引:法的妥当性,承認のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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6.多数派による政治的権力の行使は、概して正しい。ただし、様々な少数派の意見を反映し得る制度が必要だ。思想の自由、個性的な性格、たとえ多数派に嫌悪を抱かせる道徳的・社会的要素も、保護されるべきである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

多数派による政治的権力と、少数派の存在

【多数派による政治的権力の行使は、概して正しい。ただし、様々な少数派の意見を反映し得る制度が必要だ。思想の自由、個性的な性格、たとえ多数派に嫌悪を抱かせる道徳的・社会的要素も、保護されるべきである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)多数派が、政治的権力の担い手であることは、概して正しい。
 (1.1)ただし、このこと自体が正しいわけではない。
 (1.2)少数派による支配や、他のどのような状態よりも、不正の程度が低い。
(2)多数派に、絶対的権力を与えることの弊害
 (2.1)どのような社会においても数の上での多数派は同じような社会的境遇のもとにあり、同じような偏見や情念や先入見を持っているだろう。
 (2.2)仮に、多数派に絶対的権力を与えるならば、多数派の偏見、情念、先入見の欠点を是正することができなくなる。その結果、人間の知的・道徳的性質をさらに改善することができなくなり、社会は不可避的に停滞、衰退、あるいは崩壊していくだろう。
(3)社会の中に、様々な少数派の人びとが存在することの必要性
 (3.1)少数派の存在が、多数派の偏見、情念、先入見を是正する契機にし得るような制度が必要である。
 (3.2)それは、思想の自由と個性的な性格の避難場所になり得ること。
 (3.3)仮に、支配的権力が嫌悪の目で見るような道徳的・社会的要素であったとしても、それが消滅させられないよう、守られる必要がある。
 (3.4)かつて存在していた偉大な人のほとんどすべては、このような少数派であった。

 「現代ヨーロッパにおける貴族制的な政府、すなわち(慎慮や時には人間らしい感情が妨げた場合を別にすれば)少数者の私的利益と安楽のために共同体全体を完全に犠牲にすることによって成り立っている政府に対する反動の時代にあっては、このような理論がもっとも高潔な精神の持ち主によって容認されるということは十分にありうることである。

ヨーロッパの改革論者は、数の上での多数派があらゆるところで不当に抑圧され、あらゆるところで蹂躙され、せいぜいよくても無視されているのをつねに見てきたし、あらゆるところで多数派がもっとも明白な不満の原因を是正させたり、精神的涵養のための措置を求めたりするために十分な力をもっておらず、支配階級の金銭的な利益のために公然と税負担を求められることを阻止するために十分な力さえもっていないことも見てきた。


これらのことに目を向け、(とりわけ)多数派により多くの政治的権力を与えることによってこれらに終止符を打とうとすることが急進主義の特質である。

現代においてきわめて多くの人がこのような願望を抱き、これを実現することは人々が自らの身をささげる価値のある目的であると考えられていたことが、ベンサム流の統治論が支持された理由である。

しかし、ある悪い形態の統治から別の悪い形態へと移行することは人類のありふれた運命であるとしても、哲学者は重要な真理の一部を別のもののために犠牲にすることによって、このような運命に加担してはならない。

 どのような社会においても数の上での多数派は同じような社会的境遇のもとにあり、主に同じ職業についている人々、すなわち未熟練単純労働者から成り立っているに違いない。

私たちは彼らをみくびってはいない。彼らに不利なことを述べているときにはそれが何であっても、商人や郷士の多数者についても当てはまることを述べているのである。

同じような境遇や職業にある場合には、同じような偏見や情念や先入見をもっているだろう。

いずれか一組の偏見や情念や先入見に対して、別の種類の偏見や情念や先入見によって均衡を図ることなしに絶対的権力を与えることは、その欠点を是正することを絶望的にし、狭隘で貧相な類いの人間本性を普遍的で永続的なものとし、人間の知的・道徳的性質をさらに改善するようなあらゆる勢力を粉砕してしまう。

私たちは社会には傑出した権力が存在していなければならないことは理解しているし、多数派がその権力であることは概して正しいことであるが、それはそのこと自体が正しいからではなく、この問題を扱うのに他のどのような状態よりも不正の程度が低いからである。

しかし、社会の制度は何らかの形で、不公平な見解を是正するものとしての、そして多数派の意志に対する永続的で常駐的な反対勢力である思想の自由と個性的な性格の避難場所としての備えを整えておくことが必要である。

