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2019年4月18日木曜日

4.原発が、いかに膨大な量の放射能を蓄えているかを理解しておくこと。100万kW級の原発1基は、1日で広島型原爆3発分、年間700~1000発分の核反応に相当する。(高木仁三郎(1938-2000))

原発1基1日の放射能

【原発が、いかに膨大な量の放射能を蓄えているかを理解しておくこと。100万kW級の原発1基は、1日で広島型原爆3発分、年間700~1000発分の核反応に相当する。(高木仁三郎(1938-2000))】

 「原子力発電は、制御してゆっくりと核分裂を起こさせていて、原爆のように爆発的にウランを燃やさない、という言い方がよくされています。

それはある意味ではその通りで、原爆のように原子力発電所がいつも爆発を起こしていると考えるのは誤りですが、しかしゆっくり制御されて燃やしているとだけいうと、逆の意味で誤解されるおそれがあります。

実際に現在使われているような大型の原子力発電所では、一〇〇万キロワットとか、大きな電力を取り出すために、とても激しい反応が行われているといってもいいのです。
 一〇〇万キロワット級の原発は、広島の原爆を一日三発ぐらい爆発させる分の反応を二四時間かけてやっています。

広島の原爆の場合には、それが一〇万分の一秒よりももっと速いくらいの時間で一気に爆発した。それに比べれば確かにゆっくりですが、総体としては大変な量を燃やしている。
 一年運転すると、広島型原爆七〇〇から一〇〇〇発ぐらいの量になります。当然とても大きな量の放射能がその炉心に溜まってきます。

これが何らかの形で外界に漏れ出すのが原発事故の基本的な形であり、恐ろしさなのです。

巨大な量の放射能を炉心に蓄えながら、高温高圧で運転し続けるという状態にいつもあるということが、原子力発電所のもっている基本的な厳しさで、ここからすべての問題が発しているといっていいのです。」

(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第一巻 脱原発へ歩みだすⅠ』原発事故―――日本では? 第1章 事故の怖さⅠ、p.272)
(索引:原発1基1日の放射能)

脱原発へ歩みだす〈1〉 (高木仁三郎著作集)

(出典:高木仁三郎の部屋
友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ
 「「死が間近い」と覚悟したときに思ったことのひとつに、なるべく多くのメッセージを多様な形で多様な人々に残しておきたいということがありました。そんな一環として、私はこの間少なからぬ本を書き上げたり、また未完にして終わったりしました。
 未完にして終わってはならないもののひとつが、この今書いているメッセージ。仮に「偲ぶ会」を適当な時期にやってほしい、と遺言しました。そうである以上、それに向けた私からの最低限のメッセージも必要でしょう。
 まず皆さん、ほんとうに長いことありがとうございました。体制内のごく標準的な一科学者として一生を終わっても何の不思議もない人間を、多くの方たちが暖かい手を差しのべて鍛え直して呉れました。それによってとにかくも「反原発の市民科学者」としての一生を貫徹することができました。
 反原発に生きることは、苦しいこともありましたが、全国、全世界に真摯に生きる人々とともにあることと、歴史の大道に沿って歩んでいることの確信から来る喜びは、小さな困難などをはるかに超えるものとして、いつも私を前に向って進めてくれました。幸いにして私は、ライト・ライブリフッド賞を始め、いくつかの賞に恵まれることになりましたが、繰り返し言って来たように、多くの志を共にする人たちと分かち合うものとしての受賞でした。
 残念ながら、原子力最後の日は見ることができず、私の方が先に逝かねばならなくなりましたが、せめて「プルトニウム最後の日」くらいは、目にしたかったです。でもそれはもう時間の問題でしょう。すでにあらゆる事実が、私たちの主張が正しかったことを示しています。なお、楽観できないのは、この末期的症状の中で、巨大な事故や不正が原子力の世界を襲う危険でしょう。JCO事故からロシア原潜事故までのこの一年間を考えるとき、原子力時代の末期症状による大事故の危険と結局は放射性廃棄物が垂れ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。
 後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。私はどこかで、必ず、その皆さまの活動を見守っていることでしょう。
 私から一つだけ皆さんにお願いするとしたら、どうか今日を悲しい日にしないでください。
 泣き声や泣き顔は、私にはふさわしくありません。
 今日は、脱原発、反原発、そしてより平和で持続的な未来に向っての、心新たな誓いの日、スタートの楽しい日にして皆で楽しみましょう。高木仁三郎というバカな奴もいたなと、ちょっぴり思い出してくれながら、核のない社会に向けて、皆が楽しく夢を語る。そんな日にしましょう。
 いつまでも皆さんとともに
 高木 仁三郎
 世紀末にあたり、新しい世紀をのぞみつつ」
(高木仁三郎(1938-2000)『高木仁三郎著作集 第四巻 プルートーンの火』未公刊資料 友へ―――高木仁三郎からの最後のメッセージ、pp.672-674)

