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2018年7月16日月曜日

1.自己意識の発生:(a)有機体の同化作用、(b)等しいもの、類似したものの発生、(c)持久する鏡の発生、(d)自己意識の発生。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))

自己意識の発生

【自己意識の発生:(a)有機体の同化作用、(b)等しいもの、類似したものの発生、(c)持久する鏡の発生、(d)自己意識の発生。(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900))】
(1)間断のない変化における無条件的に異なったものは、「石の雨のように流れ落ち」とらえられない。
(2)最低段階の有機的なものの同化作用。
 (2.1)様々な力(光、電気、圧力)からつねに一つの刺激だけを受け取る。
 (2.2)その他の一切を等しいものと感ずる。
(3)等しいものや類似したものの信念と、快・不快の発生。
 対象から受ける栄養の習慣的な刺激が、等しいものや類似したものとの信念を生み、この判断の血肉化の帰結として快と不快が生じる。
(4)何らかの持久するもの、鏡の発生。
 等しいものや類似したもの、並存や継起がその上に現われるであろうところの鏡、何らかの持久するものが現れる。
(5)自己意識の発生。
 私たち自身を一つの持久する、自己自身に等しいものとして、つまり無条件的なものとして把握するようになる。

 「総じて主観というものが存在しうるためには、なんらかの持久するものが現存していなくてはならない〔そして同様に多くの同等性と類似性が現存していなくてはならない〕。

間断のない変化における《無条件的に異なったもの》などは確保されえないだろうし、何によっても確保されえないことだろう。そうしたものは石の雨のように流れ落ちることだろう。そしてなんらかの持久するものなしでは、並存や継起がその上に現われるであろうところの鏡が全然現存しないことになるだろう。

鏡はすでに何か持久するものを前提するのだ。―――ところが、私の信ずるところでは、等しいものという誤謬が発生することによって、主観が発生するかもしれないのである。

たとえば、原形質がさまざまな力(光、電気、圧力)からつねに《一つの刺激》だけを受け取り、この《一つの刺激》だけを《受け入れる能力があり、その他の一切を等しいものと感ずる》ような場合がそうだ―――そして、たぶん最低段階の有機的なものにおいてはこのようなことが起こっているにちがいない。

まず最初に、《私たちの外部における》持久と同等性とに対する信念が発生し、―――そして後になってようやく私たちは、私たちの外部に大いに習熟してから、《私たち自身》を一つの《持久する、自己自身に等しいもの》として、つまり無条件的なものとして把握するのである。それゆえそういう《信念》(判断)が自己意識に先立って発生したにちがいない。

すなわち有機的なものの《同化作用》の過程においてこういう信念がすでに現存しているのだ、―――言いかえれば、こういう誤謬が! これは神秘的なことだ、すなわちいかにして有機的なものは等しいものや類似したものや持久するものという判断にいたったのか? 快と不快とはこの判断とこの判断の血肉化との帰結として初めて生じる、それらは等しいものや類似したものから受ける栄養の習慣的な刺激をすでに前提しているのだ!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『遺稿集・生成の無垢』Ⅰ認識論/自然哲学/人間学 六三、ニーチェ全集 別巻4 生成の無垢(下)、pp.49-50、[原佑・吉沢伝三郎・1994])
(索引:主観,等しいもの,類似したもの,持久するもの,自己意識)

生成の無垢〈下〉―ニーチェ全集〈別巻4〉 (ちくま学芸文庫)


