ページ

2020年5月3日日曜日

両眼視野闘争は受動的なものだろうか? それとも、意識的に決められるか? 意識的な注意が欠如すると、二つのイメージはともに処理され、競い合わない。両眼視野闘争には、能動的で注意深い観察者が必要なのだ。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))

両眼視野闘争

【両眼視野闘争は受動的なものだろうか? それとも、意識的に決められるか? 意識的な注意が欠如すると、二つのイメージはともに処理され、競い合わない。両眼視野闘争には、能動的で注意深い観察者が必要なのだ。(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-))】

 「両眼視野闘争は受動的なものだろうか? それともどちらのイメージが戦いに勝利するかを意識的に決められるか? 争う二つのイメージを知覚する際、とめどないイメージの交替に、私たちはまったく受動的に従っているかのような印象を受ける。しかしこの印象は誤りであり、皮質における闘争の過程では注意が重要な役割を果たす。そもそも、どちらか一方のイメージ、たとえば建物より顔に注意を集中すると、そのイメージはいくぶん長い期間見え続ける。とはいえその効果は弱い。要するに、二つのイメージ間の闘争は、私たちのコントロールが及ばない段階からすでに始まっているのだ。
 しかしより重要なことに、勝者の存在自体は、私たちがそれに注意を向けることに依存する。つまり、戦いの舞台そのものは、意識を持つ心で成り立つ。その証拠に、二つのイメージが提示される場所から注意をそらすと、イメージの闘争は停止する。
 どうしてそれがわかるのか? 気を散らせている人にその状態で今何を見ているかを、もしくは二つのイメージが依然として交互しているかどうかを訪ねても意味はない。答えるためには、その場所に注意を向けねばならないからだ。注意を喚起せずに知覚の程度を見極めようとしても、無益な循環を引き起こすだろう。それは、鏡で自分の目の動きを確かめようとしたときと似ている。疑いなく目は始終動いているが、鏡でそれを確認しようとすれば、まさにその試みによって目は静止してしまう。これまで長いあいだ、注意を喚起せずに両眼視野闘争を調査する試みは、誰もいない森のなかで倒れる木の音や、眠りに落ちたまさにその瞬間の感覚について尋ねるのと同じように、自己矛盾を孕むと見なされてきた。
 しかし、ときに科学は不可能を可能とする。ミネソタ大学のパン・チャンらは、被験者に質問せずにイメージの交替を調査できることに気づいた。二つのイメージが競い合っているか否かを示す脳の徴候を見出しさえすればよいのだ。彼らはすでに、両眼視野闘争が続くあいだ、いずれかのイメージに反応してニューロンが交互に発火することを知っていた。被験者の注意を喚起せずに、それを測定できるだろうか? チャンは、特定のリズムで明滅させることで各イメージを標識づける、「周波数標識法」と呼ばれる技術を用いた。二つの異なる周波数標識は、頭部に装着した電極を通して記録される脳波図によって拾える。両眼視野闘争が続くあいだ、二つの周波数は排除し合う。一方の振動が強ければ、他方は弱い。これは、一時には一つのイメージしか見えない事実を反映する。しかし被験者が注意を欠いているときには、これらの競合は停止し、二つの標識は独立して同時に生じる。注意の欠如は闘争を妨げるのだ。
 純粋な内省を用いた他の実験でも、この結論は確認されている。競い合うイメージから注意を一定期間そらすと、注意を戻したときに知覚されるイメージは、その期間イメージが交替し続けてきた場合に知覚されるはずのものとは異なる。かくして、両眼視野闘争は注意に依存することがわかる。意識的な注意が欠如すると、二つのイメージはともに処理され、競い合わない。両眼視野闘争には、能動的で注意深い観察者が必要なのだ。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第1章 意識の実験,紀伊國屋書店(2015),pp.49-51,高橋洋(訳))
(索引:両眼視野闘争)

