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2020年4月17日金曜日

道徳的基準は、法に対する抵抗の拠り所でもある。法の実証主義者が、現に存在する法と「在るべき法」を区別するのは、存在する法の理論的道徳的問題を明確にし、批判と抵抗の根拠を明らかにするためである。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法的妥当性と法に対する抵抗

【道徳的基準は、法に対する抵抗の拠り所でもある。法の実証主義者が、現に存在する法と「在るべき法」を区別するのは、存在する法の理論的道徳的問題を明確にし、批判と抵抗の根拠を明らかにするためである。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

参考:道徳的基準は、法批判の源泉である。ただし、受容されている社会的道徳か道徳的理想かによらず、たとえある基準が絶対的なものに思えても、存在する法体系とは区別する必要があり、選択には意見の相違が存在する。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「(vi)法的妥当性と法に対する抵抗 実証主義者に分類される法理論家達が、たとえその一般的な見解を述べるのに不注意であったにせよ、彼らのうちで、いま挙げた5つの見出しの下で論じた法と道徳の関連形態を否定した者は、ほとんどないのである。それでは次のような法実証主義者のさかんな鬨の声は何を目指したのだろうか。「法が存在することと、法の長所あるいは短所とはまったく別問題である。」「国家の法は理想ではなく現に存在する何ものかである、………それはあるべきものではなくあるところのものである。」「法規範はいかなる種類の内容をももちうる。」
 これらの思想家が推し進めようとしたことは、主に、特定の法が道徳的には邪悪であるが、適当な形で制定され、意味も明白で、体系の妥当性に関する承認されたあらゆる標準を満たしながら存在しているため、そこから生じる理論的道徳的問題を明確にまた正直に系統立ててのべることであった。彼らの見解によれば、そのような法を考えるさいに、理論家や、その法を適用したりそれに従ったりするように求められた不幸な公機関や市民は、その法に対して「法」あるいは「有効な」という資格を拒否せよと言われれば、混乱するほかはないのである。彼らはこう考えた。これらの問題に取り組むためには、より単純でもっと率直な手段の方が役に立ち、またその方が、関連するあらゆる知的、道徳的な考慮に、はるかによく焦点をあわせることになろう。すなわちわれわれとしては、「これは法である。しかしそれはあまりにも邪悪であるので適用あるいは服従できない。」と言いたいところである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.225-226,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法的妥当性,法に対する抵抗,道徳的基準)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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司法的決定を導く道徳的基準は、それに法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。(ハーバート・ハート(1907-1992))

法としての適正と正義の原則

【司法的決定を導く道徳的基準は、それに法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

(f)追加。

 (1.3)基準は、どのようなものか
  (a)仮に、ゲームのルールの解釈や、非常に不道徳的な抑圧の法律の解釈においても、ルールや在る法の自然で合理的な精密化が考えられる。従って、実質的な内容を伴うと思われる。
  (b)目標や、社会的な政策や目的が含まれるかもしれないが、これは恐らく違うだろう。
  (c)基準は、道徳とは異なると考えたこともあるが、「道徳的」と呼んで差し支えないようなものである。理由は、以下の通りである。
   半影的問題における司法的決定を導く法以外の「べき」観点の一つは、道徳的原則と考えられる。なぜなら、法解釈がそれらの原則と矛盾しないと前提され、また制定法か否かにかかわらず同じ原則が存在するからである。(ハーバート・ハート(1907-1992))
   (i)開かれた構造を持つ法を解釈する際、ルールの目的は合理的なものであり、そのルールが不正な働きをしたり、確定した道徳的原則に反するはずがないという前提に基づいて行なわれる。
   (ii)法に従わないときも、法に従うときとほとんど同様、同じ原理が尊重されてきた。
  (d)高度に憲法的な意味をもつ事項に関する司法的決定は、しばしば道徳的価値の間の選択を伴うのであり、単に一つの卓越した道徳的原則を適用しているわけではない。
  (e)立法的と呼ぶのに躊躇を感じるような司法的活動は、次のような特徴を持つ。
   (i)選択肢を考慮するさいの不偏性と中立性
   (ii)影響されるであろうすべての者の利益の考慮
   (iii)決定の合理的な基礎として何らかの受けいれうる一般的な原則を展開しようとする関心
  (f)司法的決定を導く道徳的基準は、それに法体系が一致することで、法体系の善し悪しが区別できるというようなものではなく、不偏性、公正な手続的基準、一定の存在条件を満たした「ルール」の適用に関連している。