高木仁三郎(1938-2000、物理学、核化学)
原子力資料情報室(CNIC)
Citizens' Nuclear Information Center
認定NPO法人 高木仁三郎市民科学基金|THE TAKAGI FUND for CITIZEN SCIENCE
高木仁三郎の部屋
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高木仁三郎 略歴・業績Who's Whoarsvi.com立命館大学生存学研究センター
原子力市民委員会(2013-)
原子力市民委員会
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9.高水準の生産性を保つには奨励給が必須だとする理論は、事実に反する非科学的な主張である。生産的で効率的な経済のためには、協力の促進が必要であり、人間的な諸動機の事実に基づく科学的な解明が必要である。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))

外因性の報酬と内因性の報酬

【高水準の生産性を保つには奨励給が必須だとする理論は、事実に反する非科学的な主張である。生産的で効率的な経済のためには、協力の促進が必要であり、人間的な諸動機の事実に基づく科学的な解明が必要である。(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-))】

(1)勤勉な労働を促す人間の諸動機
 (1.1)外因性の報酬(金銭)
  (a)外因性の報酬(金銭)を過大評価する理論
   (i)合理的な“個人”は、自分の利益だけを考慮し、他人の行動や待遇には全く関心を払わない。
   (ii)羨望や嫉妬やフェアプレー精神など人間的な感情は、“経済的”行動には何の役割も果たさない。
  (b)外因性の動機が、内因性の動機を弱めてしまうという事例。
  “正しいこと”をしたいという欲求に支えられていた行動が、インセンティブとして導入された罰金によって逆効果が生じ、違反行為を増やしてしまう。罰金が、社会的義務を金銭的取引へと姿を変えさせたことが理由である。
 (1.2)内因性の報酬
  (a)例として、科学者たちの研究や発想を支える動機がある。
   真実の追究、知性を使う喜び、発見したときの達成感、同業者たちから認められること。
  (b)チームワークと個人のインセンティブ
   (i)“チーム成績”にもとづく報酬制度は、協力をうながす効果を持っている。
   (ii)逆に、“個人”のインセンティブが強すぎると、チームワークを阻害する。
   (iii)チームがある程度の規模を超えると、チーム成績に占める各人の貢献度が小さくなりすぎ、結果として各人がインセンティブを持てなくなる。
(2)生産的で効率的な経済のために必要なこと
 (2.1)個人の利己主義を基礎とし人間的な感情を考慮しない外因性の報酬(金銭)を過大評価する理論は、事実を捉え損ねており、科学的に誤りである。
 (2.2)他者への配慮や人間的な感情を無視して理論化することは、素朴で単純な第0次近似の理想化理論としては意義があっても、“合理的”で“経済的”な行動の理論では「無視すべきだ」と主張されるならば、もはや科学ではない。
 (2.3)高水準の生産性を保つには奨励給が“必須”であるという主張は、事実に基づかない非科学的な主張である。生産的で効率的な経済のためには、チームワークが必要であり、個人の競争には、建設的なものもあれば、破壊的なものもある。どのような要因が協力を促すかが問題なのであり、事実に基づいた科学的な解明が必要である。

 「本章が展開してきた奨励給への批判は、伝統的な経済分析の範囲内に収まっている。

しかし、たとえば勤勉な労働をうながす場合を考えてみると、インセンティブとは人間に対する“動機付け”だ。人間の動機付けにかんしては、心理学者や労働経済学者や社会学者が仔細な研究を行なっており、経済学者たちは多くの環境について読み違いをしてきたように見える。

 しばしば個人は外因性の報酬(金銭)ではなく、内因性の報酬(仕事をうまくやり遂げた満足感)からより良い動機を与えられる。

ひとつ例を挙げよう。過去200年間、わたしたちの生活を一変させてきた科学者たちの研究や発想は、大部分が富の追求に動機づけられたものではなかった。

それはわたしたちにとっては幸運と言える。金が目的なら、彼らは銀行家の道を選び、科学者にはなっていなかったかもしれない。

このような人々にとって大切なのは、真実の追究、知性を使う喜び、発見したときの達成感、そして、同業者たちから認められることだ。

もちろん、彼らが金銭的報酬をつねに固辞するわけではないが、前にも述べたとおり、自分や家族の次の食事をどうまかなうかで頭がいっぱいの人間は、有意義な研究に没頭することなどできない。