意識と脳――思考はいかにコード化されるか


(出典:wikipedia
スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「160億年の進化を経て発達した皮質ニューロンのネットワークが提供する情報処理の豊かさは、現在の私たちの想像の範囲を超える。ニューロンの状態は、部分的に自律的な様態で絶えず変動しており、その人独自の内的世界を作り上げている。ニューロンは、同一の感覚入力が与えられても、その時の気分、目標、記憶などによって異なったあり方で反応する。また、意識の神経コードも脳ごとに異なる。私たちは皆、色、形状、動きなどに関して、神経コードの包括的な一覧を共有するが、それを実現する組織の詳細は、人によって異なる様態で脳を彫琢する、長い発達の過程を通じて築かれる。そしてその過程では、個々シナプスが選択されたり除去されたりしながら、その人独自のパーソナリティーが形成されていく。
 遺伝的な規則、過去の記憶、偶然のできごとが交錯することで形作られる神経コードは、人によって、さらにはそれぞれの瞬間ごとに独自の様相を呈する。その状態の無限とも言える多様性は、環境に結びついていながら、それに支配はされていない内的表象の豊かな世界を生む。痛み、美、欲望、後悔などの主観的な感情は、この動的な光景のもとで、神経活動を通して得られた、一連の安定した状態のパターン(アトラクター)なのである。それは本質的に主観的だ。というのも、脳の動力学は、現在の入力を過去の記憶、未来の目標から成る布地へと織り込み、それを通して生の感覚入力に個人の経験の層を付与するからである。
 それによって出現するのは、「想起された現在」、すなわち残存する記憶と未来の予測によって厚みを増し、常時一人称的な観点を外界に投影する、今ここについてのその人独自の暗号体系(サイファー)だ。これこそが、意識的な心の世界なのである。
 この絶妙な生物機械は、あなたの脳の内部でたった今も作動している。本書を閉じて自己の存在を改めて見つめ直そうとしているこの瞬間にも、点火したニューロンの集合の活動が、文字通りあなたの心を作り上げるのだ。」
(スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-),『意識と脳』,第7章 意識の未来,紀伊國屋書店(2015),pp.367-368,高橋洋(訳))
(索引:)

スタニスラス・ドゥアンヌ(1965-)
スタニスラス・ドゥアンヌの関連書籍(amazon)
検索(スタニスラス・ドゥアンヌ)
検索(stanislas dehaene)

シナプスの情報をアストロサイトが拾い上げ、「もうひとつの脳」の中のグリア回路網を通して流れ、別のアストロサイトからの神経伝達物質放出を促すことによって、別の場所でシナプスの制御に活用している。(R・ダグラス・フィールズ(19xx-))

アストロサイト

【シナプスの情報をアストロサイトが拾い上げ、「もうひとつの脳」の中のグリア回路網を通して流れ、別のアストロサイトからの神経伝達物質放出を促すことによって、別の場所でシナプスの制御に活用している。(R・ダグラス・フィールズ(19xx-))】

