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2019年10月31日木曜日

一般教養教育においては、広範囲にわたる様々な主題について、その主要な真理を正確に知ること。そして、各自の専門知識を一般的知識と結合させ、真の知識とは何かと、確実な知識の境界線を知ること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

一般教養教育の内容

【一般教養教育においては、広範囲にわたる様々な主題について、その主要な真理を正確に知ること。そして、各自の専門知識を一般的知識と結合させ、真の知識とは何かと、確実な知識の境界線を知ること。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(4)一般教養教育の内容
 (4.1)広範囲にわたる様々な主題について、知ること。
  (a)一つの主題については、その主要な真理のみを知ること。全てを知ることはできない。
  (b)その主要な真理については、正確に徹底的に知ること。曖昧に知ることではない。
  (c)一つの主題についての、主要な真理以外については、そのことについて熟知している人が誰であるかを評価できる程度の知識を得ること。
 (4.2)自分自身の専門領域の知識を、一般教養教育で得た一般的知識と結合させること。
  (a)各々自分自身の領域で獲得した知識から、真の知識がいかなるものであるかを学ぶこと。
  (b)正しい思考原理と法則によって、理解力を訓練し、鍛え上げること。
  (c)われわれが確実に知っていることと、そうでないこととの境界線を明らかにすること。
(5)一般教養教育の社会的効果
 (5.1)実生活の重大関心事に関して、活発な世論を育て、質を向上させることができる。
 (5.2)政治と市民社会に関して、人々が思慮をもって適切に対処することができる。

 「人間が獲得しうる最高の知性は、単に一つの事柄を知るということではなくて、一つの事柄あるいは数種の事柄についての詳細な知識を多種の事柄についての一般的知識と結合させることであります。私の申し上げる一般的知識とは、漠然とした印象のことではありません。この大学の教科過程のなかで使用されている教科書〔『論理学概論』〕の著者である優秀な学者、ホエートリ大主教は、いみじくも一般的知識と表面的知識とを区別しました。一つの主題について一般的知識をもつということは、主要な真理のみを知ることであり、そしてその主題の肝心な点を真に認識するために、表面的ではなく、徹底的にその種の真理を知ることであります。小さな事柄は、その種のことを自分の専門的研究のために必要とする人々に任せれば宜しいのです。広範囲にわたる様々な主題についてその程度まで知ることと、何か一つの主題をそのことを主として研究している人々に要求される完全さをもって知ることは、決して両立しえないことではありません。この両立によってこそ、啓発された人々、教養ある知識人が生まれるのであります。そしてそのような人々は、各々自分自身の領域で獲得した知識から、真の知識がいかなるものであるかを学び、一方、他の領域の主題については、そのことについて熟知している人は誰であるかを知りうるに足る知識をもつでありましょう。但し、信頼しうる人物が誰であるかを判断するために必要となる知識の量を、われわれは軽く見積もってはなりません。重要な学問の諸原理が広く一般の人々の間にも浸透すれば、自らの学問領域で頂点に達した人々は、自分達の優秀性を正当に評価しうる能力をもち、しかも自分達の指導に喜んで従ってくれる一般民衆の存在に気がつくことになるでしょう。このようにしてまた、実生活の重大関心事に関して、世論を指導し、向上させる能力をもつ精神も形成できます。人間精神が扱うことのできる主題のなかで最も複雑なものは、政治と市民社会であります。それ故、一政党に盲目的に追従する人としてではなく、思慮ある人としてその双方に適切に対処しうる人になるためには、精神的、物質的生活両面の重要な事柄についての一般的な知識が要求されるだけではなく、正しい思考原理と法則によって、単なる生活体験、一科学または知識の一分野では提供しえない段階まで、訓練され、鍛え上げられた理解力が必要となるでありましょう。そこで、われわれの学問の目的は、単に将来自らの仕事に役立つような知識を少しでも多く身につけるということにあるのではないということ、むしろ、人間の利害に深く関わるありとあらゆる問題について、何らかの知識を、しかも正確に把握するよう気を配り、われわれが確実に知っていることとそうでないこととの境界線を明らかにすることにこそあるのだということを、確認しようではありませんか。そして、われわれの目的は、自然と人生について対極的に観る正しい見方を学ぶことであり、われわれの実際の努力に値しないような些細なことに時間を浪費することは、怠惰であることを心に銘記しておきましょう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,3 文学教育,(1)古典言語と現代言語,pp.14-16,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:一般教養教育の内容)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年10月30日水曜日