長い間進歩的であり続けた、あるいは長い間偉大であったあらゆる国がそうあれたのは、支配的な力がどのような種類であったとしても、その力に対する組織的な反対勢力が存在していたからである。

すなわち、[古代ローマの]貴族階級に対する平民階級、国王に対する聖職者、聖職者に対する自由思想家、貴族に対する国王、国王と貴族に対する庶民のような反対勢力である。

かつて存在していた偉大な人のほとんどすべてはこのような反対勢力を形成していたのである。

そのような争いがおこなわれてこなかったようなところではどこでも、あるいはそのような争いが相争う原理のうちの一方による完全な勝利によって終結し、古い争いに代わる新しい争いが起きなかったところではどこでも、社会は中国的停滞にとどまるか、あるいは崩壊してきたのである。

多数派の意見が主権を掌握しているところにおいても、支配的権力が聖職階級だったり貴族階級であったりするところにおいても、支配的権力が嫌悪の目で見るようなあらゆる道徳的・社会的要素がその周りに集まっているような、そしてそのような権力によって捕らえられて消滅させられようとすることからその防壁に隠れて避けることができるような抵抗の中心が必要である。

そのような拠点が存在していないところでは、人類は不可避的に衰退していくだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.147-149,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:多数派,少数派,思想の自由,個性的な性格,偏見,情念,先入見)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

地方選出の国会議員は、東京への単身赴任であるが、土日には選出の地元へ帰って活動している。これが、国会議員の「金帰火来」である。(池上彰(1950-))

国会議員の「金帰火来」

【地方選出の国会議員は、東京への単身赴任であるが、土日には選出の地元へ帰って活動している。これが、国会議員の「金帰火来」である。(池上彰(1950-))】
 「金曜夜、羽田空港から地方に向かう最終便の機内には、議員バッジをつけた人が何人も乗っています。同じころ、東京駅から出る新幹線「のぞみ」のグリーン車にも、国会議員の顔がチラホラと……。これが、国会議員の「金帰火来」と呼ばれるものです。
 国会議員は、国会に出席するのが仕事です。そこで、地方選出議員には東京都内の一等地に議員宿舎が用意され、安い家賃で暮らすことができます。さらに仕事場として、国会議事堂のすぐ横の議員会館もあります。
 しかし、地方選出議員にしてみれば、地元の選挙区のことが気になりますよね。まして、前回の選挙で落選したライバル候補が地元で挨拶回りをしているなどという情報を聞くと、心配でたまらなくなるでしょう。
 「猿は木から落ちても猿だが、議員は落ちるとただの人」と言われます。次の選挙で落ちないように、週末には地元で活動しようということになります。そこで、金曜日の夜になると、羽田空港や東京駅に向かうことになるのです。前に取りあげたように、地元へ帰る航空券や新幹線グリーン車のパスは支給されています。
 地元を大切にしていることをアピールするために、地元にも事務所を構えて秘書を雇い、家族は地元の自宅にいて、支援者の相談相手になったりするケースがほとんどです。議員は東京へ単身赴任なのです。
 土曜日と日曜日は、地元で支援者の家に挨拶に行ったり、「国会報告会」を開いたりします。「地元のために頑張っています」とアピールしなければならないからです。
 土日に議員が地元の支援者と会うことは、国政にも影響を与えます。議論が分かれる問題について、支援者たちからは「けしからん」「仕方ないよ」などと、直接的な反応を受けることになります。その結果、硬直していた事態が動くこともあり、民意の反映にもつながっているといえるのです。」
(池上彰(1950-),『イラスト図解 社会人として必要な経済と政治のことが5時間でざっと学べる』PART2 政治,第1章 「国会議員」はどんなことをしている?,03 国会議員は1週間どう働くのか,pp.190-193,KADOKAWA(2018))
(索引:国会議員の「金帰火来」)

