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2018年4月8日日曜日

解答:(1)自己の傾向性に多くを任せ、自己の良心を満足させれば十分である。(2)この世界と個人の真実を知れば、全体の共通の善も認識できる。(3)仮に自己利益の考慮のみでも、思慮を用いて行為すれば共通の善も実現される。但し、道徳が腐敗していない時代に限る。(ルネ・デカルト(1596-1650))

自己の良心と共通善

【解答:(1)自己の傾向性に多くを任せ、自己の良心を満足させれば十分である。(2)この世界と個人の真実を知れば、全体の共通の善も認識できる。(3)仮に自己利益の考慮のみでも、思慮を用いて行為すれば共通の善も実現される。但し、道徳が腐敗していない時代に限る。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
問題(1)
 善を完全に知るには、無限といえるほどの知識が必要ではないか。
解答(1)
 人は、無限といえるほどの知識を持てない。それにもかかわらず、自己の良心を満足させれば十分であり、この点で、自己の傾向性に多くを任せることができる。
問題(2)
 善の評価には、他の人の有益性も考慮すべきか。
解答(2)
 各々は他人から分離された個人であるとはいえ、人は一人では生存することができず、家族の、この社会の、この国の、この地球の、この宇宙の一部であり、それらと結合している。従って人は、一個人の利益よりも、自分がその一部である全体の利益を、節度と慎重さとをもって優先させるべきである。こうすることで、自分固有の善のみならず、集団に共通の善をも享受することができるだろう。
問題(3)
 他人の有益性の考慮がその人の性向だとしたら、違う人には違う「善」が完全だと承認させるのではないか。
解答(3)
 もちろん、自分自身のために善を獲得するよりも、他人に善を施すことへの傾向を持つ人は、より気高く、輝かしく、偉大な精神の持ち主である。しかし、たとえ各人がすべてを自分自身の利益にして、他人に対してどんな慈愛をもたないにしても、その人が思慮を用いて事を行ないさえするなら、そしてとりわけ道徳が腐敗していない時代に生きているならば、自らの力の及ぶすべてのものにおいて、通常は、やはり他人のために尽くしていることになる。なぜなら、事物の秩序は、人間全体をきわめて緊密な一つの社会に結び付けているからである。
 「このように神の善性、われわれの精神の不死、宇宙の広大さを認識したあとで、その認識がたいへん有益であると思われるもう一つの真理があります。それは、われわれの各々は他人から分離された個人であり、したがって、その利害は他の人の利害とある意味で区別されるにせよ、しかし人は一人では生存することができないと常に考えねばならないことです。実際、人は宇宙の一部であり、より詳しく言えば、この地球のまた一部であり、この国の、この社会の、この家族の一部であり、人はそれと住居、誓約、生まれにおいてつながっていると考えねばなりません。そして人は、一個人の利益よりも、自分がその一部である全体の利益をいつも優先させるべきです。ただ、それもあくまで節度と慎重さとをもってのことです。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『デカルト=エリザベト往復書簡』一六四五年九月一五日、p.131、[山田弘明・2001])
 「最後に、人は人生のさまざまな出来事において善の選択を迫られることがありますが、すべての善を完全に知るための、無限な知識を人がもつわけではありません。とはいえ、私が前便で数え上げた知識のように、より必要なことがらについて、ほどほどの知識を有することで満足すべきだと私には思われます。
 その手紙の中で私は、殿下が提出された問題、つまり、すべてを自分自身の利益にしようとする人は、他の人のために心を悩ます人よりも正しいかどうか、に対して私の意見をすでに申し述べておきました。というのは、われわれが自分のことしか考えないなら、われわれに固有の善しか享受できないでしょうが、その代わりに、自分を何か他の集団の一部と考えるなら、どんな固有の善もそのために奪われることなしに、われわれは集団に共通の善をも分けもつことになるでしょう。」(中略)
 「理性が公共の利益をどこまで考慮すべしと命じているかを、正確に測ることは困難であることを私も認めます。しかしそれはまた、きわめて正確であらねばならぬことがらではありません。自己の良心を満足させれば十分であり、この点で、自己の傾向性に多くを任せることができます。というのは、神は事物の秩序をきちんと確立し、人間全体をきわめて緊密な一つの社会に結び付けているので、たとえ各人がすべてを自分自身の利益にして、他人に対してどんな慈愛をもたないにしても、その人が思慮を用いて事を行ないさえするなら、そしてとりわけ道徳が腐敗していない時代に生きているならば、自らの力の及ぶすべてのものにおいて、通常は、やはり他人のために尽くしていることになるのです。そしてさらに、善を自分自身のために獲得するよりも、他人に善を施すことの方が、より気高く、より輝かしいことですから、そのことへの最も大きい傾向をもち、自らの所有する善をほとんど尊重しない人は、最も偉大な精神のもち主です。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『デカルト=エリザベト往復書簡』一六四五年一〇月六日、p.143、pp.150-151、[山田弘明・2001])
(索引:善と知識、利他傾向、利己傾向、良心、傾向性、共通善、思慮、道徳)

