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2019年9月4日水曜日

自立した実践的推論者は、様々な社会関係を通じて、共通善を受容し、必要なケアを受けまたは与え、自らの善を創造し、個々の善の自らの人生における位置づけを決定し、追求することによって、共通善に寄与する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))

自立した実践的推論と共通善

【自立した実践的推論者は、様々な社会関係を通じて、共通善を受容し、必要なケアを受けまたは与え、自らの善を創造し、個々の善の自らの人生における位置づけを決定し、追求することによって、共通善に寄与する。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))】

(1)実践的推論
 実践的推論とは、その本性上、ある一群の明確な社会関係の内部で、他者たちと共に行われる推論である。
 (1.1)社会関係への依存
  私たち一人ひとりが、社会関係を通じて、自立した実践的推論者としての地位を獲得する。
 (1.2)各人の諸々の傾向性
  各人は、諸々の傾向性や活動の発展を通じて、自立した実践的推論者になることへと方向づけられる。
 (1.3)各人の善と共通善
  各人の善は、社会関係に参加する全ての人々の善を同時に追求することなしには追求されえない。なぜなら、自分が位置づけられている一群の社会関係全体の開花とは独立に、自らの善や自らの開花について、実践的に適切な理解を得ることはできないからである。
(2)各人の善の達成と共通善への寄与
 (2.1)自立した実践的推論者としての成功
  自立した実践的推論者として諸々の活動に参加し、社会関係の中で一定の成功を収める。
 (2.2)個人の善は、コミュニティの善に従属しているわけではない。
  (a)個人は、まずコミュニティの善を自らのものとして引き受けることによって、個人の善を具体的なものにすることができる。すなわち共通善は、彼らの個人的な善の不可欠な構成要素である。
  (b)しかし、一人ひとりの個人の善は、共通善以上のものである。
  (c)コニュニティ全体の善としての共通善以外にも、家族や家族以外の諸集団にとっての善や、さまざまな実践における善のような共通善が存在する。
  (d)各人は自立した実践的推論者として、それら個々の善が各々、自らの人生においていかなる位置を占めるのが最善かという問いに答える必要がある。
   参照: 特定の個人や、特定の社会集団が、特定の状況下において、諸々の善のうち何を選択することが「善」なのか、なぜそうなのかの問題は、諸々の善がなぜ「善」なのかという問題とは、別の問題である。(アラスデア・マッキンタイア(1929-))
 (2.3)逆にコミュニティの善が、個人の善に従属しているわけではない。
  (a)諸個人の善の総計が、コミュニティの善というわけではない。
  (b)諸個人の善の追求は、コミュニティにおける共通善に寄与し得る。
(3)障害を抱えている時期における善の追求
 必要とする細心のケアによって、何らかの障害を抱えている時期であっても、諸徳を身につけ諸徳を発揮し、他者たちの善を自己の善とみなして追求できる。
 (3.1)必要とする細心のケア
  幼少期や老年期や病気や怪我をしたときに、必要とする細心のケアを受け取ることができるし、そのような状況下で細心のケアを受け取ることが、合理的に期待しうる。
  (a)この合理的な期待は、利得の交換という意図による、計算による期待ではない。
  (b)他者に与えることが求められるものは、受け取ったものに比べて、不釣合いかもしれない。
  (c)与えることが求められる他者は、彼らから受け取ることがない人々であるかもしれない。
  (d)他者に与えるケアは、主として彼らのニーズに基づく、無条件的なものである。
 (3.2)幼少期や老年期や病気や怪我をしたときにおける、一人ひとりの開花は、コミュニティ全体の開花を示す一つの重要な指標である。なぜなら、このような人々に対する細心のケアは、その人々のニーズだけがケア提供の理由であるからである。

