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2018年11月20日火曜日

「何かを言う」とは、(a)物理的な音声を発する音声行為、(b)ある構文に従い単語を発する用語行為、(c)連続する複数の単語を使用し、ある言及対象と一定の意味を発する意味行為の、3つの側面から理解できる。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))

音声行為、用語行為、意味行為

【「何かを言う」とは、(a)物理的な音声を発する音声行為、(b)ある構文に従い単語を発する用語行為、(c)連続する複数の単語を使用し、ある言及対象と一定の意味を発する意味行為の、3つの側面から理解できる。(ジョン・L・オースティン(1911-1960))】

「何かを言う」とは、
(A・a)ある一定の音声(音声素)を発する行為(音声行為)。
(A・b)ある一定の単語(用語素)を発する行為(用語行為)。
(A・c)連続する複数の単語を使用し、ある言及対象(意味素)と一定の意味を発する行為(意味行為)。

 「いまや、「言葉を発する」(issuing an utterance)というときの諸状況を精査すべき時に至った。まずはじめに、私が(A)と標示する一群の意味が存在する。そこでは何かを言うことが、常に何かを行うことであるといえる。このさまざまな意味をすべて足し合わせると、「言う」(say)ということの完全な意味において、何かを「言う」ことになる。定式化の細部に固執しないならば、およそ何かを言うということは、次の三つの行為を遂行していることになるということにわれわれは同意することができるであろう。
(A・a)常に、ある一定の音声(noises)を発する行為(「音声」(phonetic)行為を遂行する)。この場合、発せられた言葉は、音声素(a phone)である。
(A・b)常に、ある一定の音語(vocables)あるいは単語(words)を発する行為を遂行する。すなわち、一定のイントネーションその他を伴い、一定の文法に合致し、かつ、合致している限りの一定の構文の中に組み込まれた、一定の語彙に属し、かつ、属している限りの一定の型の音声を発する行為である。この行為を「用語」行為(phatic act)と呼び、当の発する行為によって発せられた言葉を「用語素」(a pheme)と(言語理論における「言素」(phememe)とは区別して)呼ぶことができるであろう。
(A・c)一般に、ある一定の、ある程度明確な「意味」(sense)と、ある程度明確な「言及対象」(reference)とを伴って、(この両者を合わせたものがいわゆる「意味」(meaning)と一致する)用語素、あるいは、連続する複数の用語素を使用する行為を遂行する。この行為を、「意味」行為(rhetic act)と呼び、当の語を発する行為によって発せられた言葉を「意味素」(a rheme)と呼ぶことができるであろう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『いかにして言葉を用いて事を為すか』(日本語書籍名『言語と行為』),第7講 行為遂行的発言と事実確認的発言,pp.161-162,大修館書店(1978),坂本百大(訳))
(索引:何かを言うこと,音声行為,用語行為,意味行為)

言語と行為


(出典:wikipedia
ジョン・L・オースティン(1911-1960)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「一般に、ものごとを精確に見出されるがままにしておくべき理由は、たしかに何もない。われわれは、ものごとの置かれた状況を少し整理したり、地図をあちこち修正したり、境界や区分をなかり別様に引いたりしたくなるかもしれない。しかしそれでも、次の諸点を常に肝に銘じておくことが賢明である。(a)われわれの日常のことばの厖大な、そしてほとんどの場合、比較的太古からの蓄積のうちに具現された区別は、少なくないし、常に非常に明瞭なわけでもなく、また、そのほとんどは決して単に恣意的なものではないこと、(b)とにかく、われわれ自身の考えに基づいて修正の手を加えることに熱中する前に、われわれが扱わねばならないことは何であるのかを突きとめておくことが必要である、ということ、そして(c)考察領域の何でもない片隅と思われるところで、ことばに修正の手を加えることは、常に隣接分野に予期せぬ影響を及ぼしがちであるということ、である。実際、修正の手を加えることは、しばしば考えられているほど容易なことではないし、しばしば考えられているほど多くの場合に根拠のあることでも、必要なことでもないのであって、それが必要だと考えられるのは、多くの場合、単に、既にわれわれに与えられていることが、曲解されているからにすぎない。そして、ことばの日常的用法の(すべてではないとしても)いくつかを「重要でない」として簡単に片付ける哲学的習慣に、われわれは常にとりわけ気を付けていなければならない。この習慣は、事実の歪曲を実際上避け難いものにしてしまう。」
(ジョン・L・オースティン(1911-1960),『センスとセンシビリア』(日本語書籍名『知覚の言語』),Ⅶ 「本当の」の意味,pp.96-97,勁草書房(1984),丹治信春,守屋唱進)