法は、事実として存在するルールであり、制裁の規定の有無には依存しない。しかし、人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能であり、法や道徳の理解に重要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

自然法の基礎づけ

【法は、事実として存在するルールであり、制裁の規定の有無には依存しない。しかし、人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能であり、法や道徳の理解に重要である。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(1)「定義」による法の概念
 (1.1)例えば、法体系は制裁の規定を備えていなければならないとするもの。
(2)実証主義
 (2.1)法は、事実として存在するルールであり、いかなる内容でも持つことができる。
 (2.2)たいていの法体系が制裁の規定を置いていることは、単に一つの事実にすぎない。
(3)人間に関する単純で自明な諸事実から導出可能な法の諸特性(自然法の基礎づけ)
  人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。これは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
(4)原因と結果による因果的説明


(f)追加記載。

 (3.2)人間の諸能力のおおよその平等性
   人間は、他を圧倒するほどの例外者を除けば、おおよそ平等な諸能力を持っているという事実が存在する。生存という目的のためには、相互の自制と妥協の体系である法と道徳が要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)人間の諸能力の差異
   人間は、肉体的な強さ、機敏さにおいて、まして知的な能力においてはなおさら、お互いに異なる。
  (b)人間の諸能力のおおよその平等性
   それにもかかわらず、どのような個人も、協力なしに長期間他人を支配し服従させるほど他人より強くはない。もっとも強い者でもときには眠らねばならず、眠ったときには一時的にその優位性を失う。
  (c)能力の大きな不均衡がもたらす事象
   人々が平等であるのではなく、他の者よりもずいぶん強く、また休息がなくても十分やってゆける者がいくらかいたかもしれない。そのような例外的な人間は、攻撃によって多くのものを得るであろうし、相互の自制や他人との妥協によって得るところはほとんどないであろう。
  (d)相互の自制と妥協の体系
   法的ならびに道徳的責務の基礎として、相互の自制と妥協の体系が必要であることが明らかになる。
  (e)違反者の存在
   そのような自制の体系が確立したときに、その保護の下に生活すると同時に、その制約を破ることによってそれを利用しようとする者が常にいる。
  (f)国際法の特異な性質
  強さや傷つきやすさの点で、国家間に巨大な不均衡が現に存在している。国際法の主体間のこの不平等こそ、国際法に国内法とは非常にちがった性格を与え、またそれが組織された強制体系として働きうる範囲を制限してきた事態の一つなのである。
   (f.1)国家間に巨大な不均衡が存在する場合、制裁はうまく機能しない。
   (f.2)このような場合、秩序の維持は、実質的に相互自制に基づいている。
   (f.3)その結果、法がかかわるのは「重大な」問題に影響を及ぼさない事項に限られていた。
   (f.3)弱い国は強国に精一杯の条件を付けて服従し、その保護の下で安全を保障するというのが、唯一可能な体系であろう。
   (f.4)その結果、それぞれがその「強者」のまわりに集まってできる、多くのあい争う力の中心が出てくることになろう。