 「(v)法としての適正と正義の原則 周知され裁判で適用される一般的なルールによって人の行為がコントロールされるときにはいつでも、最小限の正義はかならず実現されているという根拠から、道徳と正義にある点において一致するよい法体系と、そうでない法体系とを区別することは誤っていると言えるであろう。すでに正義の観念を分析するさいにまさに指摘したように、そのもっとも単純な形態(法の適用における正義)は、偏見や利害や気まぐれによって左右されない同じ一般的なルールが、多くの異なる人々に適用されなければならないという考えを、まじめに採用することにほかならない。この不偏性こそイギリスやアメリカの法律家達の間で「自然的正義」の原則として知られている手続的基準が確保しようとしているものなのである。こうして、もっとも不愉快な法が正しく適用されることになるかもしれないが、その場合でもわれわれは、一般的な法のルールの適用というただそれだけの観念のなかに、正義の少なくとも萌芽を見るのである。
 「自然的」と呼んでもよいような、この最小限の正義の形態の側面を明らかにしようとするならば、それは、法のルールのみならずゲームのルールのような何らかの社会統制の方法に事実上含まれているものを研究すればよい。社会統制の方法は別段の公機関の指令がなくてもルールを理解しルールに一致するはずの部類の人々に伝えられた、一般的な行為の基準から主として成りたっている。この種の社会統制が機能するためには、そのルールは一定の条件を満たさなければならない。すなわちそれらは理解できるものであり、たいていの人が服従できる範囲内のものでなければならない。また例外もあるが、それらは一般的には遡及してはならない。つまり、たまたまルール違反のために罰せられる人々も、たいていは服従する能力と機会をもつのだろうということになる。ルールによる統制のさいのこれらの特徴は明らかに、法律家が法としての適正の原則と呼ぶ正義の要請と密接に関連している。実証主義に対するある批判者は、まさにルールによる統制のこれらの側面のなかに、法と道徳の必然的な結びつきを示す何ものかを見て、その側面を「法に内在する道徳」と呼ぶよう提案したのである。またもしこれが、法と道徳には必然的な結びつきがあるということの意味であるならば、われわれはそれを受けいれてもいいだろうが、不幸にもそれは極度の邪悪と両立しうるのである。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第9章 法と道徳,第3節 法的妥当性と道徳的価値,pp.224-225,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),明坂満(訳))
(索引:法としての適正,正義の原則,道徳的基準,不偏性,公正な手続的基準)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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寛容な人が、寛容ではない人に寛容である義務はない。とは言え、開かれた社会は、可能な限り狂気的な周辺部に対しても寛容であるべきだろう。しかし、それは無制限ではない。寛容を守る何らかの制度が必要だろう。(カール・ポパー(1902-1994))