(出典:wikipedia
フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「精神も徳も、これまでに百重にもみずからの力を試み、道に迷った。そうだ、人間は一つの試みであった。ああ、多くの無知と迷いが、われわれの身において身体と化しているのだ!
 幾千年の理性だけではなく―――幾千年の狂気もまた、われわれの身において突発する。継承者たることは、危険である。
 今なおわれわれは、一歩また一歩、偶然という巨人と戦っている。そして、これまでのところなお不条理、無意味が、全人類を支配していた。
 きみたちの精神きみたちの徳とが、きみたちによって新しく定立されんことを! それゆえ、きみたちは戦う者であるべきだ! それゆえ、きみたちは創造する者であるべきだ!
 認識しつつ身体はみずからを浄化する。認識をもって試みつつ身体はみずからを高める。認識する者にとって、一切の衝動は聖化される。高められた者にとって、魂は悦ばしくなる。
 医者よ、きみ自身を救え。そうすれば、さらにきみの患者をも救うことになるだろう。自分で自分をいやす者、そういう者を目の当たり見ることこそが、きみの患者にとって最善の救いであらんことを。
 いまだ決して歩み行かれたことのない千の小道がある。生の千の健康があり、生の千の隠れた島々がある。人間と人間の大地とは、依然として汲みつくされておらず、また発見されていない。
 目を覚ましていよ、そして耳を傾けよ、きみら孤独な者たちよ! 未来から、風がひめやかな羽ばたきをして吹いてくる。そして、さとい耳に、よい知らせが告げられる。
 きみら今日の孤独者たちよ、きみら脱退者たちよ、きみたちはいつの日か一つの民族となるであろう。―――そして、この民族からして、超人が〔生ずるであろう〕。
 まことに、大地はいずれ治癒の場所となるであろう! じじつ大地の周辺には、早くも或る新しい香気が漂っている。治癒にききめのある香気が、―――また或る新しい希望が〔漂っている〕!」
(フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)『このようにツァラトゥストラは語った』第一部、(二二)贈与する徳について、二、ニーチェ全集9 ツァラトゥストラ(上)、pp.138-140、[吉沢伝三郎・1994])

フリードリヒ・ニーチェ(1844-1900)
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6.事実の叙述は、絶対的価値の判断ではあり得ない。しばしば価値表明は、特定の目的が暗黙で前提されており、その目的(価値)に対する手段としての相対的価値の判断である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))

絶対的価値と相対的価値

【事実の叙述は、絶対的価値の判断ではあり得ない。しばしば価値表明は、特定の目的が暗黙で前提されており、その目的(価値)に対する手段としての相対的価値の判断である。(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951))】
下記(1.3)の補足説明である。
 (1.3.1)『「これがグランチェスターにゆく正しい道だ」と言う代わりに、私には「もし最短時間でグランチェスターに着きたいなら、これが君の行かなければならない正しい道だ」と言うこともできたでしょうし、それでも十分に同じことであります』。
 (1.3.1.1)目的(最短時間で着きたい)を与えて、その手段を展開することは、事実の表明である。
 (1.3.1.2)ある手段(この道が正しい)は、特定の目的を前提した限りで、他の手段と比較して「正しい」のであり、「相対的価値の判断」である。すなわち、「事実の叙述はいずれも絶対的価値の判断ではあり得ない」。
 (1.3.1.3)目的自体は、事実の世界の外から与えられている。

(再掲)
(1)事実の表明としての世界の中には、「価値」は存在しない。
 (1.1)世界の中では全てがあるようにあり、全てが生起するように生起する。
 (1.2)全ての生起は偶然的であり、世界の中には「価値」は存在しない。
 (1.3)従って、命題が事実だけを表明し得るのだとすれば、命題はより高貴なものを表現し得ず、全ての命題は等価値である。
(2)「価値」は、世界の外に存在する。倫理学は超越的である。
 (2.1)故に、倫理学が事実の命題として表明され得ないことは、明らかである。すなわち、「倫理学は超越的である」。また、「倫理学と美学とは一つである」。
 (2.2)価値のある価値が存在するならば、それは偶然的な生成の世界の外に存在するに違いない。偶然的でないものは、世界の中にあることはできない。価値は、世界の外になければならない。
(3)では、倫理的なものとは何か。
 (3.1)倫理的なものは、「汝……なすべし」という形式の倫理法則によって、価値づけられるのではない。
 (3.2)また、行為の帰結による通常の意味の賞罰によって、価値づけられるのではない。
 (3.3)また、行為の帰結として出来事によって、価値づけられるのではない。
 (3.4)確かに、倫理的な賞罰が存在し、賞が好ましく、罰が好ましくないものに相違ないことも明らかであるが、賞罰は行為そのものの中になければならないのである。
 (3.5)「倫理的なものの担い手としての意志について話をすることはできない。そして現象としての意志は心理学の関心をひくにすぎない。」