 「人間のおおよその平等性という同じ自然的事実は、組織された制裁の実効性に、決定的な重要性をもっているということに注意したい。もし若干の人が他人よりも非常に強力で、他人の自制をあてにしないならば、悪人の強さは、法と秩序の支持者のそれをしのぐであろう。もしそのような不平等があるならば、制裁を用いてもうまくいかないだろうし、制裁で抑えようとするのと少なくとも同じ大きさの危険を伴うであろう。このような状況の下では、社会生活は、相互自制にもとづいており、少数の悪人に対して必要なときにだけ力が用いられるものではなく、弱い者が強い者に精一ぱいの条件をつけて服従し、強者の「保護」の下に生活するというのが唯一の可能な体系であろう。その結果、資源が乏しいため、それぞれがその「強者」のまわりに集まってできる多くのあい争う力の中心が出てくることになろう。敗北の危険という決して無視しえない自然的制裁のため、不安定ながら平和が保たれるのであるが、それにしても、それらはときには互いに闘うかもしれない。しかしそのときには、ある種のルールが受けいれられて、「強い者達」が闘うことを好まない問題に関して調整が行なわれるかもしれない。ここでもまたわれわれは、おおよその平等性の兵站学とそれの法に対する重要性を理解するために、ピグミー族や巨人という空想的な言い回しで考える必要はない。国際的状況において、当該主体が強さにおいて非常に相異しているということは、十分にその実例となっている。何世紀もの間、国家間の不均衡のため、組織的な制裁が不可能であるような体系しかなく、法がかかわるのは「重大な」問題に影響を及ぼさない事項に限られていた。原子兵器があらゆる国家に利用可能となったとき、それが不平等な力の均衡をどの程度回復し、また国内の刑法に一層よく似た統制の形態をどの程度もたらすかは、まだわからない。
 われわれが論じてきた単純な自明の真理は、自然法理論の良識の核心を明らかにするだけではない。それは、法や道徳の理解にも極めて重要であり、またそれは、法や道徳の基本的な形態を、何か特定の内容ないしは社会的な求めにかかわりなく、まったく形式的な用語で定義することが、なぜ不十分となるのかをも説明するのである。このような見解によって法理学がおそらく得るところの主たるものは、法の特徴に関する議論をしばしば曖昧にし、人の心を誤らせるようなある二分法を避けることができるということである。このようにして、たとえば、あらゆる法体系は制裁の規定をそなえて《いなければならない》かどうかという伝統的な問題は、自然法のこの単純な見解によって提出された見方をとるとき、新鮮なより明確な光の下にそれを置くことができる。われわれはもはや、不適当な二つの選択肢の間で選択する必要はないであろう。その選択肢はしばしばすべてだと考えられるのであるが、その一方は、制裁をそなえなくてはならないということこそ、「法」とか「法体系」という言葉の「真」の意味によって求められると主張するものであり、他方は、たいていの法体系が制裁の規定を置いていることは「単に一つの事実にすぎない」と言うものである。これらの選択肢はどちらもが十分ではないのである。中央に組織された制裁がない体系に関して、「法」という言葉を用いてはいけないというきまった原則があるわけではない。また、そのようなものをもたない一つの体系に関して、「国際法」という表現を(用いなければならないというわけではないが)用いることは十分理由のあることである。他方、国内法体系が、もしあるがままの人間の最小限の目的に役立つべきであるとするならば、その体系内で制裁が占めなければならない位置を、われわれはぜひとも識別する必要がある。国内法体系において、制裁を可能にするとともに必要にする自然的事実と目的という背景が与えられれば、われわれは、制裁が《自然必然的なもの》であると言うことができる。同様に、国内法の不可欠な特徴となっている人、所有、約束に対する最小限の保護形態の地位を表現するためにも、何かそのような言い回しが必要とされるのである。「法はいかなる内容でももつことができる」という実証主義のテーゼにわれわれが答えるのは、まさにこの形態においてである。というのは、法のみならず他の多くの社会制度について十分な記述をするためには、定義や事実に関する通常の陳述のほかに、第三の陳述のカテゴリーの余地をあけておかなくてはならないということは、かなり重要だからである。第三の場合には、その陳述の真理性は、人間および、人間のもつ目立った特徴を保持しながら人間が住む世界に依拠するものである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第2節 自然法の最小限の内容,pp.216-218,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:自然法の基礎づけ)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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いかに人間の知識が増加し、専門分野が細分化されていっても、一般教養教育と人間の学習能力は、専門分野固有の偏見や、専門外の事柄の理解・評価の無能力、価値のある諸目的への無理解という障害を乗り越えるだろう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