開かれた社会を守る

【寛容な人が、寛容ではない人に寛容である義務はない。とは言え、開かれた社会は、可能な限り狂気的な周辺部に対しても寛容であるべきだろう。しかし、それは無制限ではない。寛容を守る何らかの制度が必要だろう。(カール・ポパー(1902-1994))】
 「開かれた社会における自由と寛容は、無制限なものと考えられるべきではない。われわれは、それに報いる用意のあるすべての人々に意見の自由を保障すべきだろうが、不寛容や暴力を真剣に喧伝する人々を、この保障に含めてはならない。ここで再び、われわれは過去の誤りから学ぶことができる。寛容という考えにあまりにも深く傾倒しすぎているため、非寛容と、暴力を使用することに対する、《あらゆる》種類のプロパガンダに寛容でなければならないと感じてしまう人々は、自らと寛容という考えを破壊するのに手を貸すかもしれないのである。
 インドのジャングルに住んでいて、トラの生命の神聖さを含めた生命の神聖さの信仰のために消滅したあるコミュニティの、心の痛む話を、私はかつて読んだことがある。不幸にもトラはそのコミュニティに報いることはなかったのである。
 同じように、1933年以前のドイツ共和国――いわゆるワイマール共和国――は、ヒトラーに寛容だった。しかし、ヒトラーはそれに報いることはなかった。
 これは、われわれが今学ばなければならない誤りの一つだ。確かに、寛容な人が、寛容ではない人――恩に報いることのない人――に寛容である義務などありえない。しかし、そのような義務はないとは言え、開かれた社会は、平和と強さの時代の中でなら、可能な限り狂気的な周辺部に対して、つまり、非寛容を、そして暴力さえを説いて回る人々に対して寛容であるべきだろう。そしてそのような狂気の周辺部には、同時に、不寛容の形態の《あらゆる》攻撃的形態に寛容であるつもりがないならば、寛容は偽善だと非難する人々もいる。社会生活は、やりとりの応酬の生活である。自由な社会は、暴力を用いるごろつきが暴力を用いて隣人をいじめるのを抑えるであろうし、また、自由な社会は、その国家の中に、あらゆる人々の権利を保証する制度を見て取るだろう。それは人々が、たまたま権力をもった人々によってであれ、専制政治を確立するために権力をつかもうとする人々によってであれ、いじめられたり、強制服従させられることのないよう守られるように取り計らうための制度である。」
(カール・ポパー(1902-1994),『社会と政治』,第4部 冷戦とその後,第8章 開かれた社会と民主国家――1963年,pp.198-199,ミネルヴァ書房(2014),戸田剛文(訳),神野慧一郎(監訳),中才敏郎(監訳),戸田剛文(監訳))
(索引:開かれた社会を守る,寛容,非寛容,暴力,開かれた社会)