 外因性の報酬(金銭)を求めすぎると、本当に努力の量が減少する場合もある。

教師の大多数(少なくとも多数)は、金のために仕事を選んだのではない。彼らの動機は、子供への愛情や、教育への献身だ。トップレベルの教師たちは、銀行業界に入っていれば、はるかに大きな稼ぎを手にしていただろう。彼らに高いボーナスを出せばもっと力を発揮する、と推測するのは彼らに対する冒涜と言っていい。

じっさい、奨励給は教育界に悪影響を及ぼす可能性がある。奨励給によって給与の低さに気づかされ、金を重視するようになった教師たちは、もっと稼ぎの良い職業に移っていき、教育界にはほかの選択肢を持たない教師だけが残されるだろうからだ(もちろん、給与の低さが認識されれば、教師たちの士気は下がり、逆インセンティブの効果が生まれるはずだ)。

 もうひとつ有名な例を紹介しよう。ある託児所は問題を抱えていた。子供を時間どおりに迎えに来ない親たちがいたのだ。託児所はインセンティブを与えるべく、遅刻に罰金を科すことを決めた。

しかし、遅刻しない親の中にも、子供の送り迎えに苦労している親はたくさんいた。彼らが遅刻しなかったのは、社会的圧力が原因だった。具体的に言うと、たとえ完璧には程遠くても“正しいこと”をしたいという欲求だ。

しかし、罰金を科されたことで、社会的義務は金銭的取引へと姿を変えた。親は社会に対する責任から解放され、遅刻による利益が罰金のコストより大きいと判断した。そして、遅刻は前よりも増えてしまったのだ。

 奨励給制度の欠陥はまだある。ビジネススクールの授業では、チームワークの重要性が強調される。おそらくほとんどの雇用主は、会社の成功にチームワークが必要不可欠だと認識しているだろう。

ここで問題となるのは、“個人”のインセンティブがチームワークを阻害しうることだ。

個人の競争には、建設的なものもあれば破壊的なものもある。対照的に、“チーム成績”にもとづく報酬制度は、協力をうながす効果を持っている。

皮肉にも、標準的な経済理論は、つねにこのような報酬制度をおとしめようとする。チームがある程度の規模を超えると、チーム成績に占める各人の貢献度が小さくなりすぎ、結果として各人がインセンティブを持てなくなる、というのだ。

 経済理論が集団的インセンティブの実効性を正確に測れないのは、人間関係の重要性を過小評価してしまうからだ。

現実の世界では、個人はチームメンバーを喜ばせるために一生懸命働き、それが正しい行動であると信じている。対照的に、経済学者が過大評価するのは、個人の利己性だ(数々の証拠が示すとおり、経済学者はほかの人々より利己的なので、彼らから教えを学ぶ人々は、時間とともに自己中心性を高めていく……)。

集団的インセンティブの重要性を考えれば、労働者によって所有される企業――労働者に収益が分配される企業――が、今回の金融危機で高い業績をあげ、レイオフを少なく抑えてきたことは、驚くに値しないのかもしれない。

 チームワークにかんする幅広い誤認は、経済理論に目隠しをしてしまっている。標準的な経済理論では、人間の行動を分析する際、合理的な“個人”を想定する。この個人は、ひとつの観点からすべてを評価し、他人の行動や待遇にはまったく関心を払わない。

羨望や嫉妬やフェアプレー精神など、人間的な感情は存在せず、存在したとしても、“経済的”行動には何の役割も果たさない。たとえ果たしているように見えても、果たすべきではないとみなされ、果たさなかったものとして経済分析は進められる。

経済学の外から見れば、この手法はばかげている。わたしも同意見だ。本書はすでに、不公正に扱われていると感じる個人が努力を低下させうることと、チームスピリットが努力を増加させうることを説明してきた。

しかし、アメリカの短期市場向けにあつらえられた実利的かつ個人中心主義的な経済学は、現実の経済における信頼感と忠誠心をむしばんでいるのである。

 要するに、高水準の生産性を保つには奨励給が“必須”である、という右派の主張とは裏腹に、多くの企業に採用された奨励給制度は、不平等を拡大させるうえに、存在そのものが非生産的なのだ。」

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『不平等の代価』(日本語書籍名『世界の99%を貧困にする経済』),第4章 アメリカ経済は長期低迷する,pp.178-180,徳間書店(2012),楡井浩一,峯村利哉(訳))
(索引:外因性の報酬,内因性の報酬,インセンティブ,チームワーク)