 「私が採用している、概してアリストテレス的な見解によれば、実践的推論とは、その本性上、他者たちとともにおこなわれる推論であり、一般的には、ある一群の明確な社会関係の内部で他者たちとともにおこなわれる推論である。そもそもそうした諸々の関係は、私たち一人ひとりがまずはそれらを通じて自立した実践的推論者としての地位を獲得し、その後も引き続き、それらに支えられてその地位を維持していくような、そうした諸関係として形成され、発展を遂げてきた。一般的かつ典型的には、まずもって家族や家庭といった諸関係が、続いて、各種学校や徒弟制度における人々の諸関係が、さらには、その特定の社会や文化に属する大人たちが従事する多様な実践における人々の諸関係が、そうした諸関係である。そのような諸関係の成立と存続は、各人がそれらを通じて自立した実践的推論者になることへと方向づけられる、諸々の傾向性や活動の発展から切り離しえない。それゆえ各人の善は、それらの関係に参加するすべての人々の善を同時に追求することなしには追求されえない。というのも、私たちは、そこに自分が位置づけられているのを見出す一群の社会関係全体の開花〔繁栄〕とは独立に、それとは切り離されたものとして、みずからの善やみずからの開花について実践的に適切な理解を得ることはできないからである。なぜできないのだろうか。
 もし私がヒトにとって可能なかぎりの開花を遂げたいと思うならば、私の人生の全体は次のようなものでなければならない。すなわち、自立した実践的推論者として諸々の活動に参加し、そこで一定の成功を収めるばかりでなく、幼少期や老年期や病気をしたときやけがをしたときに、そうした状況下で私が必要とする細心のケアを受けとることができるような、また、そのような状況下で細心のケアを受けとることを合理的に期待しうるような、そうした人生でなければならない。そうである以上、私たち一人ひとりがみずからの善を達成できるのは、ただ次のような場合だけである。すなわち、私たちが何らかの障碍を抱えている時期に、私たちが、諸徳を身につけ諸徳を発揮することを通じて他者たちの善を自己の善とみなして追求できる種類のヒトになれるよう他者たちが手助けしてくれる場合、また、そのようにして他者たちが私たちの善を彼ら自身の善とみなして追求してくれる場合だけである。そして、このように各人が他者の善を自己の善とみなして追求しうるとすれば、それは、〈私たちが他者を助ける場合にかぎって、彼らもまた利得の交換という意図で、私たちを助けてくれるだろう〉という具合に、私たちがあらかじめ計算をおこなったためではない。そのような計算をおこなうのは、そうすることがみずからの善である場合に、そしてただその場合にかぎって、他者の善を考慮に入れる種類のヒトであって、そのようなヒトは、〔ここで考察している種類のヒトとは〕まったく異なる種類のヒト、すなわち、すでに私がその特徴づけをおこなってきた諸徳の欠如したヒトであろう。
 というのも、上記のような与えることと受けとることの諸関係のネットワークに、諸徳が要求するようなしかたで参加するためには、私は次のことを理解していなければならない。すなわち、私が与えることを求められるものは、私が受けとったものに比してひどく不釣合いなものかもしれないということ。また、私が与えることを求められる人々は、私が彼らから何も受けとることがない人々であるかもしれないということを、私は理解していなければならない。さらに私は、私が他者に与えるケアは、ある重要な意味において無条件のものでなければならない、ということも理解していなければならない。なぜなら、私にどの程度のことが要求されるかは、たとえそれだけによって決定されるわけではないにせよ、主として彼らのニーズによって決定されるからである。
 家族や隣近所や仕事にかかわる諸関係のネットワークが開花した〔繁栄した〕状態にある場合、すなわち、ある開花した地域コミュニティが存在する場合、その理由はつねに、このコミュニティのメンバーたちが彼らの共通善をめざしておこなう諸活動が、彼らの実践的合理性によって適切に導かれているということに存するだろう。だが、そうしたコミュニティの開花から恩恵を受ける人々の中には、自立した実践的推論をおこなう能力がもっとも乏しい人々、すなわち、幼児や高齢者や病気にかかった人々やけがをしている人々や、その他さまざまなしかたで障碍を負っている人々も含まれるだろう。そして、そのような人々一人ひとりの開花は、コミュニティ全体の開花を示す一つの重要な指標であろう。というのも、ある特定のコミュニティのメンバーたちに対して行動の理由を提供するのが〔障碍をもった人々のニーズを含む〕《ニーズ》である場合にかぎって、そのコミュニティは開花するからだ。
 右の説明において、個人の善はコミュニティの善に従属しているわけではなく、また、その逆でもないことに注意されたい。個人はたんにみずからの善を追求するためばかりでなく、そもそもみずからの善を具体的なことばによって定義づけるためにも、まずはコミュニティの善を、みずからのものとして引き受けるべき善として認識する必要がある。それゆえ、共通善というものを、諸個人の善の総計として、すなわち、それらを単純に足し合わせたものとして理解することはできない。と同時に、あるコミュニティにおける共通善の追求は、そのことに寄与しうるすべての人間にとって、彼らの個人的な善の不可欠な構成要素であるとはいえ、一人ひとりの個人の善はそうした共通善以上のものである。また、いうまでもなく、コニュニティ全体の善としての共通善以外にも、家族や家族以外の諸集団にとっての善や、さまざまな実践における善のような共通善が存在する。〔それゆえ〕各人は自立した実践的推論者として、それら個々の善が各々、みずからの人生においていかなる位置を占めるのが最善かという問いに答える必要があるのだ。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第9章 社会関係、実践的推論、共通善、そして個人的な善,pp.150-153,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:自立した実践的推論,共通善,社会関係,個人的な善)