 「この相違の本質は明らかにつぎの点にあると思われます―――すなわち、相対的価値の判断はいずれも単なる事実の叙述に過ぎず、したがって、価値判断としての外見を完全になくしてしまうような形にすることができる、という点であります。

「これがグランチェスターにゆく正しい道だ」と言う代わりに、私には「もし最短時間でグランチェスターに着きたいなら、これが君の行かなければならない正しい道だ」と言うこともできたでしょうし、それでも十分に同じことであります

―――「この男はよい走者だ」は、彼は何マイルかを何分間で走る、ということをいっているに過ぎず、他の場合も同様であります。

さて、私が強く主張したいのは、相対的価値の判断はすべて単なる事実の叙述に過ぎない、ということを示すことができるとしても、事実の叙述はいずれも絶対的価値の判断ではあり得ないか、あるいはそれを含むことはできない、ということであります。

この点を説明しましょう―――皆様方のどなたかが全知の人間であり、したがって、この世界の全生物または無生物のあらゆる動きを御存知であり、また、およそこの世にある全人間のあらゆる精神状態を御存知である、と仮定し、また、この人が自分の知っていることのすべてを大きな一冊の本に書いたと仮定すると、この本は世界の完全な記述を含むことになるでしょう

―――そして、私が言いたいのは、この書はわれわれが《倫理的》判断と呼ぶと思われるもの、あるいは何かこのような判断を論理的に含むと思われるものは一切含まないであろう、ということであります。

それはむろん、すべての相対的価値判断とすべての科学的に真である命題と、そして事実、主張し得る真なる命題のすべてを含んでおりましょう。

しかし、記述された事実はすべて、いわば同じ次元にあることになりましょうし、また同様にして、全命題も同次元上にあるわけであります。なんらかの絶対的な意味で、崇高な、あるいは重要な、あるいは瑣末な命題は一切存在しません。」

(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『倫理学講話』、全集5、pp.385-386、杖下隆英)
(索引:価値,倫理学,事実,絶対的価値,相対的価値)

ウィトゲンシュタイン全集 5 ウィトゲンシュタインとウィーン学団/倫理学講話


(出典:wikipedia
ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「文句なしに、幸福な生は善であり、不幸な生は悪なのだ、という点に再三私は立ち返ってくる。そして《今》私が、《何故》私はほかでもなく幸福に生きるべきなのか、と自問するならば、この問は自ら同語反復的な問題提起だ、と思われるのである。即ち、幸福な生は、それが唯一の正しい生《である》ことを、自ら正当化する、と思われるのである。
 実はこれら全てが或る意味で深い秘密に満ちているのだ! 倫理学が表明《され》えない《ことは明らかである》。
 ところで、幸福な生は不幸な生よりも何らかの意味で《より調和的》と思われる、と語ることができよう。しかしどんな意味でなのか。
 幸福で調和的な生の客観的なメルクマールは何か。《記述》可能なメルクマールなど存在しえないことも、また明らかである。
 このメルクマールは物理的ではなく、形而上学的、超越的なものでしかありえない。
 倫理学は超越的である。」
(ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン(1889-1951)『草稿一九一四~一九一六』一九一六年七月三〇日、全集1、pp.264-265、奥雅博)

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語、表現、文全体を相互に区別する三つの段階:(1)たかだか表象に関わる区分、(2)意義に関わる区分、(3)意味に関わる区分。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))