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(出典:wikipedia
池上彰(1950-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが同じ立場だったらどうするか?
 もし、あなた方があのときにそのチッソの水俣工場で働いている社員だったら、どうしますか、ということです。つまり熊本県でも有数の企業です。水俣にとってはいちばん大手の企業です。水俣で生まれ育って、学校を出て、チッソに就職するというのは地元の人にとってはいちばんのエリートコースですよね。それこそ、みなさんがもしチッソに就職が決まったと報告をすれば、家族はもちろん親戚もみんな、「いやあいいところに就職したね、よかったね」と祝福してくれるはずです。もちろん、プラスチックの可塑剤という、日本という国が豊かになるときに必要なものをつくっているわけですから、みんな誇りを持って働いていたはずです。ところがやがて、そこから出てくる廃水が原因で、地元の住民に健康被害が出る、という話が聞こえるようになってきた。さあ、みなさんは果たしてどんな行動をとりますか、ということです。当時のチッソの社員たち。たとえば病院の医師が、原因究明のために猫を使って実験をしていた。でも会社から、そんな実験はやめろ、と言われたからやめてしまった。あるいは多くの社員は気がついていたからこそ、排水口の場所を変えたわけです。それによってさらに被害を広めてしまった。労働組合が分裂をして、そこで初めて、企業の仕打ちに気がついた社員たちが声を上げるようになった。さあ、もしそういうことになったら、みなさんはどういう態度をとりますか。
 いまの日本は廃水の基準に厳しいですから、何かあればすぐわかるでしょう。でもいま、実は、まったく同じようなことが中国のあちこちで起きています。開発途上国で同じようなことが起きているのですね。みなさんが就職をしました。そこの会社が実は、東南アジアあるいはアフリカに、現地の工場を持っている。現地の工場に、要員として派遣されました。そこで働いていた。そうしたらその周辺で、健康被害が出ている住民たちがいることに気がついた。あなたはどういう態度をとるのか。まさにそれが問われている、ということなのですね。決して他人事ではないのだということがわかっていただけるのではないでしょうか。」
(池上彰(1950-),『「経済学」講義 歴史編』lecture5 高度経済成長の歪み,pp.228-229,KADOKAWA(2015))
(索引:)

池上彰(1950-)
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5.法律は複雑な方が、都合がよい。顧客に法律の回避方法を指南し、また法律の抜け穴を利用した複雑な取引を組み立て、合法的に見える契約をお膳立てし、レントシーキングと独占力を維持することが可能となる。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

法律家たちのインセンティブ

【法律は複雑な方が、都合がよい。顧客に法律の回避方法を指南し、また法律の抜け穴を利用した複雑な取引を組み立て、合法的に見える契約をお膳立てし、レントシーキングと独占力を維持することが可能となる。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(4.3)(d)追記。


(4)市場を通じて、社会に対する貢献以上の報酬を獲得するための方法
  社会に対する貢献以上の報酬を得る方法:(a)公正さや社会的正義より自分の利益を最優先する、(b)レントシーキング、(c)都合の悪い法律が作られないための政治的対策、(d)都合のよい税制、労働法、会社法、その他の経済政策。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

 (4.1)基本的な考え方
  (a)公正なルールに従ったフェアプレイは問題ではなく、重要なのは勝つか負けるかだ。市場は勝ち負けの基準をはっきりと示してくれる。持っている金の量である。
  (b)必要とあれば“アンフェア”なプレーをする意志もなければならない。例えば、
   (b.1)法律をかいくぐる能力や、法律を都合よくねじ曲げる能力。
   (b.2)貧困者をふくむ他人の弱味につけ込む意志。
 (4.2)レントシーキングの例
   社会に対する貢献以上の報酬を得る方法:(a)参入障壁の構築と独占の維持、(b)競争障壁の構築、(c)市場の透明性を低下させること、(d)これら反競争的行為が規制されないための政治的対策。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

   レントシーキングの例:(a)市場の独占、(b)市場の透明性を低下させ、他者を食いものにする、(c)政府から資源を移転する(例:補助金給付,天然資源へのアクセス権,独占輸入権,社会へのコスト転嫁,損失補填)(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

  (a)市場の競争性を低下させ、独占力を確保する。(独占利益(モノポリー・レント))
   (a.1)参入障壁や、競争の障壁を構築する。
   (a.2)政府に、市場の競争性を低下させる法律を、作らせる。
  (b)市場の透明性を低下させ、情報の非対称性を利用する。
   (b.1)公開市場ではなく店頭市場を利用し、買い手に必要な情報を与えず、取引を有利に進める。
   (b.2)略奪的貸付や濫用的クレジットカード業務。
   (b.3)他者を食いものにすることを規制する法律を、政府に作らせない。
  (c)政府からの、公然または非公然の資源移転と、補助金給付。
   (c.1)政府から、天然資源へのアクセス権を有利な条件で入手する。
   (c.2)政府から、独占輸入権(輸入割当(クオータ))を与えられる。
   (c.3)政府から、コストを社会に転嫁することを許される。
   (c.4)過剰なリスクを取ったことによる失敗の損失を、政府に補填してもらう。

