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2020年4月23日木曜日

10.自由な意志によって目的を設定する個人よりも高い価値は存在しない。威嚇によるにせよ褒賞の提供によるにせよ、あるいは温情的干渉主義によるにせよ、あらゆる思想統制は、人間の価値を否定するものである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

個人の価値

【自由な意志によって目的を設定する個人よりも高い価値は存在しない。威嚇によるにせよ褒賞の提供によるにせよ、あるいは温情的干渉主義によるにせよ、あらゆる思想統制は、人間の価値を否定するものである。(アイザイア・バーリン(1909-1997))】

参考

(a)個人の自発性、独創性、道徳的勇気が人類の進歩の源泉であり、(b)個人が自ら目標を選択するのが、人間の最も本質的なことだ、という理由によって、干渉や妨害からの自由、消極的自由が基礎づけられてきた。(アイザイア・バーリン(1909-1997))

参考

 (2.3)積極的自由の歪曲2:良い目標のための消極的自由の制限
  正義なり、公共の健康など良い目標のためであれば、人々に強制を加えることは可能であり、時として正当化され得るとする説。
  (a)他人から与えられるのではなく、自分で目標を決める。
   (i)個人が自分で目標を決めるのではなく、「良い目標」を強制される。
   (ii)強制される人は、「啓発されたならば」自らその「良い目標」を進んで追求するとされる。
   (iii)すなわち、本人よりも、強制を加えようとする人の方が、「真の」必要を知っていると考えてられている。
   (iv)欲望や情念より、社会的な諸価値の方が「高次」で「真実」の目標なのだという教説とともに、民族や教会や国家の諸価値が導入され、これが「真の自由」であるとされる。
  (b)自分で目標を実現するための方策を考える。
  (c)自分で決定を下して、目標を実現してゆく。

 「というのは、そもそも人間の本質が人間が自律的存在たるところ――諸価値の作者、目的それ自身の設定者、そしてそれらの価値ないし目的の究極的権威はまさしくそれらが自由な意志によって意志されるという事実に存する――にあるとするならば、なによりも悪いことは、人間を自律的存在ではなく、原因として働くさまざまな諸影響によってもてあそばれる自然物として取り扱うこと、つまり、外的な刺激のままに動かされ、その選択もかれらの支配者によって――暴力の威嚇によるにせよ褒賞の提供によるにせよ――操作されうるような、そういう被造物〔人間〕として取扱うことである。

人間をこのように扱うということは、あたかも人間が自己決定的なものでないかのごとくに扱うことである。

「なんぴともわたくしに、そのひとの流儀でわたくしが幸福であることを強いることはできぬ」と、カントは言った。「温情的干渉主義は想像しうるかぎり最大の専制主義である」。

なぜなら、それは人間を自由なものとしてではなく、自分にとっての材料――人間という材料 human material ――であるかのごとく取扱うことであるから。

温情に満ちた改革者は、他の人間のではなく、自分自身の自由意志で採用した目的にしたがって、そのひとびとを型にはめようとするのである。

ところで、いうまでもなくこれは、まさしく初期の功利主義者たちが勧めたところの政策であった。

エルヴェシウス(およびベンタム)は、人間がその情念の奴隷となる傾向性に抵抗するのではなく、これを利用するのがよいと考えた。もしその方法によって「奴隷」が幸福にされうるものならば、褒賞なり懲罰なりを鼻先にぶらさげて誘惑したらよい――これは他律性なるもののおよそいちばん極端な形態である――としたのである。

しかしながら、人間を操作し、社会改革者だけには見えてもそのひとたちには見えない目標へと人間を押しやることは、かれらの人間的本質を否定し、かれらを自分自身の意志をもたぬ対象物として扱うことであり、したがってまたかれらの人間としての品位をけがすことになる。

このゆえに、ひとに嘘をつくこと、あるいはひとをだますこと、すなわち、ひとをかれら自身のではなく、わたくしの独立に思い描いた目的のための手段として利用する――たとえそれがかれら自身のためであるにしても――ことは、事実上、かれらを人間以下のもとして扱うことであり、かれらの目的がわたくしの思い描いた目的よりもその究極性・神聖性においてはるかに劣るものであるかのように振る舞うことになるわけである。

かれらが意志せず、また同意しなかったことをやらせるように強制することを、わたくしはいったいなにものの名において正当化することができるのだろうか。

それは、かれら自身よりも高いところにあるなにかの価値の名においてのみである。

けれども、カントの考えたように、あらゆる価値は人間が創りだしたものであり、そうである限りにおいてのみ価値と名づけるのであるとしたならば、個人よりも高い価値というものは存在しないはずである。