 「アストロサイトは、ニューロンのような様式で、遠くまで迅速に情報を送信する必要がないので、電気的インパルスを発火しないのだと、私たちは今では理解している。そのためアストロサイトは、電気的なコミュニケーションには手を出さないが、ニューロンの持つより興味深い第二の交信方法、すなわち神経伝達物質によるコミュニケーションを存分に活用し、そこに関与している。
 アストロサイトの活動は、脳の比較的大きな領域に及ぶので、シナプスへの影響も広範囲にわたるはずである。とはいえ、あるシナプスの情報が一個のアストロサイトによって拾い上げられて、「もうひとつの脳」のなかのグリア回路網を通して流れ、別のアストロサイトからの神経伝達物質放出を促すことによって、神経回路で直接結合していない遠くのシナプスにおけるニューロンのコミュニケーションを調節している可能性については、21世紀初頭に至るまで検証されていなかった。この仮説は、2005年にフィリップ・ヘイドンのグループによって証明された。彼らの研究により、アストロサイトは海馬のシナプス活動にカルシウム上昇によって応答するが、それが次に、発火した近傍のシナプスだけでなく、同じニューロンの遠く離れた別のシナプスでも伝達強度を調節していることが確認された。脳内の遠い場所を結んで、ニューロン回路の外側からシナプス伝達を調節しているアストロサイトはまさしく、制御装置にほかならなかった。「ニューロンの脳」の情報は、「もうひとつの脳」によって傍受され、「ニューロンの脳」の別の場所でシナプスの制御に活用されていたのだ。私たちの中にある二つの心がこうして出会うことで、「ニューロンの脳」だけでは実現できないどんな働きが可能になるのだろうか?
 離れたシナプスの強度を調節するこの現象(異シナプス性抑制として知られる)は、騒々しいレストランの中で会話を続けるときに、私たちの誰もが経験することによく似ている。食事相手の話をいつも以上に注意深く聴き取ると同時に、厨房からの雑音や周りで食事をしている人たちの間で交わされる会話は耳に入れないようにする。このような精神集中は、私たちを取り巻く環境の中で、すべての騒音から重要なシグナルを選別するためには不可欠である。これと同じことが、私たちの海馬でも起こっている。あなたが学習したいと望んでいる新しい情報を運んでくる入力のなされるシナプスは、長期増強によって強化される一方、注意をそらす邪魔な情報を別のシナプスから同じニューロンに伝えている入力は抑制されているのだ。おなたはおそらく、この抑制された背景情報を記憶していないだろう。」(中略)「アストロサイトが、周囲にあるシナプスを抑制して、私たちの記憶中枢に対する特定の入力を際立たせている細胞であることを知って、多くの人が衝撃を受けた。もしアストロサイトが、シナプスの集中調節という重要な働きができなくなったら、どうなるだろうか? それは学習や注意、さらには精神状態にどう影響するのか? アストロサイトが、独自のグリアネットワークを介した交信方法を用いて、シナプス強度を調節していると判明したことも、同じように驚きだった。このネットワークは、ニューロン間を配線でつないだ接続回線に拘束されることなく、神経ネットワークの外側で作動している。この携帯電話のようなアストロサイト網については、私たちは何も知らないも同然だ。このネットワークの境界は何なのか? それらは修正可能なのか――言い換えれば、アストロサイトは精神的経験に従って変化し、学習するのか? アストロサイトが実際に、学習においてネットワークの結合強度を変更していることを示す証拠が、新たな研究で得られ始めている。」
(R・ダグラス・フィールズ(19xx-),『もうひとつの脳』,第3部 思考と記憶におけるグリア,第14章 ニューロンを超えた記憶と脳の力,講談社(2018),pp.469-472,小松佳代子(訳),小西史朗(監訳))
(索引:アストロサイト,グリア回路網,神経伝達物質)

もうひとつの脳 ニューロンを支配する陰の主役「グリア細胞」 (ブルーバックス)



(出典:R. Douglas Fields Home Page
R・ダグラス・フィールズ(19xx-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「アストロサイトは、脳の広大な領域を受け持っている。一個のオリゴデンドロサイトは、多数の軸索を被覆している。ミクログリアは、脳内の広い範囲を自由に動き回る。アストロサイトは一個で、10万個ものシナプスを包み込むことができる。」(中略)「グリアが利用する細胞間コミュニケーションの化学的シグナルは、広く拡散し、配線で接続されたニューロン結合を超えて働いている。こうした特徴は、点と点をつなぐニューロンのシナプス結合とは根本的に異なる、もっと大きなスケールで脳内の情報処理を制御する能力を、グリアに授けている。このような高いレベルの監督能力はおそらく、情報処理や認知にとって大きな意義を持っているのだろう。」(中略)「アストロサイトは、ニューロンのすべての活動を傍受する能力を備えている。そこには、イオン流動から、ニューロンの使用するあらゆる神経伝達物質、さらには神経修飾物質(モジュレーター)、ペプチド、ホルモンまで、神経系の機能を調節するさまざまな物質が網羅されている。グリア間の交信には、神経伝達物質だけでなく、ギャップ結合やグリア伝達物質、そして特筆すべきATPなど、いくつもの通信回線が使われている。」(中略)「アストロサイトは神経活動を感知して、ほかのアストロサイトと交信する。その一方で、オリゴデンドロサイトやミクログリア、さらには血管細胞や免疫細胞とも交信している。グリアは包括的なコミュニケーション・ネットワークの役割を担っており、それによって脳内のあらゆる種類(グリア、ホルモン、免疫、欠陥、そしてニューロン)の情報を、文字どおり連係させている。」
(R・ダグラス・フィールズ(19xx-),『もうひとつの脳』,第3部 思考と記憶におけるグリア,第16章 未来へ向けて――新たな脳,講談社(2018),pp.519-520,小松佳代子(訳),小西史朗(監訳))
(索引:)