依存的な理性的動物: ヒトにはなぜ徳が必要か (叢書・ウニベルシタス)


(出典:wikipedia
アラスデア・マッキンタイア(1929-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「私たちヒトは、多くの種類の苦しみ[受苦]に見舞われやすい[傷つきやすい]存在であり、私たちのほとんどがときに深刻な病に苦しんでいる。私たちがそうした苦しみにいかに対処しうるかに関して、それは私たち次第であるといえる部分はほんのわずかにすぎない。私たちがからだの病気やけが、栄養不良、精神の欠陥や変調、人間関係における攻撃やネグレクトなどに直面するとき、〔そうした受苦にもかかわらず〕私たちが生き続け、いわんや開花しうるのは、ほとんどの場合、他者たちのおかげである。そのような保護と支援を受けるために特定の他者たちに依存しなければならないことがもっとも明らかな時期は、幼年時代の初期と老年期である。しかし、これら人生の最初の段階と最後の段階の間にも、その長短はあれ、けがや病気やその他の障碍に見舞われる時期をもつのが私たちの生の特徴であり、私たちの中には、一生の間、障碍を負い続ける者もいる。」(中略)「道徳哲学の書物の中に、病気やけがの人々やそれ以外のしかたで能力を阻害されている〔障碍を負っている〕人々が登場することも《あるにはある》のだが、そういう場合のほとんどつねとして、彼らは、もっぱら道徳的行為者たちの善意の対象たりうる者として登場する。そして、そうした道徳的行為者たち自身はといえば、生まれてこのかたずっと理性的で、健康で、どんなトラブルにも見舞われたことがない存在であるかのごとく描かれている。それゆえ、私たちは障碍について考える場合、「障碍者〔能力を阻害されている人々〕」のことを「私たち」ではなく「彼ら」とみなすように促されるのであり、かつて自分たちがそうであったところの、そして、いまもそうであるかもしれず、おそらく将来そうなるであろうところの私たち自身ではなく、私たちとは区別されるところの、特別なクラスに属する人々とみなすよう促されるのである。」
(アラスデア・マッキンタイア(1929-),『依存的な理性的動物』,第1章 傷つきやすさ、依存、動物性,pp.1-2,法政大学出版局(2018),高島和哉(訳))
(索引:)

アラスデア・マッキンタイア(1929-)
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依存的な理性的動物叢書・ウニベルシタス法政大学出版局

人間は、他を圧倒するほどの例外者を除けば、おおよそ平等な諸能力を持っているという事実が存在する。生存という目的のためには、相互の自制と妥協の体系である法と道徳が要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))

人間の諸能力のおおよその平等性

【人間は、他を圧倒するほどの例外者を除けば、おおよそ平等な諸能力を持っているという事実が存在する。生存という目的のためには、相互の自制と妥協の体系である法と道徳が要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(3.2)追加。

(1)目的と手段による説明
  人間に関する単純で自明な諸事実から、法と道徳が持つある一定の特性が導出可能である。これは、生存する目的を仮定することによる目的と手段による説明であり、原因と結果による因果的説明とは異なる。(ハーバート・ハート(1907-1992))
 (a)生存する目的を前提として仮定する。
 (b)自然的事実:人間に関する、ある単純で自明な諸事実が幾つか存在する。
 (c)法と道徳は、自然的事実に対応する、ある特定の内容を含まなければならない。
  その特定の内容を含まなければ、生存という目的を達成することができないため、そのルールに自発的に服従する人々が存在することになり、彼らは、自発的に服従しようとしない他の人にも、強制して服従させようとする。
(2)原因と結果による説明
 (a)心理学や社会学における説明のように、人間の成長過程において、身体的、心理的、経済的な条件のもとにおいて、どのようなルール体系が獲得されていくかを、原因と結果の関係として解明する。
 (b)因果的な説明は、人々がなぜ、そのような諸目的やルール体系を持つのかも、解明しようとする。
 (c)他の科学と同様、観察や実験と、一般化と理論という方式を用いて確立するものである。

