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2018年6月8日金曜日

8.他人からの依頼への対処:(a)はっきりと断らない、(b)何とか言い繕った返事をする。その理由:(a)依頼が不要になる可能性、(b)不履行を合理化できる可能性。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))

他人からの依頼

【他人からの依頼への対処:(a)はっきりと断らない、(b)何とか言い繕った返事をする。その理由:(a)依頼が不要になる可能性、(b)不履行を合理化できる可能性。(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540))】
 もし君が他人から好感を持たれたいと思えば、何かを依頼された場合、言下に断わってしまうようなことはせずに、何とか言い繕った返事をしておくこと。なぜなら、
(a) うまく口先だけをあわせることで、しばらく、依頼人を満足させておくことができる。
(b) ところが、要求を断わってしまえば、どんな場合でも君に対して不満を抱き続けるようになろう。
(c) 君に依頼する人物は、時には、後になって君の力を必要としないようになるかもしれない。
(d) また、そのうちに情況が変わって、言い逃れできるような材料がいっぱい出てくるかもしれない。

 「もし君が他人から好感をもたれたいと思えば、何かを依頼されたばあい、言下に断わってしまうようなことはせずに、なんとか言いつくろった返事をしておくように心がけなければならない。

なぜなら、君に依頼する人物は、時には、後になって君の力を必要としないようになるかもしれないし、あるいは、そのうちに情況が変わってきて、君が言い逃れできるような材料がいっぱいでてくるかもしれない。

そのうえ、多くの人間は愚かで、口先だけで簡単にまるめこまれるものだ。つまり君にしてやる気がないか、しようとしてもできないことがらを、してやらずに、うまく口先だけをあわせることで、しばらく依頼人を満足させておくことができるものである。

ところが、君がその依頼人の要求を一言のもとに断わってしまえば、どんなばあいでも君にたいして不満をいだきつづけるようになろう。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)C、36 他人からの依頼、p.71、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))
(索引:他人からの依頼)

フィレンツェ名門貴族の処世術―リコルディ (講談社学術文庫)



フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)
(出典:wikipedia
 「この書物の各断章を考えつくのはたやすいことではないけれども、それを実行に移すのはいっそうむずかしい。それというのも、人間は自分の知っていることにもとづいて行動をおこすことはきわめて少ないからである。したがって君がこの書物を利用しようと思えば、心にいいきかせてそれを良い習慣にそだてあげなければならない。こうすることによって、君はこの書物を利用できるようになるばかりでなく、理性が命ずることをなんの抵抗もなしに実行できるようになるだろう。」
(フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)『リコルディ』(日本語名『フィレンツェ名門貴族の処世術』)B、100 本書の利用のし方、p.227、講談社学術文庫(1998)、永井三明(訳))

フランチェスコ・グィッチャルディーニ(1483-1540)
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欺瞞と狡猾への対処方法:(a)罠を見破る狐の賢さ、法による戦い、(b)狐の賢さの隠蔽、偽装、(c)必要な不履行の合法化、潤色、(d)獅子の力による実力行使。(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527))

