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2018年11月15日木曜日

20.社会には、「私は責務を負っていた」と語る人々と、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々の間の緊張が存在していることだろう。(ハーバート・ハート(1907-1992))

「責務を負っている」と「せざるを得ない」

【社会には、「私は責務を負っていた」と語る人々と、「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々の間の緊張が存在していることだろう。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

社会には、下記(a)と(b)の人々との間の緊張が存在していることだろう。
(a)「私は責務を負っていた」と語る人々。
 (a.1)自らの行動や、他人の行動をルールから見る。
 (a.2)ルールを受け入れて、その維持に自発的に協力する。
(b)「私はそれをせざるを得なかった」と語る人々。
 (b.1)「ルール」の違反には処罰や不快な結果が予想される故に、「ルール」に関心を持つ。
 (b.2)ルールが存在することを拒否する。

 参照: 「責務を負っている」は、予想される害悪を避けるための「せざるを得ない」とは異なる。それは、ある社会的ルールの存在を前提とし、ルールが適用される条件に特定の個人が該当する事実を指摘する言明である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「外的視点は、集団のある構成員達、すなわちルールを拒否するけれど違反には不快な結果がおそらく生じるだろうと判断するときに、またそう判断するために、ただルールに関心をもつような構成員達の生活でルールが機能する仕方を非常に正確に再現するだろう。

彼らの見方を表現するのに必要なのは、「私はそれをせざるをえなかった」、「私は、もし………の場合、そのために害をこうむるだろう」、「あなたは、もし………の場合には、そのためにおそらく害をこうむるだろう」、「彼らは、もし………の場合には、君に対してそれをするだろう」というようなものであろう。

しかし、そこには「私は責務を負っていた」、あるいは「君は責務を負っている」というような表現形式は必要とされないだろう。というのは、これらの表現様式は彼ら自身や他の人々の行為を内的視点から見る人々によってのみ必要とされるからである。

行動が観察可能な規則性だけにかかわる外的視点は、通常、社会の大多数をなしている人々の生活で、ルールがルールとしてどのように機能しているかを再現することができないのである。

彼らは、さまざまな状況において、社会生活での行動の指針として、請求、要求、容認、批判、処罰に対する、つまり、ルールに従った生活でのすべてのありふれた処置の根拠として、ルールを用いる公機関、法律家または私人なのである。

彼らにとっては、ルールの違反は、敵対的な反作用を生じるだろうという予測の根拠だけではなく、敵対的行為のための理由なのである。

 法的かどうかを問わず、ルールに頼っているすべての社会の生活においては、いつでも一方はルールを受けいれてその維持に自発的に協力し、したがって、彼ら自身や他人の行動をルールから見る人々と、他方、ルールを拒否し起こりうる処罰のしるしとして外的視点からのみルールに注意する人々との間には緊張が存在しているだろう。

事実の複雑性を正しく扱おうとしたすべての法理論が直面した難問の一つは、これら両者の視点を忘れないで、しかもどちらかをないものとして定義しないということであった。

おそらく責務の予測理論に対するわれわれのすべての批判の要点は、この理論が責務のルールの内的側面をないものとして定義したことを非難したところにあるといえよう。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第2節 責務の観念,pp.99-100,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:責務を負っている,せざるを得ない)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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