ページ

2018年4月12日木曜日

まったくわたしたちに依存しないものについては、それれがいかに善くても、情熱的に欲してはならない。(ルネ・デカルト(1596-1650))

私たちに依存しないもの

【まったくわたしたちに依存しないものについては、それれがいかに善くても、情熱的に欲してはならない。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 「まったくわたしたちに依存しないものについては、それれがいかに善くても、情熱的に欲してはならない。その理由はこうである。それらは起こらないかもしれず、そのため、それを望めばそれだけいっそうわたしたちを苦しめるかもしれないから。それだけでなく、むしろ主として、それらがわたしたちの思考を独占することで、わたしたち自身で獲得できる他のものに熱意を向けさせないようにするからだ。これら空しい欲望に対しては、二つの一般的治療法がある。第一は、高邁であり、これについてはあとで述べる。第二は、神の摂理についてたびたび考察を重ね、何ものも、この摂理によって永遠に決定されているのと異なるしかたで起こるのは不可能である、と考えねばならないことだ。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四五、pp.123-124、[谷川多佳子・2008])
(索引:私たちに依存しないもの)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
デカルトの関連書籍(amazon)
検索(デカルト)
検索(デカルト ac.jp)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ

自由意志にのみ依存する善きことをなすのが、徳という欲望である。これは、私たちに依存するものであるゆえに、必ず成果をもたらす。(ルネ・デカルト(1596-1650))

徳と自由意志

【自由意志にのみ依存する善きことをなすのが、徳という欲望である。これは、私たちに依存するものであるゆえに、必ず成果をもたらす。(ルネ・デカルト(1596-1650))】
 わたしたちに依存するもの、すなわち自由意志にのみ依存する善きことをなすのが、徳に従うということであり、徳については、どんなに熱心な欲望をいだいても、熱心すぎることがありえない。そのうえ、それは、ただわたしたちにのみ依存するものである以上、必ず成果をもたらす。
 「わたしたちにのみ依存しているもの、つまり、わたしたちの自由意志にのみ依存しているものについては、それが善いと知りさえすれば、それを欲するに熱心すぎるということはありえないからだ。なぜなら、わたしたちに依存する善きことをなすのが徳に従うことであり、徳については、どんなに熱心な欲望をいだいても、熱心すぎることがありえないのは確かなのだから。そのうえ、わたしたちがこのようなしかたで欲するものは、ただわたしたちにのみ依存するものである以上、必ず成果をもたらすので、わたしたちは期待した満足すべてをつねに受け取るのである。しかしこの点においてふだん犯される過失は、欲しすぎるということではけっしてなく、ただ、欲し足りないということだけだ。これに対する最上の治療法は、それほどは有用でない他のあらゆる種類の欲望から精神をできるかぎり解放して、つぎに、欲望すべきものの善さをじゅうぶんに明晰に認識して、それを注意深く考察するよう努めることである。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『情念論』第二部 一四四、pp.122-123、[谷川多佳子・2008])
(索引:徳、自由意志、欲望、私たちに依存しているもの)

情念論 (岩波文庫)



哲学の再構築 ルネ・デカルト(1596-1650)まとめ&更新情報 (1)存在論
(目次)
 1.なぜ、哲学をここから始める必要があるのか
 2.私は存在する
 3.私でないものが、存在する
 4.精神と身体
 5.私(精神)のなかに見出されるもの

ルネ・デカルト(1596-1650)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「その第一の部門は形而上学で、認識の諸原理を含み、これには神の主なる属性、我々の心の非物質性、および我々のうちにある一切の明白にして単純な概念の解明が属します。第二の部門は自然学で、そこでは物質的事物の真の諸原理を見出したのち、全般的には全宇宙がいかに構成されているかを、次いで個々にわたっては、この地球および最もふつうにその廻りに見出されるあらゆる物体、空気・水・火・磁体その他の鉱物の本性が、いかなるものであるかを調べます。これに続いて同じく個々について、植物・動物の本性、とくに人間の本性を調べることも必要で、これによって人間にとって有用な他の学問を、後になって見出すことが可能になります。かようにして、哲学全体は一つの樹木のごときもので、その根は形而上学、幹は自然学、そしてこの幹から出ている枝は、他のあらゆる諸学なのですが、後者は結局三つの主要な学に帰着します。即ち医学、機械学および道徳、ただし私が言うのは、他の諸学の完全な認識を前提とする窮極の知恵であるところの、最高かつ最完全な道徳のことです。ところで我々が果実を収穫するのは、木の根からでも幹からでもなく、枝の先からであるように、哲学の主なる効用も、我々が最後に至って始めて学び得るような部分の効用に依存します。」
(ルネ・デカルト(1596-1650)『哲学原理』仏訳者への著者の書簡、pp.23-24、[桂寿一・1964])

ルネ・デカルト(1596-1650)
デカルトの関連書籍(amazon)
検索(デカルト)
検索(デカルト ac.jp)

にほんブログ村 哲学・思想ブログへ