世界の99%を貧困にする経済


(出典:wikipedia
ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「改革のターゲットは経済ルール
 21世紀のアメリカ経済は、低い賃金と高いレントを特徴として発展してきた。しかし、現在の経済に組み込まれたルールと力学は、常にあきらかなわけではない。所得の伸び悩みと不平等の拡大を氷山と考えてみよう。
 ◎海面上に見える氷山の頂点は、人々が日々経験している不平等だ。少ない給料、不充分な利益、不安な未来。
 ◎海面のすぐ下にあるのは、こういう人々の経験をつくり出す原動力だ。目には見えにくいが、きわめて重要だ。経済を構築し、不平等をつくる法と政策。そこには、不充分な税収しか得られず、長期投資を妨げ、投機と短期的な利益に報いる税制や、企業に説明責任をもたせるための規制や規則施行の手ぬるさや、子どもと労働者を支える法や政策の崩壊などがふくまれる。
 ◎氷山の基部は、現代のあらゆる経済の根底にある世界規模の大きな力だ。たとえばナノテクノロジーやグローバル化、人口動態など。これらは侮れない力だが、たとえ最大級の世界的な動向で、あきらかに経済を形づくっているものであっても、よりよい結果へ向けてつくり替えることはできる。」(中略)「多くの場合、政策立案者や運動家や世論は、氷山の目に見える頂点に対する介入ばかりに注目する。アメリカの政治システムでは、最も脆弱な層に所得を再分配し、最も強大な層の影響力を抑えようという立派な提案は、勤労所得控除の制限や経営幹部の給与の透明化などの控えめな政策に縮小されてしまう。
 さらに政策立案者のなかには、氷山の基部にある力があまりにも圧倒的で制御できないため、あらゆる介入に価値はないと断言する者もいる。グローバル化と人種的偏見、気候変動とテクノロジーは、政策では対処できない外生的な力だというわけだ。」(中略)「こうした敗北主義的な考えが出した結論では、アメリカ経済の基部にある力と闘うことはできない。
 わたしたちの意見はちがう。もし法律やルールや世界的な力に正面から立ち向かわないのなら、できることはほとんどない。本書の前提は、氷山の中央――世界的な力がどのように現われるかを決める中間的な構造――をつくり直せるということだ。
 つまり、労働法コーポレートガバナンス金融規制貿易協定体系化された差別金融政策課税などの専門知識の王国と闘うことで、わたしたちは経済の安定性と機会を最大限に増すことができる。」

  氷山の頂点
  日常的な不平等の経験
  ┌─────────────┐
  │⇒生活していくだけの給料が│
  │ 得られない仕事     │
  │⇒生活費の増大      │
  │⇒深まる不安       │
  └─────────────┘
 経済を構築するルール
 ┌─────────────────┐
 │⇒金融規制とコーポレートガバナンス│
 │⇒税制              │
 │⇒国際貿易および金融協定     │
 │⇒マクロ経済政策         │
 │⇒労働法と労働市場へのアクセス  │
 │⇒体系的な差別          │
 └─────────────────┘
世界規模の大きな力
┌───────────────────┐
│⇒テクノロジー            │
│⇒グローバル化            │
└───────────────────┘

(ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-),『アメリカ経済のルールを書き換える』(日本語書籍名『これから始まる「新しい世界経済」の教科書』),序章 不平等な経済システムをくつがえす,pp.46-49,徳間書店(2016),桐谷知未(訳))
(索引:)

ジョセフ・E・スティグリッツ(1943-)
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米国では、不法移民の差別禁止と権利保護のため、取締の権限が連邦政府の管轄とされた。また、仮に連邦法に違反している不法移民でも保護するサンクチュアリ都市宣言をしている都市が全米各地に400以上存在する。(池上彰(1950-))

不法移民とサンクチュアリ都市

【米国では、不法移民の差別禁止と権利保護のため、取締の権限が連邦政府の管轄とされた。また、仮に連邦法に違反している不法移民でも保護するサンクチュアリ都市宣言をしている都市が全米各地に400以上存在する。(池上彰(1950-))】