表象、意義、意味の区分

【語、表現、文全体を相互に区別する三つの段階:(1)たかだか表象に関わる区分、(2)意義に関わる区分、(3)意味に関わる区分。(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925))】
さまざまな語、表現、文全体を相互に区別する三つの段階がある。
(1)意味と意義は同じで、たかだか表象に関わる区分
 ・翻訳を原文と区別するものは、本来、この第一の段階を超えるものではありえない。
 ・また、作詩法や雄弁術が意義に対して付加する色合いと陰影は、この段階のものである。
(2)意味は同じだが、意義に関わる区分
(3)意味が異なり、意味に関わる区分

(再掲)
(a)記号の意義、意味と、記号に結合する表象
 記号─→一つの意義─→一つの意味
 │         (一つの対象)
 └記号に結合する表象
  ├記号の意味が感覚的に知覚可能な対象のときは
  │ 私が持っていたその対象の感覚的印象
  └対象に関連して私が遂行した内的、外的な行為
    から生成する内的な像
(b)記号に結合する表象の特徴
 ・像には、しばしば感情が浸透している。
 ・明瞭さは千差万別であり、移ろいやすい。
 ・同一の人物においてすら、同一の表象が同一の意義に結び付いているとは限らない。
 ・一人の人物が持つ表象は、他の人物の表象ではない。

 「かくして、我々は、さまざまな語、表現、文全体を相互に区別する三つの段階を認めることができる。その区分は、たかだか表象に関わる区分であるか、意義には関わるが意味には関わらない区分であるか、あるいは、結局意味にも関わる区分であるかのいずれかである。第一の段階に関しては、表象が語に結合する様態が不確定的であるゆえに、他人には知られることのない差違が一人の人にとって存在しうるという点を指摘することができる。翻訳を原文と区別するものは、本来、この第一の段階を超えるものではありえない。また、この段階で可能なさらに別の区分としては、色合い(Färbung)と陰影(Beleuchtung)という区分もある。これらは、作詩法や雄弁術が意義に対して付加するものである。この色合いと陰影とは客観的なものではなく、したがって、聞き手と読者が詩人または弁士の与える手がかりに従いつつ自ら作り出して、付加するものである。もちろん人間の表象作用が親和的でないかぎり、芸術は不可能であろうが、しかし、詩人の意図にいかなる程度まで合致しているかということを正確に指摘することはほとんど不可能である。
 以下において表象と直感に関して論ずることはしない。以上でこの問題に関してあえて論じたのは、一つの語が聞き手において惹き起す表象が、その語の意義やその語の意味と混同されることを防ぐという目的のためである。」
(ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『意味と意義について』30-31、フレーゲ著作集4、p.77、土屋俊)
(索引:作詩法,雄弁術)