カール・ポパー 社会と政治: 「開かれた社会」以後


(出典:wikipedia
カール・ポパー(1902-1994)の命題集(Propositions of great philosophers)  「あらゆる合理的討論、つまり、真理探究に奉仕するあらゆる討論の基礎にある原則は、本来、《倫理的な》原則です。そのような原則を3つ述べておきましょう。
 1.可謬性の原則。おそらくわたくしが間違っているのであって、おそらくあなたが正しいのであろう。しかし、われわれ両方がともに間違っているのかもしれない。
 2.合理的討論の原則。われわれは、ある特定の批判可能な理論に対する賛否それぞれの理由を、可能なかぎり非個人的に比較検討しようと欲する。
 3.真理への接近の原則。ことがらに即した討論を通じて、われわれはほとんどいつでも真理に接近しようとする。そして、合意に達することができないときでも、よりよい理解には達する。
 これら3つの原則は、認識論的な、そして同時に倫理的な原則であるという点に気づくことが大切です。というのも、それらは、なんと言っても寛容を合意しているからです。わたくしがあなたから学ぶことができ、そして真理探究のために学ぼうとしているとき、わたくしはあなたに対して寛容であるだけでなく、あなたを潜在的に同等なものとして承認しなければなりません。あらゆる人間が潜在的には統一をもちうるのであり同等の権利をもちうるということが、合理的に討論しようとするわれわれの心構えの前提です。われわれは、討論が合意を導かないときでさえ、討論から多くを学ぶことができるという原則もまた重要です。なぜなら討論は、われわれの立場が抱えている弱点のいくつかを理解させてくれるからです。」
 「わたくしはこの点をさらに、知識人にとっての倫理という例に即して、とりわけ、知的職業の倫理、つまり、科学者、医者、法律家、技術者、建築家、公務員、そして非常に重要なこととしては、政治家にとっての倫理という例に即して、示してみたいと思います。」(中略)「わたくしは、その倫理を以下の12の原則に基礎をおくように提案します。そしてそれらを述べて〔この講演を〕終えたいと思います。
 1.われわれの客観的な推論知は、いつでも《ひとりの》人間が修得できるところをはるかに超えている。それゆえ《いかなる権威も存在しない》。このことは専門領域の内部においてもあてはまる。
 2.《すべての誤りを避けること》は、あるいはそれ自体として回避可能な一切の誤りを避けることは、《不可能である》。」(中略)「
 3.《もちろん、可能なかぎり誤りを避けることは依然としてわれわれの課題である》。しかしながら、まさに誤りを避けるためには、誤りを避けることがいかに難しいことであるか、そして何ぴとにせよ、それに完全に成功するわけではないことをとくに明確に自覚する必要がある。」(中略)「
 4.もっともよく確証された理論のうちにさえ、誤りは潜んでいるかもしれない。」(中略)「
 5.《それゆえ、われわれは誤りに対する態度を変更しなければならない》。われわれの実際上の倫理改革が始まるのは《ここにおいて》である。」(中略)「
 6.新しい原則は、学ぶためには、また可能なかぎり誤りを避けるためには、われわれは《まさに自らの誤りから学ば》ねばならないということである。それゆえ、誤りをもみ消すことは最大の知的犯罪である。
 7.それゆえ、われわれはたえずわれわれの誤りを見張っていなければならない。われわれは、誤りを見出したなら、それを心に刻まねばならない。誤りの根本に達するために、誤りをあらゆる角度から分析しなければならない。
 8.それゆえ、自己批判的な態度と誠実さが義務となる
 9.われわれは、誤りから学ばねばならないのであるから、他者がわれわれの誤りを気づかせてくれたときには、それを受け入れること、実際、《感謝の念をもって》受け入れることを学ばねばならない。われわれが他者の誤りを明らかにするときは、われわれ自身が彼らが犯したのと同じような誤りを犯したことがあることをいつでも思い出すべきである。」(中略)「
 10.《誤りを発見し、修正するために、われわれは他の人間を必要とする(また彼らはわれわれを必要とする)ということ》、とりわけ、異なった環境のもとで異なった理念のもとで育った他の人間を必要とすることが自覚されねばならない。これはまた寛容に通じる。
 11.われわれは、自己批判が最良の批判であること、しかし《他者による批判が必要な》ことを学ばねばならない。それは自己批判と同じくらい良いものである。
 12.合理的な批判は、いつでも特定されたものでなければならない。それは、なぜ特定の言明、特定の仮説が偽と思われるのか、あるいは特定の論証が妥当でないのかについての特定された理由を述べるものでなければならない。それは客観的真理に接近するという理念によって導かれていなければならない。このような意味において、合理的な批判は非個人的なものでなければならない。」
(カール・ポパー(1902-1994),『よりよき世界を求めて』,第3部 最近のものから,第14章 寛容と知的責任,VI~VIII,pp.316-317,319-321,未来社(1995),小河原誠,蔭山泰之,(訳))

カール・ポパー(1902-1994)
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主流派の意見と少数派の意見のうち、一方が正しく他方が誤っているという場合は少ない。実際には、双方が真理の一部分を掴んでおり、論争がそれを見え難くしている。これが、意見の多様性が必要な理由である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

意見の多様性が必要な理由

【主流派の意見と少数派の意見のうち、一方が正しく他方が誤っているという場合は少ない。実際には、双方が真理の一部分を掴んでおり、論争がそれを見え難くしている。これが、意見の多様性が必要な理由である。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

 参照:人間と社会に関する真理を探究するにあたっての危険は、真理の一部をその全体と誤解することである。論争的な問題においては、相手の意見を批判して、否定することに重点が置かれるからである。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