狐と獅子の喩え

【欺瞞と狡猾への対処方法:(a)罠を見破る狐の賢さ、法による戦い、(b)狐の賢さの隠蔽、偽装、(c)必要な不履行の合法化、潤色、(d)獅子の力による実力行使。(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527))】
(1) 現状の認識。
(1a) 人間がみな善良であるならば、信義を守り言行一致を宗とするがよい。この場合には、以下の勧告は善からぬものになるであろう。
(1b) 現実には、人間は邪悪な存在であり、信義など守らない。そして、信義などほとんど考えにも入れないで、狡猾に欺くすべを知る者たちが、誠意を宗とした者たちに、立ち勝ってきた。
(2) では、どうすればよいか。
(2a) 狐となって罠を悟る必要があり、法に拠り闘う。これは人間に固有の戦い方だ。
(2b) この際必要なのは、この狐の性質を巧みに潤色できることであり、偉大な偽装者にして隠蔽者たる方法を会得することである。人間というものは非常に愚鈍であり、目先の必要性にすぐ従ってしまうから、欺こうとする者は、いつでも欺かれる者を見いだすであろう。
(2c) 慎重な人物ならば、信義の履行が危害をもたらしそうな場合や、その約束をさせられたときの理由が失われた場合には、信義を守ることはできないし、また守るべきでもない。さらに、不履行を潤色するための合法的な理由を生み出すことにも、事欠かないであろう。
(2d) さらに、狐の方法は、非常にしばしば足りない。そこで、獅子の力に訴えねばならない。これは野獣のものだ。「君主たる者には、野獣と人間とを巧みに使い分けることが、必要になる。」
 「君主が信義を守り狡猾に立ちまわらずに言行一致を宗とするならば、いかに讃えられるべきか、それぐらいのことは誰にでもわかる。だがしかし、経験によって私たちの世に見てきたのは、偉業を成し遂げた君主が、信義などほとんど考えにも入れないで、人間たちの頭脳を狡猾に欺くすべを知る者たちであったことである。そして結局、彼らが誠意を宗とした者たちに立ち勝ったのであった。
 あなた方は、したがって、闘うには二種類があることを、知らねばならない。一つは法に拠り、いま一つは力に拠るものである。第一は人間に固有のものであり、第二は野獣のものである。だが、第一のものでは非常にしばしば足りないがために、第二のものにも訴えねばならない。そこで君主たる者には、野獣と人間とを巧みに使い分けることが、必要になる。」(中略)「したがって、君主には獣を上手に使いこなす必要がある以上、なかでも、狐と獅子を範とすべきである。なぜならば、獅子は罠から身を守れず、狐は狼から身を守れないがゆえに。したがって、狐となって罠を悟る必要があり、獅子となって狼を驚かす必要がある。単に獅子の立場にのみ身を置く者は、この事情を弁えないのである。そこで慎重な人物ならば、信義の履行が危害をもたらしそうな場合や、その約束をさせられたときの理由が失われた場合には、信義を守ることはできないし、また守るべきでもない。また人間がみな善良であるならば、このような勧告は善からぬものになるであろう。だが、人間は邪悪な存在であり、あなたに信義など守るはずもないゆえ、あなたのほうだってまた彼らにそれを守る必要はないのだから。ましてや君主たる者には、不履行を潤色するための合法的な理由を生み出すことには事欠かなかったのだから。これに関してならば、現代の実例をも無数に挙げることができるであろうし、どれだけの和平が、どれだけの約束が、君主たちの不誠実によって、虚しく効力を失ってしまったかを、示すこともできるであろう。そして狐の業をより巧みに使いこなした者こそが、よりいっそうの成功を収めたのであった。だが、必要なのは、この狐の性質、これを巧みに潤色できることであり、偉大な偽装者にして隠蔽者たる方法を会得することである。また人間というものは非常に愚鈍であり、目先の必要性にすぐ従ってしまうから、欺こうとする者は、いつでも欺かれる者を見いだすであろう。」
(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)『君主論』第18章 どのようにして君主は信義を守るべきか、pp.131-133、岩波文庫(1998)、河島英昭(訳))
(索引:狐と獅子の喩え)

君主論 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「私の意図は一貫して、耳を傾ける者には役立ちそうな事態を書き記すことであったから、事態をめぐる想像よりも、その実際の真実に則して書き進めてゆくほうが、より適切であろうと私には思われた。そして多数の人びとがいままでに見た例もなく真に存在すると知っていたわけでもない共和政体や君主政体のことを、想像して論じてきた。なぜならば、いかに人がいま生きているのかと、いかに人が生きるべきなのかとのあいだには、非常な隔たりがあるので、なすべきことを重んずるあまりに、いまなされていることを軽んずる者は、みずからの存続よりも、むしろ破滅を学んでいるのだから。なぜならば、すべての面において善い活動をしたいと願う人間は、たくさんの善からぬ者たちのあいだにあって破滅するしかないのだから。そこで必要なのは、君主がみずからの地位を保持したければ、善からぬ者にもなり得るわざを身につけ、必要に応じてそれを使ったり使わなかったりすることだ。」
(ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)『君主論』第15章 人間が、とりわけ君主が、褒められたり貶されたりすることについて、pp.115-116、岩波文庫(1998)、河島英昭(訳))

ニッコロ・マキャヴェッリ(1469-1527)
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人類全体は、共にある共通の国家に属している市民のようなものだ。我々はこの共同国家から、叡智的なもの、理性的なもの、法律的なものを与えられている。(マルクス・アウレーリウス(121-180))

理性、法律、叡智の由来

【人類全体は、共にある共通の国家に属している市民のようなものだ。我々はこの共同国家から、叡智的なもの、理性的なもの、法律的なものを与えられている。(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
 「もし叡智が我々に共通なものならば、我々を理性的動物となすところの理性もまた共通なものである。であるならば、我々になすべきこと、なしてはならぬことを命令する理性もまた共通である。であるならば、法律もまた共通である。であるならば、我々は同市民である。であるならば、我々は共に或る共通の政体に属している。であるならば、宇宙は国家のようなものだ。なぜならば人類全体が他のいかなる政体に属しているといえようか。であるから我々はこの共同国家から叡智的なもの、理性的なもの、法律的なものを与えられているのである。でなければどこからであろう。あたかも私の存在の土の部分はどこかの土から分割され、水の部分はほかの元素から、空気の部分はどこかの源泉から、熱と火の部分はさらに別の固有の源泉から分割されているように―――なぜなら何ものも無から生ぜず、同様に何ものも無にかえらないのである―――そのように叡智もまたどこからかきたのである。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四、pp.51-52、[神谷美恵子・2007])
(索引:共同国家、理性、法律、叡智)

自省録 (岩波文庫)


(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

マルクス・アウレーリウス(121-180)
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