R・ダグラス・フィールズ(19xx-)
R・ダグラス・フィールズの関連書籍(amazon)
検索(R・ダグラス・フィールズ)

他者を自分と同じ知的精神的存在としてとらえる能力(心の理論の能力)は、事実と論理による推論的な合理的知識なのではなく、人間の社会的なつながりの基礎にある別のメカニズムに依拠しているらしい。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))

心の理論

【他者を自分と同じ知的精神的存在としてとらえる能力(心の理論の能力)は、事実と論理による推論的な合理的知識なのではなく、人間の社会的なつながりの基礎にある別のメカニズムに依拠しているらしい。(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-))】

 「「心の理論」という言葉は、前章でも類人猿とのからみで出てきたが、ここではもっとくわしく説明したい。「心の理論」は、哲学から霊長類学、臨床心理学にいたるまで、認知科学の分野で広く用いられている専門用語で、他者を知的精神的存在としてとらえる能力――すなわち、自分自身がもっているのと同じようなたぐいの思考、情緒、観念、動機などをもっているという前提にもとづいて他の人たちのふるまいを理解する能力――を指す。言いかえれば、あなたは自分がほかの人になったらどんな感じがするかを実際に感じることはできないが、心の理論を使って、意図や知覚や信念を他者の心に自動的に投影する。そうすることによって、人の感情や意図を推測し、行動を予測して、それに影響をおよぼすことができる。これを「理論」と呼ぶのはいささか誤解を招きやすい。理論という言葉は通常、諸説や予測からなる知的体系を指し、この場合のように生得的、本能的な心的能力に対しては用いないからだ。しかし私が属する分野では「心の理論」が用語として使われているので、ここでもそのまま使うことにする。ほとんどの人は、心の理論をもつことが、どれほど込みいった、率直に言って奇跡的なことであるかをよく理解していない。それは「見ること」と同じように、ごく自然で、即時に起きる、簡単なことに思える。しかし第2章で見たように、見るという能力は、実際には、広範囲な脳領域のネットワークが関与する非常に複雑なプロセスである。私たち人間の高度に発達した心の理論は、人間の脳がもつもっともユニークで強力な能力の一つなのである。
 私たちの心の理論の能力は、一般的知能――論理的に考えたり、推断をしたり、事実を組み合わせたりするときなどに使う合理的知能――に依拠しているのではなく、それと同等に重要な《社会的》知能のために進化した専門のメカニズムに依拠しているらしい。社会的認知のために特化した専門の回路があるのではないかという考えは、1970年代に、心理学者のニック・ハンフリーと霊長類学者のデイヴィッド・プレマックによって最初に提言され、現在では実験にもとづく支持が多数ある。したがって、自閉症の子どもが対人的相互交流に深刻な欠陥があるのは、心の理論に何らかの障害があるためではないかというフリスの直感には説得力があった。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,第5章 スティーヴンはどこに? 自閉症の謎,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.199-200,山下篤子(訳))
(索引:)

脳のなかの天使



(出典:wikipedia
ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)の命題集(Collection of propositions of great philosophers)  「バナナに手をのばすことならどんな類人猿にもできるが、星に手をのばすことができるのは人間だけだ。類人猿は森のなかで生き、競いあい、繁殖し、死ぬ――それで終わりだ。人間は文字を書き、研究し、創造し、探究する。遺伝子を接合し、原子を分裂させ、ロケットを打ち上げる。空を仰いでビッグバンの中心を見つめ、円周率の数字を深く掘り下げる。なかでも並はずれているのは、おそらく、その目を内側に向けて、ほかに類のない驚異的なみずからの脳のパズルをつなぎあわせ、その謎を解明しようとすることだ。まったく頭がくらくらする。いったいどうして、手のひらにのるくらいの大きさしかない、重さ3ポンドのゼリーのような物体が、天使を想像し、無限の意味を熟考し、宇宙におけるみずからの位置を問うことまでできるのだろうか? とりわけ畏怖の念を誘うのは、その脳がどれもみな(あなたの脳もふくめて)、何十億年も前にはるか遠くにあった無数の星の中心部でつくりだされた原子からできているという事実だ。何光年という距離を何十億年も漂ったそれらの粒子が、重力と偶然によっていまここに集まり、複雑な集合体――あなたの脳――を形成している。その脳は、それを誕生させた星々について思いを巡らせることができるだけでなく、みずからが考える能力について考え、不思議さに驚嘆する自らの能力に驚嘆することもできる。人間の登場とともに、宇宙はにわかに、それ自身を意識するようになったと言われている。これはまさに最大の謎である。」
(ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-),『物語を語る脳』,はじめに――ただの類人猿ではない,(日本語名『脳のなかの天使』),角川書店(2013),pp.23-23,山下篤子(訳))

ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドラン(1951-)
ヴィラヤヌル・S・ラマチャンドランの関連書籍(amazon)
検索(ラマチャンドラ)

人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、現実になぜ残虐行為が発生するのかの解明には、科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係している。(マルコ・イアコボーニ(1960-))

感情や意図の共有能力と残虐行為

【人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、現実になぜ残虐行為が発生するのかの解明には、科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係している。(マルコ・イアコボーニ(1960-))】

(1)問題:人は感情や意図を共有し合える能力を持っているにもかかわらず、なぜ残虐にもなれるのか。
 (1.1)感情や意図の共有
  感情や意図を共有し合えるという能力は、人と人とを意識以前の基本的なレベルで互いに深く結びつけ、人間の社会的行動の根本的な出発点でもある。
 (1.2)残虐行為が存在するという事実
(2)仮説
 (2.1)科学的な事実と制度、政策の関係、人間の生物学的組成と社会性、自由意志の問題が関係する
  共感を促進するのと同じ神経生物学的メカニズムが、特定の環境や背景のものでは共感的行動と正反対の行動を生じさせている可能性があるが、科学的な事実と制度、政策の関係の問題と、人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題が絡み、解決を難しくしている。
  (2.1.1)暴力的な映像による模倣暴力の事例
    暴力的な映像による模倣暴力の存在は、実験で検証されている。攻撃的な行動は、未就学児でも青年期でも、性別、生来の性格、人種によらず一貫して観察される。実際の社会においても、因果関係が実証されている。(マルコ・イアコボーニ(1960-))
  (2.1.2)科学的な事実と制度、政策の関係の問題
   (a)これを解明するためには、科学的な事実を、社会全般の幸福を促進するための政策策定に反映させる制度的な仕組みが必要だが、そのような体制にはなっていない。
   (b)規制すべきかどうかの問題。言論の自由との絡みがある。
   (c)規制すべきかどうかの問題。市場と金銭的利害との絡みがある。
  (2.1.3)人間の生物学的組成、社会性と自由意志の問題
   (a)社会性と人間の自由意志の関係
    人間の最大の成功ではないかとも思える私たちの社会性が、一方では私たちの個としての自主性を制限する要因でもあることを示唆している。これは長きにわたって信じられてきた概念に対する重大な修正である。
   (b)人間の生物学的組成と自由意志の関係
    一方、人間はその生物学的組成を乗り越えて、自らの考えを社会の掟を通じて自らを定義できるとする見方がある。