人間の学習能力への信頼

【いかに人間の知識が増加し、専門分野が細分化されていっても、一般教養教育と人間の学習能力は、専門分野固有の偏見や、専門外の事柄の理解・評価の無能力、価値のある諸目的への無理解という障害を乗り越えるだろう。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)人間の学習能力への信頼
 (1.1)仮に、過酷な生活環境のもとにおいても、人間は一つの事柄についてしか知ろうと努力しないというものではない。
 (1.2)仮に、未来において人間の知識が膨大に増加してもなお、人間にとって大切な一般教養教育の必要性は益々必要となり、また人間の学習能力は、それを乗り越えていくことだろう。
(2)人間の知識は増加し、科学・技術の専門分野は細分化され、有用な知識の全領域の小さな一部分にすぎなくなる。
 (2.1)知識の増加
  人間が知らなければならない事柄は、世代が代わるごとに、しかも未だかつてなかった速さで、現在増加している。
 (2.2)科学・技術の専門分野の細分化
  知識の各分野は、今や詳細な事実が詰め込まれ、その結果、一つの分野を詳しくかつ正確に知ろうと思う人は、その分野全体のより小さな部分に限定せざるをえなくなる。
(3)仮に、一つの学問あるいは研究のみに没頭し、自分の専門以外のことについて全く無知であるならば、引き起こされる弊害がある。
 (3.1)特殊な専門分野固有の偏見
  特殊な研究に付きまとう、視野の狭い専門家が抱く偏見が、精神の内部に育ってしまう。
 (3.2)専門外の事柄の理解・評価の無能力
  幅広いものの見方に対して、その根拠を理解、評価できない無能力さを身につけてしまう。
 (3.3)価値のある人間的目的への無理解
  ごく些細な人間的欲望や、欲求を満たすことはできるとしても、その他の人間的目的にとって、意味のない存在になってしまう。

 「人間は既に最大限の効率で教えられているという暗黙の前提に立脚しながら、人間の学習能力に対して不思議なくらい低いこのような評価しか与えないことに関して、もう少し申し添えておくことに致します。そのような狭い考え方は、われわれの教育理念を低下させるだけではなく、もしそのような考え方を容認するならば、未来における人類の進歩に対するわれわれの期待は暗澹たるものになってしまうでありましょう。といいますのも、もしも、人間が、過酷な生活環境のもとでは、一つの事柄についてしか知ろうと努力しないのであれば、色々な事実が増加するに従って、人間の知性というものが一体どうなるのであろうかと思われるからであります。人間が知らなければならない事柄は、世代が代わるごとに、しかも未だかつてなかった速さで、現在増加しております。知識の各分野は、今や詳細な事実が詰め込まれ、その結果、一つの分野を詳しくかつ正確に知ろうと思う人は、その分野全体のより小さな部分に限定せざるをえなくなるでありましょう。そして、科学・技術のすべては、細分化され、遂には、各人が分担する部分、つまり各人が完全に知る領域と有用な知識の全領域との比率関係は、あたかもピンの頭をつけるという技術と人間の産業界の全領域との比率と同じになってしまうでありましょう。さて、もしそのような些細な部分を完全に知るためには、人はそれ以外のすべてのことについて全く無知でなければならないとするならば、間もなく人は、ごく些細な人間的欲望や、欲求を満たすことはできるとしても、その他の人間的目的にとっては、全く無意味は存在になってしまわないでしょうか。人間のこのような状態は、単なる無知以上に悪い結果を生みだすことでありましょう。他の学問あるいは研究すべてを排除して、一つの学問あるいは研究のみに没頭するならば、必ずや人間の精神が偏狭になることは、既に経験によって知るところであります。このような場合、精神の内部に育つものは、特殊な研究に付きまとう偏見であり、またそれとともに、幅広いものの見方に対してその根拠を理解、評価できない無能力さ故に、視野の狭い専門家が共通して抱く偏見であります。人間性というものは、小さなことに熟達すればするほどますます矮小化し、偉大なことに対して不適格になっていくであろうと予測せざるをえません。しかしながら、今日、事態はそれほど悪化しておらず、そのような暗い未来を想像させる根拠は全くないのであります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,3 文学教育,(1)古典言語と現代言語,pp.13-14,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:人間の学習能力,専門分野の細分化,一般教養教育)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年10月26日土曜日