 参考:
 異論を排除することの害悪
 仮に、主流の意見が正しく異論が間違っている場合であっても、異論を排除することは誤りである。なぜか。議論されることなく、根拠薄弱となった意見は、独断的な教条、単なる信念、迷信と区別できなくなる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 「もうひとつ、意見の多様性が有益だといえる主要な理由を論じておかなければならない。この理由に基づくなら、いまの時点でははるかな未来にしか達成できないと思えるほど知識が進歩した段階に入るまでは、意見の多様性が有益な状況が続くといえるのである。ここまでは二つの可能性だけを考えてきた。主流の意見が誤りであり、したがって主流ではない意見が正しい場合と、主流の意見が正しく、間違った反対意見と戦うことが真理をはっきりと理解し、深く感じ取るために不可欠な場合である。しかし、この二つのどちらよりも普通に見られる場合がある。対立する意見のうち一方が正しくて他方が間違っているのではなく、どちらも真理の一部をつかんでいて、主流の意見が真理の一部を明らかにしているにすぎないために、残りの部分を示すものとして少数派の意見が必要な場合である。すぐに理解できるわけではない問題では、主流の意見は正しい場合も多いが、真理の全体をつかんでいることはまずない。そんなことはまったくないとすらいえるほどである。真理の一部にすぎないのであり、真理全体のうち大きな部分であることも小さな部分であることもあるが、いずれにせよ誇張され歪められていて、その部分を制約する条件を示すために付けくわえておくべき別の真理から切り離されている。これに対して異端の意見を主張する人は一般に、真理のうち、抑えられ無視されてきた部分を抑圧の鉄鎖を断ち切って表明しているのであり、主流の意見に含まれる真理との折り合いを付けようとするか、そうでなければ、主流の意見を敵だと考え、やはり頑なな姿勢をとって、これこそ真理の全体なのだと主張しようとする。これまでの例ではこの二つのうち、頑なな姿勢をとる場合の方が多い。人間の知性は一面的であるのが通常であって、多面的であるのは例外だからである。このため、意見の革命が起こるときですら、真理のうちひとつの部分がすたれて、他の部分がはやるのが通常である。意見が進化していくときですら、本来なら新たな部分がくわわっていくはずだが、実際にはほとんどの場合、部分的で不完全な真理がやはり部分的で不完全な別の真理に置き換わるだけになる。それでも進歩といえるのは主に、真理のうち新たに採用された部分がその時点で、置き換えられた部分よりも必要とされていて、時代の要請に適合しているからである。このように主流の意見は正しい基礎のうえにたっている場合ですら、部分的なものという性格をもっているので、真理のうち主流の意見が無視していた部分をある程度まで主張している意見はすべて、一面の真理とともに誤りや混乱がどれほど主張されていても、貴重だと考えるべきである。人間というものを冷静に判断していれば、自分たちが見逃していたはずの真理に関心を向けるよう強いてくる人が、自分たちの気づいている真理を見逃しているとしても、憤慨する必要があるとは感じないだろう。それどころか、多数派の主張する真理が一面的なのであれば、少数派が一面の真理を主張している方が望ましいとすらいえる。その方が通常、とくに熱心だし、真理のうちそれが全体であるかのように主張している部分に、人びとの注意をしぶしぶとであっても向けさせる可能性がとくに高いからである。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.100-102,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:意見の多様性が必要な理由)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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近代社会思想コレクション京都大学学術出版会

反論の余地のない段階に達した真理の数と質によって人類の幸福度が測られる。ただし各人は、現実の問題と経験に適用し、その意味を理解する必要がある。また、疑問や論争を大切にする教育の工夫も必要だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

決着がついた問題は深い眠りにつく

【反論の余地のない段階に達した真理の数と質によって人類の幸福度が測られる。ただし各人は、現実の問題と経験に適用し、その意味を理解する必要がある。また、疑問や論争を大切にする教育の工夫も必要だ。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