 「人は人と出会うと、感情や意図を伝えて共有する。人と人とは意識以前の基本的なレベルで互いに深く結びついている。これがわかってみると、この《事実》は社会的行動の根本的な出発点なのではないかと私には思える。しかし伝統的な分析哲学では、意識しての行動や人と人との違いを強調するあまり、こうしたことがほとんど無視されてきた。一方、私たちはまた別の事実も突きつけられている。それは文字どおり残虐な世界だ。この世では毎日いたるところで残虐行為が起こっている。私たちの神経生物学的機構は共感を生むように配線され、ミラーリングと意味の共有をするように調整されているはずなのに、なぜそんなことになってしまうのか?
 私の考えでは、これには三つのおもな要因がある。第一に、模倣暴力という現象で見たように、共感を促進するのと同じ神経生物学的メカニズムが、特定の環境や背景のものでは共感的行動と正反対の行動を生じさせる可能性がある。これはいまのところ仮説でしかないが、非常に信憑性の高い仮説だと思う。もし裏づけが取れれば、この神経科学上の事実はぜひとも政策決定に役立てるべきである。とはいえ、実際にはそうはならないだろう。理由は二つある。第一に、私たちの社会は科学的データを政策策定に使えるような態勢には少しもなっていない。とくに模倣暴力のような事例では、金銭的利害と言論の自由との複雑な関係が絡んでくるから、なお難しい。これは簡単に答えの出ない厄介な案件だが、科学全般、そしてその一部である神経科学を、象牙の塔や市場だけに閉じ込めておくのは決して得策ではないと思う。現状ではどんな発見も神経疾患の薬物治療を発達させることに適用されるだけで、社会全般の幸福を促進するために適用されることはめったにない。神経科学上の発見が政策決定に実際に役立てられること、またそうすべきであることを、せめて公開の場で討論できるようになればと思う。こうした考えはいまのところほとんど現われていないが、絶対に必要なことだと確信する。
 神経科学を政策に反映させようとする考えに抵抗が生じる第二の理由は、自由意志をいう大切な概念が脅かされるのではないかという恐れに関係している。その恐れが模倣暴力に関する議論にも結びついているのは明らかだ。ミラーニューロンについての研究は、人間の最大の成功ではないかとも思える私たちの社会性が、一方では私たちの個としての自主性を制限する要因でもあることを示唆している。これは長きにわたって信じられてきた概念に対する重大な修正である。伝統的に、個体行動の生物学的決定論の一方には、それと対比をなすものとして、人間はその生物学的組成を乗り越えて、自らの考えを社会の掟を通じて自らを定義できるとする見方がある。しかしミラーニューロンの研究は、私たちの社会の掟のほどんどが、私たちの生物学的仕組みによって決められていることを示している。この新たな知見にどう対処すればいい? 受け入れがたいとして拒否するか? それともこれを利用して政策に反映し、よりよい社会をつくっていくか? 私はもちろん後者に与する。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.327-329,塩原通緒(訳))
(索引:感情,意図,残虐行為,制度,政策,社会性,自由意志)

ミラーニューロンの発見―「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学 (ハヤカワ新書juice)


(出典:UCLA Brain Research Institute
マルコ・イアコボーニ(1960-)の命題集(Propositions of great philosophers)  「ミラーリングネットワークの好ましい効果であるべきものを抑制してしまう第三の要因は、さまざまな人間の文化を形成するにあたってのミラーリングと模倣の強力な効果が、きわめて《局地的》であることに関係している。そうしてできあがった文化は互いに連結しないため、昨今、世界中のあちこちで見られるように、最終的に衝突にいたってしまう。もともと実存主義的現象学の流派では、地域伝統の模倣が個人の強力な形成要因として強く強調されている。人は集団の伝統を引き継ぐ者になる。当然だろう? しかしながら、この地域伝統の同化を可能にしているミラーリングの強力な神経生物学的メカニズムは、別の文化の存在を明かすこともできる。ただし、そうした出会いが本当に可能であるならばの話だ。私たちをつなぎあわせる根本的な神経生物学的機構を絶えず否定する巨大な信念体系――宗教的なものであれ政治的なものであれ――の影響があるかぎり、真の異文化間の出会いは決して望めない。
 私たちは現在、神経科学からの発見が、私たちの住む社会や私たち自身についての理解にとてつもなく深い影響と変化を及ぼせる地点に来ていると思う。いまこそこの選択肢を真剣に考慮すべきである。人間の社会性の根本にある強力な神経生物学的メカニズムを理解することは、どうやって暴力行為を減らし、共感を育て、自らの文化を保持したまま別の文化に寛容となるかを決定するのに、とても貴重な助けとなる。人間は別の人間と深くつながりあうように進化してきた。この事実に気づけば、私たちはさらに密接になれるし、また、そうしなくてはならないのである。」
(マルコ・イアコボーニ(1960-),『ミラーニューロンの発見』,第11章 実存主義神経科学と社会,早川書房(2009),pp.331-332,塩原通緒(訳))
(索引:)

マルコ・イアコボーニ(1960-)
イアコボーニの関連書籍(amazon)
検索(Marco Iacoboni)
検索(マルコ・イアコボーニ)