人は、専門技術の賢明かつ良心的な使用においても、悪用おいても有能であり得る。人間の知性全体における専門技術の位置づけと原理、価値ある諸目的、技術の正しい使用法へと導くのが、一般教養教育である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

一般教養教育の役割

【人は、専門技術の賢明かつ良心的な使用においても、悪用おいても有能であり得る。人間の知性全体における専門技術の位置づけと原理、価値ある諸目的、技術の正しい使用法へと導くのが、一般教養教育である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】
 「専門技術をもとうとする人々がその技術を知識の一分野として学ぶか、単なる商売の一手段として学ぶか、あるいはまた、技術を習得した後に、その技術を賢明かつ良心的に使用するか、悪用するかは、彼らがその専門技術を教えられた方法によって決まるのではなく、むしろ、彼らがどんな種類の精神をその技術のなかに吹き込むかによって、つまり、教育制度がいかなる種類の知性と良心を彼らの心に植え付けたかによって決定されるのであります。人間は、弁護士、医師、商人、製造業者である以前に、何よりも人間なのであります。そしてその種の人々を有能でしかも賢明な人間に育て上げれば、後は、彼ら自身の力で有能で賢明な弁護士や医師になることでしょう。専門職に就こうとする人々が大学から学びとるべきものは、専門的知識そのものではなく、その正しい利用法を指示し、専門分野の技術的知識に光を当てて正しい方向に導く「一般教養の光明」をもたらす類のものであります。確かに、人間は、一般教養教育を受けなくとも、有能な弁護士となることはできますが、しかし哲学的な弁護士、つまり、単に詳細な知識を頭に詰め込んで暗記するのではなく、ものごとの原理を追求し、把握しようとする哲学的な弁護士となるためには、一般教養教育が必要となります。このことは、機械工学を含む、他の有用な専門分野すべてについても言えることである。靴屋を職業としている人について言えば、その人を知性溢れた靴職人にするのは、教育であって、靴の製造法の伝達ではないのであります。言い換えますと、教育によって与えられる知的訓練とそれによって刻み込まれた思考習慣とによってであります。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『教育について』,日本語書籍名『ミルの大学教育論』,2 大学教育の任務――一般教養教育の重要性,pp.4-5,お茶の水書房(1983),竹内一誠(訳))
(索引:一般教養教育の役割)
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)

(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年10月25日金曜日

専門的な技術の蓄積と熟練を要する統治の実現と、自由で活力のある独創性とを両立させるためには、代表者会議による統治者の選任、監視、統制とともに、官僚制と対立しあう影響力による活性化が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

官僚制と代表民主制

【専門的な技術の蓄積と熟練を要する統治の実現と、自由で活力のある独創性とを両立させるためには、代表者会議による統治者の選任、監視、統制とともに、官僚制と対立しあう影響力による活性化が必要である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(3)追記。