 (4.3)都合の悪い規制の廃止、緩和
  レントシーキングに都合の悪い法律が作られないようにする。政府の規制は少ない方がいい。
  (a)ロビー活動と選挙支援に巨額の資金を投資することで、政策決定に影響力を行使する。
  (b)反競争的行為が法律で禁止されないようにする。
  (c)仮に法律が存在する場合は、実効的な取り締まりが行なわれないようする。
  (d)法律家たちのインセンティブ。
   法律は複雑な方が、都合がよい。顧客に法律の回避方法を指南し、また法律の抜け穴を利用した複雑な取引を組み立て、合法的に見える契約をお膳立てし、レントシーキングと独占力を維持することが可能となる。
 (4.4)税制を、自分に都合のよいものに変える。
   (a)ロビー活動と選挙支援に巨額の資金を投資することで、税制の設計に影響力を行使する。
   (b)実態が隠蔽できるような複雑さを持った“逆累進課税制度”を実現させる。
 (4.5)労働法や会社法を、自分に都合のよいものに変える。
 (4.6)政府のマクロ経済政策を、自分に都合のよいものに変える。


 「最後に挙げるレントシーキング集団は、第一級の法律家たちで構成されている。

彼らは顧客の刑務所行きを(おおむね)防ぎつつ、法律の回避方法を指南することで、富を築き上げてきた。

法曹界は、顧客に税金逃れをさせるべく、抜け穴のある複雑な法律を案出しておき、その後は、抜け穴を利用するための込み入った取引を組み立てる。

複雑かつ不透明なデリバティブ市場の設計に手を貸したのも彼らだ。独占力を創り出すため、合法的に見える契約をお膳立てするのも、法律家たちの仕事だ。

彼らはこのような支援活動を通じて、市場が本来果たすべき機能を妨げ、上層を利する道具としての機能を発揮させ、結果として太っ腹な報酬にありついているのだ。」
(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第2章 レントシーキング経済と不平等な社会のつくり方,p.90,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:法律家たちのインセンティブ,レントシーキング)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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2019年4月8日月曜日

発話という行為の構造のまとめ/それでもなお、以下のような種類の発話が存在する。(a)言語の字義通りでない使用法、(b)冗談に類する、言葉の真面目でない使用法、(c)感情表出的な使用法。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

字義通りでない使用法、真面目でない使用法、感情表出的な使用法

【発話という行為の構造のまとめ/それでもなお、以下のような種類の発話が存在する。(a)言語の字義通りでない使用法、(b)冗談に類する、言葉の真面目でない使用法、(c)感情表出的な使用法。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

(2.3)、(2.4)追記。
(3.3)、(3.4)追記。

発話という行為の構造:(A)発語行為(音声行為、用語行為、意味行為)、(B)発語内行為、(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為、(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(1)行為(A)発語行為
 (1.1) 「何かを言う」とは、(a)物理的な音声を発する音声行為、(b)ある構文に従い単語を発する用語行為、(c)連続する複数の単語を使用し、ある言及対象と一定の意味を発する意味行為の、3つの側面から理解できる。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

「何かを言う」とは、
(A・a)ある一定の音声(音声素)を発する行為(音声行為)。
(A・b)ある一定の単語(用語素)を発する行為(用語行為)。
(A・c)連続する複数の単語を使用し、ある言及対象(意味素)と一定の意味を発する行為(意味行為)。

(2)行為(B)発語内行為
 (2.1) 適当な状況のもとにおいて、ある発言が、当の行為を実際に行なうことに他ならないような発言が存在する。妻と認めますか?「認めます」、「……と命名する」、「……を遺産として与える」、「……を賭ける」(ジョン・L・オースティン(1911-1960))
 (2.2)(A1)ある一定の発言を含む慣習的な手続きの存在、(A2)発言者、状況の手続的適合性、(B1)手続きの適正な実行、(B2)完全な実行、(Γ1)発言者の考え、感情、参与者の意図の適合性、(Γ2)参与者の行為の適合性。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