デカルト=エリザベト往復書簡 (講談社学術文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの


(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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問題:(1)善を完全に知るには、無限といえるほどの知識が必要ではないか。(2)善の評価には、他の人の有益性も考慮すべきか。(3)他人の有益性の考慮がその人の性向だとしたら、違う人には違う「善」が完全だと承認させるのではないか。(エリーザベト・フォン・デア・プファルツ(1618-1680))

自己の傾向性を信じて良いか

【問題:(1)善を完全に知るには、無限といえるほどの知識が必要ではないか。(2)善の評価には、他の人の有益性も考慮すべきか。(3)他人の有益性の考慮がその人の性向だとしたら、違う人には違う「善」が完全だと承認させるのではないか。(エリーザベト・フォン・デア・プファルツ(1618-1680))】
 問題:多くの偶然の出来事が起こるこの現実の世界においては、収支勘定が分からないような状況で、選択を迫られることが多い。このとき、後悔しないほどに〈善〉を完全に知るためには、無限といえるほどの知を所有する必要があるのではないか。また〈善〉を評価するにあたっても、われわれのためにだけ役立つものがいいのか、それとも他の人にも有益なものがいいのか、おのおのの価値をはっきり見なければならない。ところが、自分のためだけに生きる人も、他人のことで心を悩ませる性質の人も、この自分の性向を、それを一生持続させる十分強い理由によって支えており、この暗黙の感情が、理性に「その人の善」の完全性を承認させる。もし、そうだとしたら、〈善〉とはいったい何なのか。自然から与えられた感情にどこまでしたがうべきか。また、いかにしてそれを正すべきか。
 「むしろ私は確信していますが、人民の統治者たちを不意打ちし、最も有効な措置を検討する暇も与えないような多くの偶然の出来事は、(その人がいくら有徳であっても)至福を妨げる主たるものの一つだとあなたがおっしゃる後悔を、あとで引き起こすような行為をしばしばさせるのです。たしかに、善をそれが満足に貢献することができるのに応じて評価し、この満足をそれが喜びを生みだす完全性に応じて評価し、これらの完全性や喜びを情念を交えることなく判断する習慣は、無数の誤りから彼らを守るでしょう。
 しかしこのように善を評価するためには、善を完全に知る必要があります。そして現実の生において選択を迫られるすべての善を知るためには、無限の知を所有する必要があるでしょう。できるかぎりのすべての用心をしたと良心が証言するとき、人は満足せずにはおれない、とあなたは言うでしょう。しかし収支勘定が分からないときには、決してそういうことは起こりません。なぜなら、まだ考慮していないことがらについて、人はいつも考えを変えるからです。満足を、それを引き起こす完全性に応じて測るためには、われわれのためにだけ役立つものがいいのか、それとも他の人にも有益なものがいいのか、おのおのの価値をはっきり見なければなりません。後者は他人のことで心を悩ませる性質の人によって過度に評価され、前者は自分のためだけに生きる人によって過度に評価されます。それにもかかわらず、いずれの人も自分の性向を、それを一生持続させる十分強い理由によって支えています。身体や精神の他の完全性についても同じです。暗黙の感情が理性に完全性を承認させます。その感情はわれわれに生まれつきのものですから、情念と呼ばれるべきではありません。それゆえ、(自然から与えられた)感情にどこまでしたがうべきか、いかにしてそれを正すべきかを、どうかお教え下さい。」
(エリーザベト・フォン・デア・プファルツ(1618-1680)『デカルト=エリザベト往復書簡』一六四五年九月一三日、pp.125-127、[山田弘明・2001])
(索引:善と知識、利他傾向、利己傾向)

デカルト=エリザベト往復書簡 (講談社学術文庫)


エリーザベト・フォン・デア・プファルツ(1618-1680)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
エリーザベト・フォン・デア・プファルツ(1618-1680)
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〈愛着〉〈友愛〉〈献身〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。(ルネ・デカルト(1596-1650))