(1)代表者会議
  代表者会議の機能は、(a)政府の監視と統制、(b)政府に対する解任、任命権、(c)国民の中のあらゆる意見の集約、(d)自由な議論の保障、(e)統治機構の必要な専門性の確保である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (1.1)政府を監視し統制すること
  政府の行動に公開性の光をあて、疑問に思える行動すべてについて、十分な説明と正当化する理由の提示を強制すること。
 (1.2)政府に対する解任、任命権
  非難に値する行動は非難し、政府構成員が職権を濫用したり国民の良識に反する仕方で職務を行ったりした場合には解任し、明示的ないし実質的に後任を任命する。
 (1.3)国民の中のあらゆる意見の集約
  (a)国民の中のあらゆる階層、階級の意見
  (b)国民の中の様々な集団の意見、そのような集団が信頼を寄せている人物の意見
  (c)国民の中の卓越した人々の意見
 (1.4)自由な議論の保障
  (a)何ら制限されずに、意見や批判を述べることができること。
  (b)全ての意見が傾聴されること。
  (c)ある意見を退ける場合であっても、頭ごなしにではなく、より良いと考えられる理由のためであること。
 (1.5)統治機構に必要な専門性の確保すること
  (a)統治機構を構成する人々が、誠実かつ賢明に選ばれるようにすること。
  (b)何ら制限されずに意見や批判を述べること。
  (c)最終的に国民的同意を与えたり与えなかったりすること。
  (d)統治機構に、必要な監視と統制を超える不当な干渉をしないこと。
(2)統治機構(政府)
 議論の結果を実行する組織であり、特別に訓練された人々の仕事である。
(3)代表者会議と統治機構(代表民主制と官僚制)の関係
 (3.1)原理
  (a)対立しあう影響力は、相手の生き生きとした活力を保つ。
  (b)相手の活力を保つことは、自らの固有の有用性のためにも必要である。
 (3.2)代表民主制
  (a)情熱と専門的知識を持ち、活力と独創性をそなえた人物が必要である。
  (b)しかし、情熱と独創性を、熟練した行政と結びつける手段を見出せなければ、最善の効果を生み出すことはできない。
 (3.3)官僚制
  (3.3.1)専門的な技術と熟練を必要とし、独別な教育を受けなければうまくでない仕事がある。
  (3.3.2)メリット:経験が蓄積され、十分な試行と熟慮を経た伝統的な行動原則が獲得され、実際に業務を行う人々に適切な実務的知識が提供される。
  (3.3.3)デメリット:官僚制がかかる病気でしばしば滅亡原因となるのは、仕事のルーティン化である。
   (a)大方の人の頭にあるのは、教えられたことをこなすということだけである。
   (b)仕事を支えていた内面で働く精神、生命力が失われていく。
   (c)訓練された凡庸という妨害的精神が、独創的才能を持つ個人を圧迫するようになる。
  (3.3.4)デメリットを発生させないための、自由な外部的要素が必要であり、それが代表民主制である。