(A・1)ある一定の慣習的な効果を持つ、一般に受け入れられた慣習的な手続きが存在しなければならない。そして、その手続きはある一定の状況のもとにおける、ある一定の人々による、ある一定の言葉の発言を含んでいなければならない。
(A・2)発動された特定の手続きに関して、ある与えられた場合における人物および状況がその発動に対して適当でなくてはならない。
(B・1)その手続きは、すべての参与者によって正しく実行されなくてはならない。かつまた、
(B・2)完全に実行されなくてはならない。
(Γ・1)その手続きが、しばしば見受けられるように、ある一定の考え、あるいは感情を持つ人物によって使用されるように構成されている場合、あるいは、参与者のいずれかに対して一連の行為を惹き起こすように構成されている場合には、その手続きに参与し、その手続きをそのように発動する人物は、事実、これらの考え、あるいは感情を持っていなければならない。また、それらの参与者は自らそのように行動することを意図していなければならない。そしてさらに、
(Γ・2)これら参与者は、その後も引き続き、実際にそのように行動しなければならない。
 (2.3)発語内行為の3つの効果
  (a)了解の獲得
  (b)効力の発生
  (c)反応の誘発
 (2.4)慣習的な行為である。非言語的にも遂行され、達成され得る。

(3)行為(C・a)発語内行為と間接的に関連する発語媒介行為
 (3.1)何かを言うことは、通常の場合、聴き手、話し手、またはそれ以外の人物の感情、思考、行為に対して、結果としての何らかの効果を生ずることがある。
 (3.2)上記のような効果を生ぜしめるという計画、意図、目的を伴って、発言を行うことも可能である。
 (3.3)発語媒介行為の2つの効果
  (a)目的を達成すること
  (b)後続事件を惹き起こすこと
 (3.4)慣習的な行為ではない。非言語的にも遂行され、達成され得る。
(4)行為(C・b)発語内行為とは関係のない発語媒介行為

以上は、発話という行為についてのまとめである。
しかし、それでもなお、下記のような発話については、その分析の対象外である。
 (a)言語の字義通りでない使用法
 (b)冗談に類する、言葉の真面目でない使用法
 (c)感情表出的な使用法

 「われわれは行為遂行的発言と事実確認的発言との間の当初の区別と、顕在的な行為遂行的単語、ことに動詞の一覧表を発見するという計画からしばらく離れて、何ごとかを言うことが何ごとかを行うことであるということの意味を考察することによって、まったく新たな一歩を踏み出したのであった。その結果《意味》(meaning)をもつ発語行為(その中には、音声行為、用語行為、意味行為がある)、何ごとかを言いつつある一定の力《を》示す発語内行為、何ごとかを言うことによってある一定の《効果を達成する》発語媒介行為の三者を区別した。
 さらに前回の講義においては、これらとの関連において結果や効果という語のもついくつかの意味を区別した。とくに、効果が発語内行為に伴って現れる三つの意味、すなわち、了解の獲得、効力の発生、反応の誘発の三者を区別した。また発語媒介行為に関しては、目的を達成することと後続事件を惹き起こすこととの間に大雑把な区別をつけた。発語内行為は慣習的な行為であり、他方、発語媒介行為は慣習的な行為では《ない》。たしかに、これら両種類の行為――あるいはより正確に言えば、同じ名前で呼ばれる行為(たとえば、警告という発語内行為や納得させるという発語媒介行為と同等の行為)――は、いずれも非言語的に遂行され、達成され得る。
 しかし、そのような場合においても、たとえばそれが警告などのような発語内行為の名称に値するためには、《慣習的である》非言語的な行為でなければならないのである。他方、発語媒介行為の場合は、その達成のために慣習的行為を利用することがあるにしても、それ自身は慣習的ではない。裁判官は、何が述べられたかということを聴くことによって、いかなる発語行為といかなる発語内行為が遂行されたかを判定できるものでなければならないが、しかしいかなる発語媒介行為が達成されたかということを判定できるものである必要はない。
 最後に、われわれは、「いかにしてわれわれは言語を使用しているか」ないし「何ごとかを言いつつ何を行なっているか」ということに関して、さらに別の全般的な問題が存在しているということを述べた。この問題は、これまでの問題とはまったく異質のものであり、かつ、直感的にも異質であるように見えるということについても述べた。そして、それはわれわれがまだ足を踏み入れていないこれから先の問題であるということも示した。たとえば、ほのめかすこと(およびこれに類する、言語の《字義通りでない》(non-literal)使用法)や、冗談(およびこれに類する、言葉の《真面目でない》(non-serious)使用法)や、毒づいたり、ひけらかしたりすること(これらは、おそらく言語の感情表出的(expressive)な用法であろう)である。実際、われわれは、「xと言って、私は冗談を述べていた」(………とほのめかしていた、自分の感情を表していた等々)と言うことができる。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第10講 言語行為の一般理論Ⅳ,pp.200-201,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:発語行為,発語内行為,発語媒介行為)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。
 (a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、
 (b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして
 (c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。
 実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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2019年4月7日日曜日