(3)人間に関する自然的事実
 (3.1)人間の傷つきやすさ
   人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいという事実が存在する。生存するという目的のためには、殺人や暴力の行使を制限するルールが要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))
  (a)人はときには身体に攻撃を加える傾向があるし、また攻撃を受ければ普通、傷つきやすいという事実が存在する。
  (b)法と道徳は、殺人とか身体的危害をもたらす暴力の行使を制限するルールを含まなければならない。
 (3.2)人間の諸能力のおおよその平等性
  (a)人間の諸能力の差異
   人間は、肉体的な強さ、機敏さにおいて、まして知的な能力においてはなおさら、お互いに異なる。
  (b)人間の諸能力のおおよその平等性
   それにもかかわらず、どのような個人も、協力なしに長期間他人を支配し服従させるほど他人より強くはない。もっとも強い者でもときには眠らねばならず、眠ったときには一時的にその優位性を失う。
  (c)能力の大きな不均衡がもたらす事象
   人々が平等であるのではなく、他の者よりもずいぶん強く、また休息がなくても十分やってゆける者がいくらかいたかもしれない。そのような例外的な人間は、攻撃によって多くのものを得るであろうし、相互の自制や他人との妥協によって得るところはほとんどないであろう。
  (d)相互の自制と妥協の体系
   法的ならびに道徳的責務の基礎として、相互の自制と妥協の体系が必要であることが明らかになる。
  (e)違反者の存在
   そのような自制の体系が確立したときに、その保護の下に生活すると同時に、その制約を破ることによってそれを利用しようとする者が常にいる。
  (f)国際法の特異な性質
  強さや傷つきやすさの点で、国家間に巨大な不均衡が現に存在している。国際法の主体間のこの不平等こそ、国際法に国内法とは非常にちがった性格を与え、またそれが組織された強制体系として働きうる範囲を制限してきた事態の一つなのである。

 「(ii)おおよその平等性 人間は、肉体的な強さ、機敏さにおいて、まして知的な能力においてはなおさらお互いに異なる。それにもかかわらず、どのような個人も、協力なしに長期間他人を支配し服従させるほど他人より強くはないということは、さまざまな形態の法や道徳を理解するうえで極めて重要な事実である。もっとも強い者でもときには眠らねばならず、眠ったときには一時的にその優位性を失うのである。とりわけ、このおおよその平等性という事実によって、法的ならびに道徳的責務の基礎として、相互の自制と妥協の体系が必要であることが明らかになるのである。そのような自制を求めるルールのある社会生活は、ときには厄介であろう。しかしそれは、このようにほぼ平等である存在にとって、無制限な攻撃よりは、少なくともましであるし野蛮でないし短くはない。そのような自制の体系が確立したときに、その保護の下に生活すると同時にその制約を破ることによってそれを利用しようとする者が常にいるということは、もちろんこのこととはまったく矛盾しないし同様な自明の真理である。これこそまさに、われわれがあとで示すように、単に道徳的な統制の形態から、組織された法的なそれへと必然的に進ませる自然的事実の一つなのである。ここでもまた事態は違っていたかもしれない。人々が平等であるのではなく、他の者よりもずいぶん強く、また休息がなくても十分やってゆける者がいくらかいたかもしれないが、それは、いくらかの者がこれらの点において現在の平均よりもはるかに上であるか、あるいは大部分の者がそれよりはるかに下であるためである。そのような例外的な人間は、攻撃によって多くのものを得るであろうし、相互の自制や他人との妥協によって得るところはほとんどないであろう。しかしわれわれは、おおよその平等性という事実が非常に重要であるということを理解するために、ピグミー族のなかの巨人を空想するという手段を用いる必要はない。というのは、そのことは国際生活の事実によってよりよく例証されるからである。つまりそこにおいては、強さや傷つきやすさの点で、国家間に巨大な不均衡が現に存在している(あるいは過去に存在していた)のである。国際法の主体間のこの不平等こそ、後述のとおり、国際法に国内法とは非常にちがった性格を与え、またそれが組織された強制体系として働きうる範囲を制限してきた事態の一つなのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第2節 自然法の最小限の内容,p.213,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:人間の諸能力のおおよその平等性,相互の自制,妥協)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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国民全体の徳と知性を育成することと共に重要なことは、社会成員のうちの優れた資質を、統治機構に組織化することである。代議制は、最も賢明な社会成員の資質に、統治のための大きな影響力を与える方法である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