 「政府の知的特性に関する比較は、代表民主政と官僚制との間ですべきであり、他の政府形態は取り上げなくてよい。そこで、この比較をしてみると、官僚制がいくつかの重要な点で相当にすぐれていることは、認めなければならない。官僚制では経験が蓄積され、十分な試行と熟慮を経た伝統的な行動原則が獲得され、実際に業務を行う人々に適切な実務的知識が提供される。とはいえ、個々人の精神の活力という点では、同じように優越しているわけではない。官僚制がかかる病気でしばしば滅亡原因となるのは、仕事のルーティン化である。官僚制が滅びるのは行動原則が変わらないためであり、またそれにもまして、ルーティン化した仕事は何であれ生命力を失ってしまい、内面で働く精神がなくなるために、やるべき仕事をやらずに機械的にずるずると続いていく、という普遍法則のためである。官僚制はつねにベダントクラシーになりがちである。官僚制が実際の統治体制となると、団体精神が(イエズス会の場合のように)、構成員の中で卓越している人々の個性を圧迫する。他の専門的な仕事と同じように統治という専門的な仕事でも、大方の人の頭にあるのは、教えられたことをこなすということだけである。こうした人々の中にあって、独創的才能を持つ個人という考え方が、訓練された凡庸という妨害的精神に打ち勝てるようにするには、民主政的な統治体制が必要である。民主政的な統治体制だったからこそ(きわめて聡明な専制君主という偶然は例外だとしても)、サー・ローランド・ヒルは郵政省に対して勝利を収めることができた。民主政的な統治体制が彼を郵政省《の中に》送り込み、この役所は不承不承ながら、専門的知識と個人的な活力と独創性をそなえた人物の情熱に従ったのである。」(中略)
 「人間生活の万事において、対立しあう影響力は自らの固有の有用性のためにも、対立する相手の生き生きとした活力を保つ必要がある。よい目的であっても、並存すべき別の目的をなおざりにしてそれだけを追求すると、最終的には、一方が過剰で他方が不足するばかりでなく、ひたすら重視してきたものまでが衰退し消滅してしまう。自由な統治体制なら国のためにできることが、訓練された官僚の統治ではできないが、しかしまた、自由な統治それ自体ではできないことが、官僚制であればできるとも考えられる。とはいえ、自由という外部的要素は、政府が自らの仕事を効果的にあるいは持続的に行えるようにするためにも必要だ、ということもわかっている。他方で、熟練した行政と自由とを結びつける手段を見出せなければ、自由は最善の効果を生み出せないし、破滅してしまうことも多い。代議制統治に適合するまで成熟した国民であれば、代議制統治と想像上最も完全な官僚制のどちらかを選ぶかで、躊躇は一瞬たりともありえない。しかし同時に、代議制統治と両立する限りで官僚制の多くのすぐれた点を獲得することは、政治制度の最重要目的の一つである。つまり、これら二つが両立可能な限りで、国民全体の代表機関に委ねられた実効性のある形で行われる統制に沿いながら、知的専門職として業務に取り組むよう育成された専門家の業務遂行で得られる大きな利益を確保する、ということである。前章で論じた境界線を認めれば、この目的に大いに役に立つだろう。つまり、一方で、特別の教育を受けなければうまくできないような本来的に統治の仕事と言える仕事と、他方で、統治者を選び監視し必要ならば統制するという、統治担当者ではなく統治してもらうことに利益を持つ人に委ねるのが、他の場合と同様にこの場合にも適切である仕事、これら二つの仕事の間の境界線である。技術を必要とする仕事が技術を持つ人によって行われるよう国民全般が望まない限り、熟練性を確保した民主政に向かう進歩はまったくありえない。国民の側は、監督と牽制という自分たち本来の仕事をするのに十分な度合の精神的能力を調達するだけでも、手一杯なのである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第6章 代議制統制が陥りやすい欠陥や危険について,pp.104-106,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:代表者会議,統治機構,代表民主制,官僚制)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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2019年10月24日木曜日

代表者会議の機能は、(a)政府の監視と統制、(b)政府に対する解任、任命権、(c)国民の中のあらゆる意見の集約、(d)自由な議論の保障、(e)統治機構の必要な専門性の確保である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

代表者会議の機能

【代表者会議の機能は、(a)政府の監視と統制、(b)政府に対する解任、任命権、(c)国民の中のあらゆる意見の集約、(d)自由な議論の保障、(e)統治機構の必要な専門性の確保である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(1)代表者会議
 (1.1)政府を監視し統制すること
  政府の行動に公開性の光をあて、疑問に思える行動すべてについて、十分な説明と正当化する理由の提示を強制すること。
 (1.2)政府に対する解任、任命権
  非難に値する行動は非難し、政府構成員が職権を濫用したり国民の良識に反する仕方で職務を行ったりした場合には解任し、明示的ないし実質的に後任を任命する。
 (1.3)国民の中のあらゆる意見の集約
  (a)国民の中のあらゆる階層、階級の意見
  (b)国民の中の様々な集団の意見、そのような集団が信頼を寄せている人物の意見
  (c)国民の中の卓越した人々の意見
 (1.4)自由な議論の保障
  (a)何ら制限されずに、意見や批判を述べることができること。
  (b)全ての意見が傾聴されること。
  (c)ある意見を退ける場合であっても、頭ごなしにではなく、より良いと考えられる理由のためであること。
 (1.5)統治機構に必要な専門性の確保すること
  (a)統治機構を構成する人々が、誠実かつ賢明に選ばれるようにすること。
  (b)何ら制限されずに意見や批判を述べること。
  (c)最終的に国民的同意を与えたり与えなかったりすること。
  (d)統治機構に、必要な監視と統制を超える不当な干渉をしないこと。
(2)統治機構(政府)
 議論の結果を実行する組織であり、特別に訓練された人々の仕事である。