 「なぜ「不法」移民は、これまで追い出されなかったのか?
 これはトランプ大統領の移民政策も同様です。当初は「不法移民1100万人を全員追放」と言っていましたが、ここへきて、全員を追い出すわけではないと穏健な方針に切り替えつつあります。その結果、オバマ政権時代よりは強硬な政策になっているのに、多くの人が受け入れてしまう、というわけです。
 それにしても、アメリカに不法移民が1100万人いると聞くと、疑問が湧きませんか。「不法」ならばなぜ強制退去の対象にならないのでしょうか? 日本ですと、不法滞在している疑いのある外国人がいると、警察官が職務質問。パスポートや滞在許可書類がなければ身柄を拘束されます。
 実はアメリカでも日本と同じことができるようにしようという動きがあったのですが、憲法違反だという判決が下っているのです。
 アメリカ南部のアリゾナ州は2010年、独自に不法移民取締法を制定しました。これは現場の警察官に取り締まりの権限を与えるというものです。ところがその法律のなかに、「外見で不法移民の疑いがあれば警察官が滞在資格を確認できる」という内容があったことから、特定の人種を対象にした差別につながるという批判が出て、裁判に発展。12年、連邦最高裁は、不法移民の取り締まりの権限は連邦政府の管轄であり、アリゾナ州が独自に取締法を制定したのは憲法違反だという判断を下しました。
 つまり、連邦政府が取り締まろうとしないかぎり、不法移民は不法でもアメリカに滞在できるというわけです。オバマ前大統領は不法移民を摘発しようとしませんでしたから、犯罪を起こさないかぎり、不法移民でもアメリカに滞在できたのです。
 さらに全米各地には「サンクチュアリ都市」(聖域都市)を宣言している都市が400以上あるとみられます。これらはリベラルな民主党の勢力の強い地域で、連邦法に違反している不法移民がいても、連邦政府に通報せずに守るという方針を貫いています。不法移民は、ニューヨークやシカゴ、ボストンなどの聖域都市に逃げ込めば、摘発や強制送還の心配なく暮らせるのです。同じく聖域都市のサンフランシスコ市は17年1月、聖域都市への補助金停止を求める大統領令が憲法違反にあたるとして、その差し止めを求めて訴訟を起こしました。
 法律に違反しても、人権を守る。人権意識の高さには感心します。
 日本では「トランプ大統領の移民政策はひどい」と他人事のように批判している人たちがいますが、トランプ大統領は、移民受け入れに慎重な日本のようにしたいだけだとも言えます。トランプ大統領を批判する人たちは、自覚せずに日本の移民政策を批判していることになるのです。」
(池上彰(1950-),『世界はどこに向かうのか』第1部「米国編」アメリカ・ファーストの衝撃,Chapter2 自由の国を守る人々,pp.38-41,日本経済新聞社(2017))
(索引:不法移民,サンクチュアリ都市)

池上彰の 世界はどこに向かうのか


(出典:wikipedia
池上彰(1950-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「あなたが同じ立場だったらどうするか?
 もし、あなた方があのときにそのチッソの水俣工場で働いている社員だったら、どうしますか、ということです。つまり熊本県でも有数の企業です。水俣にとってはいちばん大手の企業です。水俣で生まれ育って、学校を出て、チッソに就職するというのは地元の人にとってはいちばんのエリートコースですよね。それこそ、みなさんがもしチッソに就職が決まったと報告をすれば、家族はもちろん親戚もみんな、「いやあいいところに就職したね、よかったね」と祝福してくれるはずです。もちろん、プラスチックの可塑剤という、日本という国が豊かになるときに必要なものをつくっているわけですから、みんな誇りを持って働いていたはずです。ところがやがて、そこから出てくる廃水が原因で、地元の住民に健康被害が出る、という話が聞こえるようになってきた。さあ、みなさんは果たしてどんな行動をとりますか、ということです。当時のチッソの社員たち。たとえば病院の医師が、原因究明のために猫を使って実験をしていた。でも会社から、そんな実験はやめろ、と言われたからやめてしまった。あるいは多くの社員は気がついていたからこそ、排水口の場所を変えたわけです。それによってさらに被害を広めてしまった。労働組合が分裂をして、そこで初めて、企業の仕打ちに気がついた社員たちが声を上げるようになった。さあ、もしそういうことになったら、みなさんはどういう態度をとりますか。
 いまの日本は廃水の基準に厳しいですから、何かあればすぐわかるでしょう。でもいま、実は、まったく同じようなことが中国のあちこちで起きています。開発途上国で同じようなことが起きているのですね。みなさんが就職をしました。そこの会社が実は、東南アジアあるいはアフリカに、現地の工場を持っている。現地の工場に、要員として派遣されました。そこで働いていた。そうしたらその周辺で、健康被害が出ている住民たちがいることに気がついた。あなたはどういう態度をとるのか。まさにそれが問われている、ということなのですね。決して他人事ではないのだということがわかっていただけるのではないでしょうか。」
(池上彰(1950-),『「経済学」講義 歴史編』lecture5 高度経済成長の歪み,pp.228-229,KADOKAWA(2015))
(索引:)

池上彰(1950-)
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