法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。ルールの存在を「仮説」や価値言明とする理解は、事実問題を曖昧にしてしまう。ルールの価値、基礎づけは別問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

承認のルールの存在、価値、基礎づけ

【法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。ルールの存在を「仮説」や価値言明とする理解は、事実問題を曖昧にしてしまう。ルールの価値、基礎づけは別問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)法的妥当性についての内的陳述
 「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
(2)事実についての外的陳述
 「あるルールが表現されている法体系は、裁判所や公機関や私人によって用いられている究極の承認のルールによって、承認されている。」

 究極の承認のルール
   ↓
 特定の法体系の妥当性

(3)では、究極の承認のルールは、何によって基礎づけられているのか
 (3.1)承認のルールの妥当性は証明不能であり、ひとつの仮説なのか?

  ???
   ↓
 究極の承認のルール……仮説
   ↓
 特定の法体系の妥当性

 (3.2)価値についての陳述なのか?
 「あるルールが表現されている法体系の承認のルールは優れたものであって、それに基づく体系は支持するに値する。」

 究極の承認のルール……価値についての陳述
   ↓
 特定の法体系の妥当性

 (3.3)法的妥当性についての内的陳述は、ある承認のルールの存在を事実として示している。
 「ある法体系が表現している、ある特定のルールは法的に妥当である。」
 承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方で用いることが適当であるとして単に容認されている。

 (i)究極の承認のルールの適用……事実
 (ii)裁判所を含む一般的な諸活動での容認・使用……事実として確証可能
   ↓
 特定の法体系の妥当性

  (3.3.1)究極の承認のルールとして、実際に用いられているかどうかが、まず問題である。
  (3.3.2)次の諸問題は、また別の問題である。
   (a)承認のルールが、法体系に対して有する意義は何か。
   (b)あるルールが、ある「目的」に対してどのような利益や害悪をもたらすか。
   (c)あるルールを支持する「十分な理由」があるか。
   (d)あるルールが、「道徳的責務」とどのような関連があるか。

 「たしかに、この究極のルールについて多くの疑問がある。このルールがイギリスの裁判所、立法府、公機関あるいは私人の実際の活動において究極の承認のルールとして実際に用いられているかどうかをたずねることができる。あるいは、われわれの法的推論過程は今では放棄されてしまっている体系の妥当性の基準を用いたつまらないゲームだったのだろうか。法体系の満足すべき形式は、まさにそのようなルールを根底にもっていることなのかどうかをきくことができる。そのようなルールは害よりも益をもたらすだろうか。それを支持する十分な理由があるのだろうか。そうする道徳的責務があるのだろうか。これらが極めて重要な疑問であることは明らかであるが、承認のルールについてそれらの疑問を出すとき、それと同じく明らかなのは、われわれが承認のルールの助けをかりて答えたその他のルールに対する疑問ともはや同じ種類の疑問に答えようとしているのではないということである。特定の制定法が妥当するのは、それが議会における女王の制定するものは法であるというルールを満足させているからだ、と言うことから進んで、イギリスにおいてこの最終的なルールは究極の承認のルールとして裁判所や公機関や私人によって用いられていると言うとき、われわれはその体系のあるルールの妥当性を主張する法についての内的陳述から事実についての外的陳述、つまり体系の観察者がたとえ自分はその体系を容認していなくても行なう陳述に移っているのである。同様に、特定の制定法が妥当するという陳述からその体系の承認のルールは優れたものであって、それにもとづく体系は支持するに値するという陳述に移るときもまた、われわれは法的妥当性についての陳述から価値についての陳述に移っているのである。
 承認のルールの法的究極性を強調した人々はこのことを表明するために、体系のその他のルールの法的妥当性は承認のルールを参照することによって証明されうるのに対して、承認のルール自体の妥当性は証明されえないのであって、それは「想定される」か「仮定される」かあるいは「仮説」なのであるとのべた。しかしながら、これは重大な誤解を招くものであろう。裁判官や法律家であれ、あるいは一般人であれ、彼らが法体系の日常の運用のなかで特定のルールが法的に妥当すると言うとき、その陳述はたしかに一定の前提を伴っている。それらは、その体系の承認のルールを容認している人々の観点を表明している法についての内定陳述であって、それゆえそのようなものとして、体系に関する事実の外的陳述ではのべることができそうな多くのことをのべないままにしておくのである。このように、のべないままにされている事柄は法的妥当性についての陳述の通常の背景や文脈を形成し、したがってそれらの陳述によって「前提」されていると言われるのである。しかしそれらの前提とされている事柄が何であるかを正確に理解し、それらの性質を曖昧にしないことが大切である。それらは二つのことからなっている。第一に、ある一定の法のルール、たとえば特定の制定法が妥当すると真剣に主張する人は、法を確認するために適当なものとして容認している承認のルールをみずから利用しているのである。第二に、この承認のルールの観点から彼は特定の制定法を評価するのであるが、この承認のルールは彼によって容認されているだけでなく、その体系の一般的な活動のなかで実際に受けいれられ使用されているのが実状なのである。もしこの前提の正しさが疑われるならば、それを実際の活動、つまり裁判所が法としてみなされるべきものを確認する仕方とその確認が一般に黙認されることとに照らして確証することができるだろう。
 これら二つの前提は、証明されえない「妥当性」の「想定」であると記述しても十分ではないのである。あるルールの体系の一部としての地位が承認のルールの与える一定の基準を満足させているかどうかにかかっているような、ルールの体系《内部》で生じる疑問に答えるために、われわれは「妥当性」という言葉を必要とするにすぎないし、また普通その言葉を用いるだけなのである。基準を与える承認のルールそのものの妥当性についてそのような疑問は生じえない。承認のルールは有効でも無効でもありえないのであって、この仕方で用いることが適当であるとして単に容認されているのである。承認のルールの妥当性は「想定されるが証明されえない」と、曖昧に言うことによって、この単純な事実を表現することは、メートルによるすべての測定の正しさを究極的に決めているパリのメートル原器が、それ自体正しいことは想定できるが決して証明できないと言うのと同じである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第6章 法体系の基礎,第1節 承認のルールと法の妥当性,pp.117-119,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),松浦好治(訳))
(索引:法的妥当性,内的陳述,外的陳述,承認のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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2019年4月6日土曜日