参考:
異論を排除することの害悪
 仮に、主流の意見が正しく異論が間違っている場合であっても、異論を排除することは誤りである。なぜか。議論されることなく、根拠薄弱となった意見は、独断的な教条、単なる信念、迷信と区別できなくなる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 「一般論として、道徳や宗教でもそうだが、人生の知恵や知識でも、定説になった教えのすべてで同じことがいえる。どの言語で書かれた書物にも、人生とは何か、人生でどのように行動すべきかの両面で、人生についての教訓が大量に書かれている。ところが誰でも知っている教訓、誰でも他人に言い聞かせ、他人にいわれれば自明のこととして受け入れている教訓であっても、たいていの人は現実の問題にぶつかって、それも一般には苦しい思いをしてはじめて、その意味を学ぶ。予想もしなかった不幸や失敗に苦しんでいるとき、よく知っていた格言や常識を思い出し、その意味を前から実感していれば、その問題をうまく避けられただろうにと思うことがいかに多いことか。そうなる理由は、賛成派と反対派の間の議論が欠けている点以外にもある。真理のなかには、個人的に体験して実感しないかぎり、意味を完全には理解できないものがたくさんあるのだ。しかし、そのような真理でも、意味を理解している人たちが賛成と反対の意見をだして議論しているのをよく聞いていれば、意味をもっと理解していただろうし、理解した点がもっと強く印象づけられていただろう。人は疑わしくなくなった点については考えなくなるものだが、これは人間の誤りのうち半分の原因になるほど致命的な欠陥である。「決着がついた問題は深い眠りにつく」と現代のある論者が語っており、まさに至言である。
 何という暴論だと言われて、こう反論されるかもしれない。全員が賛成する状況になっていないことが、正しい知識に不可欠な条件だというのか。真理を認識できるようにするには、誤りに固執する人がいることが必要だというのか。世間に受け入れられるようになった信仰は生命力を失うというのか。何の疑問も残らなくなった意見は、十分に理解され実感されることがなくなるというのか。真理はすべての人が受け入れるようになるとすぐに腐りはじめるというのか。ほんとうに重要な真理を人類が一致して認めるようになることこそが、知性を高めていくときの最高の目的であり、最善の結果であると考えられてきたわけだが、この目的を達成するまでの間しか、知性は存続できないというのか。完全な勝利を収めたときには、その結果として勝利の果実が腐るとでもいうのか。
 わたしはそのような主張はしていない。人類が進歩するとともに、論争や疑問の対象にならなくなった教えや理論の数は増えつづけていくだろう。人類の幸福度は、反論の余地のない段階に達した真理の数と質によってはかられるといっても、それほど的外れではないほどである。さまざまな意見がつぎつぎに真剣な論争の対象から外れていくことは、意見の一致にかならず伴う現象である。意見が一致していくのは、間違った意見の場合には危険で有害だが、正しい意見の場合には有益である。このようにして意見のばらつきの範囲が徐々に狭まっていくことは、必然という言葉の両方の意味で必然であって、不可避であると同時に不可欠でもあるのだが、だからといってその結果がすべて好ましいものであるはずだと結論づけなければならないわけではない。ある真理をそれに反対する人に説明したり、反論を受けて弁護したりする必要があれば、その真理を知的に活き活きと理解する点で重要な一助となるのだが、このような機会を失うことによる損失は、その真理が広く認められるようになった利点より大きいとはいえないまでも、それほど小さくはないのである。この利点がなくなった場合には、人びとを教育する立場にある人がそれに代わるものを提供するよう努力してほしいと考えている。つまり、反対論の唱道者が考えを改めるように熱心にはたらきかけるかのように、真理への反対意見を学習者に強く印象づける仕組みを作ってほしいと願っている。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.94-97,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:決着がついた問題は深い眠りにつく)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)
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自説の根拠を説明し、論敵の根拠が論破できなければ、単に権威によってか、世間にあわせて、単に好みで自分の意見を選択しているのである。まず、論敵の主張は、真にそれを擁護し信じている人から学ぶこと。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))

論敵の主張を学ぶこと

【自説の根拠を説明し、論敵の根拠が論破できなければ、単に権威によってか、世間にあわせて、単に好みで自分の意見を選択しているのである。まず、論敵の主張は、真にそれを擁護し信じている人から学ぶこと。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))】