愛着、友愛、献身

【〈愛着〉〈友愛〉〈献身〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 ある対象に「愛着」を感じるとき、それは、自分以下に評価されている、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈美〉〈広義の美〉〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、一つの花、一羽の鳥、一頭の馬。
 ある対象に「友愛」を感じるとき、それは、自分と同等に評価されている、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、自分が真にけだかく高邁な精神を持つと考え、また仮に、相手が不完全であると考えても、その相手に対してきわめて完全な友愛を持ちえないことはない。
 ある対象に「献身」を感じるとき、それは、自分よりも高く評価されている、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、神に対して、ある国に対して、ある個人に対して、ある君主に対して、ある都市に対して。
 「自分自身との比較で愛するものについてなす評価にもとづき愛を区別することは、いっそう理にかなっていると思われる。愛の対象を自分以下に評価するとき、その対象にはたんなる愛着を持つだけだ。対象を自分と同等に評価するとき、それは友愛とよばれる。対象を自分以上に評価するとき、ひとの持つ情念は献身とよべる。たとえば、一つの花、一羽の鳥、一頭の馬に対して愛着を持ちうる。しかし友愛は、きわめて乱れた精神の持ち主でもない限り、人間に対してしか持ちえない。そして人間たちはまさにこの情念の対象なのであり、いかに相手が不完全であっても、自分が愛され、また真にけだかく高邁な精神を持つと考えながら、しかもその人に対してきわめて完全な友愛を持ちえないことはないのだ。」(中略)「献身については、その主要な対象は疑いなく至高の神であり、神を正しく認識するならば神に対して献身的であらざるをえない。しかしひとはまた、その君主に対しても、その国に対しても、その都市に対しても、さらには一個人に対してさえも、自分よりもはるかに高く評価するとき、献身の情念を持ちうる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 八三、p.72、[谷川多佳子・2008])
(索引:愛着、友愛、献身)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
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〈所有への愛〉〈対象そのものへの愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。(ルネ・デカルト(1596-1650))

所有への愛、対象そのものへの愛

【〈所有への愛〉〈対象そのものへの愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 ある対象を「所有したい」と感じるとき、それは、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈美〉〈広義の美〉〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、野心家が求める栄誉、主銭奴が求める金銭、酒飲みが求める酒、獣的な者が求める女。
 ある対象を第二の自己自身と考えて、その対象にとっての〈善〉を自分の〈善〉のごとく求めるとき、あるいはそれ以上の気遣いをもって求めるとき、それは、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。例として、有徳な人にとっての友人、よき父にとっての子供たち。
 「愛しうる種々の異なる対象に応じて、同数の愛の種類を区別することも必要ではない。たとえば、野心家が栄誉に対してもつ情念、主銭奴が金銭に対してもつ情念、酒飲みが酒に対してもつ情念、獣的な者が犯そうとする女に対して持つ情念、紳士〔有徳の人〕がその友人や愛人に対して持つ情念、よき父がその子供たちに対して持つ情念、これらの情念は互にとても異なるが、しかしそれにもかかわらず、愛を分有している点では似ているからである。だが初めの四者の愛は、ただ情念の向かう対象の所有への愛だけであって、対象そのものへの愛ではない。対象そのものへは、他の特殊情念もまじった欲望を持つだけなのだ。これに対して、よき父が子供たちに持つ愛は、きわめて純粋なので、父は子供たちから何も得ようとは欲せず、今と違うように子供たちを所有しようともしないし、今以上に子供たちと近く傍にいようともしない。ただ子供たちを第二の自己自身と考えて、子供たちの善を自分の善のごとくに、あるいはそれ以上の気遣いをもって、求めるのである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 八二、pp.70-71、[谷川多佳子・2008])
(索引:所有への愛、対象そのものへの愛〉

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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〈欲情の愛〉〈好意の愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。(ルネ・デカルト(1596-1650))

欲情の愛、好意の愛

【〈欲情の愛〉〈好意の愛〉による〈美〉〈広義の美〉〈善〉の感受。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 ある対象に「欲望」を感じるとき、それは、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈美〉〈広義の美〉〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。
 ある対象に「好意」を感じ、その対象のために〈善〉を意志することを促されるとき、それは、私たちの本性に適するであろう対象である。それが本性に適するものであるとき、その対象は〈善〉であり、この情動は〈愛〉の一つの種類である。
 「さてふつう、二種類の愛が区別されている。その一方は「好意の愛」とよばれ、自分の愛するもののために善を意志することを促す愛である。他方は、「欲情の愛」とよばれ、自分の愛するものを欲望させる愛である。しかし、この区別はたんに愛の効果に関わるもので、愛の本質に関わるものではない、とわたしには思われる。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 八一、p.70、[谷川多佳子・2008])
(索引:愛、好意の愛、欲情の愛)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

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