5.(a)法を基礎づける人間本性の原理、(b)目的と手段の体系、(c)解釈、修正、改善に必要な情報を完全に含む法典の体系化方法、(d)細部に及ぶ明確、正確な議論、具体的な改善案、(e)その適応例として訴訟法。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

ベンサムの法哲学

【(a)法を基礎づける人間本性の原理、(b)目的と手段の体系、(c)解釈、修正、改善に必要な情報を完全に含む法典の体系化方法、(d)細部に及ぶ明確、正確な議論、具体的な改善案、(e)その適応例として訴訟法。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(2.7)追加。

(2)ベンサムの考え
 (2.1)有害なものを避け、幸福を願う欲求(a)は、それ自体として望ましい唯一のものである。
 (2.2)上記の目的を実現するものが、望ましい、正しいものである。
 (2.3)これらは、人類だけでなく、感覚を持つあらゆる存在についても当てはまる。
 (2.4)社会は、個々の利益や快をそれぞれに追求している個々人からなっている。
  (2.4.1)社会は、以下の3つの強制力によって、人々がやむをえない程度を超えて互いに争いあうことが防止されている。
   (i)民衆的強制力(道徳的強制力)
    同胞の好意や反感から生じてくる苦と快を通じて作用する。
   (ii)政治的強制力
    法律の与える賞罰によって作用する。
   (iii)宗教的強制力
    宇宙の支配者から期待される賞罰によって作用する。
 (2.5)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)は、それ自体としては善でも悪でもなく、それらが有害な行為を引き起こす限りにおいて、道徳論者や立法者の関心の対象となる。
  (i)共感は、有徳な行為を保証するものとしては不十分なものである。
  (ii)個人的愛情は、第三者に危害をもたらしがちであり、抑制される必要がある。
  (iii)博愛は大切な感情であるが、あらゆる感情のなかで最も弱く、不安定なものである。
 (2.6)人間が持っている、その他さまざまな欲求と感情(b)に対して、人があるものに対して快や不快を感じるべきだとか、感じるべきでないとか言ったりすることは、他人が侵害できない個々人独自の感性に対する不当で専制的な干渉である。
 (2.7)ベンサムの法哲学
  (2.7.1)法律の規定を検証するための、人間本性の原理を体系的に考察すること。
  (2.7.2)法哲学から神秘主義を駆遂し、ある明白で正確な目的に対する手段として、実際的な見地から法律を見ることの模範を示すこと。
  (2.7.3)法観念一般、法体系の観念やそれらの中に含まれている様々な一般的観念に付随している混乱や曖昧さを一掃すること。
   (i)曖昧さは、明確さと正確さによって対処すること。
   (ii)細部は、一般論によってではなく細部によって論ずること。
   (iii)既存のものが悪いことを示すだけではなく、具体的な改善案を提示すること。
  (2.7.4)すべての法律を、体系的に配列された一法典に転換すること。
   (a)従来の法典
    (a.1)専門用語が明確に定義されていない。
    (a.2)その結果、専門用語の意味を知るために、絶え間なく過去の判例を参照する必要がある。
   (b)体系的な法典
    (b.1)解釈のために必要なものを、すべて含む。
    (b.2)法典の修正や改善に必要な情報が、つねに整えられている。
    (b.3)法典の構成要素、諸要素間の関係、命名法、配列の仕方等、体系化方法を明確にする。
    (b.4)体系の全体構成において、不足要素が明確にされており、追加が容易にできる。
  (2.7.5)「司法制度や証拠に関する哲学も含めた訴訟手続に関する哲学が法哲学の他のいかなる部門よりも悲惨な状態にあることを発見し、それを一挙にほとんど完成の域にまでもっていった」。