参考:
異論を排除することの害悪
 仮に、主流の意見が正しく異論が間違っている場合であっても、異論を排除することは誤りである。なぜか。議論されることなく、根拠薄弱となった意見は、独断的な教条、単なる信念、迷信と区別できなくなる。(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873))
 「自説の根拠しか知らない人は、その問題についてほとんど何も知ってはいない。もちろん、自説の根拠としてあげる点は適切な場合もあるだろうし、誰にも論破されていない場合もあるだろう。しかし、その人も論敵の根拠を論破できないのであれば、あるいは論敵が何を根拠にしているのかすら知らないのであれば、どちらか一方の意見を選ぶ理由はもっていないのである。理に適った立場をとるのであれば、どちらの意見についても判断を留保すべきであり、それでは満足できない場合には、権威にしたがっているのか、世間の人たちがそうしているように、自分の好みにいちばんあうと感じる意見を選んでいるのである。また、自分の教師から論敵の主張について説明を受け、同時に、それを論破する方法を教えられるだけでは不十分である。これでは論敵の主張を公平に扱うことにならないし、ほんとうの意味で論敵の主張に触れることにもならない。その意見を実際に信じている人から、つまり、その意見を真剣に擁護し、そのために最大限に努力する人から、主張を聞くことができなければならない。もっとも納得しやすい形、説得力がある形で知らなければならない。正しい意見を主張するときにぶつかり、対応することになる反論が実際にどれほど強力なのかを感じなければならない。そうでなければ、正しい意見のうち、手ごわい反論に対処し、それを克服するのに必要な部分を、ほんとうに自分のものにすることはできない。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『自由論』,第2章 思想と言論の自由,pp.82-83,日経BP(2011), 山岡洋一(訳))
(索引:論敵の主張を学ぶ)

自由論 (日経BPクラシックス)



(出典:wikipedia
ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「観照の対象となるような事物への知的関心を引き起こすのに十分なほどの精神的教養が文明国家に生まれてきたすべての人に先験的にそなわっていないと考える理由はまったくない。同じように、いかなる人間も自分自身の回りの些細な個人的なことにしかあらゆる感情や配慮を向けることのできない自分本位の利己主義者であるとする本質的な必然性もない。これよりもはるかに優れたものが今日でもごく一般的にみられ、人間という種がどのように作られているかということについて十分な兆候を示している。純粋な私的愛情と公共善に対する心からの関心は、程度の差はあるにしても、きちんと育てられてきた人なら誰でももつことができる。」(中略)「貧困はどのような意味においても苦痛を伴っているが、個人の良識や慎慮と結びついた社会の英知によって完全に絶つことができるだろう。人類の敵のなかでもっとも解決困難なものである病気でさえも優れた肉体的・道徳的教育をほどこし有害な影響を適切に管理することによってその規模をかぎりなく縮小することができるだろうし、科学の進歩は将来この忌まわしい敵をより直接的に克服する希望を与えている。」(中略)「運命が移り変わることやその他この世での境遇について失望することは、主として甚だしく慎慮が欠けていることか、欲がゆきすぎていることか、悪かったり不完全だったりする社会制度の結果である。すなわち、人間の苦悩の主要な源泉はすべて人間が注意を向け努力することによってかなりの程度克服できるし、それらのうち大部分はほとんど完全に克服できるものである。これらを取り除くことは悲しくなるほどに遅々としたものであるが――苦悩の克服が成し遂げられ、この世界が完全にそうなる前に、何世代もの人が姿を消すことになるだろうが――意思と知識さえ不足していなければ、それは容易になされるだろう。とはいえ、この苦痛との戦いに参画するのに十分なほどの知性と寛大さを持っている人ならば誰でも、その役割が小さくて目立たない役割であったとしても、この戦いそれ自体から気高い楽しみを得るだろうし、利己的に振る舞えるという見返りがあったとしても、この楽しみを放棄することに同意しないだろう。」
(ジョン・スチュアート・ミル(1806-1873),『功利主義』,第2章 功利主義とは何か,集録本:『功利主義論集』,pp.275-277,京都大学学術出版会(2010),川名雄一郎(訳),山本圭一郎(訳))
(索引:)

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