だとすると、ひとが意志せず、同意せぬことを強制するのは、かれら自身よりも究極的ならざるなにものかの名においてひとを強制することである

――つまり、わたくしの意志に、あるいは幸福なり便宜なり安全なり便利さなりへのだれか他のひとの特定の渇望に、ひとを屈服させることなのだ。

わたくしが自分ないし自分のグループが要求するあるものを目的として狙い定め、そしてそのために他のひとびとを手段として利用しているということになる。

しかしながら、これはあるべき人間の本質に矛盾し、結局において自家撞着をきたす。

人間に干渉し手出しをし、かれらの意志に反してあなた自身の型に押し込めようとする一切の形態、あらゆる思想統制および思想調整は、それゆえ、人間のうちの、人間を人間たらしめ人間の価値を究極的なものたらしめるところのものの否定であることになる。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『二つの自由概念』(収録書籍名『歴史の必然性』),3 内なる砦への退却,pp.34-37,みすず書房(1966),生松敬三(訳))
(索引:個人の価値,温情的干渉主義,思想統制,人間の価値)

歴史の必然性 (1966年)


(出典:wikipedia
アイザイア・バーリン(1909-1997)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ヴィーコはわれわれに、異質の文化を理解することを教えています。その意味では、彼は中世の思想家とは違っています。ヘルダーはヴィーコよりももっとはっきり、ギリシャ、ローマ、ジュデア、インド、中世ドイツ、スカンディナヴィア、神聖ローマ帝国、フランスを区別しました。人々がそれぞれの生き方でいかに生きているかを理解できるということ――たとえその生き方がわれわれの生き方とは異なり、たとえそれがわれわれにとっていやな生き方で、われわれが非難するような生き方であったとしても――、その事実はわれわれが時間と空間を超えてコミュニケートできるということを意味しています。われわれ自身の文化とは大きく違った文化を持つ人々を理解できるという時には、共感による理解、洞察力、感情移入(Einfühlen)――これはヘルダーの発明した言葉です――の能力がいくらかあることを暗に意味しているのです。このような文化がわれわれの反発をかう者であっても、想像力で感情移入をすることによって、どうして他の文化に属する人々――われわれ似たもの同士(nos semblables)――がその思想を考え、その感情を感じ、その目標を追求し、その行動を行うことができるのかを認識できるのです。」
(アイザイア・バーリン(1909-1997),『ある思想史家の回想』,インタヴュア:R. ジャハンベグロー,第1の対話 バルト地方からテムズ河へ,文化的な差異について,pp.61-62,みすず書房(1993),河合秀和(訳))

アイザイア・バーリン(1909-1997)

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国際法は、内容においては国内法に類似する。機能においては、国家間に存在する巨大な不均衡と強制体制の制限とが、国内法とは異なる。形式においては、承認のルールの確立への移行の段階にあると言える。(ハーバート・ハート(1907-1992))

国際法と国内法の根本的な違い

【国際法は、内容においては国内法に類似する。機能においては、国家間に存在する巨大な不均衡と強制体制の制限とが、国内法とは異なる。形式においては、承認のルールの確立への移行の段階にあると言える。(ハーバート・ハート(1907-1992))】

参考:国際法は、たとえ未だ承認のルール(根本規範)が確立されていないとしても、第1次的ルールとして存在するかどうかは事実問題であり、存在するルールの拘束力や効力の妥当性を問うのは、偽りの問題である。(ハーバート・ハート(1907-1992))

参考: 人間は、他を圧倒するほどの例外者を除けば、おおよそ平等な諸能力を持っているという事実が存在する。生存という目的のためには、相互の自制と妥協の体系である法と道徳が要請される。(ハーバート・ハート(1907-1992))