 「栄誉はすべて彼のものである――彼の特別な資質以外には何もこれを成し遂げることはできなかっただろいう。

彼の不屈の忍耐力、他の人の意見によって支援されることを必要としない自立心、きわめて実際的な性分、総合的な習性――そして、とりわけ独自の方法が必要であった。

形而上学者は曖昧な一般論を武器としてこの主題にしばしば取り組んだが、自分たちが見いだしたままで進展させることはなかった。

法律は実際的な問題である。そこで検討されなければならないものは手段と目的であって、抽象観念ではなかった。

曖昧さは曖昧さによってではなく、明確さと正確さによって対処された。

細部は一般論によってではなく細部によって論じられた。

このような主題においては、既存のものが悪いことを示すだけでは何らかの進展を図ることはできず、どのようにすればそれらを良いものにできるかを示すことも必要であった。

ベンサム以外には、私たちが読んだことのあるどのような偉人もこのことをするのに適任ではなかった。彼はそれを決定的に成し遂げた。これらの著作[著作集]とこれから続いて出版される巻を見ていただきたい。

 ベンサムが成し遂げたことの詳細については立ち入ることはできない。ある程度の要約を作るだけでも数百頁が必要になるだろう。

私たちの評価を少数の項目のもとにまとめておくことにしよう。第一に、彼は法哲学から神秘主義を駆遂し、ある明白で正確な目的に対する手段として実際的な見地から法律を見ることの模範を示した。

第二に、彼は法観念一般、法体系の観念やそれらのなかに含まれているさまざまな一般的観念に付随している混乱や曖昧さを一掃した。

第三に、彼は《法典化》(codification)、言い換えれば、すべての法律を成文の体系的に配列された一法典に転換することの必要性と実現可能性を実証した。

それは、単一の定義を含んでおらず、あらゆる専門用語の意味を知るために絶え間なくそれまでの判例を参照しなければならないナポレオン法典のような法典ではなく、解釈のために必要なものをすべてその中に含み、法典そのものを修正したり改善したりするための準備がつねに整えられているような法典である。

彼はそのような法典がどのような部分から成り立っているか、そして部分同士はどのような関係にあるかを示し、彼らしい区別と分類によって、その命名法と配列の仕方はどのようなものでなければならないか、あるいはどのようなものになりうるかを示すために多くのことをなした。

彼がやり残したことについても、彼は他の人が多少とも簡単にできるようにしておいた。

第四に、彼は民法が備えようとしている社会の緊急事態や民法のもろもろの規定を検証する人間本性の原理を体系的に考察した。この考察は、精神的利益が考慮されなければならないときはつねに(私たちがすでにほのめかしたように)不完全なものであるが、物質的利益を保護するために策定されるあらゆる国の法律にとっては優れたものである。

第五に、(注目すべき仕事がすでになされていた刑罰という主題については言うまでもないことだが)彼は、司法制度や証拠に関する哲学も含めた訴訟手続に関する哲学が法哲学の他のいかなる部門よりも悲惨な状態にあることを発見し、それを一挙にほとんど完成の域にまでもっていった。

彼がその原理をひとつ残らず確立させたので、実際の制度を示そうとするときでさえするべきことはほとんど残されていない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『ベンサム』,集録本:『功利主義論集』,pp.141-142,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:ベンサムの法哲学,法律,人間本性,目的と手段,法典)

功利主義論集 (近代社会思想コレクション05)


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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