 「代表者会議の本来の役割は、統治するという元々から適していない役割ではなく、政府を監視し統制することである。政府の行動に公開性の光をあて、疑問に思える行動すべてについて十分な説明と正当化する理由の提示を強制することである。非難に値する行動は非難し、政府構成員が職権を濫用したり国民の良識に反する仕方で職務を行ったりした場合には解任し、明示的ないし実質的に後任を任命することである。これは間違いなく大きな権限であり、国民の自由の保障として不足はない。
 さらに議会には、これに劣らず重要な役割もある。議会は国民の苦情処理委員会であるとともに、種々の意見が集う会議でもある。国民全般の意見ばかりでなく、国民の中のあらゆる部分の意見や、国民の中の卓越した人々の意見も可能な限りの多くが、もれなく自己主張し論戦に挑める舞台である。自分と同じかもっと上手に自分の想いを、味方や仲間に対してばかりでなく論敵の面前で反対論の試練を受けながら語ってくれる代弁者を、国中のすべての人が期待してよい舞台である。この舞台では、自分の意見が論破された人でも、自分の意見が傾聴され、退けられたにしても頭ごなしにではなく、よりよいと考えられた理由のためであって、国民の多数を代表する人々の前でともかく自分の意見を訴えたということに、満足感を持つ。国中のあらゆる党派や意見がそれぞれの力を結集できるし、自分たちの支持者の数や力に関する幻想を醒ますこともできる。国民の中で支配的な意見は、ここでも支配的な形で登場し、政府の目の前で勢力を展開する。そのため、姿を現すだけで実際に力を行使しなくても、政府を従わせることができる。政治家は、どんな意見や勢力が伸長しているのか凋落しているのかを、他の徴候よりもずっと確実に捉えられるし、目前の差し迫った必要ばかりでなく今後の動向も顧慮して対策を講ずることができる。
 代表者議会は、それを敵視する人々からは、たんなる《おしゃべり》の場所でしかないと愚弄されることが多い。これほど的外れな嘲笑はまずない。話題が国の重大な公的利益であって、国民の中の重要な集団の意見やそうした集団が信頼を寄せている人物の意見が余すところなく語られているのであれば、話すこと以上に代表者会議が有益な役割をどう果たせるのか、私には見当がつかない。国中の利益や意見のすべてが、政府や自分以外のすべての利益や意見の前で熱心に自己主張でき、傾聴させることができ、賛同してもらう、あるいは不賛成ならその理由を明確に述べるよう迫ることができる場所は、他に果たせる目的がなくても、それ自体として、およそ存在しうる中で最も重要な政治制度の一つであり、自由な統治が持つ最大の利点の一つである。そうして「おしゃべり」で「行動」に水を差すことが仮に許されていなかったとしたら、非難がましく見られることもないのだろう。議会が行動するというのではない。話し合い議論することが本来の仕事であるとわきまえていれば、それはないだろう。議論の結果としての行動は、種々雑多な人々からなる議会の仕事ではなく、特別に訓練された人々の仕事である。議会にふさわしい職務は、そうした人々が誠実かつ賢明に選ばれるよう見守ることであり、何ら制限されずに意見や批判を述べることや、最終的に国民的同意を与えたり与えなかったりすることは別として、それ以上の干渉はしないことである。こうした賢明な自制が欠けると、民主政的な議会は、自分では上手にこなせない統治と立法という仕事に手を出そうとし、そうした仕事の大半を担わせる別の機関を作らずに自分で済ませようとする。話し合いに使う時間は、当然ながら、実務に手出しをしないことで得られる時間なのにである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第5章 代表機関の本来の役割について,pp.95-97,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:代表者会議の機能,代表者会議)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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