統治機構の質

【国民全体の徳と知性を育成することと共に重要なことは、社会成員のうちの優れた資質を、統治機構に組織化することである。代議制は、最も賢明な社会成員の資質に、統治のための大きな影響力を与える方法である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

(4)追記。

良い統治とは何か
(1)統治とは、人間の行う行為に他ならない。
 (a)統治担当者
 (b)統治担当者を選ぶ人々
 (c)統治担当者が責任を負っている人々
 (d)以上の人々すべてに、意見によって影響を与え牽制を加える人々
(2)統治体制が、国民自身の徳と知性を育成し、促進する特性を持っていること。
  統治体制が、国民自身の徳と知性を育成する特性を持っていることが、最も重要である。この特性を持つ体制は、、国民を育成し、国民によって維持、発展させられ、諸々の優れた資質を統治機構へと組織化する。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 (a)統治体制を維持できる基礎的な資質が、国民にあるという前提ではある。
 (b)この特性が満たされている統治体制は、他のあらゆる点でも最善である可能性が十分にある。
 (c)この特定は、統治体制とそれを支える国民の徳と知性との間に、良い循環を生み出す。
(3)社会を構成する人々に、徳と知性があること。
 (3.1)道徳的資質
  自分勝手な自己利益だけを各人が重要視して、社会全般の利益でもあるような自分の利益には注目したり関心を持ったりしないならば、よい統治は望みえない。
 (3.2)知的資質
  人々が、無知蒙昧や有害な偏見の寄せ集めに過ぎないならば、よい統治は望みえない。
 (3.3)活動的資質
  被治者の高い資質は、統治機構を動かす駆動力を与える。
(4)統治機構それ自体が高い質を持っていること。
 統治機構が、一定時点に現存する諸々の優れた資質を活用し、それらの資質を正しい目的のための手段としている。
 (a)集団的事業のために、個々の社会成員に現存する優れた資質の一定部分を組織化する。
 (b)代議制は、社会に現存している平均水準の知性と誠実さを、最も賢明な社会成員の個々の知性や徳とともに、統治体制に集約する方法である。
 (c)代議制は、最も賢明な社会成員の資質に、統治のための大きな影響力を与える方法である。

 「統治体制の中の細々とした行政に関する仕組について論じてきたことは、統治体制の全体構造については、いっそう明確にあてはまる。よい統治体制であろうとする統治体制はすべて、集団的事業のために個々の社会成員に現存するすぐれた資質の一定部分を組織したものとなっている。代議制の国制は、社会に現存している平均水準の知性と誠実さを、最も賢明な社会成員の個々の知性や徳とともに、他の組織方法よりも直接的に統治体制に集約し、また、他の組織方法よりも大きな影響力をこれらの資質に与える方法なのである。とはいえ、どの国制にあっても、これらの資質が持つ影響力は統治体制内のあらゆる善の源泉であり、統治体制内の害悪を未然に防止してくれる。一国の制度が組織化に成功しているこれらの有益な資質の総量が大きければ大きいほど、また、組織方法が適切であればあるほど、統治体制はよいものとなるのである。  以上により、われわれは今や、政治制度が持ちうる長所を二つに分ける区分法の基礎を得たことになる。その一方の部分は、知性や徳の発展、および実践面での活力や能力の発展という意味での、社会の全般的な精神的発展を促進する度合いである。もう一つの部分は、公的な仕事で最大効果を発揮させるために既存の道徳的、知的、活動的な力量を政治制度が組織化する際の、組織化の完成度である。統治体制は、人々に対する作用と、事物に対する作用とによって評価すべきである。市民をどう変えているか、そしてまた、市民を用いて何をしているかによって、つまり、国民そのものを改善したり劣化させたりする傾向と、国民のために国民を用いて行う仕事の善し悪しとで評価する、ということである。統治体制は人間精神に作用する大きな影響力であると同時に、公的業務のための一連の組織化された仕組である。前者の影響力に関しては、その有益な行動は主に間接的だが、だからといって重要性が劣るわけではない。他方、統治体制の有害な行動は直接的となることもある。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『代議制統治論』,第2章 よい統治形態の基準,pp.31-32,岩波書店(2019),関口正司(訳))
(索引:統治機構の質,代議制,国民の徳と知性,優れた資質)

代議制統治論


(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会