フレーゲ著作集〈4〉哲学論集


(出典:wikipedia
ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「1. 思考の本質を形づくる結合は、表象の連合とは本来異なる。
2. 違いは、[思考の場合には]結合に対しその身分を裏書きする副思想(Nebengedanke)が存在する、ということだけにあるのではない。
3. 思考に際して結合されるものは、本来、表象ではなく、物、性質、概念、関係である。
4. 思想は、特殊な事例を越えてその向こう側へと手を伸ばす何かを常に含んでいる。そして、これによって、特殊な事例が一般的な何かに帰属するということに気づくのである。
5. 思想の特質は、言語では、繋辞や動詞の人称語尾に現われる。
6. ある結合[様式]が思想を形づくっているかどうかを識別するための基準は、その結合[様式]について、それは真であるかまたは偽であるかという問いが意味を持つか否かである。
7. 真であるものは、私は、定義不可能であると思う。
8. 思想を言語で表現したものが文である。我々はまた、転用された意味で、文の真理についても語る。
9. 文は、思想の表現であるときにのみ、真または偽である。
10.「レオ・ザクセ」が何かを指示するときに限り、文「レオ・ザクセは人間である」は思想の表現である。同様に、語「この机」が、空虚な語でなく、私にとって何か特定のものを指示するときに限り、文「この机はまるい」は思想の表現である。
11. ダーウィン的進化の結果、すべての人間が 2+2=5 であると主張するようになっても、「2+2=4」は依然として真である。あらゆる真理は永遠であり、それを[誰かが]考えるかどうかということや、それを考える者の心理的構成要素には左右されない
12. 真と偽との間には違いがある、という確信があってはじめて論理学が可能になる。
13. 既に承認されている真理に立ち返るか、あるいは他の判断を利用しないかのいずれか[の方法]によって、我々は判断を正当化する。最初の場合[すなわち]、推論、のみが論理学の対象である。
14. 概念と判断に関する理論は、推論の理論に対する準備にすぎない。
15. 論理学の任務は、ある判断を他の判断によって正当化する際に用いる法則を打ち立てることである。ただし、これらの判断自身は真であるかどうかはどうでもよい。
16. 論理法則に従えば判断の真理が保証できるといえるのは、正当化のために我々が立ち返る判断が真である場合に限る。
17. 論理学の法則は心理学の研究によって正当化することはできない。
」 (ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)『論理学についての一七のキー・センテンス』フレーゲ著作集4、p.9、大辻正晴)

ゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)
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あらゆる出来事はあたかも春の薔薇、夏の果実のごとく日常茶飯事であり、なじみ深いことなのだ。同様のことが病や死や讒謗や陰謀やすべて愚かな者を喜ばせたり悲しませたりする事柄についてもいえる。(マルクス・アウレーリウス(121-180))

日常茶飯事

【あらゆる出来事はあたかも春の薔薇、夏の果実のごとく日常茶飯事であり、なじみ深いことなのだ。同様のことが病や死や讒謗や陰謀やすべて愚かな者を喜ばせたり悲しませたりする事柄についてもいえる。(マルクス・アウレーリウス(121-180))】
 「あらゆる出来事はあたかも春の薔薇、夏の果実のごとく日常茶飯事であり、なじみ深いことなのだ。同様のことが病や死や讒謗や陰謀やすべて愚かな者を喜ばせたり悲しませたりする事柄についてもいえる。」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四四、p.66、[神谷美恵子・2007])
(索引:日常茶飯事)

自省録 (岩波文庫)



(出典:wikipedia
マルクス・アウレーリウス(121-180)の命題集(Collection of propositions of great philosophers) 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ。岩は立っている、その周囲に水のうねりはしずかにやすらう。『なんて私は運が悪いんだろう、こんな目にあうとは!』否、その反対だ、むしろ『なんて私は運がいいのだろう。なぜならばこんなことに出会っても、私はなお悲しみもせず、現在におしつぶされもせず、未来を恐れもしていない』である。なぜなら同じようなことは万人に起りうるが、それでもなお悲しまずに誰でもいられるわけではない。それならなぜあのことが不運で、このことが幸運なのであろうか。いずれにしても人間の本性の失敗でないものを人間の不幸と君は呼ぶのか。そして君は人間の本性の意志に反することでないことを人間の本性の失敗であると思うのか。いやその意志というのは君も学んだはずだ。君に起ったことが君の正しくあるのを妨げるだろうか。またひろやかな心を持ち、自制心を持ち、賢く、考え深く、率直であり、謙虚であり、自由であること、その他同様のことを妨げるか。これらの徳が備わると人間の本性は自己の分を全うすることができるのだ。今後なんなりと君を悲しみに誘うことがあったら、つぎの信条をよりどころとするのを忘れるな。曰く『これは不運ではない。しかしこれを気高く耐え忍ぶことは幸運である。』」
(マルクス・アウレーリウス(121-180)『自省録』第四巻、四九、p.69、[神谷美恵子・2007])
(索引:波の絶えず砕ける岩頭の喩え)

マルクス・アウレーリウス(121-180)
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