 「根本的なルールなしに存在するもっとも単純な形態の社会構造のために、根本的なルールをつくろうとする努力のなかには、たしかに何かこっけいなものがある。それはまるで裸の野蛮人が本当は目に見えない種々の現代の服を着ているに《ちがいない》と言い張るようなものである。不幸にもここにおいてもまた混乱が引き続く可能性がある。根本的なルールについては、当該社会(個人からなろうと、国家からなろうと)が行為の一定の基準を義務的なルールとして単なる事実の空虚な繰り返しのようなものであると考えるよう説得されるかもしれない。これは「諸国家は、それらが慣習的に行動してきたように行動すべきである」という国際法のために示唆された聞きなれない根本規範の立場である。なぜならそれは、一定のルールを受けいれる者が、ルールは順守されるべきであるというルールをもまた順守しなければならないということ以上を言っていないからである。これはルールのセットが拘束力をもつルールとして国家により受けいれられたという事実の無益な繰り返しにすぎない。
 またいったんわれわれが国際法は根本ルールをもた《なければならない》という仮定から離れるなら、直面する問題は事実の問題である。ルールが国家間の関係で機能するとき、ルールの実際の性格はどんなものであろうか。観察されるべき現象のさまざまな解釈はもちろん可能である。しかし国際法のルールのために妥当性の一般的基準を与える根本的なルールはないということ、および実際に働いているルールは体系をなすものではなく、ルールのセットであり、その中に条約の拘束力を与えるルールがあるということがのべられよう。多くの重要な事柄に関して、国家間の関係は多辺的条約により規律されていることは真実であり、これらは当事者でない国をも拘束するだろうということがときとして主張されている。もしこのことが一般に認められるなら、そのような条約は実際立法的制定法であり、国際法はそのルールの妥当性のために独特な基準をもつことになるだろう。そうならば、体系の実際の特色をあらわす根本的な承認のルールが公式化されうるだろうし、それはルールのセットが実際に国家により順守されているという事実の空虚な繰り返し以上のものであろう。たぶん現在の国際法は、構造的にそれを国内体系へと近づける上にのべた形態や他の形態を受けいれる移行の段階にあると言える。もしこの移行が完成されたら、そしてそのときに、今日においては根拠が薄くて欺瞞的にさえみえる形態上の類似も実体を得て、国際法の法的「性質」に関する懐疑論者の最後の疑いもそのとき葬られるであろう。この段階にいたるまでは、類似はたしかに機能と内容におけるものであって、形式におけるものではない。機能における類似は、いくらかは前節で吟味したように、どのように国際法が道徳と異なるかを考えるときに、もっとも明らかにあらわれる。内容における類似は、国内法および国際法に共通であり、法律家の技術を一方から他方へ転用することを可能にする一連の原則、概念および方法にある。「国際法」'international law'という表現の発明者であるベンタムは、国際法は国内法に「十分類似している」というだけで、そのことを弁護した。これに対して二つの注釈をつけるのがよいだろう。まず第一に、この類似は内容についてであって形式についてではない。第二に、この内容の類似において、国際法ほど国内法に近いような社会的ルールは他にはない。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法の概念』,第10章 国際法,第5節 形式と内容における類似,pp.254-255,みすず書房(1976),矢崎光圀(監訳),黒沢満(訳))
(索引:国際法)

法の概念


(出典:wikipedia
ハーバート・ハート(1907-1992)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「決定的に重要な問題は、新しい理論がベンサムがブラックストーンの理論について行なった次のような批判を回避できるかどうかです。つまりブラックストーンの理論は、裁判官が実定法の背後に実際にある法を発見するという誤った偽装の下で、彼自身の個人的、道徳的、ないし政治的見解に対してすでに「在る法」としての表面的客観性を付与することを可能にするフィクションである、という批判です。すべては、ここでは正当に扱うことができませんでしたが、ドゥオーキン教授が強力かつ緻密に行なっている主張、つまりハード・ケースが生じる時、潜在している法が何であるかについての、同じようにもっともらしくかつ同じように十分根拠のある複数の説明的仮説が出てくることはないであろうという主張に依拠しているのです。これはまだこれから検討されねばならない主張であると思います。
 では要約に移りましょう。法学や哲学の将来に対する私の展望では、まだ終わっていない仕事がたくさんあります。私の国とあなたがたの国の両方で社会政策の実質的諸問題が個人の諸権利の観点から大いに議論されている時点で、われわれは、基本的人権およびそれらの人権と法を通して追求される他の諸価値との関係についての満足のゆく理論を依然として必要としているのです。したがってまた、もしも法理学において実証主義が最終的に葬られるべきであるとするならば、われわれは、すべての法体系にとって、ハード・ケースの解決の予備としての独自の正当化的諸原理群を含む、拡大された法の概念が、裁判官の任務の記述や遂行を曖昧にせず、それに照明を投ずるであろうということの論証を依然として必要としているのです。しかし現在進んでいる研究から判断すれば、われわれがこれらのものの少なくともあるものを手にするであろう見込みは十分あります。」
(ハーバート・ハート(1907-1992),『法学・哲学論集』,第2部 アメリカ法理学,5 1776-1976年 哲学の透視図からみた法,pp.178-179,みすず書房(1990),矢崎光圀(監訳),深田三徳(訳))
(索引:)

ハーバート・ハート(1907-1992)
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