ジョン・L・オースティン(1911-1960)
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23.第1次的ルールがある特徴を持つが故に、集団のルールであると確定する第2次的ルールが承認のルールである。例として、特別な団体による制定、長い間の慣習、司法的決定の蓄積、権威ある文書への記載等。(ハーバート・ハート(1907-1992))

承認のルール

【第1次的ルールがある特徴を持つが故に、集団のルールであると確定する第2次的ルールが承認のルールである。例として、特別な団体による制定、長い間の慣習、司法的決定の蓄積、権威ある文書への記載等。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(2.1.3)追加記載。

 (2.1)ルールの不確定性
  (2.1.1)特定の集団の人々がそのルールを受け入れているという事実の他には、何がルールなのかを確認する標識がない。
  (2.1.2)その結果、何がルールであり、あるルールの正確な範囲が不確定である。
  (2.1.3)補われる第2次的ルール:承認のルール
   第1次的ルールが持つある特徴を明確にし、そのルールが特定の特徴を持てば、集団のルールであることが決定的、肯定的に確定されるようなルールを、人々が受け入れている。
   (a)文書や記念碑(法体系の観念の萌芽)
    (a.1)存在しているルールが、権威的な目録や原典に記載されたり、公の記念碑に刻まれる。
    (a.2)そして、ルールの存在に関する疑いを処理するのに、その文書や記念碑が、権威のあるものとして、人々に受け入れられるようになる。
   (b)ルールの持つ諸特徴(法的妥当性の観念の萌芽)
    (b.1)特別な団体によって制定されたルール(制定法)
    (b.2)長い間の慣習として行なわれてきたルール(慣習)
    (b.3)過去、司法的決定よって蓄積されてきたルール(先例)
    (b.4)ルールの間に起こりうる衝突に対して、どれが優越性を持つかというルール

 「第1次的ルールの体制に見られる《不確定性》を矯正するもっとも単純な形態は、われわれが「承認のルール」rule of recognition と呼ぶものの導入である。

これはいくつかの特徴を明確にし、あるルールがこうした特徴をもてば、それは集団が行使する社会的圧力によって支持される集団のルールであることが決定的にまた肯定的に示されるのである。

このような承認のルールは非常に多種多様な形態をとって存在し、単純なものもあれば複雑なものもある。 

多くの社会での初期の法のように、それが存在しているということは、ルールの権威的な目録や原典が文書に見出されるか何か公の記念碑に刻まれているにすぎないだろう。

疑いもなく、歴史の問題としては、法以前から法へのこの移行は、それぞれ異なった段階でなし遂げられるだろう。

そのうちの最初のものはそれまでに書かれていないルールを単に書きしるすということである。これはたんへん重要な移行であるが、それ自体決定的なものではない。決定的であるのは、文書や碑文を《権威のあるもの》として、すなわちルールの存在に関する疑いを処理するのに《適切な》方法として参照することを認めることである。

このようなことが認められているところでは、第2次的ルールの非常に単純な形態がある。つまり責務の第1次的ルールを最終的に確認するためのルールがそれである。


 発達した法体系では、もちろん承認のルールははるかに複雑になる。ルールをもっぱら原典や目録を参照することで確認する代わりに、第1次的ルールがもっているある一般的特徴を参照することによって確認するのである。

これはルールが特別な団体によって制定されてきたということ、あるいは長い間の慣習として行なわれてきたこと、または司法的決定に関係してきたということであろう。

さらに、二つ以上のそのような一般的特徴がルール確認の基準として取り扱われているところでは、それらの起こりうる衝突に対して優越性という秩序でそれらを配列する用意がなされるだろう。

たとえば、慣習や先例は一般に制定法に従属し、そして制定法は法の「優越的源泉」であるといったぐあいにである。

このような複雑さがあるために、現代の法体系における承認のルールは一つの権威ある原典を単に受けいれている場合とはたいへん異なったもののように見えてくるだろう。

しかし、このもっとも単純な形態においてさえも承認のルールは法に特有な多くの要素をもっているのである。それは権威のしるしを与えることで未発達の形でではあるが法体系の観念を導入するのである。

というのは、ルールはいまやばらばらで互いに関連しないセットではなく、単純な方法で統一されているからである。さらに、われわれは、あるルールがルールの権威的な目録にのせられるのに必要な特徴をそなえていると確認するこの単純な取り扱いのなかに、法的妥当性の観念の萌芽を見い出すのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第5章 第1次的ルールと第2次的ルールの結合としての法,第3節 法の諸要素,pp.104-105,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),石井幸三(訳))
(索引:承認のルール)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

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